第45話 同じことを、伺っただけでございますわ
グランモン侯爵夫人への書状は、ヴィオレッタが自分で書いた。
サロンに伺いたい。お訊きしたいことがある。それだけを、短く書いた。
飾りの文句は一つも入れていない。入れようとして、やめた。飾りを入れると、心にもないことを書くことになる。心にもないことを書けば、それは嘘になる。
◇
「これで、お呼びいただけますかしら」
「……分かりかねます」
マリアンヌは、書状を見下ろしたまま言った。
「侯爵夫人に、このような書状を差し上げた方は、たぶんどなたもおられません」
「では、珍しいでしょうね」
「珍しゅうございます」
「珍しいものは、見たくなるものですわ」
◇
三日後、返事が来た。
水曜の午後、お越しあそばせ。それだけの返事であった。字は細く、固く、年を取った女の手であった。
侯爵夫人のサロンは、屋敷の南の広間で開かれる。
集まっていたのは、十四人の夫人である。一番若くて五十、一番上が侯爵夫人の七十。王都の年配の夫人たちの、ほとんど全部と言ってよかった。この顔ぶれが誰かを淑女と認めれば、その者は淑女になる。認めなければ、ならない。
◇
ヴィオレッタが入ると、十四人の扇がいっせいに止まった。
止まって、それから、ゆっくりと動きだす。
動かし方が揃っていた。揃っているのは、同じことを思っているからである。
――来たわ、あの娘。
――殿下を軽んじている、と噂の。
◇
イザベルは、侯爵夫人のすぐ脇に座っていた。
灰色の衣装で、膝に刺繍の布を置き、夫人たちの話に小さく頷いている。頷き方が年配の女に向いた頷き方であった。アンリエットの茶会で見せた頷き方とは、角度がちがう。
◇
「ヴィオレッタ・ド・アルヴェール」
侯爵夫人が、名を呼んだ。
「お訊きになりたいことがあるそうですね」
「ございますわ」
「わたくしに」
「いいえ」
広間が、静まった。
「侯爵夫人に伺いたいことは、今日はございませんの。こちらのお部屋で、伺いたいことがございますの」
「……なんと、無礼な」
「無礼でございますわね。存じておりますわ」
◇
侯爵夫人の内側が、そこでわずかに動いた。
怒りではない。面白がる色である。七十年、この女は、無礼を承知で無礼を言う者をほとんど見てこなかったのであろう。見てこなかったものは、たまに見たくなる。
「では、どなたに」
「イザベル様に」
◇
ヴィオレッタは、侯爵夫人の脇に目を向けた。
◇
「イザベル様。北の国では、どちらのお屋敷においででしたの」
◇
イザベルは、アンリエットの茶会と同じように、一拍だけ間を置いた。
間のあいだに、内側が動く。
この部屋に誰がいるか。年配の夫人が十四人。家柄を何より重んじ、血筋の話が好きで、若い娘の華やかな噂を嫌う。そして、この部屋の者は、若い令嬢の茶会には顔を出さない。
◇
――この部屋なら。
◇
「母の従姉にあたります、辺境伯夫人のお屋敷におりましたの。十一の年から、こちらへ戻りますまで」
◇
侯爵夫人が、小さく頷いた。
「よいお家柄ですこと」
「ありがとう存じます。叔母は、厳しい方でございました。おかげで、北の作法をひととおり」
「それで、あなたはお行儀がよいのね」
夫人たちの扇が、満足げに揺れた。
◇
内側に、ずれが立っている。
アンリエットの茶会のときと、同じ色であった。薄く、細く、慣れた嘘つきの色である。
王子殿下の妹君の遊び相手。
母の従姉の、辺境伯夫人の屋敷。
どちらも嘘である。
どこにいたのかは、まだ分からない。
◇
ヴィオレッタは、礼をした。
答えを聞いて、それで帰るつもりであった。
訊きたいことは一つしかない。一つ訊いて、一つ答えをもらえば、この部屋に用はなかった。
「伺いたいことは、伺いましたわ。ありがとう存じます」
◇
広間が、ざわめいた。
「……それだけ」
「それだけでございます」
「わざわざ、そのためにいらしたの」
「ええ。わたくし、気になったことは伺いたくなりますの」
侯爵夫人が、扇の陰で口元を覆った。
覆った下で、何をしているかは見なくても分かる。笑っているのである。
◇
「ヴィオレッタ」
「はい」
「あなたが殿下を軽んじているという話は、本当なの」
十四人の扇が、また止まった。
「軽んじてはおりませんわ。口答えはいたしますけれど」
「……まあ」
「殿下がそうせよと仰せになりましたの。二人きりのときだけでございます」
◇
「では、人前では」
「いたしませんわ。人前でいたしますと、殿下のお顔が潰れますもの」
侯爵夫人は、しばらく黙っていた。
「その話を、わたくしにした者は」
「存じませんわ」
「……そう」
「存じませんけれど、二人きりのときのことを、どなたかがご存じだったのは、不思議でございますわね」
◇
侯爵夫人の内側が、わずかに冷えた。
冷えた色は、ヴィオレッタのほうを向いていない。自分の脇に座る、灰色の衣装の娘のほうへ、ほんの一瞬だけ流れて、すぐに戻った。
戻したのは、証がないからであろう。
金曜は、婦人会であった。
◇
