第32話 話は聞くと申し上げましたわ
金貸しを家に上げるかどうかで、ベルナールは三日ねばった。
上げれば、公爵家が相手をしたことになる。相手をすれば、借りを認めたと取られかねない。二十年ぶんの理屈は、たいてい正しい。正しいけれど、来る者を追い返していては、いつまでも枚数が知れなかった。
◇
執事には、先に四軒を当たらせてある。
東の裏通りに、金貸しの看板が四つ。どれも古い店で、どれもゴシェの名を口にしたがらない。口にしたがらないということは、逆らえぬということであった。
ゴシェは、思っていたより身なりのよい男である。
金貸しというから、爪の汚れた男が来ると踏んでいた。来たのは仕立てのよい上着に、手入れの行き届いた靴の、五十がらみの男である。声もおだやかで、笑い方も穏やかであった。
◇
ベルナールが先に口を開く。
「公爵家に、借りはございませぬ」
「ございますとも」
「ございませぬと申し上げております」
ゴシェは懐から証文を出した。
一枚、二枚、三枚。卓の上に扇のように広げていく手つきが、ずいぶん慣れている。この男は、こうやって並べるところまでが商売なのであろう。
◇
ヴィオレッタは、いちばん手前の一枚を取った。
署名がある。
ヴィオレッタ・ド・アルヴェール。字の運びが似ている。似ているどころではない。最後の一画をわずかに跳ねる癖まで、そっくり写してあった。
◇
――よほど暇でございますこと。
◇
「わたくしは、借りておりませんわ」
「さようでございますか」
「一度も」
「では、この字はどなたのものでございましょう」
「存じません」
「存じませぬ、と」
「ええ」
ゴシェは笑った。
困った笑い方ではない。予定どおりの返事が返ってきた者の笑い方である。この男は、こう言われることを見込んでここへ来ている。
◇
「お嬢様。手前どもは、証文だけで食うております」
「でしょうね」
「証文に名がございますれば、手前どもはそれを本物と致します。本物でないと申される方は、これまで幾人もおられました」
「皆さま、最後にはお払いになります」
◇
ベルナールの手が、膝の上で止まった。
この執事は二十年、公爵家の財布を守ってきた。守りきれぬ相手と向き合った顔を、ヴィオレッタは初めて見る。
「払わぬと申せば、どうなさいますの」
「どうも致しませぬ」
「では、けっこうですわ」
「ただ、方々で申し上げますな。アルヴェール公爵家は、借りをお払いにならぬと」
◇
それが、この男の売り物である。
金ではない。金を貸す相手の名を、握っていられるという立場のほうを売っている。
ヴィオレッタは、男の内側を見た。
濁りはある。ただし、こちらが思っていた場所にはない。
この男は、証文が偽物かどうかを気にしていなかった。気にしていないのだから、伏せようもない。伏せているのは別のことである。
◇
――もう、手放しておいでですわね。
◇
「ゴシェ」
「はい」
「その証文、いま何枚お持ちですの」
男の内側が、ひとつ跳ねた。
「……ここにあるだけでございます」
「三枚」
「はい」
「ほかは、どちらに」
ゴシェは答えなかった。
答えなくても分かる。跳ねたということは、答えたくないということで、答えたくないということは、答えが都合の悪いものだということであった。
◇
「お売りになりましたのね」
「……商いでございますれば」
「四軒でございましたかしら」
「なぜ、それを」
ベルナールが、卓の下でこちらを見た。
執事に調べさせておいたのは、こちらである。この男が朝に来る日は、たいてい何か掴んでいる日であった。
◇
証文というものは、貸した本人が持っているとはかぎらない。
高く売れるうちに売ってしまい、あとは他人に取り立てさせる。取り立てが荒れても、最初に貸した男の名は汚れない。ゴシェが身なりのよい理由が、そこにある。
◇
「三枚だけ持ってお見えになって、公爵家から取ろうとなさいましたのね」
「……」
「ほかの四軒は、ご存じないところで勝手に取り立てます。こちらは同じ借りを、五度払うことになりますわ」
