第31話 わたくしの名で、ずいぶん楽しんでおいでですわね
レニエ商会の主人が来たのは、火曜の午後である。
火曜は面会の日で、朝から人が並ぶ。仕立屋、庭師、領地の代官、寄進をねだる修道会。公爵家の火曜は、頭を下げる者の行列で埋まる。列の最後が商会の主人であった。
◇
最後に回されたのは、話が長くなると見られたからである。
見立ては当たっていた。
応接の間に通され、茶を出され、それから懐から束を出した。束は思ったより厚い。指で押さえていないと、勝手に開くほどであった。
◇
「付けでございます」
「どちらの」
「お嬢様の」
◇
執事のベルナールが、主人より先に顔を上げた。
この家の執事は、金の話でだけ動きが早い。二十年そうやって公爵家の財布を守ってきたのだから、それでよろしい。
「何かのお間違いでは」
「間違いはございません。三度、お確かめいたしました」
「では、お読みなさい」
◇
絹の手袋が四組。
南の香が二壜。砂糖菓子の詰め合わせが六箱。東の宿の払いが二晩ぶん。劇場の桟敷が一季。締めて、この家の下働きが十年働いても届かない額になる。
ヴィオレッタは、手袋を買っていない。
香も買っていない。菓子は嫌いではないけれど、六箱も取り寄せる趣味はない。劇場の桟敷にいたっては、去年の冬からひとつも取っていなかった。
◇
「わたくしではございませんわ」
「……は」
「一つも買っておりません」
商会の主人は、そこで妙な顔をした。
嘘をつかれたときの顔ではない。信じていたものが、いま足の下から抜けたときの顔である。色が一気に濁った。
◇
「お嬢様がお見えになりました」
「わたくしが」
「はい。三度とも、うちの店に」
「どのような娘でしたの」
「娘、と仰せられますと」
「背丈、髪、声。お話しなさい」
主人は喋った。
背丈はこれくらい。髪は濃い栗色で、光の加減で赤く見える。声は低め。物を選ぶときに、右手の甲を軽く相手に見せる。扇は開かずに持つ。
◇
供は二人。侍女が一人と、若い下男が一人。
侍女のほうが品を受け取り、下男が荷を持つ。どちらもよく躾けられていて、主人に一度も話しかけなかった。話しかけぬ供というのは、そう簡単には作れない。
◇
「お声は、どのようでしたの」
「……それが、店の者と口をきかれませぬ」
「口を」
「はい。品をお決めになるのも、指でお示しになるだけで」
賢い。
喋れば喋るほど、ばれる。喋らずに済ませる方法を知っている者は、喋れる者よりよほど手強い。
◇
ベルナールの顔から、血が引いていた。
全部当たっているからである。
ヴィオレッタは、自分の右手を見た。
甲を上にして、指を軽く開く。なるほど、宝石を選ぶときにこうしている気がしないでもない。二十年近く使ってきた手だというのに、他人のほうが詳しい。
◇
癖というのは、自分では見えない。
見えないものを、どこかの誰かが三月かけて写している。気味が悪いかと言われれば、悪くはなかった。腹が立つかと言われれば、それも少し違う。
◇
――よく見ておりますこと。
◇
「お払いになりませんので」
「払いますわ」
「は」
「払うと申しました」
ベルナールが咳をした。
止めたいのである。この執事は、主家の金が減るのを自分の血が減るように感じる質であった。
「お嬢様。それは、払う筋の」
「ございませんわね」
「では」
「わたくしの名で買われたものでございましょう。払わねば、わたくしの名が払えぬことになりますわ」
◇
名には値がついている。
払えぬ名は、安い。安い名で借りられるものは、たかが知れる。三月も四月もかけて安くされていたのでは、たまったものではない。
ベルナールは、それ以上言わなかった。
言わずに、束を受け取って数えはじめる。二十年ぶんの速さで数え、二十年ぶんの顔で、一枚だけ抜いた。
◇
「これは払いませぬ」
「なぜ」
「桟敷でございます。一季ぶんを、まだ半分しかお使いになっておられません。残りはこちらのものでございます」
ヴィオレッタは、初めて笑いそうになった。
この執事は、こういう男である。
◇
