第39話 わたくし、下手でございますの
ドラン男爵家が潰れたと聞いたのは、二月の半ばである。
ベルナールが朝のうちに書斎へ来て、短く伝えた。館は明日にも人手に渡り、当主は領地へ引き、息子は王都を出るという。傾きはじめてから、二月と経っていない。早すぎる。
◇
ヴィオレッタは、羽根ペンを置いた。
あの家は、二年ばかり生かしてある。
潰すのは簡単であった。二年前に手は届いていたし、届いたところで惜しむ者もいない。残したのは、残しておくほうが使えたからである。
◇
噂を運ばせるのに、ちょうどよい家であった。
当主は口が軽く、息子は欲が深い。こちらが一つ言えば、三日で王都の端まで届く。汚れ仕事を回す先としても重宝した。公爵家の名を出さずに済む手が一つあるかないかで、できることはずいぶん変わる。
◇
飼っていた、と言ってしまえばそれまでである。
「潰れ方が、妙でございます」
「妙、とは」
「借りは去年の秋から重うございました。それでも回っておったのです。回らなくなったのは、先月でございます」
◇
「何がございましたの」
「ご子息が、東の館に通っておいででした」
「東の館」
「賭場でございます。半年で、領地の三年ぶんを溶かしておられます」
半年で三年ぶんというのは、溶かし方として速い。
◇
賭けというのは、勝ったり負けたりするものである。勝ったり負けたりしていれば、三年ぶんが半年で消えることはない。負け続けたということで、負け続けるというのは、それはそれで不自然であった。
◇
――下手なだけかしら。
◇
下手な者は、途中でやめる。やめられなくなるのは、たまに勝つからである。
東の館は、ヴェルニュ伯爵家の次男が持っていた。
ジュリアンという名の、二十五になる男である。次男であるから家は継がない。継がぬ者が身過ぎのために始めた遊び場が、この二年で王都いちばんの賭場になっている。
◇
賭けの種は、三枚という札であった。
各人に三枚配り、二枚を表に伏せ札を一枚残す。伏せ札を含めた組み合わせで競い、途中で降りることもできる。それだけの遊びである。覚えるのに四半刻もかからない。
◇
覚えやすい遊びほど、身上をつぶす。
東の館へ行ったのは、その週の終わりである。
賭場といっても、薄暗い部屋ではない。灯は明るく、酒はよく、給仕は若い。玄関に案内が立ち、外套を預かり、名を聞いて奥へ通す。段取りは、そのあたりの夜会より整っていた。
◇
客の半分は、見知った顔である。
伯爵家の三男。侯爵家の甥。名の通った家の若い当主。家を継がぬ者か、継いだばかりで金の重さを知らぬ者ばかりであった。
ヴィオレッタが入ると、部屋の音が半分になった。
◇
半分になって、また戻る。戻り方が速い。この手の場所は、驚くのが下手な者から先に酔っている。
「これは、驚きました」
声のほうへ顔を向けると、若い男が立っていた。
背が高く、身なりがよく、笑い方に隙がない。二十五という年に見合わぬ落ち着きがある。落ち着いている者は、たいてい同じ場面を何度も踏んでいた。
◇
「ジュリアン・ド・ヴェルニュと申します」
「存じておりますわ」
「お嬢様のようなお方が、こちらへおいでとは」
「客ではいけませんの」
「とんでもございません」
言いながら、この男の内側は少しも慌てていない。
◇
公爵令嬢が賭場に来る。ふつうなら、断るか、丁重に帰らせる。この男は迎え入れた。迎え入れるほうが得だと、卓ふたつぶんのあいだに数え終えている。
「卓に、お着きになりますか」
「ええ。三枚と伺いましたわ」
「お教えいたしましょうか」
「けっこうですわ。四半刻で覚えられるのでございましょう」
◇
卓には六人が着いていた。
「これはこれは。アルヴェールのお嬢様と同じ卓とは」
「ごきげんよう」
「お手柔らかに願いますよ」
「お手柔らかにいたしますわ。負けて差し上げるという意味ではございませんけれど」
◇
笑いが起きる。
この手の場所で笑いが起きるのは、場が安いからである。安い場でしか、公爵令嬢の言葉は冗談にならない。
「お嬢様。伏せ札は、最後までお開けにならなくて結構でございます」
「降りてもよろしいのね」
「いつでも。降りるのも、この遊びのうちでございますから」
「まあ。ずいぶん優しい賭けですこと」
◇
優しい賭けほど、長く続く。
長く続けば、卓に残る金は増える。
その晩、ヴィオレッタは負けた。
覚えるのに四半刻はかからなかった。かからなかったが、それと勝つのとは別の話である。二刻で、公爵家の一季ぶんの雑費にあたる額が卓の向こうへ行った。
◇
ベルナールは馬車で三度、同じことを言った。
「お嬢様。おやめくださいませ」
「まだ二度目もございませんわ」
「二度目があるのでございますか」
「ございますわね」
負けたから行くのではない。
あの卓で、一度だけ妙なものを見た。それを確かめるまでは、やめようがなかった。
◇
ヴィオレッタの目は、人の内側を色と声で拾う。
拾えるのは、そこまでである。手先の動きは見えない。袖の中も、卓の下も、札の裏も見えない。人がいま何を隠しているかは分かるけれど、どう隠しているかは分からなかった。
◇
だから、いかさまの手口は視えない。
視えるのは、たった一点だけである。
◇
――この男、いま自分の勝ちを知っておりますわね。
◇
札が配られる前に、ジュリアンの内側が動いた回があった。
配る前である。
まだ誰の手も決まっていない。決まっていないのに、この男は自分が勝つことを知っていた。知っている者の色は、静かで、平らで、待っているだけになる。賭けている者の色ではない。
◇
二度目に行ったのは、三日後であった。
「またおいでとは」
「悔しゅうございましたの」
「さようでございましょうとも。皆さま、そう仰せになります」
