第41話 嘘をおつきにならないと、伺いましたの
西の国ベルガルドから招きが届いたのは、秋の終わりである。
王太子の誕生を祝う舞踏会で、例年なら公爵が出る。今年は父の腰が悪く、代わりに娘が出ることになった。アルヴェール公爵家とベルガルド王家は、祖父の代からの付き合いである。欠けば角が立つ。
◇
その晩、マリアンヌが髪をほどきながら訊いた。
「お嬢様が、お出になるのでございますか」
「わたくしが参りますのよ」
「お嫌でございますか」
「嫌ですわ。けれど、行かねばもっと嫌なことになりますもの」
◇
アルベールは同行しない。
王太子が他国の舞踏会に軽々しく顔を出すものではない、というのが表向きの理由である。内側の理由は聞くまでもない。この男は、退屈な場所に足を運ぶくらいなら書類を三束片づけるほうを選ぶ。
出立の前の日に王城へ上がると、書き物の手を止めずにこう言った。
「向こうで、何かしでかすなよ」
「しでかしませんわ」
「そなたは、しでかさぬと言って、しでかす」
「では、しでかしたら一つ残らずお知らせいたしますわ」
「……それでよい」
供は、マリアンヌと侍従のロランである。
◇
ロランは公爵家に三十年仕える老人で、外国の作法に通じている。ベルガルドの言葉はこちらとほとんど変わらないが、敬称の使い方がいくらか違う。違うところで恥をかかぬよう、父が付けてよこした。
馬車で六日かかった。
「お嬢様。ベルガルドは、はじめてでございますか」
「はじめてですわ。あなたは」
「子供のころに一度。父の供で」
「どのような国でしたの」
「……寒うございました」
「それだけ」
「はい。寒さしか覚えておりません」
◇
ヴィオレッタは、少し笑った。
この侍女は、覚えていないことを覚えているふりをしない。そこが気に入っている。
ベルガルドの王都は、こちらより小さく、こちらより古い。石が黒く、屋根が低く、通りが細い。道の両側に並ぶ家々は、どれも窓を小さく作っていた。冬の長い国の造りである。
◇
王城に着いた晩、ロランが一つだけ念を押した。
「お嬢様。こちらでは、お客人でございます」
「存じておりますわ」
「お客人が、ご当家の内のことに口を挟まれますと」
「外交の話になりますのね」
「……はい。お嬢様がお口を開かれれば、それは公爵家が口を開いたことになります。公爵家が口を開けば、お国が口を開いたことになります」
◇
「では、何か問われたら」
「ベルガルドには、古い作法がございます。お客人が王家の前で問われたときは、はいか、いいえでお答えする。それ以上は申さない」
「それ以上は」
「申せば、口を挟んだことになりますので」
◇
「不便な国ですこと」
「お客人を守るための作法でございます。はいといいえしか申さぬ客は、何を申しても咎められませんので」
◇
ヴィオレッタは、しばらく黙っていた。
「では、黙っておりますわ」
「お願い申し上げます」
「わたくし、黙るのは得意でございますのよ」
嘘ではない。
嘘をつけない人間は、黙ることで生きている。言えないことを言わずに済ませる術は、ほかの誰よりも磨いてきた。
◇
舞踏会は、翌々日の晩であった。
大広間は、こちらの半分ほどの広さである。そのぶん人が詰まり、灯が近く、声がよく響いた。三百人ばかりの客のうち、見知った顔はひとつもない。見知った顔がないというのは、ヴィオレッタにとって、そう悪い場所ではなかった。
◇
誰も、まだこちらを知らない。
知らないはずであった。
入って四半刻もしないうちに、囁きが立った。
◇
――あれが、ヴィオレッタ。
◇
――聖女を落とした娘だそうよ。
◇
――嘘をつかないんですって。
◇
噂は国境を越える。越えるときに少し形が変わるが、芯は変わらない。こちらの国で二年かけて立った名は、西の国にも三月遅れで届いていた。
隣に立った伯爵夫人が、扇の陰から話しかけてきた。
