第38話 お母様は、よくなりますわ
母が寝込んだのは、六つの年の春である。
朝の食堂に降りてこなかった。降りてこない日が三日続き、四日目に医者が呼ばれた。屋敷の者は、はじめのうち風邪だと言っていた。言い方が軽いので、ヴィオレッタは信じなかった。
◇
軽く言う者は、たいてい何かを重いと思っている。
医者の名は、パスカルといった。
王都で三本の指に入る医者だという。細い手をして、爪が丁寧に整っていて、声はよく通った。父はこの医者を厚く遇していた。遇されている医者は、遇されているように振る舞う。
◇
ヴィオレッタは、母の寝室の前で待たされた。
子供は入れない決まりである。決まりを作ったのは父で、理由は病がうつるからであった。理由のほうは、たぶん本当である。
扉が開いて、医者が出てきた。
◇
「お嬢様。お母様はご心配ありませんよ」
「本当ですの」
「じきに、よくおなりになります。夏には、お庭を歩いておいででしょう」
「お薬は、効いておりますの」
「よく効いております。お高うございますが、そのぶんのものでしてね」
「いつまで、飲みますの」
「……お元気におなりになるまで、でございますよ」
◇
ヴィオレッタは、その男の内側を見た。
◇
――もって、夏までだな。
◇
六つの子供に、医者は何も説明しない。
説明しないのは優しさだと、この男は思っている。思っているぶんだけ、内側は正直であった。人は、伝えないと決めた相手の前でこそ、よく喋る。
ヴィオレッタは、礼を言って下がった。
◇
言うべきことが何もなかったからである。この男が嘘をついていると訴えたところで、誰も取り合わない。取り合わないことは、六つになる前から知っていた。
父は、廊下の端で医者と話していた。
◇
「長くはないか」
「……夏を越えられますかどうか」
「そうか」
「薬は続けさせます。いくらか、楽にはなられますので」
「娘には」
「申し上げておりません。お小さい方に、申し上げることでもございますまい」
「そうだな。言うな」
◇
父の声は低く、短く、沈んでいた。
外から見れば、悲しんでいる男である。
内側は、半分がそれであった。
残りの半分は、勘定であった。喪が明けるまでの年数。領地の後見の手続き。再婚の年回り。北の伯爵家に娘がいたはずだという、その娘の年齢まで、この男はもう数えている。
◇
悲しみと勘定は、喧嘩をしない。
人の中では、両方が同じ部屋に住んでいる。ヴィオレッタは六つでそれを知り、驚かなかった。驚くにはもう遅かった。
乳母のジャンヌは、母の枕元に詰めていた。
◇
この女は、よく泣いた。泣きながら湯を替え、泣きながら薬を飲ませ、泣きながら布を絞る。泣き方に嘘はない。
◇
――おかわいそうに。
◇
――奥様が亡くなられたら、わたしはどうなるのかしら。
◇
それも嘘ではない。
どちらも本当であるというだけの話である。
◇
「ジャンヌ。お母様は、よくなりますの」
「なりますとも」
「本当に」
「お嬢様。そのようなことを、お口になさいますな」
◇
答えていない。
答えずに叱る者は、答えを持っている。持っていて渡さないと決めた者の言い方であった。
母の寝室に入れてもらえたのは、五月に入ってからであった。
部屋は暗かった。窓は閉め切られ、香が焚かれ、寝台の天蓋が半分下ろしてある。母は痩せていた。手の甲に骨の形が出ていて、指に環がなかった。
◇
「ヴィオレッタ」
「お母様」
「近くへいらっしゃい。……いいえ、そこでよろしいわ」
呼んで、止めた。
母は、娘を近くに寄せたくない。病をうつしたくないからだと、この人は自分に言い聞かせている。言い聞かせている部分の下に、別の色がある。
◇
――この子は、何を見ているのかしら。
◇
昔からであった。
物心ついたころから、母はこの娘を少しだけ怖がっている。抱くときの腕の力が、弟妹のいない家の一人娘に向けるものとしては、いつも足りない。慈しみはある。慈しみの下に、薄い嫌悪が沈んでいる。
◇
ヴィオレッタは、それを責めたことがない。
責める筋合いがなかった。この母は、見られていることに気づいている。気づいていて、それでも娘を抱く。抱ける人間のほうが、たぶん珍しい。
