第29話 あの額に、お触れになりませぬよう
春になっても、マリアンヌは何も言わなかった。
箱は少しずつ埋まっていった。衣装、織り、櫃、馬具。ヴィオレッタが品で調えさせたものが、順に届いては納められる。届くたびに侍女は目録を確かめ、礼を言い、下がった。
◇
仕事はいつもどおりであった。
湯を運び、髪を結い、書状を仕分ける。手つきが一度も乱れなかった。乱れないのは、乱れる余裕がないからである。乱してよいのは、帰る場所のある者だけであった。
◇
夏の終わりまで、季節が一つになった。
リュエルの一行は、王都に居続けた。
国へ帰って夏にまた来るより、こちらで待つほうが安上がりだからである。宿は王都の東に取り、費えはこちらが持った。持たされたと言うほうが正しい。
◇
ティボーは、その二月をよく使った。
大臣に会い、商人に会い、修道院に寄進をした。南の葡萄酒の樽が、王都のいくつかの家に運ばれた。人当たりがよく、話が面白く、金離れがよい。王都は、この客を気に入った。
◇
気に入られた客ほど、落とすのに人が要る。
この縁談は、ヴィオレッタが持ちかけたものである。
去年の秋、王都の令嬢が扇を鳴らして自分の侍女を笑った。それが気にくわなかった。だから南の小国へ書状を出し、半年かけて王太子妃の座をまとめた。
◇
まとめてから、相手に会った。
会って、視た。何も立たなかった。
人の内側は、表と内にずれがあるときにだけ色が立つ。伏せているもの、隠しているもの、思っているのと違うことを言っている、その差が色になる。
ティボー・ド・リュエルには、差がなかった。
◇
二年前に妻を殴り殺したことを、この男は罪だと思っていない。
思っていないものは伏せようがない。伏せぬものは、視えない。
◇
――わたくしが、持ちかけた話でございますわ。
◇
王城に呼ばれたのは、雪解けの週であった。
アルベールは書き物の手を止めずに聞き、聞き終えてから顔を上げた。この男は、要約も省略も許さない。
「一つ残らず出せと申したはずだ」
「出すものが、まだございませんの」
「無いのか」
「ございません。ただいま、こしらえておりますところでございます」
◇
アルベールは筆を置いた。
「そなたは嘘をつかぬ。だから厄介だ」
「恐れ入ります」
「褒めておらぬ」
「あの男を、どうする」
「どうもいたしませんわ。いまのところは」
「いまのところは、と申したな」
「申しました」
◇
アルベールは、それ以上訊かなかった。
訊けば答えが返る。返った答えは、聞いた者の荷になる。この男は、荷になると分かっているものを、いつも承知で受け取る。今日は受け取らなかった。
◇
◇
彼女は嘘をつけない。
黙ることはできる。言わないことは、嘘ではない。
二日後、南の客を庭に誘った。
春の庭である。見るものが増えたぶん、供を遠くに置いても不自然にならない。ティボーは上機嫌で、こちらの薔薇の仕立てを褒めた。褒め方はやはり上手であった。
◇
「先の奥方のことを、伺ってもよろしゅうございますか」
「またその話ですか。姫君は、亡き者に親切であられる」
「あなたは、あの方を殴っておいででしたのね」
言った。
庭は静かで、風もなく、供は十歩以上離れていた。
◇
ティボーは足を止めた。
止めて、こちらを見た。それから、笑った。
「姫君は、噂をよくお集めになる」
「噂ではございません」
「では、女官の与太話でしょうな。あれは年寄りで、耳が遠い」
◇
男の内側は、動かなかった。
薄い色が一つだけ立っている。宴の晩に生まれた、この国では殴るまいという決めごとである。それは動かない。動かないから、そこにあるとだけ分かる。
◇
責めても痛まない。
人は、悪いと思っていることを責められたときに痛む。思っていないものを責められても、話が長い客が来たとしか感じない。
◇
――責めても、落ちませんわ。
◇
「奥方は、どこで転ばれましたの」
