第35話 わたくしより、わたくしらしいのでしょう
女は、コレットという名であった。
旅の一座の者である。父は知らず、母は踊りで食っていて、十を過ぎたころに死んだ。以後は一座で育ち、人の真似をする役をずっとやってきた。町の名士でも、隣村の嫁でも、頼まれれば誰にでもなる。そういう出し物で銭を取る一座であった。
◇
一座の出し物は、決まっていた。
その町でいちばん知られた者に扮して、舞台の上で喋る。町長でも、神父でも、意地の悪い宿の女将でもよい。似ていれば似ているほど客は笑い、投げ銭が増える。似すぎた晩は、翌朝までに町を出る決まりであった。
◇
似せるのは、顔ではない。
声でもない。歩き方と、手の置き方と、人を見るときの目の高さである。それだけ揃えれば、客のほうが勝手に顔まで似ていると思い込む。十年、それで食ってきた。
公爵家の応接の間で、その話を淡々とした。
◇
隠さなかったのは、隠すだけの値打ちがもうないからである。証文十九枚を握られている者に、身の上を伏せる余裕はない。
「二年前でございます」
「なにがですの」
「王都の裁きの日に、お見かけいたしました」
◇
ヴィオレッタは、茶碗を持ち上げて、飲まずに置いた。
二年前のあの日、どこに何人いたかなど、覚えていない。人の顔を覚える習慣がついたのは、そのあとである。
「馬車からお降りになるところを、外の人垣から見ておりました」
「よくご覧になれましたわね」
「はい。……皆が、あなたを見ておりましたので」
◇
コレットは、そこで一度だけ目を上げた。
◇
「わたくしは、誰にも見られたことがございません」
◇
舞台には、十年以上立っている。
立っているが、見られているのは役のほうである。町の名士に扮すれば町の名士が見られ、嫁に扮すれば嫁が見られる。降りてしまえば、誰も憶えていない。
ヴィオレッタは、慰めなかった。
◇
慰める言葉を持っていなかったからではない。持っていても、この女には要らないと判じた。要らぬものを渡すのは、施しである。
「それで、わたくしになってご覧になったと」
「はい」
「いかがでしたの」
「……よく、見られました」
◇
「見られて、いかがでしたの」
「……怖うございました」
ヴィオレッタは、ようやくすこし笑った。
声は立てない。口の端だけが上がって、すぐに戻る。この女は、三月かけて答えに辿りついている。二年かけて同じところに着いた者としては、まあ、早いほうであった。
◇
ベルナールは、最後まで渋った。
「お嬢様。家に入れるのでございますか」
「入れますわ」
「公爵家の名を騙った者でございます」
「ですから、入れますの」
外に置けば、また使う。
名というものは、一度使い方を覚えた者が二度目をやらぬ保証がない。牢に入れても出てくる。国を出しても戻ってくる。いちばん確かなのは、手の届くところに置いて、こちらの都合で使うことであった。
◇
「役目は」
「代わりに出ていただきますわ」
「代わり、と申されますと」
「わたくしが出たくない席に、全部でございます」
執事の眉が上がった。
公爵令嬢には、出なければならない席がずいぶんある。義理の弔問、格だけの茶会、頭を下げに行く祝い、誰も得をしない顔合わせ。出れば一日が潰れ、出なければ角が立つ。そういう席ばかりが、季節ごとに積み上がっていく。
◇
「よろしいのでございますか。ばれますが」
「ばれますわね」
「では」
「ばれてけっこうですわ」
「王都じゅうの笑い者になりますぞ」
「なりますわね」
「お嬢様」
「ベルナール。わたくしが笑い者になったことが、この二年で何度ございましたかしら」
◇
執事は、数えようとして、やめた。
数えるほどある。数えてもきりがない。きりのない数を数えるのは、二十年ぶんの時間の使い方として惜しかった。
ばれて困るのは、騙る側である。
こちらは困らない。うちの者を代わりに立てました、と言えばよろしい。無礼ではあるけれど、無礼なのは今に始まったことではなかった。悪名というのは、こういうときに安く使える。
◇
コレットには、そのまま伝えた。
「わたくしより、わたくしらしいのでしょう」
「……そのようなことは」
「二月の末に、王都の二十人が、そう決めましたわ」
女は黙った。
「ですから、わたくしがやりたくないところを、全部おやりなさい。あなたのほうが上手でございますもの」
◇
王都には、話をこちらから流した。
アルヴェール家が、名を騙った女を家に入れたという話である。流したのはベルナールで、流させたのはヴィオレッタであった。隠せば、いつか誰かが暴く。暴かれるより、先に言っておくほうが安い。
◇
王都は、その話をしばらく楽しんだ。
