第40話 そちらの手は、よくできておりますわ
最後の晩は、三月の末であった。
その晩の客は、四十人ばかり。月の締めの夜で、帳が合わされ、金が動く。誰かが青くなる。青くなるところを見に来る者で、部屋は暖かかった。
「本日もおいででしたか」
「六度目でございますわ」
「よくお通いくださいます」
「そちらのお勧めでございましょう。三度目にお越しになる、と」
◇
「三度で済まぬ方は、そう多くございません」
「わたくし、しつこうございますの」
◇
ヴィオレッタは、前の五晩と同じ席に着いた。
◇
胴元から見て、右の三つ目。卓には六人。ドラン男爵家の息子が座っていた椅子は、いまは侯爵家の甥のものになっている。
最初の一刻で、大きく溶かした。
わざとではない。下手だからである。
札を読むということを、この女はほとんどしていない。読んでいるのは人の内側だけで、相手が手を知らずに張っている晩には、内側を読んだところで何も出てこなかった。
◇
一刻が過ぎるころ、卓の空気が変わった。
誰も止めない。止めないのは、公爵令嬢が溶かしていくのを見るのが面白いからである。四十人のうち、少なくとも三十人はそれを見に来ていた。
「お嬢様。今夜は、ついておられませんな」
ジュリアンが言った。
「ええ。ずっとついておりませんわ」
「お引きになりますか」
「いいえ」
◇
「失礼ながら、お嬢様は札をご覧になっておられません」
「見ておりますわ」
「手前には、そう見えませんもので」
「では、何を見ていると思われまして」
ジュリアンは、笑って答えなかった。
答えられなかったのであろう。この男は、見られていることに薄々気づいている。気づいてはいるが、何を見られているかまでは分からない。分からぬものは、警戒のしようがなかった。
◇
侯爵家の甥が、横から口を出した。
「お嬢様。そろそろお引きになったほうが」
「ご親切に」
「いや、親切ではありません。見ているこちらが冷や汗をかくのでね」
「まあ。わたくしの金でございますのに」
◇
二刻目の半ば、ポールが動いた。
灰の器を持って、卓の後ろを回る。歩き方は、いつもと変わらない。胴元の椅子の後ろを、右から左へ通った。
ジュリアンの内側が、静かになった。
平らで、待っているだけの色である。この男はいま、次の配りで自分が勝つことを知っている。
◇
ヴィオレッタは、扇を閉じた。
◇
「ヴェルニュ様」
「はい」
「席を、替えていただけますかしら」
◇
卓の音が、落ちた。
「……席、でございますか」
「ええ。こちらの椅子は、五晩ぶん負けておりますの。験が悪うございますわ」
誰かが笑った。
令嬢が験をかつぐのは、賭場ではありふれた話である。笑った者は、笑ってよいところで笑ったつもりでいた。
◇
「どちらへ、お移りになります」
「そちらですわ」
「……左は、お勧めいたしません」
「なぜ」
「配りが、いちばん最後に回ります。手が悪うございますので」
「まあ。それでしたら、なおのこと験直しになりますわ」
◇
ヴィオレッタが指したのは、胴元の左隣である。
ジュリアンの内側が、はじめて音を立てた。
「……そちらは」
「空いておりますでしょう」
「空いてはおりますが、配りの都合が」
「都合」
部屋が、静かになった。
◇
賭場で、席を替えるのに都合が要るという話は聞いたことがない。聞いたことがないから、四十人のうち何人かが、そこで顔を上げた。
「わたくしが移りますと、何かご不都合がございますの」
「……いえ」
「では、移りますわ」
◇
椅子が引かれ、卓が組み直された。
組み直したところで、卓の上のものは何も変わらない。変わったのは、ヴィオレッタが座っている場所だけである。
ジュリアンは、配った。
配らないわけにいかない。ここで配るのをやめれば、席を替えたせいでやめたことになる。四十人が見ている前で、それはできなかった。
◇
三枚が、六人に配られた。
ヴィオレッタは、自分の手を見ない。
見る必要がなかった。見るべきものは、卓の向こうにある。ジュリアンの内側から、さっきまでの平らな色が消えていた。
消えたということは、勝ちが自分のところに来ていないということである。
◇
誰のところへ行ったかは、席の位置で決まっていた。
「張りますわ」
ヴィオレッタは、額を言った。
五晩ぶん溶かした額と、今夜の一刻ぶんを足して、なお少し上回る額である。卓の五人が、順に降りた。三人目が降りたところで、部屋の後ろが立ちはじめた。
◇
残ったのは、胴元だけである。
「……お嬢様。お戯れが過ぎます」
「戯れておりませんわ」
「そのお額は、この卓では」
「そちらがお決めになった額の決まりは、ございませんでしょう」
「……ございません」
「では、お受けになって」
◇
ジュリアンは、伏せ札に手を伸ばしかけ、途中で止めた。
止めた手を、四十人が見ている。賭場の主人が、自分の配った札に触るのをためらう。それだけで、この部屋の半分は何かがあったと分かった。