ゴシェは、否定しなかった。
この男の商売は、そういうふうに組んである。悪いことだとも思っていない。
◇
「ずいぶん、お詳しゅうございますな」
「調べましたもの」
「公爵家のお嬢様が、東の裏通りを」
「わたくしが参ったのではございませんわ。人を遣りましたの」
ベルナールが、わずかに背を伸ばした。
この執事は、褒められると背が伸びる。褒めた覚えはないけれど、伸びる分には安いものである。
◇
ヴィオレッタは、三枚を卓に戻した。
「ばらばらでは、話になりませんわ」
「と、申されますと」
「まとめてお持ちなさい。一枚残らず」
ゴシェの目の色が変わった。
商人の目である。金貸しの目ではない。
◇
「お買い上げくださると」
「話を聞きますわ」
「は」
「まとめてお持ちになれば、話を聞くと申し上げました」
男は、そこを聞き分けなかった。
聞き分けなかったのは、聞き分けたくなかったからである。買うとは一言も言っていない。言っていないものを、この男は勝手に足して帰った。
◇
期限は十日と切った。
「十日でございますか」
「ええ。十一日目には、わたくしの気が変わっておりますでしょうから」
嘘ではない。
この女の気は、たいてい十日で変わる。変わらないこともあるけれど、変わらないと約束した覚えはなかった。
◇
扉のところで、男が一度だけ振り返る。
「お嬢様。手前は、脅しに参ったのではございません」
「存じておりますわ」
「取り立てに参りました」
「同じでございましょう」
ゴシェが帰ったあと、ベルナールが長く息を吐いた。
「お嬢様。買われるおつもりで」
「さあ」
「さあ、とは」
「話を聞くだけですわ」
◇
執事は、そこで黙った。
黙って、いくらか安心した顔をする。二十年ぶんの勘で、財布が減らないほうに転ぶと読んだのであろう。
その十日のあいだに、王都では別のものが動いていた。
レニエ商会である。
御用達を失った店の主人が、失った理由を黙っていられるはずがない。うちは騙されたのだ、偽者が出ているのだ、と方々で喋った。喋るたびに、店の恥は少しずつ他人の話になる。
◇
主人は、行く先々で同じ話をした。
うちは三十年入っていた店である、それを騙りのせいで失った、王都の皆さまもお気をつけなされ。同情を集める言い方をしながら、公爵家の名は一度も庇わない。庇えば、自分の落ち度が残るからである。
◇
ヴィオレッタは、何も流していない。
流す必要がなかった。恥をかいた者は、自分の恥を薄めるために自分から喋る。あの日ひとこと多く言っておけば、あとは勝手に転がる。
偽者が出ている、と王都が知った。
◇
知られて困るのは、証文を抱えている側である。
公爵令嬢の署名だと思って高く買った紙が、どこの誰とも知れぬ女の落書きになる。四軒は慌てて手放したがった。ゴシェは、そこへ買い戻しに行っている。
◇
その同じ十日のうちに、ヴィオレッタは一つ潰している。
春の茶会の差配が、ロシュフォール伯爵家に決まりかけていた。
差配を取れば、招く順番を決められる。招く順番を決められる家は、その季節のあいだ王都で頭を下げられる側に回る。ヴィオレッタは、その話を別の家へ回した。
◇
理由は、あの家の次女の笑い方が気にくわないからである。
伯爵家は差配を失い、次女は何も知らぬまま春を迎えることになった。知らせる者はいない。知らせても、どうにもならない。
値は上がっていた。
◇
売る側は、公爵家から取れると思えば高く吹っかける。ゴシェのほうも、まとめれば公爵家が買うと思い込んでいる。思い込んでいる者同士が値をつけ合えば、上がるにきまっていた。
九日目の夕方に、東の四軒のうち一軒が畳んだ。
ゴシェに高く売りつけたのだから、儲けたはずである。儲けた者が店を畳むのは、その商いに先がないと踏んだときであった。畳んだ主人は、その足で王都を出ている。
◇
ベルナールが、その報せを持ってきた。
「逃げましてございます」
「賢い方ですわね」
「賢うございましょうか」
