第33話 どちらが本物か、皆さまがお決めになりますの
二月の末の興行は、王都で最も人の入る日である。
芝居そのものが評判なのではない。誰が誰と並んで座るかを見るために、王都の家が揃って出てくる。舞台を見に行く者は、客席のうち半分もいない。
この日のために、王都の仕立屋は二月前から寝ていない。
誰が何を着て、誰の隣に座るか。それが翌日から一季ぶんの話の種になる。舞台の出来は、話の種にならない。
◇
ヴィオレッタは、開幕の少し前に着いた。
早く行けば挨拶に捕まる。遅く行けば人目につく。捕まるのと目立つのとでは、後者のほうがいくらか安く済む。
階段を上がり、桟敷の並びへ回る。
案内の者が、扉の前で足を止めた。止めてから、妙な角度で首を傾げる。
◇
「お嬢様は、もうお入りでございますが」
マリアンヌの手が、こちらの袖に触れた。
止めようとしたのであろう。この侍女が主人の袖に触れるのは、二年で三度目くらいである。
ヴィオレッタは扉を開けた。
◇
女が座っていた。
◇
濃い栗色の髪が、灯の加減で赤く見える。背丈はこちらとほぼ同じ。扇は開かずに膝の上へ置き、右手の甲を軽く外へ向けている。
似ていない。
顔は、まるで似ていなかった。目も鼻も口も、別人のものである。それでいて、部屋に入った瞬間の三秒だけ、こちらは自分の姿見を見ている気がした。
◇
――なるほど。
◇
顔ではないのである。
この女が写しているのは、髪でも背丈でもない。座り方、手の置き方、扇の持ち方、人を見るときの目の高さ。世間が公爵令嬢というものに貼っている札を、残らず集めて身につけている。
◇
「遅うございましたわね」
女が言った。
こちらを見もしない。舞台のほうを向いたままである。
「わたくしの席でございますわ」
「ええ。わたくしの席ですもの」
声は低め。喋り方は、ゆっくり。
語尾の伸ばし方が、いくらか芝居がかっている。芝居がかってはいるが、王都の者が思い描く公爵令嬢は、たぶんこちらのほうであった。
◇
廊に、人が溜まりはじめた。
扉が開いたままである。桟敷の並びは声がよく通る。誰かが誰かを呼び、その誰かがまた誰かを呼んで、十人が二十人になるのに、そう時間はかからなかった。
「どういうことですの」
「お二人おいでですわ」
「まさか」
「桟敷の中と、外に」
「どちらが」
「さあ」
◇
声は遠慮なく飛び交った。
遠慮するだけの理由が、誰にもない。片方は本物で、片方は騙りである。騙りのほうに気を遣って損をする者はいなかった。
女は、そこで初めてこちらを見た。
見て、ゆっくりと立ち上がる。
立ち上がり方が丁寧であった。裾を踏まず、椅子を鳴らさず、顎を引かずに立つ。どこで習ったにせよ、習った者の立ち方である。
◇
「あなた、どなた」
言われた。
「ヴィオレッタ・ド・アルヴェールですわ」
「まあ」
「本当でございます」
女は笑った。
困った顔ではない。気の毒なものを見る顔である。この女は、こういう顔のほうが人を黙らせると知っていた。
◇
「わたくしを誰だと思っておりますの」
◇
廊が、少しざわついた。
ざわついたのは、それが公爵令嬢の言い草として、皆の中で正しかったからである。あの令嬢なら言いそうだ、と二十人が同時に思った。その二十人のうち、本物を近くで見たことがある者は、たぶん三人もいない。
◇
ヴィオレッタは社交に出ない。
出るのは義理のあるものだけで、それも早く帰る。王都を二年歩いているのは、この女の名だけであった。名だけが歩いていれば、身体はどれでも構わない。
「証を、立てられますの」
◇
誰かが言った。伯爵家の夫人である。
「わたくしに」
「お二人ともに、でございますわ」
女が先に口を開いた。
「うちの執事はベルナールと申します。二十年、財布を握っておりますの。ついこのあいだも、桟敷の払いを一枚だけ抜いて返させましたわ」
◇
廊が、どよめいた。
合っている。
合っているどころではない。抜いた枚数まで合っていた。レニエ商会が方々で喋った話が、そのまま回って、この女の口に入っている。
「侍女はマリアンヌ。子爵家の長女で、まだ嫁いでおりませんの」
◇
「兄に借財がございましてね。妹が三人。嫁ぎ遅れておりますのも、そのせいですわ」
廊が、少し笑った。
笑ったのは、悪意からではない。公爵令嬢が侍女の内情をこともなげに喋る、その手つきが、皆の思う公爵令嬢そのものだったからである。
◇
マリアンヌの顔が、白くなった。
「……お嬢様」
「よろしいのですわ」
「よろしくございません」
「あなた、お名前は」
「申し上げましたわ」
「本当のお名前でございます」
「本当のを申し上げておりますの」
◇
女の口の端が、かすかに上がる。
この応酬を、向こうは楽しんでいる。楽しめるということは、負ける気がないということであった。
◇
「そちらこそ、どちらのお生まれですの」
「アルヴェールでございます」
「では、西の別邸の庭は、何がお好きでいらして」
「薔薇ですわ」
◇
「まあ。うちの西の別邸に、薔薇はございませんのよ」
◇
廊が、どっと沸いた。
◇
西の別邸に薔薇はある。三年前に植えさせ、去年は咲かなかった。咲かぬ薔薇を庭と呼ぶかどうかは、人によるであろう。
ただ、いま説く場面ではない。説けば説くほど、言い訳になる。言い訳をする者が本物に見えたためしは、王都のどこにもない。
◇
ヴィオレッタは、女の内側を見た。