夜は、色が変わった。
◇
昼のあいだ、母は静かである。静かな顔をして、見舞いに来た者と短く言葉を交わし、礼を言い、眠る。
夜になると、内側が震えはじめる。
◇
――こわい。
◇
――死にたくない。
◇
――どうして、わたくしなの。
◇
言葉になっていないことも多かった。
なっていないぶん、生々しい。灰色がかった色が、寝台の上でずっと揺れている。揺れているものを、ヴィオレッタは扉の隙間から毎晩見ていた。
見ていて、何もしなかった。
できることが一つもなかったからである。
◇
屋敷では、ヴィオレッタは嘘をつかない子として通っていた。
通っていたというより、そうでしかありようがなかった。人の内側が見える子供にとって、嘘というのは、意味の分からない行いである。皆が嘘をついていて、皆がそれを隠しているつもりでいる。隠せていないところに混ざろうと思わない。
◇
花瓶を割れば、割ったと言う。
庭の果実を取れば、取ったと言う。叱られる。叱られても言う。叱る側の内側が「この子は正直だ」と思うのが見えて、それが少し面白かった。
「お嬢様はお嘘をおつきになりません」
「まあ、それは結構でございますこと」
「花瓶をお割りになっても、ご自分から仰せになります。あのお年で、なかなかできることではございませんよ」
◇
乳母が、来客のたびにそう言った。
自慢していたのである。自慢されるのは悪い気がしなかった。悪い気がしなかったという、それだけのことが、あとで効いた。
五月の終わりの夜であった。
その日は医者が二度来て、二度とも同じことを言って帰った。夏にはお庭を、という言い方を、この男は三月のあいだ一度も変えていない。
◇
夜、母が娘を呼んだ。
乳母は湯を取りに下がっていた。父は王都の屋敷にいて、戻っていない。部屋には、母と娘だけであった。
「ヴィオレッタ」
「はい、お母様」
「……こちらへ」
今度は、止めなかった。
◇
枕元まで行き、寝台の縁に手を置く。母の手が、その手に触れた。指は冷たく、軽く、骨の形がはっきり分かる。
「痩せましたでしょう」
「……はい」
「正直な子ね」
「嘘は、申し上げません」
「知っておりますよ。この家で、いちばんよく知っております」
◇
「お医者様は、なんと仰せなの」
「夏には、お庭を歩いておいででしょう、と」
「お父様は」
「同じことを仰せでした」
「ジャンヌは」
「……同じでございます」
母が、少し笑う。
笑ってから、天蓋のほうへ目を移した。
◇
「皆、同じことを言うのね」
同じことを言われ続けた者は、それを信じない。
この母には、人の内側が見えない。見えないけれど、三月ぶんの同じ言葉を数えることはできる。数えられる人間は、どこかで気づく。
◇
「ヴィオレッタ」
「はい」
「お前は、嘘をつかない子でしょう」
部屋が、静かになった。
香が一筋、天蓋の下で折れている。窓の外で、誰かが灯を持って通った。
「お母様は、よくなるかしら」
「……」
「ヴィオレッタ」
「はい」
「お前の口から、聞きたいのですよ」
◇
「お医者様のお口からでも、お父様のお口からでもなくてね。お前の口から」
「……なぜ、わたくしの口から」
「お前だけが、わたくしに嘘を申しませんもの」
ヴィオレッタは、答えを持っていた。
◇
持っていたのは、三月前から持っていた。医者の内側で見たものである。夏まで。あの言葉は、この屋敷の誰よりも正確であった。正確なものを、この子は一つだけ知っていた。
母の内側を、見た。
◇
震えていた。
昼のあいだ押し込めていたものが、いま全部出ている。灰色が寝台の上でうねって、部屋の隅まで届いていた。怖い。怖い。怖い。それだけが、言葉にもならずに回り続けている。
ヴィオレッタは、その色を見ていられなかった。
◇
母のためではない。
見ているのが嫌だったのである。六つの子供が、毎晩、扉の隙間から人の恐怖を覗き続けている。覗いていれば慣れると思っていたが、慣れるものではない。
◇
「よくなりますわ」
◇
言った。
◇
「お母様は、よくなります」
◇
母が、娘のほうを見る。
