第44話 北の国では、どちらのお屋敷においででしたの
イザベル・ド・ヴァランスが王都に戻ってきたのは、雪の消えかかるころである。
ヴァランス侯爵家の一人娘で、十九になる。十一の年から北の国に預けられていた。母方の縁だという。八年ぶりに帰ってきた娘を、王都はたちまち気に入った。
◇
気に入られ方が、早かった。
帰って半月で、茶会の招きは三十を越えている。一月もすると、令嬢たちの口の端に上らぬ日はなくなっていた。誰に訊いても、同じことを言う。
お優しい。お慎み深い。お声が柔らかい。
それから、必ずもう一言付け足した。
◇
どこかの誰かとは、大違い。
◇
「どこかの誰か、でございますって」
マリアンヌが、髪を梳きながら言った。
「わたくしのことでしょうね」
「……おそらく」
「おそらく、ではございませんわ。わたくしのことですわ」
ヴィオレッタは、鏡の中の自分を見た。
腹は立っていない。比べられるのには慣れている。悪役令嬢と呼ばれる女は、誰と並べても悪いほうに回る。回るように振る舞ってきたのだから、当然であった。
◇
はじめて会ったのは、アンリエットの茶会である。
アンリエットは伯爵家の娘で、十八になる。王都の若い令嬢たちの真ん中にいる娘で、この娘の茶会に呼ばれるかどうかで、その季節の立ち位置が決まる。ヴィオレッタは、去年の冬から呼ばれるようになっていた。
◇
聖女の一件のあとである。
あの夜、広間で聖女を追い詰めた女を、若い令嬢たちは怖がりながら面白がった。面白がる者が、この季節の流行りを決める。ヴィオレッタが呼ばれるのは、流行りのうちだからであった。
イザベルは、庭に面した席にいた。
◇
淡い灰色の衣装で、髪は栗色、目は薄い青。小柄で、座り方が丁寧で、笑うと目尻が少しだけ下がる。人が近づくたびに立ち上がり、名を聞くと必ず二度繰り返した。
「ヴィオレッタ様。お目にかかれて光栄でございます」
「ごきげんよう」
「北の国にまで、お噂が届いておりましたのよ。聖女様の件」
「まあ。どのように」
「……お強い方だと」
◇
ヴィオレッタは、その内側を見た。
◇
冷たい。
◇
表の柔らかさとは、まるで逆の色であった。
薄い青の目の奥で、この娘はこちらを量っている。量って、並べて、どこを突けば崩れるかを数えている。数え方に慣れがあった。一度や二度ではない。何十人も、こうして量ってきた者の手つきである。
◇
――この程度、ね。
◇
それが、この娘の内側がヴィオレッタに下した評であった。
なるほど、とヴィオレッタは思った。
腹は立たなかった。量られるのには慣れている。ただ、その量り方には見覚えがあった。
◇
鏡を見るときの、自分の目である。
◇
「北の国は、いかがでしたの」
「寒うございました。でも、よいところでしたわ。皆さま親切で」
ヴィオレッタは、少しだけ首を傾げた。
◇
「イザベル様。北の国では、どちらのお屋敷においででしたの」
◇
イザベルは、ほんの一拍だけ間を置いた。
間を置いたあいだに、内側が素早く動く。この卓に誰が座っているか。若い令嬢が五人、みな十七から十九。流行りを追い、恋の話が好きで、家柄より話の面白さを取る。
◇
――この卓なら。
◇
「北の国の、王子殿下の妹君の、遊び相手をしておりましたの。向こうにおりましたあいだ、ずっと」
◇
卓が、沸いた。
「まあ、王家の」
「王子殿下にも、お会いになって」
「ええ、何度か。……でも、そのお話は、またいずれ」
「イザベル様は、どうしてそんなにお優しいの」
アンリエットが、身を乗り出した。
「北の国の方は、みなさまそうなのかしら」
「いいえ。わたくしなど、まだまだでございます」
「ご謙遜。ねえ、ヴィオレッタ様」
◇
アンリエットが、こちらを見た。
悪気はない。悪気がないぶん、たちが悪い。この娘は、比べて面白がるのが好きなのである。
「ええ。お優しい方ですわね」
「ヴィオレッタ様も、そうお思いになる」
「思いますわ。わたくしより、ずっと」
◇
嘘ではなかった。
表だけを見れば、この娘はヴィオレッタより百倍は優しい。
イザベルは、恥ずかしそうに目を伏せた。
伏せ方がうまい。続きを聞きたがる者の前で続きを伏せれば、次の茶会にも呼ばれる。
内側に、ずれが立っていた。
◇
薄い、細い、しかしはっきりとした色である。嘘をつく者の色であった。ただし、慣れた嘘つきの色で、震えも濁りもない。舌の上で転がし慣れた菓子のような嘘である。
◇
――王家ではございませんのね。
◇
どこにいたのかは、分からない。
分かるのは、いまの答えが違う、ということだけであった。
ヴィオレッタは、何も言わなかった。
言っても、証にならない。この目で視たものを、この卓の五人に納得させる術はない。
それに、訊いたことには答えてもらっている。答えが嘘かどうかは、訊いた者の知ったことではなかった。
◇
ただ、答えだけは、覚えておいた。
◇
ポーリーヌの婚約が壊れたのは、その月の終わりである。
男爵家の娘で、子爵家の次男と婚約していた。気立てがよく、目立たず、誰の悪口も言わない。悪口を言わない娘の婚約が壊れたので、王都はしばらくその話で持ちきりになった。
◇
「言い交わした相手が、別にいたのだそうでございます」
マリアンヌが言った。
「ポーリーヌ様に」
「はい。子爵家の奥方様が、そうお聞きになったとか」
「どこで」
「……それが、どなたもご存じないのです」
「ポーリーヌ様ご自身は」
「泣いておいでだそうです。そのような方はいない、と。ですが、いないことを証す手立てがございません」