「城の西の階段です。下で見つかりました」
「どなたが見つけられましたの」
「さて。誰でしたか」
覚えていない。
歌の話も、菓子の話も、足が冷える話も覚えている男が、誰が妻を見つけたかを覚えていない。
◇
覚えていないのではない。
覚える値打ちがなかったのである。そこはこの男にとって、何も起きなかった場所であった。
「不愉快でございましたか」
「いいえ。姫君は、たいそう変わったお方だ」
「よく言われますわ」
「気に入りました」
◇
「それは、困りましたわ」
「なぜです」
「わたくしは、あなたに気に入られる用がございませんの」
ティボーは声を立てて笑った。
この男は、逆らわれるのが嫌いではない。嫌いなのは、逆らわれたことに気づかされることである。今日はまだ、気づいていない。
◇
ティボーは笑って歩き出した。
空振りである。
その晩、ドニ卿が来た。
供も付けず、廊で待っていた。五十がらみの、書き物の指をした男である。二年前、前の妃が死んだと各国へ知らせる文を書いた。
◇
「姫君。おやめくださいませ」
「何をですの」
「昼間の庭のことでございます」
「聞いておいででしたの」
「聞こえてはおりませぬ。姫君のお顔と、殿下のお足の止まり方でございます」
◇
この男の色は、二年、薄いまま立ち続けている。
濃くはならない。消えもしない。夜ごと少しずつ削られている者の色であった。
「あの方は、お怒りにはなりませぬ」
「では、何になりますの」
「……何にもなりませぬ。何にもならぬまま、手が出ます」
◇
「怒っておいでではないのに」
「はい。怒っておられぬときのほうが、速うございます」
「あなたは、何度ご覧になりましたの」
「……数えておりませぬ」
「数えられぬほど」
「数えぬようにいたしました。数えますと、止めねばならなくなりますので」
◇
止めなかった男が、二年、削られている。
削られてはいるが、いまも仕えている。人は、そういうふうに続けられる。
ドニ卿はそこで黙った。
黙ってから、言わずに済ませればよかったという顔をした。それでも続けた。この男は、二年ぶん喋りたかったのである。
◇
「姫君。お願いがございます」
「伺いますわ」
「あの額に、お触れになりませぬよう」
ヴィオレッタは、その一言を聞いた。
「子供のころに階段で切られたと伺いましたわ」
「さようでございます」
「ご自分でお見せになりました」
「見せるのはよろしいのです。触れられるのが」
◇
ドニ卿は一礼して下がった。
下がる背の色が、いくらか濃くなっていた。教えたつもりはないのであろう。止めたつもりであったろう。
◇
――ありがとう存じますわ。
◇
翌朝、マリアンヌが茶を運んできた。
湯を注ぎ終えて、姿勢を戻し、それから注ぎ口を布で拭いた。いつもは拭かない。
「お嬢様」
「なんですの」
「昨夜、ドニ卿がお見えでございました」
「ええ」
「何をなさるおつもりですか」
◇
ヴィオレッタは茶碗を持ち上げて、飲まずに置いた。
「あなたには関わりのないことですわ」
「わたくしの縁談でございます」
「わたくしがまとめた縁談でございます」
◇
マリアンヌは黙らなかった。
この侍女が主人に食い下がるのは、二年で二度目である。
「お嬢様がお怪我をなさるようなことは」
「怪我」
「はい」
「あなたは、これから殴り殺されに参りますのよ。人の怪我の心配をなさるお暇がおありですの」
◇
「……二年は保つと申し上げました」
「二年」
「はい」
「その二年で、あなたは何をなさいますの。歌でもお歌いになりますか」
言ってから、少しやりすぎたと思った。
思ったが、取り消さなかった。取り消せば、言ったことが嘘になる。
◇
マリアンヌの顔が白くなった。
白くなってから、頭を下げた。下げたまま、しばらく上げなかった。
「下がりなさい」
「……はい」