「皆さま、そのあとどうなさいますの」
「……三度目にお越しになります」
◇
正直な男である。
嘘をつく必要のないところでは、この男は嘘をつかない。つかずに済ませられる場所を、よく分かっていた。
その晩も負けた。負けながら、ヴィオレッタは札を見ていない。
見ていたのは、胴元の内側だけである。二十回ばかり卓を回して、配る前に色の動いた回を数えた。三回あった。三回のうち二回で、ジュリアンは大きく取っている。
◇
三度目は、翌週。
この晩は二十五回で、四回。
四回とも、ジュリアンが取った。
やっている、というところまでは、これで済んだ。
済んだところで、何にもならない。
「この方はいかさまをしておいでですわ」と言ったところで、負けた客の言いがかりである。ヴィオレッタの目は、この十七年、ただの一度も証になったことがない。八つの年に銀器の盗人を言い当てて、代わりに別の下働きが追い出されて以来、彼女はそれを数えるのをやめている。
◇
証が立たないなら、手口のほうを人に見つけさせるしかない。
ところが、手口が視えない。
残っているのは、時刻だけであった。
いつ色が動くか。何の直後に動くか。手口が視えなくとも、手口が動き出す合図なら拾える。拾えるものだけを拾うのが、この目の使い方であった。
◇
四度目の晩から、ヴィオレッタは卓のまわりを見はじめた。
札を見ない。客も見ない。給仕と、椅子と、酒器の動きだけを追った。
三晩かかった。
数えるのは、ベルナールに手伝わせた。
「お嬢様。何を数えておるのでございますか」
「給仕の足でございます」
「……足」
「どの者が、いつ、どこを通ったか。それだけ書き留めてくださいまし」
◇
「札のほうは、よろしいので」
「札は見ても分かりませんもの」
「……はあ」
「わたくし、下手でございますから」
執事は、言われたとおりに書いた。
二十年この家の帳を書いてきた男である。意味の分からぬものを正確に書き留める腕にかけては、王都でも指の折れるほうであった。
◇
給仕は六人いる。うち一人だけ、卓の後ろを通る回数が多い。
ポールという若い男であった。
背が低く、手が大きく、足音を立てずに歩く。酒を運び、灰を取り替え、空いた椅子を直す。仕事は丁寧で、丁寧すぎるということもない。
◇
この男が胴元の後ろを通った回の、次の配りである。
通らなかった回には、色は動かない。
通った回には、必ず動く。
ヴィオレッタは、五晩ぶん数えた。
◇
外れは一度もない。
◇
「ベルナール」
「はい」
「あの給仕が通った回と、胴元が取った回を、並べてくださいまし」
「……並べましてございます」
「合っておりますわね」
「合っております。気味が悪いほど」
「これで、何が申せますか」
「何も申せませんわ」
「は」
「給仕が歩いた。胴元が勝った。それだけでございます。どちらも罪ではございません」
◇
執事は、書き留めた紙を見下ろして黙った。
二十年ぶんの几帳面さで並べた表が、何の役にも立たない。役に立たないものを作らせたのは、こちらである。
手口は、やはり視えない。札を渡しているのか、合図だけなのか、椅子に何か仕込むのか。そこは分からずじまいである。分からなくてよかった。
◇
分かっているのは、合図のほうであった。
その五晩のあいだに、王都でも一つ潰している。
北の菓子屋が、春の宴の納めを取りかけていた。賭場とは何の関わりもない店である。ヴィオレッタが別の店の名を一度出し、それで話が消えた。
◇
理由は、去年の暮れに、あの店の主人が扉を押さえながら目を伏せたからである。
伏せる者が嫌いなだけであった。
ベルナールは、三度目のあたりから何も言わなくなった。
言わなくなったのは、諦めたからではない。帳を見て、この主人が溶かしている額を数えて、口で止まる段階を過ぎたと判じたのであろう。二十年この家の財布を握ってきた男である。
◇
止めに来たのは、マリアンヌであった。
「お嬢様。もう、およしくださいませ」
「まだ終わっておりませんの」
「お負けが続いております」
「ええ。負けておりますわ」
「勝てぬものに張り続けるのは、ドランのご子息と同じでございます」
◇
ヴィオレッタは、茶碗を持ち上げて、飲まずに置いた。
正しい。
半年で三年ぶんを溶かした男と、五晩で似た溶かし方をしている女と、外から見れば区別がつかない。区別をつけるのは、こちらの頭の中にしかないものであった。
◇
「あなた、わたくしが下手だとお思いですのね」
「……お上手ではございません」
「そうですわね」
「お嬢様」
「あと一晩でございます。それで終いにいたしますわ」
マリアンヌは下がらない。
下がらずに、湯の温度を確かめる手つきで言う。
◇
「終いにならなかったら」
「そのときは、あなたのお給金から引きますわ」
「……なぜ、わたくしから」
「止められなかった者の責でございましょう」
言ってから、少しやりすぎたと思った。
思ったが、取り消さない。取り消せば、言ったことが嘘になる。
◇
六晩目に行くと決めたのは、前の晩である。
◇
「明日でございますか」
「明日ですわ」
「何をなさいます」
「席を替えていただきますの」
◇
「……それだけで」
「それだけですわ」
「お嬢様。手口は、まだお分かりでないのでございましょう」
「分かりませんわね」
◇
「分からぬまま、勝てますので」
「勝てますわ。手口を分かる必要がございませんもの」
◇
ベルナールは、そこで口をつぐんだ。
◇
つぐんでから、翌朝、帳から金を出した。渋りもせずに出したのは、二十年でこれが二度目である。
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