第34話 わたくしの敵も、引き取っていただきますわ
春の夜会の招きは、毎年、雪の残るうちに届く。
王都でいちばん人の入る夜会で、会場は王城の別館である。招かれること自体が家の格を示すので、断る家はない。アルヴェール公爵家にも、例年どおり二通が届いた。公爵宛てと、娘宛てである。
◇
ヴィオレッタは、娘宛てのほうを封のまま置いた。
「ベルナール。これを届けてくださいまし」
「どちらへ」
「劇場でございます。支配人にお渡しになれば、あちらが届けますわ」
執事の手が止まった。
止まったまま、しばらく動かない。二十年、この家の紙を運んできた男である。運んではいけない紙の見分けくらいはつく。
◇
「お嬢様。これは、お嬢様の招きでございます」
「ええ」
「あの女に渡せば、あの女が出ます」
「出ていただかねば困りますの」
ベルナールは、それ以上訊かなかった。
訊かずに、封のまま持って出ていく。この執事の良いところは、腑に落ちなくても手が動くところである。腑に落ちてから動く者は、たいてい間に合わない。
◇
マリアンヌのほうは、腑に落ちない顔をしていた。
「お嬢様。あちらは罠だと思われます」
「思うでしょうね」
「思って、それでもお出になりますか」
「出ますわ」
「なぜ」
「ここで引けば、負けを認めることになりますもの」
◇
二月の末に、あの女は勝っている。
勝った者は、次も勝てると思う。思わなければ、勝った意味がない。罠だと分かっていても、罠を踏んで勝つほうが値打ちがあると考える。そういう質だからこそ、三月で王都を歩けたのであった。
◇
返事は、三日後に劇場を経て届いた。
紙は上等で、字は例の署名と同じ癖をしている。文面は短く、出席すると一行だけ。書いた者は、たぶん何度も書き直した。書き直した跡は、紙の選び方に出る。
「受けましたわね」
「受けましてございます」
「上等の紙を、よくお持ちでしたこと」
◇
その週、ヴィオレッタは家の外でも一つ潰している。
東の菓子屋が、夜会に菓子を納める話を取りかけていた。あの女が三月前に六箱取り寄せた店である。取りかけていた話は、こちらが別の店の名を一度出しただけで消えた。
◇
店に落ち度はない。
偽者と本物を見分けられなかったのは、王都じゅうが同じである。ただ、あの店の主人は、付けを取り立てに来たとき、ずいぶん強い言い方をした。それだけのことであった。
夜会の日は、風がぬるかった。
◇
王城の別館は、灯を惜しまない。階段の下から見上げると、窓という窓が黄色く抜けている。馬車は表につけず、少し手前で降りる決まりで、令嬢たちは裾を持ち上げて石畳を歩いた。
ヴィオレッタは、その列に混ざらなかった。
◇
裏の車寄せから入り、二階の廊へ上がる。ここは楽師の控えと、給仕の通り道である。人は多いが、誰も上を見ない。見上げる習慣のない者ばかりが働いている。
手すりの下に、大広間が全部あった。
名が呼ばれたのは、開いて四半刻ほどのころである。
◇
「アルヴェール公爵家、ヴィオレッタ・ド・アルヴェールお嬢様」
◇
広間の音が、少しだけ落ちた。
落ちてから、また戻る。悪名のある令嬢が入ってきたときの、王都の作法である。見ないふりをしながら、全員が見ていた。
女は、よく歩いた。
濃い栗色の髪を高く結い、借り物ではない衣装を着ている。十九枚ぶんの金が、どこへ行ったのかがよく分かる歩き方であった。裾をさばく手つきも、顎の角度も、覚えてきたものを一つずつ置いていく。
◇
うまい。
◇
二階から見ていても、うまいと思った。あれだけ大勢に見られて、背筋が一度も逃げない。舞台に立ったことのある者の背中である。
最初の四半刻、あの女は幸福であったろう。
誰も咎めない。給仕は酒を運んでくる。楽師は曲を変える。通り過ぎる令嬢が目礼していく。三月かけて集めてきたものが、この一晩で全部手に入った。手に入ったと、たぶん本気で思った。
◇
列ができたのは、そのあとである。
挨拶の列というものは、勝手にできる。
誰かが一人近づけば、次が続く。続けば、それが順番になる。王都の夜会で、公爵令嬢の前に列ができるのは当たり前のことであった。
◇
当たり前でないのは、並んでいる顔ぶれである。
先頭は、ブレー侯爵夫人であった。
この家の娘は、去年の秋から社交に出ていない。出られなくなった理由は、王都の全員が知っている。知っていて、誰も口にしない。
◇
「お久しゅうございます」
「……ごきげんよう」
「娘が、たいそう気にしておりますの。いつまで、と申しまして」
女は答えられなかった。
いつまでも何も、いつからかを知らないからである。知らぬまま何か言えば、ぼろが出る。黙れば、無礼になる。公爵令嬢は、黙ってよい相手と悪い相手を、間違えてはいけない。
◇
次は、ラフォン伯爵夫人である。
「先だっては、織り手の件で」
「……ええ」
「娘の婚礼は、間に合わせで済ませましてございます。お嬢様には、さぞご満足いただけたことでしょう」
笑って言った。
扇の陰から出てくる言葉ではない。正面から、笑顔で置いていく。夜会というのは、そういうことをしてよい場所であった。手を上げれば追い出されるが、言葉なら誰も止めない。
◇
三番目が、ロシュフォール伯爵。
「春の差配の件、うかがいましてございます」
「……は」
「うちが取るはずのものでしたが。何か、行き違いでもございましたか」
女の頬が、こわばりはじめた。
二階から見ていても分かる。返事のたびに間が空いていく。間が空けば、次の者は強く出る。強く出られた者は、もっと間を空ける。坂を転がるというのは、こういう速さのことであった。