楽しんで、飽きた。飽きるころには、あの女が公爵令嬢の代わりに弔問へ来ることが、王都の当たり前になっている。当たり前になったものを、人は疑わない。
◇
ひとつだけ、始末をつけた。
◇
二月の末、廊で「証を立てられますの」と言い出した伯爵夫人がいる。あの夫人の家は、秋の狩りに公爵家の森を使っていた。今年から使えない。
◇
言い出したこと自体は、正しい。
正しいから腹が立つ。正しいことを言った者が損をしないのでは、悪名の立てようがなかった。
◇
借りは、消さなかった。
十九枚は、いまも公爵家の手にある。四十分の一で買ったものを、額面のまま返させる。利も取る。働いて返すには、ずいぶんかかるであろう。
「これは、恩ではございませんわ」
「存じております」
「買ったのでございます。買ったものは、働かせますの」
◇
コレットは、頭を下げた。
下げ方が丁寧であった。裾を踏まず、顎を引かずに下げる。誰かに習った下げ方ではない。見て覚えた下げ方である。
マリアンヌは、何も言わなかった。
言わずに、新しい者のぶんの湯を用意し、部屋を割り当て、着るものを出した。二年、この家の侍女をやっていれば、主人が拾ってきたものに口を出さない癖くらいはつく。
◇
ただ、一度だけ訊いた。
◇
「お嬢様。あの者を、お嫌いになりませんの」
「嫌いですわ」
「……は」
「嫌いですけれど、惜しゅうございますもの」
◇
嫌いなものと、惜しいものは、別に喧嘩をしない。
部屋は、三階の東に取らせた。
使用人の並びではない。客のための部屋でもない。どちらでもない場所に置いたのは、どちらでもない者だからである。ベルナールは、そこにも渋い顔をした。
◇
着るものは、こちらの古いものを出させた。
仕立て直しもさせない。丈が合わなければ、自分で詰めればよろしい。十年、舞台の衣装でやってきた者に、それができぬはずがなかった。
春の終わりに、最初の代理が決まった。
◇
北の伯爵家の弔問である。先代の夫人が亡くなり、公爵家からも誰かが行かねばならない。当主とは十年口をきいておらず、ヴィオレッタが行けば、話が長くなるにきまっていた。
コレットが行った。
◇
二刻で戻り、先方の様子を細かに述べる。
誰がどこに立ち、誰が泣き、誰が泣かなかったか。述べ方が正確で、無駄がない。外を見る目という点では、この家の侍女といい勝負であった。
「当主は、なんと仰せでしたの」
「アルヴェールのお嬢様がお見えとは、と」
「ほかには」
「相変わらずのご様子で、と」
◇
「褒めておりませんわね」
「はい。褒めておられません」
「上出来でございますわ」
夏には、茶会にも出させた。
こちらは弔問より難しい。喋る量が多く、返す速さが要る。それでもコレットは二刻を持たせ、誰にも本物かどうかを訊かせなかった。訊かせないのが、いちばん難しい。
◇
「疲れましたでしょう」
「……はい」
「明日もございますわよ」
「上出来でございますわ」
「恐れ入ります」
「一つだけ、およしなさい」
コレットが顔を上げた。
ヴィオレッタは、自分の右手を、甲を上にして卓に置いた。
◇
「これでございます」
女の手が、止まった。
物を選ぶとき、人と話すとき、甲を軽く外へ向ける。三月かけて写し、いまも身体に残っている癖である。本人が気づかぬまま出るのだから、うまく写したものであった。
◇
「お返しいただきますわ」
「……手でございますか」
「ええ。それは、わたくしのものですの」
◇
コレットは、右手を膝の下に入れる。
入れてから、少し笑う。今夜はじめて、役ではない顔で笑っていた。
「よろしゅうございますか、お嬢様」
「なんですの」
「わたくしは、なんとお呼びすれば」
ヴィオレッタは、しばらく考えた。
◇
「ご自分の名でお呼びなさい」
「は」
「あなたは、コレットでございましょう」
◇
女は、返事をしなかった。
返事の代わりに、もう一度頭を下げる。下げたまま、なかなか上げなかった。
その晩、マリアンヌが湯を運んできた。
「お嬢様。あの者の部屋でございますが」
「どうかしまして」
「灯が、遅くまで消えませぬ」
◇
「何をしておりますの」
「字を、書いておられます」
ヴィオレッタは、窓のほうを見た。
書いているのは、たぶん自分の名であろう。十九枚に写した他人の名ではなく、誰にも覚えられたことのない、自分の名のほうである。
◇
「明日、紙をお出しなさい」
「上等のを、でございますか」
「安いので構いませんわ」
マリアンヌが下がる。
扉が閉まる寸前に、ヴィオレッタは付け足した。
◇
「三枚だけ、上等のを混ぜておきなさい」
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