◇
いないことは、証せない。
ヴィオレッタは、その一言を聞いて、少しだけ黙った。していないことを証す手立てがないのは、自分がいちばんよく知っている。
ヴィオレッタは、その子爵家の母親を知っている。
教会の婦人会に通う女である。週に二度、聖堂の奥の部屋で針仕事をしながら祈る集まりで、会長はブノワ子爵夫人。王都の信心深い夫人たちが、おおむねそこに集まる。
◇
イザベルは、帰ってきて三日目から、その婦人会に顔を出していた。
マリアンヌが、それを拾ってきた。
「毎週、火曜と金曜に」
「若い方が、珍しいこと」
「はい。婦人会の皆さまは、大層お喜びだそうでございます。今どきの令嬢に、あのように信心深い方は珍しい、と」
◇
ヴィオレッタは、茶碗を持ち上げて、飲まずに置いた。
証はない。
ポーリーヌの縁談を壊したのが誰か、ヴィオレッタには分からない。分かるのは、婦人会に通うイザベルと、婦人会で話を聞いた子爵家の母親と、壊れた縁談の三つが、一本の線でつながりそうだということだけである。
◇
つながりそうだ、では何にもならない。
同じ週に、ヴィオレッタは一つ潰している。
アンリエットの茶会で、隣に座っていた子爵家の娘である。去年の冬、聖女の一件のあとで、真っ先にヴィオレッタのそばへ寄ってきた娘だった。今年の茶会では、真っ先にイザベルのそばへ寄っていた。
◇
寄り先を替えるのは、罪ではない。
ただ、替える速さが気にくわなかった。翌月、この娘の家が狙っていた宮廷の侍女の口は、別の家の娘に回った。回したのはヴィオレッタである。理由は誰にも言っていない。
「お嬢様」
「なんですの」
「あの方の侍女の口を」
「ええ」
「……なぜでございますか」
「寄ってくるのが速すぎましたの。速く寄る者は、速く離れますもの」
◇
マリアンヌは、それ以上訊かなかった。
噂が変わりはじめたのは、翌月に入ってからである。
はじめは、小さなことであった。
ヴィオレッタが王太子殿下を軽んじている、という話が、年配の夫人たちのあいだで囁かれはじめた。婚約者でありながら殿下の前で平気で口答えをし、殿下を立てようとしない。あれでは王妃になれまい、と。
◇
口答えは、している。
しているが、それはアルベールがそうしろと言ったからである。二人きりのときだけの話で、人前ではしていない。人前でしていないことを、年配の夫人たちが知っているはずがなかった。
同じころ、若い令嬢たちのあいだでは、まるで逆の話が回っていた。
◇
ヴィオレッタは殿下にしがみついている。殿下の心がほかへ移るのを恐れて、殿下に近づく令嬢を片端から潰している、と。
軽んじているのか、しがみついているのか。
どちらかにしていただきたい、とヴィオレッタは思った。
◇
教会の婦人会では、また別の話であった。
ヴィオレッタは信心がない。聖堂に足を運ばず、祈りもせず、聖女様をあのように追い詰めたのも、信心のなさゆえである、と。
これは、半分は本当であった。
「三つとも、違うお話でございますね」
マリアンヌが言った。
「ええ」
「出どころは」
「存じませんわ」
◇
「お嬢様。お否みにならないのですか」
「何を」
「殿下を軽んじているとか、しがみついているとか」
「否めば、否んだ話がまた一つ増えるだけですわ。ヴィオレッタ様は躍起になって噂を否んでおいで、と」
「……では、放っておかれるので」
「放ってはおきませんわ。否まないだけでございます」
◇
存じないのは、本当である。
ただ、見当はついている。三つの話が回っている三つの場所に、この一月で欠かさず顔を出している娘が一人いた。
ヴィオレッタは、自分の悪名をよく知っている。
侍女を気まぐれで馘首にする。気にくわない令嬢の縁談を潰す。人前で平気で人を刺す。どれも本当で、どれも自分でやってきた。王都が言う悪口の、九割は本当のことである。
◇
残りの一割が、この一月で急に増えた。
◇
増えた分は、どれも嘘であった。
◇
「気にくわないわ」
◇
「……噂が、でございますか」
「いいえ。噂の出来が、ですわ」
悪口を言われるのは構わない。言われるだけのことはしている。
気にくわないのは、してもいない悪事を足されることであった。足した者は、こちらの悪名に寄りかかって、自分の手を汚さずに済ませている。
◇
悪いことをするなら、自分の名でおやりなさい。
◇
ヴィオレッタは、そういう女であった。
「マリアンヌ」
「はい」
「グランモン侯爵夫人の、次のサロンはいつかしら」
侍女の手が止まった。
「……来週の水曜でございます。ですが、お嬢様は、あちらには」
「呼ばれておりませんわね」
「はい」
「呼んでいただきますわ」
◇
グランモン侯爵夫人は、七十になる。
王妃の遠縁で、王都の年配の夫人たちの筆頭であった。この夫人のサロンに呼ばれない者は、どれだけ家柄がよくとも、まともな淑女とは見なされない。ヴィオレッタは、一度も呼ばれたことがなかった。
◇
「それから、ブノワ子爵夫人の婦人会は、火曜と金曜でしたわね」
「……お嬢様」
「わたくしも、針を持って参りますわ」
マリアンヌの顔が、はっきり青くなった。
「お嬢様が、婦人会に」
「いけませんの」
「いけなくはございませんが」
「では、参りますわ。針くらい、持てますもの」
◇
持てることは持てる。
ただ、使ったことは一度もなかった。
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