第43話 いいえ、も、嘘はつけませんのよ
謁見の間の音が、ひとつ抜けた。
抜けたのは、五十人ぶんの息である。五度「はい」と言った客が、六度目に「いいえ」と言った。誰もが、六度目も「はい」だと思っていた。
リリアーヌの顔は、動かなかった。
動かないまま、内側だけが跳ねている。跳ねて、押し込もうとして、押し込めない。昨夜から一度も乱れなかった色が、はじめて形を失いかけていた。
◇
――触れた。触れたはず。
――肩に、確かに。
確かに触れている。そこは嘘ではない。この娘が知らなかったのは、何が触れたかであった。
「……触れておらぬ、と」
王太子が言った。
紙を握ったまま、王太子はヴィオレッタのほうへ一歩出た。紙の上に、この問いへの続きは書いていない。書いていない問いを、この男は自分の口で継ぐしかなかった。
◇
「では、何が触れたのだ」
ヴィオレッタは、答えなかった。
答えずに、王妃のほうを見た。はいか、いいえで答えよと言われている。何が、と問われて、はいもいいえもない。
王妃が、小さく息を吐いた。
「殿下が、開いてお尋ねになった」
◇
王妃は、息子のほうを見なかった。
「開いた問いには、開いてお答えいただいてよろしい。作法は、お客人を守るためのものです。問う側が開いたなら、閉じておく理由はございません」
◇
「袖でございますわ」
◇
ヴィオレッタは、それだけを言った。
「シャルロット様の袖の端が、リリアーヌ様の肩に触れました。手ではございません。あの間合いでは、手は届きませんもの」
謁見の間が、揺れる。
王太子の顔から、残っていた安堵が抜けていった。紙を持った手が下がる。下がった紙の端が、かすかに震えていた。
◇
「お客人」
王妃が、立ち上がりかけて、やめた。
やめて、座ったまま身を乗り出す。内側の疲れていた色の下から、別のものが上がってきていた。この人は、筋の通った話を聞くのが好きなのであろう。好きなものを聞ける場が、宮廷ではめったにない。
◇
「この母が、問います。昨夜ご覧になったことを、はじめから、見たとおりにお聞かせくださいまし」
マリアンヌは、東の壁際に立ったままであった。
主人が五度「はい」と言うあいだも、六度目に「いいえ」と言うあいだも、この侍女は一度も身じろぎをしていない。身じろぎをすれば、主人の答えに色がつく。侍女が震えれば、主人が何かを隠していると見られる。それを知っていて、石のように立っていた。
◇
開いた問いである。
◇
王妃が開いた以上、閉じておく理由はどこにもなかった。
ヴィオレッタは、どこから話すかを一瞬で決めた。
はじめから話す。先ほどの五つの「はい」を、一つも崩さずに、その間を埋めていく。はいは全部本当であった。本当のものを壊す必要はない。足りないところを足せばよかった。
◇
「すれ違う前に、シャルロット様は道をお譲りになろうとして、右へ半歩お寄りになりました」
石段には幅がある。お二人が並んでも、まだ余る。それでも、上がってくる方に真ん中を譲った。ヴィオレッタは、それを淡々と述べた。
◇
「リリアーヌ様も、同じ側へお寄りになりました」
ざわめきが、止まる。
お譲りになった側へ、とヴィオレッタは付け足した。空けられた真ん中ではなく、と。
「それで、袖が触れましたの。ただ、リリアーヌ様は、袖が触れる前に、ご自分で重みを後ろへお移しになっておいででした」
◇
謁見の間が、音を失う。
段を上がる者は、ふつう重みを前に置く。前に置かねば、足が上がらない。それが、あのときだけは後ろにあった。袖が触れる、ほんの半歩前から。
「……見えるはずが」
リリアーヌの声が、かすれていた。
「夜で、灯も少のうございました」
「石段には、灯がございましたでしょう。あなたが、とても綺麗だから見においでと仰った灯が」
◇
娘の顔から、潤みが引いていく。
「それから、落ちる前に、リリアーヌ様は一度、下の段をご覧になりました。落ちる先を、確かめるように」
人は、落ちるとき上を見る。つかまるものを探して、手を伸ばして、上を見る。下を見るのは、落ちる前から落ちることを知っている者だけである。
ヴィオレッタは、そこだけ少し声を落とした。