商会の主人が、ようやく息をついた。
付けが通ったのだから、当然であろう。顔に色が戻り、肩が下がり、それから礼を言おうと口を開けた。
「レニエ」
「はい」
「次に、確かめずにお売りになったら、出入りは止めますわ」
◇
口が開いたまま止まった。
「今日のぶんは払います。けれど、お宅の手袋はもう買いませんの」
「お嬢様、それは」
「わたくしの名を安く売った店の品を、身につける趣味がございませんもの」
レニエ商会は、この家に三十年入っている。
入っているというだけで、王都の他の家も同じ店から買う。公爵家が買わぬ手袋を、伯爵家が買う道理がない。
◇
主人は青くなって帰った。
付けは満額で通り、店は失った。損得で言えば、どちらが大きいかは数えなくても分かる。
ベルナールが、抜いた一枚を懐にしまった。
「お嬢様。桟敷の残りは、どうなさいます」
「使いますわ」
「さようでございますか」
「その女が、そこに座っておりますでしょうから」
◇
その日から、マリアンヌが噂を拾ってきた。
この侍女は、外をよく見る。見たものを並べ替えずに持ってくる。並べ替えるのは主人の仕事だと承知しているからであった。
「三月前からでございます」
「早いこと」
「はじめは東の宿でございました。次が菓子屋、それから劇場、この月に入って商会が三軒」
◇
「増えておりますわね」
「はい。だんだんと、大きな店に」
「宿では、何をなさいましたの」
「二晩お泊まりになって、主人を呼びつけられたそうでございます」
「呼びつけて」
「寝台の位置が気にくわぬ、と」
◇
ヴィオレッタは、寝台の位置に文句をつけたことがない。
宿にも泊まらない。公爵家の娘が王都で宿を取る用など、そもそも起きようがなかった。
「劇場では」
「桟敷のお隣の席をお空けさせになりました。声が近いのが障る、と」
「空きましたの」
「空いたそうでございます」
◇
そこである。
言えば通ってしまう。通ってしまうから、次はもっと言う。この女が身につけたのは、こちらの顔でも声でもない。こちらの名で何が通るかという相場であった。
試しているのである。
小さい店で通れば、次は大きい店で試す。大きい店で通れば、次は人の集まる場所で試す。そういう上がり方をする者は、度胸があるというより、算えるのが得意な質であった。
◇
「その女は、何と名乗っておりますの」
「名乗っておられません」
「名乗らずに」
「はい。……名乗る前に、皆が言うのだそうでございます。あのお方は、と」
ヴィオレッタは茶碗を持ち上げて、飲まずに置いた。
◇
名乗らずに済む名というものがある。
そこまで大きくした覚えはない。覚えはないが、大きくしてきたのは自分である。二年、王都でやってきたことの、これは請求書のようなものであった。
「どんな振る舞いをなさいますの」
「……申し上げてよろしいのですか」
「申しなさい」
◇
マリアンヌは、少し言いよどんだ。
言いよどむのは珍しい。この侍女は、主人に悪い知らせを持ってくるのを仕事の一部だと思っている。
「わたくしを誰だと思っておりますの、と」
「……そう仰せに」
「ええ」
「まあ」
◇
ヴィオレッタは、そこで本当に笑った。
声は立てない。口の端だけが上がって、すぐ戻る。
◇
「わたくし、そのようなことを申しませんわ」
「存じております」
「申す必要がございませんもの」
◇
誰だと思っているのか、と訊ねるのは、思われていない者の言い方である。
思われている者は訊かない。黙って立っていれば、周りが勝手に思い出す。訊いた時点で、その女は自分を売り損ねている。
◇
――下手ですこと。
◇
それなのに、三月も通っている。
通っているということは、王都の店は、公爵令嬢というものをその程度に見ているということであった。
そちらのほうが、よほど腹が立つ。
「お嬢様。旦那様にお知らせいたしますか」
「いりませんわ」
「ですが、公爵家の名でございます」
「わたくしの名ですわ」
◇
マリアンヌは頭を下げて、下がった。
下がってから、扉のところで一度止まる。この侍女は、止まってから言うことがたいてい本題であった。