「それから、湯がぬるいですわ。昨日も、その前もぬるうございました」
◇
嘘ではなかった。
ぬるかったのは事実である。事実であることと、いま言う必要があることとは、別である。彼女は必要のないことを言った。
四月に入って、リュエルは商いの話を出してきた。
婚儀を機に、南の葡萄酒をこの国へ入れる。口をきくのは公爵家で、扱うのは王都の商会。話は大臣のあいだを、もう二度は回っていた。
◇
――これでございましたか。
◇
持参金は要らぬ、と向こうは書いてきた。
金より欲しいものがあったのである。山を二つ越えた小国が、大国の公爵家と縁続きになる。縁続きになれば、樽が通る。樽が通れば、国が保つ。
◇
侍女ひとりで、それが買える。
安い買い物であった。安いと踏んだからこそ、向こうは値をつけなかったのである。
◇
ヴィオレッタは、公爵家の名を貸さないことにした。
貸さぬと言ったのではない。買わぬと言っただけである。公爵家は南の葡萄酒を入れない。理由は、口に合わないから。
◇
それで足りた。
公爵家が入れぬものを、王都の家は入れない。二日で、話は大臣のあいだから落ちた。
◇
ティボーが来た。
この二月で、初めて笑っていない顔であった。
◇
「姫君。商いの話に、行き違いがございましたか」
「ございませんわ」
「では、なぜ」
「口に合いませんの」
◇
「……召し上がりましたか」
「いいえ」
「飲まずに、口に合わぬと」
「ええ。飲まずとも分かりますわ」
◇
嘘ではなかった。
この女は、気にくわぬものを口に入れない。入れる前から合わぬと決まっている。それを口に合わぬと言って、どこが嘘であろうか。
◇
ティボーは黙った。
黙っているあいだ、内側の色はやはり動かなかった。商いを潰されても、この男は痛まない。痛むのは、痛いと思っているところだけである。
◇
ただ、決めごとの色が、少し厚くなった。
この国では殴るまい、という決めごとである。厚くなるのは、試されているときであった。
◇
――もう少し。
◇
その週、侍女を一人辞めさせた。
三年勤めた娘である。理由は、歩くときに踵が鳴るからであった。あとから執事に、二月ぶん多く持たせておきなさいと伝えた。理由は言わなかった。
◇
送別の宴は、王城で開かれることになった。
公爵家ではない。花嫁は公爵家の侍女であって、王家に縁のある者ではない。それでも王城で開かれた。ヴィオレッタが望んだからである。
◇
望んだ理由を、彼女は誰にも言わなかった。
人が要る。
多いほどよい。身分の高い者ほどよい。この国でいちばん高いところにいる者が、その場にいるならば、なおよい。
◇
王城に上がって、臨席を願った。
「侍女の送別に、私が出るのか」
「出ていただきますわ」
「理由を申せ」
「格でございます」
嘘ではなかった。
格が要る。何のために要るのかは、言わなかった。言わないことは、嘘ではない。
◇
「そなた、何を企んでおる」
「企みますわ」
「答えになっておらぬ」
「なっておりますわ。企むと申し上げました」
アルベールは天井を見た。
「出よう」
「恐れ入ります」
「後で全部出せ」
「はい」
◇
招く家は、自分で選んだ。
口の軽い家から順に選んだ。噂を運ぶ足の速い家である。ラフォン伯爵家にも、わざわざ招きを出した。
伯爵夫人は来た。
娘の婚礼が終わった直後である。織り手を取り上げられ、間に合わせで仕立てた衣装で嫁がせたばかりであった。それでも招きには来る。来ないほうが高くつくからである。
◇
支度の日、ヴィオレッタは髪を高く結わせた。
頬の出る結い方である。侍女に理由を訊かれたので、そのほうが顔が見えるからだと答えた。嘘ではなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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