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悪役令嬢は、嘘だけはつかない ~悪気はございませんの~  作者: 桜野結
第4章

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第29話 あの額に、お触れになりませぬよう

 春になっても、マリアンヌは何も言わなかった。


 箱は少しずつ埋まっていった。衣装、織り、櫃、馬具。ヴィオレッタが品で調えさせたものが、順に届いては納められる。届くたびに侍女は目録を確かめ、礼を言い、下がった。


   ◇


 仕事はいつもどおりであった。


 湯を運び、髪を結い、書状を仕分ける。手つきが一度も乱れなかった。乱れないのは、乱れる余裕がないからである。乱してよいのは、帰る場所のある者だけであった。


   ◇


 夏の終わりまで、季節が一つになった。


 リュエルの一行は、王都に居続けた。


 国へ帰って夏にまた来るより、こちらで待つほうが安上がりだからである。宿は王都の東に取り、費えはこちらが持った。持たされたと言うほうが正しい。


   ◇


 ティボーは、その二月をよく使った。


 大臣に会い、商人に会い、修道院に寄進をした。南の葡萄酒の樽が、王都のいくつかの家に運ばれた。人当たりがよく、話が面白く、金離れがよい。王都は、この客を気に入った。


   ◇


 気に入られた客ほど、落とすのに人が要る。


 この縁談は、ヴィオレッタが持ちかけたものである。


 去年の秋、王都の令嬢が扇を鳴らして自分の侍女を笑った。それが気にくわなかった。だから南の小国へ書状を出し、半年かけて王太子妃の座をまとめた。


   ◇


 まとめてから、相手に会った。


 会って、視た。何も立たなかった。


 人の内側は、表と内にずれがあるときにだけ色が立つ。伏せているもの、隠しているもの、思っているのと違うことを言っている、その差が色になる。


 ティボー・ド・リュエルには、差がなかった。


   ◇


 二年前に妻を殴り殺したことを、この男は罪だと思っていない。


 思っていないものは伏せようがない。伏せぬものは、視えない。


   ◇


  ――わたくしが、持ちかけた話でございますわ。


   ◇


 王城に呼ばれたのは、雪解けの週であった。


 アルベールは書き物の手を止めずに聞き、聞き終えてから顔を上げた。この男は、要約も省略も許さない。


「一つ残らず出せと申したはずだ」


「出すものが、まだございませんの」


「無いのか」


「ございません。ただいま、こしらえておりますところでございます」


   ◇


 アルベールは筆を置いた。


「そなたは嘘をつかぬ。だから厄介だ」


「恐れ入ります」


「褒めておらぬ」


「あの男を、どうする」


「どうもいたしませんわ。いまのところは」


「いまのところは、と申したな」


「申しました」


   ◇


 アルベールは、それ以上訊かなかった。


 訊けば答えが返る。返った答えは、聞いた者の荷になる。この男は、荷になると分かっているものを、いつも承知で受け取る。今日は受け取らなかった。


   ◇


   ◇


 彼女は嘘をつけない。


 黙ることはできる。言わないことは、嘘ではない。


 二日後、南の客を庭に誘った。


 春の庭である。見るものが増えたぶん、供を遠くに置いても不自然にならない。ティボーは上機嫌で、こちらの薔薇の仕立てを褒めた。褒め方はやはり上手であった。


   ◇


「先の奥方のことを、伺ってもよろしゅうございますか」


「またその話ですか。姫君は、亡き者に親切であられる」


「あなたは、あの方を殴っておいででしたのね」


 言った。


 庭は静かで、風もなく、供は十歩以上離れていた。


   ◇


 ティボーは足を止めた。


 止めて、こちらを見た。それから、笑った。


「姫君は、噂をよくお集めになる」


「噂ではございません」


「では、女官の与太話でしょうな。あれは年寄りで、耳が遠い」


   ◇


 男の内側は、動かなかった。


 薄い色が一つだけ立っている。宴の晩に生まれた、この国では殴るまいという決めごとである。それは動かない。動かないから、そこにあるとだけ分かる。


   ◇


 責めても痛まない。


 人は、悪いと思っていることを責められたときに痛む。思っていないものを責められても、話が長い客が来たとしか感じない。


   ◇


  ――責めても、落ちませんわ。


   ◇


「奥方は、どこで転ばれましたの」


「城の西の階段です。下で見つかりました」


「どなたが見つけられましたの」


「さて。誰でしたか」


 覚えていない。


 歌の話も、菓子の話も、足が冷える話も覚えている男が、誰が妻を見つけたかを覚えていない。


   ◇


 覚えていないのではない。


 覚える値打ちがなかったのである。そこはこの男にとって、何も起きなかった場所であった。


「不愉快でございましたか」


「いいえ。姫君は、たいそう変わったお方だ」


「よく言われますわ」


「気に入りました」


   ◇


「それは、困りましたわ」


「なぜです」


「わたくしは、あなたに気に入られる用がございませんの」