◇
「お嬢様。腹を立てておいでですか」
「立てておりませんわ」
「……はい」
「面白がっております」
◇
嘘ではない。
三月のあいだ、王都のどこかで、自分の名を着た女が歩いていた。手袋を選び、菓子を取り寄せ、桟敷に座って芝居を見ている。見ている顔つきまで、こちらに寄せているのであろう。
◇
想像すると、悪くない。
腹が立つところは、別にある。
名を使われたことではない。使われて通ってしまったことでもない。あの女が、こちらの名で下手な芝居を打っているところであった。
誰だと思っているのか、と凄む公爵令嬢。
寝台の位置に文句をつける公爵令嬢。そんなものは、安芝居の悪役である。世間が悪役令嬢に持っている絵を、そのままなぞって歩いている。
◇
二年かけて作ったものを、寸法違いに着られている。
着るなら、せめて寸法を合わせていただきたい。
その週、ヴィオレッタは家の中でも一つ潰した。
洗濯場を預かる女が、干し場の順番を勝手に変えていた。上の階の衣が先で、下の階が後になる。理屈は通っている。通っているが、変える前にひと言も言わなかった。
◇
「明日から、元にお戻しなさい」
「ですが、そのほうが早う乾きまして」
「早さの話をしておりません」
女は納得しなかった。
納得しない顔のまま、それでも従う。頭を下げる角度が、二寸ばかり浅い。
◇
三日後、この女の姪が厨に入る話が流れた。
流したのはヴィオレッタである。理由は、あの角度が気にくわないから。姪に罪はない。罪のない者を巻くのがいちばん効くというだけの話であった。
◇
あとから、ベルナールに二月ぶんを持たせておきなさいと言った。
理由は言わなかった。
金貸しの名が出てきたのは、その次の週である。
ベルナールが、珍しく朝のうちに部屋へ来た。
この執事が朝に来るときは、金の話であった。それも、払って済む話ではないほうの金である。
◇
「ゴシェ、と申す者をご存じでございますか」
「存じませんわ」
「東の金貸しでございます。悪い評判のほうで名の通った男でして」
◇
「その者が、どうかいたしましたの」
「……借りが立っております」
「どなたの」
「お嬢様の」
◇
部屋が静かになった。
払いの付けとは、話が違う。
店の付けは、品物が残る。残っている品を突き返せば、いくらかは戻る。借りは違う。借りは、数字だけが残って増えていく。
「いくらですの」
「まだ知れておりませぬ。ただ、一軒ではございません」
「一軒では」
「はい。ゴシェの下に、四軒ばかりぶら下がっております」
◇
「ぶら下がるとは」
「ゴシェが貸し、その証文を四軒に売っております。売った先がまた売ることもございます」
「では、いまどなたが持っておいでか」
「……追えませぬ」
ヴィオレッタは窓のほうを見た。
◇
手袋と菓子は、遊びである。楽しんでいる者の買い方であった。
金を借りるのは、遊びではない。
借りには、取り立てがつく。
取り立てる側は、公爵令嬢に貸したつもりでいる。貸したつもりの相手が払わねば、東の金貸しは公爵家の門を叩く。叩いて断られれば、次は王都じゅうに言って回るであろう。
◇
アルヴェール公爵家は、借りを踏み倒す家だ、と。
名が安くなるどころではない。
安い名は使い道があるけれど、汚れた名には使い道がない。
◇
――誰かが、あの女に貸しをつけておりますわね。
◇
「お嬢様。いかがなさいます」
「桟敷を取りなさい」
「は」
「残りの半季ぶん、こちらで使いますわ」
「芝居を、ご覧になりますので」
「ええ。上等の席で」
ベルナールは、それ以上訊かなかった。
この執事は、訊かぬほうが早く済む場面を心得ている。二十年ぶんの心得であった。
◇
次の芝居は、二月の末である。
王都の家がひととおり顔を出す興行で、桟敷は早くに埋まる。あの女がどこかに座っているとすれば、その日をおいてほかにない。
◇
――お会いしとうございますわ。
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