第30話 責めても痛まぬ男でしたので
宴の日は、よく晴れた。
王城の大広間に、王都の家がほとんど集まった。楽師が入り、南の葡萄酒が運ばれ、リュエルの一行は上座に近い席を与えられた。小国の王太子にとって、生涯でいちばん座り心地のよい席であったろう。
◇
アルベールが臨席した。
マリアンヌは白の衣装であった。
南の織り手が仕上げたものである。仕立ては悪くなかった。着ている本人だけが、それを喜んでいなかった。
ティボーは終始上機嫌であった。
こちらの大臣に挨拶をし、令嬢たちに酒を注ぎ、王太子に頭を下げた。頭の下げ方が丁寧すぎた。丁寧すぎる礼は、値切りたい者が使う。
◇
ヴィオレッタは、壁際に立って見ていた。
この男は、部屋に入るとまず人の位置を数える。数えてから座る。今夜も同じであった。給仕が七人。楽師が六人。扉が四つ。数え終えると、この広間はこの男にとって安全な場所になる。
◇
安全な場所にいる者は、決めごとを緩める。
大臣の一人が、南の王太子を褒めた。
人柄がよく、酒がよく、話が面白いと褒めた。褒められたティボーは、それをこちらの国の水のおかげにした。上手であった。広間が笑った。
◇
マリアンヌは、卓の端に座らされていた。
花嫁の席である。誰も話しかけなかった。話しかける言葉が、この国の作法にないからである。侍女が王太子妃になる席の作法は、誰も習っていない。
◇
ヴィオレッタは、頃合いを計っていた。
早すぎれば、酔いが回っていない。遅すぎれば、人が減る。
いま、この広間には、この国の名のある家があらかた入っている。楽が一曲終わって、次が始まる前の、いちばん静かなところであった。
◇
彼女は卓を回って、南の王太子の前に立った。
「殿下。一つ、伺ってもよろしゅうございますか」
「なんなりと」
「先の奥方は、歌がお上手でいらしたそうでございますね」
◇
ティボーの顔が、わずかに緩んだ。
この男は、その話をするのが好きなのである。
「よく歌いました。朝から歌う。城の者が皆、目を覚ましてしまうと言って、あれは笑っておりました」
「菓子がお好きで」
「杏の砂糖漬けを。ひと箱を三日で空けます」
「冬になると、足が冷えて眠れぬと」
◇
「……ええ」
周りの卓が、少し黙った。
亡くなった妻の話をこれほど覚えている男が、そう多くはないからである。何人かの令嬢が、感じ入った顔をした。
「よく覚えておいでですわ」
「妻でしたので」
「ええ」
◇
「殿下は、あの方を惜しんでおいでですのね」
「惜しんでおります」
「殴りながら、惜しんでおいででしたのね」
広間の音が、半分になった。
ティボーは笑った。笑い方が上手であった。
「姫君。ご冗談も、場をお選びくださいませ」
「冗談は申しませんの。生まれてこのかた、一度も」
◇
男の内側で、薄い色が張った。
この国では殴るまい、という決めごとである。決めごとは張ったが、破れはしなかった。
◇
――固い。
◇
「わたくしは、あなたが手をお出しになるところが見とうございます」
ヴィオレッタははっきりと言った。
声を落とさなかった。近くの卓の三つか四つが、確かに聞いた。
◇
ティボーは、また笑った。
「姫君は、召使いを庇うのに凝った嘘をおつきになると聞きましたが、今日はご自分のためにおつきになる」
「嘘ではございません」
「なるほど、なるほど」
◇
この男は、本当のことを言われても信じない。
信じないから、警戒しない。警戒しない者の前でだけ、手は速い。
彼女は半歩前に出た。
「その額の傷は、階段のものだと伺いましたわ」
「ええ、子供のころに」
「拝見してもよろしゅうございますか」
「どうぞ。もっとも、たいしたものでは」
◇
周りの卓が、こちらを見ていた。
公爵令嬢が他国の王太子の額に手を伸ばす。作法としては、あってはならない。あってはならないことの前では、人は止められずに見る。
◇
ヴィオレッタは手を伸ばした。
前髪を上げるのではない。
指の腹を、白い筋にまっすぐ当てた。
◇
肘から先が上がった。
◇
肩から振り上げたのではない。肘から先だけが、いつもの高さまで、いつもの速さで上がって、そのまま落ちた。
◇
◇
頬を打たれた。
音が、思っていたより高かった。
ヴィオレッタは倒れた。
卓の脚に肩が当たり、酒杯が二つ落ちた。口の中が切れて、鉄の味がした。