「儲けて、逃げて、二度と関わらない。三つとも正しゅうございますわ」
十日目の午後に、ゴシェは来た。
◇
束は、レニエ商会のときより厚い。抱えるようにして持ち込み、卓に置くときに、指が少し震えていた。金貸しの指が震えるのは、儲かる前か、損する前のどちらかである。
「全部でございます。十九枚」
「ご苦労さまでございました」
「では、お話を」
◇
ヴィオレッタは、束を上から順にめくった。
十九枚ある。日付が古い順に並べてあり、締めの額まで揃えて書き出してある。仕事としては丁寧であった。丁寧な仕事をする者ほど、丁寧にした分だけ返ってくると思い込む。
◇
「偽物でございますわね」
「……は」
「この署名は、わたくしのものではございません。さきほど申し上げました」
◇
「お嬢様。話を聞くと仰せられました」
「聞きましたわ」
部屋が静かになった。
◇
「いま、聞き終わりましたの」
◇
ゴシェの顔から、身なりのよさが剥がれた。
剥がれると、思ったとおりの男が出てくる。爪の汚れた男である。
「お買い上げにならぬと」
「額面ではお引き取りいたしませんわ。偽物の紙に額面を払う道理がございませんもの」
「これは、公爵家を潰す紙でございますぞ」
「潰れませんわ」
◇
潰れない。
王都はもう、偽者の話で持ちきりになっている。この十九枚を持って歩いても、いまさら誰が信じるであろうか。信じぬ紙で取り立てる金貸しは、ただの押し込みである。
ゴシェは、それを分かっていた。
分かっていながら十日走り回ったのは、こちらが買うと思っていたからである。
◇
「いくらで」
「四十分の一ですわ」
「……ご冗談を」
「申しませんの」
◇
男は長く黙った。
黙っているあいだに、算盤が二度は回ったであろう。持っていても取れない。売ろうにも買う者がいない。焼けば、買い戻した金がそのまま消える。
「……お引き取り、願います」
◇
「一つ、伺ってもよろしゅうございますか」
「なんなりと」
「手前を、はじめから買う気がおありでしたか」
「ございましたわ」
「では、なぜ」
「四十分の一で、でございます。額面で買う気は、はじめからございませんの」
◇
ゴシェは、口の端を歪めた。
笑おうとして、うまくいかなかったのであろう。十日走って、四軒から買い集めて、値を吊り上げたのは、ほかならぬこの男自身である。
ベルナールが金を数える。
二十年ぶんの速さで数え、二十年ぶんの顔で、端数を切る。切られてもゴシェは何も言わない。言えるだけのものが、この男にはもう残っていなかった。
◇
帰り際に、一つだけ訊いた。
◇
「あの女は、どこで借りましたの」
「……申し上げる筋合いが」
「四十分の一の話に、戻してもよろしゅうございますわ」
◇
「劇場でございます」
◇
ゴシェが帰ったあと、ヴィオレッタは十九枚を読み直した。
借りた金の出どころは、細かに書いてある。金貸しというのは、そういうところだけは律儀であった。
衣装。髪結い。馬車の借り上げ。宿。そこまでは分かる。
◇
髪結いの名は、王都で三本の指に入る店であった。
衣装は仕立てではなく、借り物である。馬車も借り上げ。持たずに借りる者の使い方で、金は出ていた。
半分が、劇場に落ちている。
桟敷の代、衣装部屋の借り賃、裏方への心付け。遊びに使った金ではない。仕事に使った金の使い方であった。
◇
――あの女、芝居で食っておりますわね。
◇
二月の末に、王都でいちばん人の入る興行がある。
王都の家がひととおり顔を出し、桟敷は早くに埋まる。ヴィオレッタの桟敷は、半季ぶんまだ残っていた。
「ベルナール」
「はい」
「二月の末の桟敷、こちらで使いますわ」
「承知いたしました」
◇
そのとき、少し考えた。
考えて、やめた。あの女が同じ日に来るとして、来ることを確かめてから行くのでは、面白くない。
◇
――お会いできましたら、それで。
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