「ヴィオレッタ様でいらっしゃいますわね」
「ええ」
「お噂どおりの方ですこと」
「どのような噂でございましょう」
「……お美しい、と」
「まあ。それは初耳ですわ」
夫人の内側が、慌てて取り繕った。
噂の中身は、美しいではない。恐ろしい、である。ヴィオレッタはそれを知っていて、知らないふりもしなかった。
◇
「わたくしが耳にしておりますのは、性格が悪い、というほうでございますけれど」
「……」
「どちらも本当でございますわ。ご安心なさいまし」
夫人は、扇を二度鳴らして離れていった。
王太子レオポルドは、二十三である。
◇
背が高く、髪が明るく、声が大きい。客の一人ひとりに声をかけて回り、声をかけられた者はみな嬉しそうにした。嬉しそうにさせるのが得意な男であった。得意なことが、それしかないのであろう。
「ヴィオレッタ様。遠路はるばる」
「お招きにあずかりまして」
「こちらの冬はお寒いでしょう。どうか、ごゆるりと」
内側は、明るかった。
隣国からヴィオレッタが来た、珍しい、面白い。それだけの色である。深くもなく、濁りもない。この男は、目の前にあるものしか見ない性分であった。
◇
王太子の婚約者は、少し離れたところにいた。
シャルロット・ド・ヴィルヌーヴ。侯爵家の娘で、十九になる。灰色がかった衣装を着て、髪を低く結い、扇も持たずに立っていた。美しくないわけではない。美しく見せる気がないだけである。
◇
「ようこそ、おいでくださいました」
「お招きにあずかりまして」
「……」
それきり、令嬢は黙った。
話の接ぎ穂を探している様子もない。挨拶が済んだら黙る、と決めている顔であった。
内側を見た。
静かである。
静かで、少し疲れている。王太子のほうを一度も見ないが、見ないようにしているのではなかった。見ても仕方がないと、とうに諦めた者の静けさである。
◇
――この方は、嫌われておいでですのね。
◇
嫌われているのは、見れば分かる。
王太子はこの婚約者に一度も近寄らず、一度も目を向けず、一度も名を呼ばない。三百人の客が全員それを見ていて、全員が見ないふりをしていた。
王太子が近寄っていたのは、別の娘である。
◇
リリアーヌ・デュラン。男爵家の娘で、十八。小柄で、目が大きく、笑うと片頬にえくぼができた。淡い桃色の衣装を着て、王太子の半歩後ろをついて歩いている。
可憐であった。
可憐に見えるように、よく作られている。
◇
ヴィオレッタは、その内側を見た。
◇
――計算。
◇
一言で済む色であった。笑顔の下で、この娘は部屋じゅうを数えている。誰がどこに立ち、誰が王太子を見ていて、誰が自分を見ているか。数えて、並べて、どこに置けば得かを考えている。
嫌いではない、とヴィオレッタは思った。
◇
正直な色である。取り繕う前の人間は、たいていこういう色をしている。
リリアーヌのほうから、近づいてきた。
王太子が別の客に捕まった隙である。半歩後ろから一歩前に出て、そのままこちらへ滑るように来た。来かたに無駄がない。
◇
「ヴィオレッタ様」
「ごきげんよう」
「お目にかかれて光栄でございます。お噂は、かねがね」
「わたくしの噂は、あまりよいものがございませんでしょう」
「いいえ」
リリアーヌは、首を小さく横に振った。
「ヴィオレッタ様は、嘘をおつきにならないと伺いましたの」
◇
ヴィオレッタは、娘の目を見た。
「ええ。つきませんわ」
「本当に、一度も」
「……ほとんど一度も」
「まあ」
娘は、目を丸くしてみせた。
丸くしてみせながら、内側は別のことを言っている。
◇
――使える。
◇
ヴィオレッタは、その一語を聞いた。
聞いて、何も言わなかった。
言うことがないからである。この娘が何に使うつもりなのかは、まだ視えない。使える、と思ったことだけが視えた。思ったことは罪ではない。罪でないものを咎める趣味はなかった。