聖堂の奥の小部屋に、夫人が二十人ほど集まって、針を動かしながら祈る。祈りの言葉は低く、針の音はもっと低い。ヴィオレッタが扉を開けたとき、二十本の針がいっせいに止まった。
――まさか。
――信心のない、あの娘が。
◇
会長のブノワ子爵夫人が、席を空けてくれた。
空け方は丁寧であった。丁寧に空けて、丁寧に、こちらを見ないようにしている。
ヴィオレッタは、針を持つ。
◇
三針目で、指を刺した。
◇
血が一滴、白い布に落ちる。
二十人の夫人が、それを見ていた。見て、誰も何も言わない。言わないが、内側は揃って同じことを言っていた。
◇
――やはり、神はご存じなのだわ。
◇
ヴィオレッタは、刺した指を布で拭いた。
「針は、苦手でございますの」
「……ヴィオレッタ様のようなお方が、針など」
「持てるとは思っておりましたのよ。持てることは、持てましたわ」
ブノワ子爵夫人が、少しだけ笑った。
笑ったのを恥じるように、すぐに祈りの言葉に戻る。この夫人は、根は悪い女ではない。ただ、信心の深さで人を量る癖がついていた。
◇
イザベルは、窓際の席にいた。
膝の布に、細かな百合の刺繍が半分ほど進んでいる。針目が揃っていて、美しい。祈りの言葉を、誰よりも低く、誰よりもはっきり唱えていた。
その隣に、見覚えのある女が座っていた。
子爵家の母親である。
ポーリーヌの縁談を渋った、あの家の奥方であった。
◇
内側を見た。
後ろめたい色が、少し立っている。ポーリーヌのことである。この奥方は、縁談を壊したことを悔いていないわけではなかった。ただ、壊した理由を疑ってもいない。
――イザベル様が、あれほどお心を痛めて教えてくださったのだもの。
◇
ヴィオレッタは、そこで針を止めた。
◇
線が、一本つながった。
つながったが、証にはならない。この奥方の内側で聞いた一言を、誰に見せられるわけでもなかった。
◇
祈りが一巡したところで、ヴィオレッタは顔を上げる。
「イザベル様」
「……はい」
「北の国では、どちらのお屋敷においででしたの」
二十本の針が、また止まる。
イザベルは、一拍だけ間を置いた。
◇
この娘は、二度同じことを訊かれたとは思っていないはずである。アンリエットの茶会にも、侯爵夫人のサロンにも、この婦人会の者は一人もいない。三つの集まりは、互いに顔を合わせない。若い令嬢は婦人会を退屈がり、年配の夫人は若い娘の茶会を軽んじ、婦人会の者はサロンの華やかさを嫌う。
◇
――この部屋なら。
◇
「聖ウルスラの修道院で、祈りの日々を送っておりましたの。八年、ずっと」
◇
ブノワ子爵夫人が、胸の前で手を組んだ。
「まあ。修道院で」
「はい。北の国の冬は長うございますから、祈るほかに、することもございませんで」
「なんと、お若いのに」
夫人たちの針が、いっせいに動きだした。動き方が柔らかい。感じ入った女たちの針である。
◇
内側に、ずれが立っていた。
王子殿下の妹君の遊び相手。
母の従姉の、辺境伯夫人の屋敷。
聖ウルスラの修道院。
◇
三つある。
◇
八年のうちに三か所を回ったのなら、それはそれで筋が通る。けれど、この娘は三度とも、そこに八年ずっといたと答えている。ずっと、が三つ並べば、どれか二つは嘘である。
◇
三度とも、嘘の色が立っていた。
◇
ヴィオレッタは、針を置く。
置いて、ブノワ子爵夫人に礼を言い、婦人会を辞した。刺した指には、布を巻いたままである。
その週のうちに、王妃の春の園遊会の席次が回ってくる。
◇
ヴィオレッタの席は、例年より三つ後ろに下げられていた。
◇
「グランモン侯爵夫人のお口添えだそうでございます」
マリアンヌが、目録を持ったまま言った。
「そう」
「……お嬢様」
「なんですの」
「イザベル様と、直にお話しになっては」
ヴィオレッタは、目録から顔を上げる。
「話せば、あの方はまた一つ、話を増やしますわ」
「ですが」
「あなたは、話せば分かると思っておいでなのね」
◇
マリアンヌは、口をつぐんだ。
「ポーリーヌ様も、そう思っておいでだったでしょうね。していないことは、話せば分かってもらえる、と」
侍女の顔が、白くなった。
言い過ぎたとは思わなかった。
この侍女は、正しいことを言えば通じると、どこかでまだ信じている。信じていられるのは、主人がその手前で片をつけてきたからであった。
◇
「マリアンヌ」
「……はい」
「茶会を開きますわ。来週の水曜に、うちの南の間で」
「どなたを、お呼びに」
「アンリエット様。グランモン侯爵夫人。ブノワ子爵夫人」
マリアンヌの手から、目録が落ちかけた。
「その三方が、同じ卓に」
「ええ」
「……お出でになりましょうか」
「お出でになりますわ。イザベル様もお呼びしております、とお伝えすれば」
◇
三つの集まりは、互いに顔を合わせない。
◇
合わせないから、イザベルは三度とも別のことを言えた。言えるだけの理由が、この王都にはあった。その理由を、一つの卓に並べてしまえばいい。
「それで、何をなさいますの」
「何も」
「……何も」
◇
「同じことを、もう一度伺うだけですわ」
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