見て、それから、目を閉じた。
◇
灰色が、引いていった。
◇
波が退くようにではない。もっと速い。栓を抜いた水のように、部屋の隅から順に、きれいに消えた。消えたあとには何も残らなかった。安堵ですらない。ただの、静かな水色になった。
◇
――ああ。
◇
――この子は、嘘をつかないもの。
◇
「よかった」
母が言った。
「よかったこと。……お前が言うのなら、本当ね」
「はい」
「皆、噓が上手でしょう。お父様も、ジャンヌも」
「……はい」
「お前だけは、下手でいてちょうだい」
ヴィオレッタは、母の手の下から自分の手を抜かずにいる。
抜けば、気づかれるような気がした。
◇
翌日から、母は変わった。
まず、司祭を帰す。
週に一度、王都から来ていた司祭である。
◇
「奥方様。そろそろ、御支度のお話を」
「まだ、よろしゅうございますわ」
「さようなことを仰せられずに」
「よくなりますの。娘が申しましたもの」
◇
司祭は困った顔で帰り、二度と来なかった。
呼ばれなかったからである。
◇
次に、手紙を書くのをやめた。
南の領地に、母の姉がいる。母は三月のあいだ、その姉に出す手紙を書きかけていた。書きかけたまま、机に伏せてあった。
「よくなってから、ゆっくり書きますわ」
母はそう言って、便箋を引き出しにしまった。
◇
見舞いも、断りはじめた。
「奥様、デュボワの奥方様がお見えでございます」
「お帰しなさい。この顔では失礼でしょう」
「ですが、遠くからわざわざ」
「よくなってから、こちらから伺いますわ」
◇
やつれた顔を見せたくない、というのが表向きの理由である。
内側は少し違う。よくなってから、きちんとした顔で会いたい。この母は、そう思っていた。
父とも、話さなくなった。
◇
話すことがなくなったのではない。あとに回したのである。領地のこと、家のこと、娘のこと。夫婦のあいだには、死ぬ前に言っておかねばならないことが、たぶん十ほどあった。十とも、夏に回された。
◇
そして、約束が増えた。
「よくなったら、南の別邸へ行きましょう」
「よくなったら、あなたのドレスを仕立てましょうね」
「よくなったら、お父様と三人で」
「ドレスは、若草の色になさいね。お前には、あれがいちばんよろしいわ」
「……はい」
「仕立屋は、秋に呼びましょう。いまは、まだよろしいの」
◇
「ヴィオレッタ。南の別邸は、覚えていて」
「覚えております」
「秋には行けましてよ。お前の背も、それまでに伸びますでしょう」
「……はい」
◇
ヴィオレッタは、そのたびに頷いた。
頷くよりほかにない。首を横に振れば、前の晩の言葉が嘘になる。嘘をついた者は、嘘をつき続けねばならなくなる。六つの子供が、それを一月で覚えた。
母が死んだのは、六月の十日である。
◇
朝のうちは、いつもと変わらない。乳母が湯を替え、薬を飲ませ、窓を少しだけ開ける。母は開いた窓を見て、外の木が茂ったと言った。
それが最後の言葉である。
◇
昼過ぎに、急に息が浅くなる。
医者は間に合わない。父は王都から馬を飛ばし、日が暮れてから着いた。着いたときには、もう終わっている。
ヴィオレッタは、扉の外にいた。
中の色が、ひとつずつ消えていく。最後まで残っていたのは灰色ではない。あの静かな水色のままであった。
◇
それから三日、屋敷は困り続ける。
まず、司祭が渋った。
終油を授けていないからである。呼ばれていないのだから授けようがない。教会の言い分としては正しい。父が寄進を積んで話をつけたが、つけるのに二日かかった。
◇
南の姉は、葬儀に間に合わなかった。
手紙が出ていなかったからである。病のことも、死期のことも、姉は何も知らされていない。訃報だけが先に届いた。着いたときには、土がもう乾きかけていた。
◇
「なぜ、お知らせくださいませんでしたの」
「……妻が、書くと申しておりました」
「書くと申して、書かずに逝く方ではございません」
父は、何も言い返さない。
言い返す材料を、この男は一つも持っていなかった。姉は三日いて、ヴィオレッタには一度も話しかけずに帰った。
◇
言い残しは、なかった。