濁りは深い。
深いけれど、思っていたところにはなかった。この女は、名を騙っていることを恥じていない。金を借りたことも、店を欺したことも、色にはならない。
◇
色が立っているのは、一点だけである。
◇
――この方、わたくしになりたいのですわね。
◇
騙りではない。憧れである。
二年ぶん、王都を歩いた名に惚れた者が、その名の中身を自分で埋めようとしている。ここが弱い。ここを突けば、この女はいま、この場で崩れる。
ヴィオレッタは、口を開かなかった。
◇
言ったところで、証にならないからである。
人の内側が視えると申し上げてもよろしいのですけれど、と言い出した者が信じてもらえる場面を、彼女は一度も見たことがない。信じてもらえぬ手札は、伏せたままのほうが安い。
◇
黙った。
黙ったのを、廊は別の意味に取った。
「お答えになりませんの」
「答える筋合いがございませんわ」
「まあ」
「では、そちらのお嬢様のお名前は」
「申し上げましたわ。ヴィオレッタ・ド・アルヴェールでございます」
「それだけで」
「それだけでございます」
◇
夫人の扇が、二度鳴った。
鳴らし方に、もう遠慮がない。二度目の音は、廊の端まで届いていた。
それが、まずかった。
本物は証を立てない。立てる必要がないからである。ところが、証を立てない者と、立てられない者は、外から見れば同じ形をしている。
◇
「支配人をお呼びなさいまし」
夫人が言った。
名案だという顔をしている。実際、その場のほとんどが名案だと思った。
「支配人。この方々が、どちらもアルヴェール家のお嬢様だと仰せですの」
「はあ」
「お困りでしょうけれど、あなたがいちばんご存じでしょう」
◇
支配人は、すぐに来た。
来て、桟敷の中を見て、それから廊のこちらを見る。見比べる時間は、三つ数えるほどであった。
◇
「アルヴェール公爵家のお嬢様でいらっしゃいます」
◇
指したのは、中の女である。
「こちらのお嬢様には、この半季、ずっとお使いいただいております」
ヴィオレッタは、天井を見た。
半季ぶん使われていた桟敷を、こちらが取り戻したのは先月である。取り戻すまでの半季、そこに座っていたのは、たしかにこの女であった。支配人は嘘をついていない。
◇
嘘をつかぬ者が、二人いる。
嘘をつかぬ者が二人いる場合、勝つのは声の大きいほうではなく、先に座っていたほうであった。
「お引き取りいただけますかしら」
女が、桟敷の中から言った。
「幕が上がりますの」
◇
「お連れのお方も、お困りでしょう。侍女にそのような顔をおさせになるものではございませんわ」
◇
マリアンヌの息が止まるのが、横で分かる。
言われた中身ではない。言い方が、こちらのものだったからである。
◇
マリアンヌが一歩出た。
出た肩を、ヴィオレッタは扇で軽く押さえる。押さえられた侍女が、それきり動かなくなった。
◇
「失礼いたしましたわ」
◇
そう言って、扉を閉める。
廊の二十人が、道を空けた。
空け方が、ひどく親切である。気の毒な女に向ける親切である。二年かけて王都に配ってきたものの、ちょうど裏返しであった。
階段を下りるあいだ、誰も声をかけてこない。
◇
玄関を出るとき、案内の者が扉を押さえた。
押さえながら、こちらを見ない。見ないほうが親切だと思っている顔である。
ヴィオレッタは、その男の名を憶えた。
翌週、劇場の人の入れ替えがある。入れ替えの話を持っているのは王都の商会で、その商会に口をきける家は、そう多くない。男は理由を知らされぬまま職を失った。
◇
扉を押さえたからではない。
押さえながら、目を伏せたからである。
馬車に乗ってから、マリアンヌが口を開いた。
「お嬢様」
「なんですの」
「なぜ、お黙りになりましたか」
「言っても、詮ないことでしたもの」
「詮なくございません」
「詮なくございますわ。わたくしが何を申しましても、あの場の方々は、あちらのほうが公爵令嬢らしいと思っておられました」
◇
侍女は、膝の上で手を握っていた。
握った手が白い。この侍女がこういう手をするのは、主人が損をしたときだけであった。
◇
「悔しくございませんので」
「悔しくはございませんわ」
「では」
「面白うございましたの」
◇
「面白い、で済ませてよろしいのですか」
「済ませてはおりませんわ。今日は済ませただけでございます」
「同じでございましょう」
「違いますのよ」
◇
侍女は、それ以上訊かない。
訊いても答えの返らぬ場面を、この二年でずいぶん覚えてきた。
◇
嘘ではない。
二年かけて作った名が、他人の身体でも動くところを、今日はじめて外から見た。作ったものが独りで歩くというのは、あまり気持ちのよいものではない。よくはないが、見応えはあった。
窓の外を、劇場の灯が流れていく。
◇
「マリアンヌ」
「はい」
「あの席、差し上げますわ」
◇
「……は」
「桟敷でございます。残りの半季、あの方にお使いいただきましょう」
侍女が、こちらを見た。
見て、それから、何かを察した顔になる。この侍女は主人の内側が視えるわけではないけれど、外側なら誰よりよく見えた。
◇
「お嬢様。何をなさるおつもりですか」
「差し上げるものが、もう一つございますの」
春に、王都でいちばん大きな夜会がある。
アルヴェール公爵家には、毎年、招きが来ていた。
◇
――そちらも、差し上げますわ。