◇
「そちらの手は、よくできておりますわ」
◇
ヴィオレッタは、伏せた札に指を置いた。
◇
「いただきます」
◇
ジュリアンは、動かなかった。
受ければ、負ける。この男は、その手がどれだけ強いかを知っている。作ったのは自分である。作ったものが誰のところへ行ったかも、いまは分かっている。
降りれば、済む。
◇
済むのだが、降りられない。
四十人が見ていた。胴元が、自分で配った卓から、客一人を相手に降りる。そういう場面を一度でも見せた賭場に、次の月から客は来ない。
ジュリアンの内側が、そこで濁った。
◇
五晩のあいだ、この男の色は一度も濁らなかった。いかさまを悪いと思っていないからである。悪いと思っていないものは、伏せようがない。
いま濁ったのは、逃げ道を探して、一つもないと分かったからであった。
◇
「……お受けいたします」
札が開かれた。
ヴィオレッタは、自分の伏せ札を最後に見た。
なるほど、よくできている。これを自分の手元へ持ってくるつもりだったのなら、五晩ぶん勝ち続けていたのも当然であった。
◇
「……ご覧になっておられましたか」
「何をでございましょう」
「……いえ」
「わたくしは、席を替えていただいただけでございますわ」
ジュリアンは、それ以上何も言わない。
言えば、言ったぶんだけ、この部屋の四十人に材料を渡すことになる。この男は最後まで頭が悪くなかった。悪くないだけに、黙るしかないことも分かっていた。
◇
卓の金が、こちらへ寄せられた。
五晩ぶんと、今夜ぶん。足して、少し多い。多いといっても、この二月で溶かした総額を考えれば、取り返しただけである。
儲けは出ていない。
部屋の後ろで、誰かが小さく言った。
◇
「……席を替えただけだぞ」
「替えただけで、勝てるものか」
「替えさせたくなさそうだった」
声は三つで終わり、あとは続かない。
続かないのは、続ければ自分がこの二年で何をしていたかに行き着くからである。行き着きたくない者は、途中で口を閉じる。
◇
ヴィオレッタは、立ち上がった。
「ありがとう存じましたわ」
「……お嬢様」
「よい卓でございました。ずいぶん、よくできておりましたもの」
それだけである。
いかさまとは、一言も言っていない。
◇
言う必要がなかった。席を替えてくれと頼んだ客がいて、胴元が渋って、渋ったのに配って、配った札で客が勝った。それだけを、四十人が最初から最後まで見ている。
見た者は、帰ってから考える。
◇
考えれば、なぜ席を替えるのに都合が要ったのかに行き当たる。行き当たれば、自分がこの二年で溶かした金のことを思い出す。思い出した金は、戻らない。
衛兵は呼ばなかった。
呼んだところで、どうにもならない。手口は、いまだに分からずじまいである。ポールが何を運んでいたのかも、椅子に何があったのかも、ヴィオレッタは最後まで見ていない。
◇
見ていないものは、申し上げられなかった。
◇
東の館は、次の季節を待たずに閉じた。
客が来なくなったからである。誰も告発していない。告発がないまま潰れる賭場というのは、王都でも珍しい。珍しいから、なおのこと長く噂になった。
ジュリアンは、王都に残っている。
◇
次男であるから、帰る家がない。賭場を畳んだあとは、伯爵家の端に置かれているという。置かれているだけで、何もしていないらしい。
ヴィオレッタは、追い討ちをかけなかった。
かける必要がない。何もできぬ場所に生きている者に、これ以上できることはなかった。手を出せば、こちらが下品になる。
◇
給仕のポールは、その前に消えている。
最後の晩、席が替わったあたりでいなくなり、それきり誰も見ていない。この男が何をしていたのかを、いまも知る者はいなかった。
ドラン男爵家は、戻らなかった。
◇
当主は領地で死に、息子は王都を出たきりである。二年かけて使えるようにした家が、賭場の卓ひとつで片づいた。片づいたものは、元に戻らない。
その一点だけが、今度の損であった。
春の終わりに、マリアンヌが茶を運んできた。
◇
「お給金は、引かれますので」
「引きませんわ」
「終いになりましたので」
「ええ。一晩で終いにいたしましたでしょう」
侍女は、湯を注ぎ終えて姿勢を戻した。
「お嬢様。一つ、伺ってもよろしゅうございますか」
「どうぞ」
「五晩も、お負けになる必要がございましたか」
◇
「ございましたわ」
◇
「勝っておりましたら、あの男は席を替えさせてくれませんもの」
マリアンヌは、それ以上訊かなかった。
訊いても答えが返らぬ場面を、この二年でずいぶん覚えてきている。
ヴィオレッタは、茶碗を持ち上げる。
◇
口をつける前に、一度だけ窓のほうを見た。
◇
手口は、いまも分からない。
分からないままで、片はついた。
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