◇
「殿下とは、長いお付き合いでいらっしゃいますの」
「……一年ほどでございます」
「まあ、短い」
「短うございますけれど、殿下はお優しくて」
「お優しい方は、婚約者をお持ちでも、ほかの方にお優しいのね」
リリアーヌの笑顔が、一拍だけ止まった。
止まって、すぐに戻る。戻り方が速い。この娘は、止まったところを見られるのに慣れていた。
「……ヴィオレッタ様は、はっきりと仰いますのね」
「嘘がつけませんもの」
「そう、でしたわね」
◇
「こちらの国には、いつまで」
「祝いが済みますまで、三日ほど」
「では、明日もお目にかかれますわね」
「さあ」
「明日は、夜会のあとに庭の灯りを点けますの。とても綺麗でございますから、ぜひ」
リリアーヌは、礼をして離れた。
離れ方も、よく作られていた。去り際に振り返らない。振り返らない者のほうが、人は覚える。
「お嬢様」
マリアンヌが、扇の陰から言った。
「あの方、何かお企みでございましょうか」
「企んでおりますわね」
「何を」
「分かりませんの」
◇
「……お止めにならないのですか」
「止めようがございませんわ。まだ何もしておりませんもの」
それに、ロランとの約束がある。
ここではヴィオレッタは客である。客は、主の家の内のことに口を挟まない。挟めば、国の話になる。
◇
黙っていると決めていた。
翌日は、昼のうちに一つ片づけた。
ロランが、宿所の廊で王城の下働きと立ち話をしていた。立ち話の中身は大したことではない。こちらの宿所の薪が足りぬという、それだけの話であった。
ヴィオレッタは、その晩のうちにロランを国へ帰すことにする。
「お嬢様。わたくしが、何か」
「下働きと親しゅうございましたわね」
「……薪の話でございます」
「ええ。薪の話でございました」
老人は、しばらく黙っていた。
◇
「わたくしは、ここでお嬢様をお守りする役目でございます」
「守っていただくことは、ございませんわ」
「……では、明日からの作法は」
「黙っておりますもの。作法は要りませんでしょう」
ロランは、翌朝に発った。
薪の話をしたからではない。下働きの前で、主家の懐具合を口にしたからである。宿所の薪が足りぬと言えば、公爵家が安く見られる。安く見られるのは嫌いであった。
マリアンヌは、何も言わなかった。
言わずに、老人の荷をまとめるのを手伝い、馬車を見送り、戻ってきてから湯を運んだ。湯は少しぬるかった。
◇
その晩の夜会は、昨夜より小さかった。
百人ばかりの客が、王城の東の翼に集まる。楽師は三人。酒はよく、灯は少なめで、話し声は低い。昨夜の大広間とは違い、親しい者だけを集めた席である。
夜会が引けると、庭に灯が入った。
リリアーヌの言ったとおり、美しかった。黒い石の庭に、小さな灯が百ほど並んでいる。冬の空気が澄んでいて、灯のひとつひとつが輪郭をもって見えた。
ヴィオレッタは、庭へ降りる石段の上に立っていた。
◇
石段は長く、幅が広い。降りきったところに噴水があり、その先に灯の道が続く。客の半分は庭に降り、半分はまだ回廊に残っていた。
石段の中ほどに、二人の娘がいた。
シャルロットと、リリアーヌである。
シャルロットは石段を下りてきて、リリアーヌは上がってきていた。すれ違う位置である。すれ違うだけなら、何も起きない。
ヴィオレッタのところからは、五段ほど上になる。
二人の顔が、よく見える。
◇
シャルロットが、道を空けようとして、半歩右へ寄った。
リリアーヌが、同じ側へ寄る。
袖が、触れた。
◇
そして、リリアーヌが落ちた。
◇
後ろへ。
三段ほど、背中から滑るように落ちていく。落ちた先で、小さく声を上げた。
◇
回廊の客が、振り返った。
庭の客が、見上げる。
石段の中ほどに、手を伸ばしたままのシャルロットが立っていた。伸ばした手の先に、倒れたリリアーヌがいる。