◇
「三段で、お止まりになりましたわ。石段は二十段ございます。中ほどから落ちて三段で止まるには、ご自分で止まらねばなりません。止まるために、左の手をおつきになりました」
いま布をお巻きになっている、その手でございます、と付け足す。
◇
リリアーヌが、左の手首を胸に引き寄せた。
引き寄せたのは、痛むからではない。見られたくないからである。この娘の内側は、昨夜はじめて見たときと同じ一語に戻っていた。
◇
――計算。
◇
ただ、今度は数えている中身が違う。
◇
――どこで、間違えた。
◇
「最後に」
ヴィオレッタは、シャルロットのほうへ顔を向けた。
「シャルロット様が手を伸ばされたのは、リリアーヌ様が落ちたあとでございます。先ほど、手を伸ばしたかと問われて、はいと申し上げましたわ。伸ばされました。落ちた方へ」
◇
「手が向いていたかと問われて、はいと申し上げました。向いておりました。落ちた方へ、でございます」
シャルロットは、まだこちらを見ている。
見たまま、何も言わない。この令嬢は、自分が昨夜何をしたかを、いまはじめて他人の口から聞いていた。
◇
「以上でございます」
ヴィオレッタは、一歩下がった。
誰も、動かない。
動かないまま、五十人の内側が一斉に同じほうへ流れていく。五つの「はい」を聞いて、一つの話を組み立てた者たちである。いま、その同じ五つが、別の話の骨になっていた。
はいは一つも覆っていない。覆ったのは、はいの並べ方のほうである。
◇
「……ヴィオレッタ様」
リリアーヌの声が、震えていた。
「わたくしが、嘘をついていると仰せですか」
「申しておりませんわ。見たものを申し上げただけでございます」
「わたくしは、ヴィオレッタ様をお信じして」
「ええ。存じておりますわ」
◇
ヴィオレッタは、娘の目を見る。
昨夜、石段の下から一度だけ合わせてきた目である。合わせて、使える、と思っていた目であった。
◇
「わたくしを証人にお選びになったのは、あなたでございましょう」
◇
リリアーヌの膝が、落ちた。
◇
石段では三段で止まった娘が、謁見の間の床では止まらない。
「はいと、いいえしか申せぬ証人なら、都合のよいことだけ言わせられると、お考えになったのでしょう。問いさえ選べば、嘘をつかぬ口が、あなたの話を組み立ててくれると」
◇
「よいお考えでしたわ。五つまでは」
「ただ、ご存じなかったのね」
◇
「いいえ、も、嘘はつけませんのよ」
◇
王妃が、立ち上がった。
宰相が慌てて手を差し出したが、王妃はそれを取らない。一段低い椅子から、自分の足で立つ。立ち上がった王妃の背は、座っていたときよりずっと高く見えた。
「ニノン」
シャルロットの侍女が、床の上で跳ねるように身を縮める。
◇
「墨壺の件、もう一度申しなさい」
「……わ、わたくしは」
「そなたの主が、墨壺を持って来いと言ったのか」
ニノンは、答えられない。
答えられないまま、泣きはじめた。泣きながら、母さんが、と一度だけ言う。その先は言葉にならず、床に額をつけて、肩だけが上下していた。
◇
ヴィオレッタは、その内側を見ていた。
薬代の色は、まだ鳴っている。鳴りながら、別の色が上から被さってきた。怖い、である。主を売ったことがいま露見したのではない。売った金で買った薬が、もう届かなくなるのが怖いのであった。
◇
子爵家の娘は、その前に崩れていた。
招待状の件の証人である。王妃が名を呼ぶより先に、床に手をついて、父が、父の貸しが、と繰り返す。誰に脅されていたのかは、まだ口にしない。しなくても、この場の全員が同じほうを見ていた。
◇
衛兵に両脇を取られた、淡い桃色の衣装のほうである。
伯爵家の令嬢だけが、崩れなかった。
茶会で悪口を聞いたと言った、あの令嬢である。顔は青いが、口は閉じている。内側では、逃げ道を数えていた。聞いたと申したのは、そう聞こえたからで、聞き違いだったかもしれない。そういう言い方を、いま頭の中で三通りほど組み立てている。
◇
賢い、とヴィオレッタは思った。
賢いが、この令嬢はもう王太子の妃にはなれまい。王太子の役に立とうとして、役に立たなかった娘である。そういう娘を、王家はどこにも置かない。