◇
広間が、完全に止まった。
◇
楽師の弓が下りた。給仕が動きを止めた。四百人ばかりが、同じ方向を見ていた。
◇
ティボーの手は、まだ下がりきっていなかった。
男の顔から、血が引いていくのが見えた。
内側では、いま張ったばかりの決めごとが破れていた。破れたところから、何も出てこなかった。悔いも、恐れも、言い訳も、まだ間に合っていない。あるのは、しまった、という一語だけである。
◇
――やっと、破れましたわ。
◇
誰かが、女の声で短く叫んだ。
マリアンヌが駆け寄ろうとして、途中で止まった。止めたのは自分ではない。周りの誰も動かなかったからである。
リュエルの一行の卓では、誰も立たなかった。
立てば、いま起きたことを見たと認めることになる。ドニ卿だけが立ち上がって、そのまま何もできずに立っていた。二年ぶん、この男はいつもそうしてきたのであろう。
◇
ラフォン伯爵夫人は、扇を落とした。
拾わなかった。
王都の令嬢たちの顔から、頬の色が引いていた。
三日前まで、この客に酒を注いでもらって喜んでいた顔である。
◇
痛みは、遅れて来た。
打たれた瞬間には、音と、床の冷たさしかなかった。頬が熱くなったのは、そのあとである。人の手というものは、思ったよりずっと重い。
◇
――二年、これを。
◇
ヴィオレッタは、自分で起き上がった。
手を借りなかった。頬も押さえなかった。押さえれば、痛がっていることになる。
◇
立ち上がって、まっすぐに言った。
「わたくしが、額に触れましたの」
◇
広間が、その一言を聞いた。
「無礼を働きましたのはわたくしでございます。殿下に落ち度はございません」
彼女は嘘をつけない。
だから本当のことを言った。本当のことを言えば言うほど、この場のかたちがはっきりしていく。
◇
額に触れられた。それだけである。
それだけで、他国の公爵令嬢を、四百人の前で、迷いなく打った。
◇
ティボーがようやく口を開いた。
「……不慮でございます。手が、その」
「不慮でございますね」
「さよう。断じて、故意では」
◇
「では、先の奥方も、不慮でございましたのね」
広間の空気が、音を立てて入れ替わった。
彼女は告発していない。
この男の弁明を、そのまま前の妻に当てはめただけである。当てはめたのは彼女だが、当てはまると決めたのは、この広間にいる四百人であった。
◇
アルベールが立った。
この男は、六つの冬から人の顔を見て育っている。何が起きたかを、誰よりも早く畳んだ。
「リュエルの王太子殿下」
「殿下、これは」
「座られよ」
◇
ティボーは座った。
座ってしまってから、座るべきではなかったと気づいた顔をした。座れと言われて座る者は、命じられる側である。
その夜のうちに、ドニ卿が口を割った。
誰も拷問していない。誰も脅していない。二年ぶん喋りたかった男が、喋ってよい場所を与えられただけである。
◇
場所は王城の小部屋であった。
こちらの大臣が二人と、書役が一人。ヴィオレッタは末席に座らされた。頬が腫れていたので、座らせぬわけにもいかなかったのである。
◇
「二年前の書状は、あなたが書かれたか」
「わたくしでございます」
「階段、と書かれた」
「書きましてございます」
ドニ卿は、そこで一度だけこちらを見た。
見てから、視線を戻した。
◇
「奥方様は、左の耳が聞こえておられませんでした。三年目からでございます。医者は城におりましたが、呼ばれておりませぬ」
「呼ばなかったのは誰か」
「……お呼びになる方が、おられませんでした」
◇
「階段の下で見つかったと申したな」
「はい」
「そのとき、階段の上には」
「……人が、おりました」
書役の筆が、そこで一度止まった。
止まって、また動いた。この国の書役は、止まっても書く。
◇
縁談は流れた。
流れたどころではない。
リュエルは十日で使節を寄越した。
詫びの品が届き、詫びの書状が届き、王太子は召し返された。召し返すという言い方をしたが、迎えに来た者の人数を見れば、迎えではなかった。
◇
小国は、大国の公爵令嬢を四百人の前で打った王太子を戴いてはおけない。
戴いていれば、山の向こうと商いができなくなる。この国の商人は覚えが良く、南の葡萄酒の樽は、あれきり王都に入らなくなった。
◇
王太子の位がどうなったかを、こちらは知らされていない。