領地のことも、家のことも、娘のことも。母は何一つ言い残さずに死んだ。夏に回した十のうち、一つも果たされないまま、夏が来た。
葬儀の日、父が一度だけ娘に話しかけた。
◇
「母は、何か申していたか」
「何も伺っておりません」
「そうか」
「お父様に、お話しになりたいことがおありのようでした」
「……いつだ」
「春でございます。夏に回されました」
父は、それきり何も訊かなかった。
訊けば、回した理由に行き当たる。この男は勘定の早い男である。早い男は、行き当たりたくない場所の手前で止まれた。
◇
指輪は、洗面台の縁にあった。
細い金の環に、小さな石が一つ。父が贈ったものである。母は手を洗うときに外して、そこへ置いた。置いたまま、二度とはめなかった。
渡された形見ではない。
置き忘れである。
◇
葬儀の翌週、乳母のジャンヌが、ヴィオレッタの髪を梳きながら言った。
「お嬢様がお励ましになったから」
「……なにが」
「奥様は、最後までお気を強くお持ちでございました。怖がりもなさらず、静かにおいででしたよ」
「そう」
「わたくしどもが何を申し上げても、奥様はお笑いになるばかりで。お嬢様のお言葉だけは、信じておいででした」
「……そう」
「お嬢様のおかげでございます。奥様は、お幸せにお逝きになりました」
◇
「ジャンヌ」
「はい」
「お母様は、南の伯母様にお手紙を書いておいででしたわね」
「……ええ。そういえば、お出しにならぬままで」
「そう」
鏡の中で、この女の内側が見えた。
嘘ではなかった。心から、そう思っている。慰めているのではない。褒めているのである。
◇
ヴィオレッタは、何も言わなかった。
言えば、この女は困る。困らせたところで、母は戻らない。戻らないものに口をきくのは、六つの子供にも無駄だと分かった。
その夜、寝台の中で数えた。
三月のあいだ、この屋敷で真実を口にした者はいない。医者も、父も、乳母も、全員が同じ嘘を言い続けている。母は、その誰も信じていない。
◇
自分は、一度だけ嘘をついている。
◇
一度で足りた。
◇
母はその晩のうちに、死ぬ支度をやめている。司祭を帰し、手紙をしまい、見舞いを断り、言い残すはずだったものを全部夏へ回した。
誰にもできなかったことが、一言でできてしまう。
◇
嘘は、真実よりよほど強い。
◇
六つの子供が、その晩に覚えたのはそれであった。優しい嘘だったとか、仕方のない嘘だったとか、そういう話ではない。強すぎる、という一点である。
強すぎる道具は、持って歩くものではない。
◇
落とせば、自分の足に刺さる。刺されば、母のように、支度をしないまま死ぬことになる。誰かがそうなるたびに、その誰かは、自分は幸福だったと思ったまま死ぬのであろう。
ヴィオレッタは、そこで決めた。
◇
三度である。
◇
一度は、もう使った。残りは二度。生涯で二度きり、それより先はどんな場合でもつかない。三度と決めたのは、零ではどこかで折れると踏んだからであった。
以後、彼女は嘘をつかなくなった。
◇
正直だからではない。人にそう言われるようになったが、訂正はしなかった。訂正するには、母の話をしなければならない。
医者のパスカルは、そのあと二年ほど公爵家に出入りした。
母に処方していた薬は、王都でいちばん高いものであった。効くかどうかは、この男も分かっていなかった。分かっていないものを、分かっている顔で売り続けた。それが商売だからである。
◇
八つの年に、ヴィオレッタはその薬の値を調べさせた。
「お嬢様。なにゆえ、いまさら」
「高こうございましたの」
「……ずいぶんと」
「効きましたかしら」
「……」
調べさせただけで、何も言っていない。
言っても取り合われないことを、そのころにはもう学んでいた。
◇
パスカルが王都を出たのは、それから数年後である。
理由は、誰も憶えていない。
指輪は、しまってあった。
六つの指には大きすぎる。七つでも、十でも、まだ回る。指の太さが追いつくのに、ずいぶんかかった。
◇
十五の年に、環は薬指に止まった。
止まった日から、外していない。
◇
嘘は、あと二度だけ残してある。