ヴィオレッタは、三人のことを何も申し上げていない。
◇
墨壺も、茶会も、招待状も、見ていないからである。見ていないものは、申し上げられなかった。
ただ、崩れるのは早かった。
上から見た証が一つ崩れると、下から積んだ証は支えを失う。三つの嘘は、四つ目の嘘に寄りかかって立っていた。寄りかかっていた柱が抜ければ、残りは勝手に倒れる。倒すために手を貸す必要は、どこにもなかった。
◇
「母上」
王太子が、前に出た。
◇
「リリアーヌが、そのようなことをするはずがございません。このヴィオレッタとかいう娘が、何か」
「レオポルド」
「母上、お聞きください。リリアーヌは」
「黙りなさい」
◇
謁見の間が、凍りつく。
王妃が息子の名を呼び捨てにするのを、この場の誰も聞いたことがなかった。聞いたことがないという顔が、五十並んでいる。
「そなたは、婚約を破ると申した。この場で、五十人の前で」
「……はい」
「その理由として、四つを挙げた。四つとも、いま崩れた」
「……」
「理由の崩れた破談を、この母がどう扱うか。そなたは考えてから口を開いたのか」
◇
王太子は、答えない。
考えていなかったからである。この男は、目の前にあるものしか見ない。昨夜の石段も、今朝の謁見の間も、目の前にあるものだけを見て口を開いてきた。目の前にないものを考える癖が、この男には一度もついたことがない。
◇
「シャルロット」
王妃が、婚約者の名を呼んだ。
呼ぶ声が、息子を呼んだときとは違う。低く、少しだけ柔らかい。この人は、この令嬢のことを前から嫌いではなかったのであろう。嫌いではないが、守ってやれる立場にもなかった。
◇
「王家として、詫びねばならぬ。レオポルドの申し立ては退ける。婚約は、このまま」
「畏れながら」
シャルロットが、口を開いた。
この日、この令嬢が自分から開いた、はじめての口である。
◇
「破談のお申し出は、お受けいたします」
◇
謁見の間が、揺れる。
「殿下は、この場で、五十人の前で、わたくしとの婚約を破ると仰せになりました。お受けいたします」
「シャルロット、それは」
「理由が崩れましても、お言葉は崩れておりません」
王太子の顔から、色が抜けていく。
◇
抜けていく色を、ヴィオレッタは見ていた。
この男の内側は、昨夜からずっと一色である。怒りの色で、それだけで自分を支えてきた。いま、その色が引いていく。引いたあとに、何も残っていない。怒りの下に、この男は何も持っていなかった。
◇
リリアーヌは、衛兵に両脇を取られたまま、うつむいていた。
王太子は、そちらを一度も見ない。
見ないのは、もう見る必要がなくなったからであろう。婚約者は失った。恋人も失った。失ったものを、この男は見ない。見ない性分であった。
◇
処分は、その日の夕刻までに決まった。
リリアーヌ・デュランは、偽りの訴えで王太子の婚約者を陥れようとした咎で、王城への出入りを永く禁じられた。デュラン男爵家は爵位を一つ落とされ、王都の屋敷を返上する。子爵家の娘を脅していたのも、この娘の父であったという。
◇
王太子レオポルドは、春まで東の離宮に下がることになった。
謹慎という言葉は使われなかったが、中身はそれである。婚約者を失い、恋人を失い、この冬の残りを誰もいない離宮で過ごす。目の前にあるものしか見ない男にとって、目の前に何もない場所ほどこたえるものはあるまい。
◇
謁見の間を下がるとき、ニノンと目が合った。
床に膝をついたまま、侍女はこちらを見上げている。縋る目であった。
内側は、先ほどから同じものを鳴らしている。母さんの薬代。それだけである。その下に、もう一つ細い声が混じっていた。
◇
――あの方なら。
――嘘をつかないあの方が、一言だけ言ってくだされば。
◇
この娘は、母のことを誰にも話していない。泣きながら「母さんが」と一度こぼしただけで、その先は言葉にならなかった。薬代のことを知っているのは、この場でヴィオレッタ一人である。
知っているのは、目で見たからではなかった。
◇
ヴィオレッタは、足を止めなかった。
「お嬢様」
マリアンヌが、後ろから小さく言う。