手を伸ばしたのは、助けようとしたからである。
ただ、それは石段の上からしか分からない。下から見れば、突き飛ばした手に見えた。
◇
ヴィオレッタは、それを全部見ていた。
目で見たものがある。
それとは別に、聞いていたものがある。
袖が触れた瞬間、リリアーヌの内側は一言だけ言った。
◇
――いま。
◇
落ちていくあいだ、娘の内側は静かであった。恐れの色がない。痛みを待つ色もない。ただ、段を数えている色であった。
シャルロットの内側は、違った。
◇
――何が。
◇
――何が、起きたの。
◇
それだけである。
ヴィオレッタは、扇を開いた。
開いて、顔の下半分を隠した。隠したのは、表情が動いたからではない。動かないのを人に見られたくなかったからである。
下で、声が上がりはじめていた。
「シャルロット様が」
「いま、押されたのでは」
「リリアーヌ様、お怪我は」
王太子が、回廊から駆け降りてくる。
駆け降りて、リリアーヌを抱き起こし、それから婚約者を見上げた。見上げた顔に、はじめて色がついていた。明るいだけだった内側が、一色に塗りつぶされている。
◇
怒りである。
「シャルロット」
王太子が言った。
「そなた、何をした」
シャルロットは、答えなかった。
答えられなかったのであろう。何が起きたのかを、この令嬢は分かっていない。分かっていない者は、弁明の言葉を持たない。
◇
リリアーヌが、王太子の腕の中で小さく首を振った。
「殿下、いいえ、わたくしが足を」
「庇うな」
「ですが」
「庇わずともよい。皆が見ておる」
皆が見ていた。
見ていたのは下からである。下から見れば、手を伸ばした令嬢と、落ちた娘しか見えない。石段の上から見ていた者は、ほとんどいなかった。
◇
ほとんど、である。
リリアーヌが、王太子の肩越しに、一度だけ石段の上を見た。
ヴィオレッタと、目が合った。
合わせたのは、娘のほうである。
合わせて、すぐに逸らした。逸らしたときの内側は、昨夜と同じ一語を言っていた。
◇
――使える。
◇
ヴィオレッタは、ようやく分かった。
昨夜、庭の灯を見に来いと誘われた理由である。
灯を見せたかったのではない。見せたかったのは、石段のほうであった。庭へ降りる客は、みな石段の上で一度立ち止まる。立ち止まったところで、下で何かが起きれば、否でも目に入る。
◇
証人を、選んでいたのである。
◇
嘘をつかないと評判の、ヴィオレッタを。
◇
ただ、なぜ自分なのかが分からない。
嘘をつかぬ証人は、あの娘にとっていちばん扱いにくいはずである。見たものを見たとおりに言われれば、困るのはあの娘のほうであった。困ると分かっていて選ぶ者はいない。選んだからには、困らぬと踏んだ理由がある。
◇
その理由が、まだ視えなかった。
「お嬢様」
マリアンヌの声が、後ろからした。
「……ご覧に、なりましたか」
◇
「見ましたわ」
◇
「何を」
「全部」
◇
その晩のうちに、王城から使いが来た。
明日の昼、王妃陛下の御前にて、王太子殿下より申し上げたき儀これあり。ついては、ヴィオレッタ様にも、ご臨席を賜りたく。
◇
臨席、と書いてある。
◇
臨席というのは、座って見ていろという意味ではない。呼ばれたら立て、という意味であった。
ヴィオレッタは、その書状を燭台の火にかざした。
かざしただけで、燃やしはしない。
「マリアンヌ」
「はい」
「ロランを帰したのは、早うございましたわね」
「……はい」
「作法が要るようになりましたわ」
◇
侍女は、黙って頭を下げる。
下げたまま、少しだけ笑ったように見えた。見えただけで、たぶん気のせいである。この侍女は、主人の失策を笑うような女ではない。
◇
笑われても、仕方のない失策ではあった。
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