知らされていないほうが重い。
ヴィオレッタの頬は、七日腫れていた。
その七日、彼女は城の行事に出なかった。
出られぬ顔であった。婚約者としては、出られぬ顔で城に出るほうが値打ちがある場合もあるが、今回はやらなかった。やれば、痛がったことになる。
◇
その七日で、王都には二つの噂が立った。
一つは、他国の王太子に手を上げさせるほどの無礼を働いた令嬢がいるという噂である。もう一つは、南の小国では妃が階段から落ちて死ぬという噂であった。
◇
どちらも消えなかった。
彼女は、どちらも打ち消さなかった。打ち消せば嘘になる。
ラフォン伯爵夫人が、また来た。
今度は詫びを言いに来たのである。あの席にいたこと、扇を落としたこと、娘の婚礼のこと。順に詫びて、最後に、織り手のことをまだ怒ってはおりませんと言った。
◇
「怒っておいでですわ」
「……」
「構いませんわよ。お嬢様の婚礼には、間に合いませんでしたものね」
夫人は帰った。
頬の腫れた娘に詫びに来て、詫びたぶんだけ持って帰らされた。それでも、来なければもっと高くついた。
◇
アルベールには、二度呼ばれた。
一度目は叱責であった。
「四百人の前だ」
「はい」
「四百人の前で、私の婚約者が他国の王太子に打たれた」
「はい」
「それが要ったのか」
「要りましたわ」
◇
アルベールは卓を叩かなかった。
この男は物を叩かない。叩く代わりに、長く黙る。黙られるほうが、よほどこたえた。
二度目は、なぜ先に言わなかったのかという問いであった。
◇
「申し上げれば、お止めになりましたでしょう」
「止めた」
「ですから、申し上げませんでしたの」
アルベールは長いこと黙っていた。
「頬を出す前に、私に出せ」
「覚えておきますわ」
「覚えるな。守れ」
◇
マリアンヌは、白の衣装を脱いだ。
箱は解かれ、衣装は仕舞われ、馬具は返された。織りだけが残った。返す先が、もうない。
侍女は、いつもどおりに働いた。
三日目に、目録を持って部屋に来た。
◇
「お嬢様。頂戴したものを、お返しいたします」
「要りませんわ」
「頂戴する謂れがございません」
「はじめから、あなたにやったものではございませんもの」
マリアンヌは目録を持ったまま立っていた。
◇
「兄の借財は」
「買い取りましたわ」
侍女の手から、目録が落ちた。
「証文は、わたくしが持っております。期限は来年の春ではございません。あなたが働いて返し終えるまででございます」
「……お嬢様」
「利は取りますわよ」
◇
「妹御が三人おいでですわね」
「はい」
「上の妹は、今年で十七」
「……はい」
「三人とも、公爵家で使いますわ。読み書きのできる者から順に、給金を上げます」
マリアンヌは何か言おうとした。
◇
「お礼は要りませんわよ」
「……」
「わたくしは施しをいたしません。あなたがたを買っただけでございます。買ったものは働かせますの」
「働けませぬ者は、置きませんわよ。読み書きのできぬ者は、覚えさせます。覚えぬ者は帰します」
「……はい」
「あなたも同じでございます。返し終えるまで、辞めさせませんわ」
◇
マリアンヌは、しばらく黙っていた。
「辞めるつもりは、ございませんでした」
「知っておりますわ」
侍女は、目録を拾った。
拾って、揃えて、抱えた。それから、頭を下げた。長く下げていた。
◇
ヴィオレッタは、その間ずっと窓のほうを見ていた。
◇
妹三人は、次の月に来た。
いちばん上が十七、下が十二である。三人とも痩せていて、手紙を送ってきたいちばん上以外、読み書きができなかった。ヴィオレッタは字を教える者を付けさせ、給金の額を先に言い渡した。覚えれば上がる、覚えねば上がらぬ、と。
◇
下の娘が泣いた。
嬉しくて泣いたのではない。字を書かされるのが怖かったのである。ヴィオレッタは慰めなかった。慰めても、字は書けるようにならない。
詫びなかった。
あの男を、あの侍女の前に置いたのは自分である。詫びたところで、置いた事実は消えない。消えないものに口をきいても仕方がない。
◇
翌朝、マリアンヌが茶を運んできた。
湯を注ぎ、注ぎ口を布で拭き、姿勢を戻した。
ヴィオレッタは茶碗を持ち上げて、口をつけた。
切れたところに、まだ少ししみた。
◇
「熱うございますわね」
「はい。少し熱くしてまいりました」