「あの娘、母さんが、と申しておりました」
「聞こえておりましたわ」
「……お口添えは」
◇
「いたしませんわ。見ておりませんもの」
◇
墨壺も、茶会も、招待状も、見ていないから黙って聞いた。薬代だけ口に出せば、目で見てもいないことを、あの目で聞いたまま申し上げることになる。この目は、証にならない。
証にならぬもので人を庇えば、あとで困るのは庇われたほうであった。
◇
「それに、あの娘が売ったのは、あの娘の主でございましょう。売られた主が口添えするならともかく、わたくしがする筋はございませんの」
◇
マリアンヌは、それきり何も言わない。
廊に出たところで、シャルロットに呼び止められた。
「ヴィオレッタ様」
「……なんですの」
「お礼を」
「要りませんわ」
ヴィオレッタは、振り返らずに言った。
「あなたのためではございませんの。わたくしの目を、安く使われたくなかっただけでございます」
◇
シャルロットは、しばらく黙っていた。
黙ってから、少しだけ首を傾げる。この令嬢の首の傾げ方には、飾りが一つもない。飾らずに傾げる者を、ヴィオレッタはあまり見たことがなかった。
「それでも、見たとおりに言ってくださった方は、あなただけでした」
◇
内側を見た。
静かである。昨夜と同じ静けさで、ただ、疲れの色がいくらか引いていた。
「一つだけ、申し上げてよろしいかしら」
「はい」
「あなた、言葉が足りませんわ」
「していない、と申すだけでは、していないことにはなりませんの。していないことを、していないように見せる言葉が要りますのよ。そういうものを、あなたは一つもお持ちでない」
◇
シャルロットは、考えるような顔をした。
「……お持ちなのは、ヴィオレッタ様のほうでございますね」
「わたくしは、見たものしか申しませんわ」
「それが、いちばん強うございます」
ヴィオレッタは、答えなかった。
言い返す言葉が、見つからなかったのである。この令嬢は、たまにこういうことを顔色ひとつ変えずに置いていく。国は違っても、そういう娘はいるらしい。
シャルロットのその後は、帰る前の晩に少しだけ耳に入った。
ヴィルヌーヴ侯爵家は、娘を領地に戻すつもりでいるという。王太子に捨てられた娘として、しばらく人目から遠ざける。父親らしい勘定であった。当の娘がそれに頷いたかどうかまでは、分からない。
◇
帰りの馬車は、六日かかった。
マリアンヌは、ほとんど喋らない。
喋らずに窓の外を見て、国境を越えたあたりで一度だけ口を開いた。
西の国の黒い石の町並みが、二日目には森に変わり、四日目には見慣れた丘の形になっていく。来るときと同じ道のはずが、帰りのほうがいくらか短く感じられた。
◇
「お嬢様。黙っておいでになる、はずでございましたね」
「黙っておりましたわ」
「……」
「呼ばれるまでは」
侍女は、窓の外に目を戻す。
戻しながら、少しだけ口の端を上げていた。今度は、気のせいではない。
王城に着いた晩、アルベールに呼ばれた。
◇
「しでかしたか」
「しでかしましたわ」
「……一つ残らず出せ」
ヴィオレッタは、一つ残らず出した。
ロランを帰したこと。石段のこと。謁見の間のこと。王妃が息子を呼び捨てにしたこと。侯爵令嬢が、破談を自分から受けたこと。侍女に口添えしなかったこと。
◇
アルベールは、書き物の手を止めて、最後まで聞いていた。
「向こうから、苦情は来ておらぬ」
「そうでございましょうね」
「来ておらぬどころか、王妃から礼状が来ておる」
「まあ」
「そなた宛てではない。私宛てだ」
「なんと書いてございましたの」
「……よい目をした婚約者をお持ちだ、と」
◇
ヴィオレッタは、少し黙った。
「目は、わたくしのものでございますわ」
「知っておる」
「殿下のものでは、ございません」
「それも知っておる。だから、礼状は私が持っておく」
「なぜですの」
「そなたに渡せば、燃やすであろう」
◇
ヴィオレッタは、答えなかった。
◇
嘘はつけない。
◇
燃やすつもりであった。
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