◇
四番目は、商会の縁者であった。
レニエの主人の弟だという男である。兄の店が御用達を失った件を、順を追って、丁寧に、恨みがましくもなく述べた。恨みがましくないぶん、逃げ道がない。
「兄は、こう申しております。お嬢様がお見えにならねば、あんなことにはならなかった、と」
「……」
「お嬢様。手袋は、四組でございましたな」
「そう、でしたかしら」
「四組でございます。兄が数えておりますので」
◇
女は、そこで初めて口を開いた。
「……わたくしは、参っておりませんわ」
言ってしまった。
広間の、近いところにいた三人ばかりが、同時にこちらを向く。向いた顔の意味を、女はすぐに悟ったであろう。悟ったから、青くなった。
◇
参っていない、と言えるのは、あの店に行っていない者だけである。
行っていない者が、なぜ付けを払っていないのか。払っていない者が、なぜ御用達を止めたのか。筋を辿れば、一つしか答えが出ない。
◇
五番目は、領地の代官の未亡人であった。
夫は三年前に職を失い、翌年に死んでいる。未亡人は、そのことを一度も責めなかった。責めずに、夫がいかに公爵家を敬っていたかを、丁寧に、長く語った。
責めないほうが、よほど刺さる。
◇
女は、その長い話のあいだ、笑顔を保っていた。保とうとしていた、と言うほうが正しい。口の端は上がったまま、目のほうが先に降りていく。
列は、まだ四人残っていた。
縁談を潰された家の当主。息子が書役の職を失った男。婿を取り損ねた家の後妻。
誰も怒鳴らない。怒鳴る者は一人もいない。皆、丁寧に、笑って、順番を守って並んでいる。夜会で人を刺すのに、声を上げる必要などなかった。
◇
これが、公爵令嬢の前にできる列である。
◇
二年かけて作ってきたものを、ヴィオレッタは上から見ていた。
自分がそこに立っていれば、七人とも黙らせることはできた。黙らせる言い方を、一つずつ持っている。持っていない者があの場に立てば、七度刺されて終わる。
◇
女は、五人目の途中で列を外れた。
外れ方が下手であった。裾を踏み、給仕にぶつかり、酒杯を一つ落とす。落ちた音で、広間の半分が振り返った。振り返った先に、公爵令嬢が逃げていく背中がある。
ヴィオレッタは、階段を下りた。
◇
女は、東の廊にいた。
柱の陰で、壁に手をついている。息が上がっていた。結い上げた髪が一筋落ちて、そこだけが人並みに見える。
「ごきげんよう」
顔を上げた女の目が、こちらを捉えて、それから泳いだ。
◇
「……あなた」
「先ほどの列、いかがでございましたか」
「……」
「七人でございましたわね。まだ二人、残っておりますけれど」
女は答えない。
答えられるはずがなかった。いま起きたことを言葉にすれば、自分が誰でないかを認めることになる。三月かけて積み上げたものを、自分の口で崩すのは難しい。
◇
「わたくしの名は、お安くございませんの」
ヴィオレッタは、廊の窓のほうへ歩いた。
「手袋も、菓子も、桟敷も、お使いになってけっこうですわ。名で通るものは、全部お持ちなさい」
「……」
「そのかわり、名についているものも、全部お持ちいただきます」
◇
恨みである。
二年ぶんの恨みが、あの名にはついている。買った覚えはない。買わずに、勝手についてきた。名を使うというのは、そちらも一緒に引き受けるということであった。
◇
「わたくしの敵も、引き取っていただきますわ」
◇
女の膝が、少し落ちた。
落ちてから、こらえて、立ち直る。この期に及んで立ち直れるのだから、大したものである。ヴィオレッタは、そこは素直に感心した。
「……訴えますの」
「いいえ」
「では、なんですの。笑いに来ましたの」
「取り立てに参りましたわ」
◇
「あなた、いつから見ておりましたの」
「はじめから」
「……助けてくださっても、よろしかったのに」
「なぜ」
「あの方々は、あなたに用がおありでしょう」
◇
「ええ。ですから、お譲りいたしましたの」
◇
女の顔が、変わった。
「十九枚ございますの」
「……なんの」
「証文でございます。東のゴシェから、まとめて買い取りましてございます」
廊が、静かになった。
遠くで楽が鳴っている。広間の音は、ここまでは届かない。届かない場所を選んで待っていたのだから、当然であった。
◇
「借りは消えておりませんわ。持ち主が変わっただけでございます」
「……いくら」
「お返しになれる額ではございませんわね」
「劇場の桟敷も、髪結いも、今夜の衣装も、みなその中に入っておりますの」
「……」
「今夜お召しのものは、わたくしの金で仕立てたことになりますわね。よくお似合いでございますわ」
◇
女は笑おうとした。
笑おうとして、うまくいかない。今夜、二度目である。舞台の上でしくじる役者の顔を、ヴィオレッタは初めて間近で見た。
◇
「……煮るなり焼くなり、なさいませ」
「まあ、お芝居のような台詞」
「芝居でございますもの」
◇
言ってから、女は自分の口を押さえた。
言うつもりのなかったことを、言ってしまった顔である。内側の色が、一気に薄くなった。伏せていたものが外へ出ると、人は軽くなる。軽くなったぶんだけ、崩れやすくもなる。
◇
「煮も焼きもいたしませんわ」
ヴィオレッタは、窓のほうを向いたまま言った。
◇
「もったいのうございますもの」
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