 ティボーは声を立てて笑った。


 この男は、逆らわれるのが嫌いではない。嫌いなのは、逆らわれたことに気づかされることである。今日はまだ、気づいていない。


   ◇


 ティボーは笑って歩き出した。


 空振りである。


 その晩、ドニ卿が来た。


 供も付けず、廊で待っていた。五十がらみの、書き物の指をした男である。二年前、前の妃が死んだと各国へ知らせる文を書いた。


   ◇


「姫君。おやめくださいませ」


「何をですの」


「昼間の庭のことでございます」


「聞いておいででしたの」


「聞こえてはおりませぬ。姫君のお顔と、殿下のお足の止まり方でございます」


   ◇


 この男の色は、二年、薄いまま立ち続けている。


 濃くはならない。消えもしない。夜ごと少しずつ削られている者の色であった。


「あの方は、お怒りにはなりませぬ」


「では、何になりますの」


「……何にもなりませぬ。何にもならぬまま、手が出ます」


   ◇


「怒っておいでではないのに」


「はい。怒っておられぬときのほうが、速うございます」


「あなたは、何度ご覧になりましたの」


「……数えておりませぬ」


「数えられぬほど」


「数えぬようにいたしました。数えますと、止めねばならなくなりますので」


   ◇


 止めなかった男が、二年、削られている。


 削られてはいるが、いまも仕えている。人は、そういうふうに続けられる。


 ドニ卿はそこで黙った。


 黙ってから、言わずに済ませればよかったという顔をした。それでも続けた。この男は、二年ぶん喋りたかったのである。


   ◇


「姫君。お願いがございます」


「伺いますわ」


「あの額に、お触れになりませぬよう」


 ヴィオレッタは、その一言を聞いた。


「子供のころに階段で切られたと伺いましたわ」


「さようでございます」


「ご自分でお見せになりました」


「見せるのはよろしいのです。触れられるのが」


   ◇


 ドニ卿は一礼して下がった。


 下がる背の色が、いくらか濃くなっていた。教えたつもりはないのであろう。止めたつもりであったろう。


   ◇


  ――ありがとう存じますわ。


   ◇


 翌朝、マリアンヌが茶を運んできた。


 湯を注ぎ終えて、姿勢を戻し、それから注ぎ口を布で拭いた。いつもは拭かない。


「お嬢様」


「なんですの」


「昨夜、ドニ卿がお見えでございました」


「ええ」


「何をなさるおつもりですか」


   ◇


 ヴィオレッタは茶碗を持ち上げて、飲まずに置いた。


「あなたには関わりのないことですわ」


「わたくしの縁談でございます」


「わたくしがまとめた縁談でございます」


   ◇


 マリアンヌは黙らなかった。


 この侍女が主人に食い下がるのは、二年で二度目である。


「お嬢様がお怪我をなさるようなことは」


「怪我」


「はい」


「あなたは、これから殴り殺されに参りますのよ。人の怪我の心配をなさるお暇がおありですの」


   ◇


「……二年は保つと申し上げました」


「二年」


「はい」


「その二年で、あなたは何をなさいますの。歌でもお歌いになりますか」


 言ってから、少しやりすぎたと思った。


 思ったが、取り消さなかった。取り消せば、言ったことが嘘になる。


   ◇


 マリアンヌの顔が白くなった。


 白くなってから、頭を下げた。下げたまま、しばらく上げなかった。


「下がりなさい」


「……はい」


「それから、湯がぬるいですわ。昨日も、その前もぬるうございました」


   ◇


 嘘ではなかった。


 ぬるかったのは事実である。事実であることと、いま言う必要があることとは、別である。彼女は必要のないことを言った。


 四月に入って、リュエルは商いの話を出してきた。


 婚儀を機に、南の葡萄酒をこの国へ入れる。口をきくのは公爵家で、扱うのは王都の商会。話は大臣のあいだを、もう二度は回っていた。


   ◇


  ――これでございましたか。


   ◇


 持参金は要らぬ、と向こうは書いてきた。


 金より欲しいものがあったのである。山を二つ越えた小国が、大国の公爵家と縁続きになる。縁続きになれば、樽が通る。樽が通れば、国が保つ。


   ◇


 侍女ひとりで、それが買える。


 安い買い物であった。安いと踏んだからこそ、向こうは値をつけなかったのである。


   ◇


 ヴィオレッタは、公爵家の名を貸さないことにした。


 貸さぬと言ったのではない。買わぬと言っただけである。公爵家は南の葡萄酒を入れない。理由は、口に合わないから。


   ◇


 それで足りた。


 公爵家が入れぬものを、王都の家は入れない。二日で、話は大臣のあいだから落ちた。


   ◇


 ティボーが来た。


 この二月で、初めて笑っていない顔であった。


   ◇


「姫君。商いの話に、行き違いがございましたか」


「ございませんわ」


「では、なぜ」


「口に合いませんの」


   ◇


「……召し上がりましたか」


「いいえ」


「飲まずに、口に合わぬと」


「ええ。飲まずとも分かりますわ」


   ◇


 嘘ではなかった。


 この女は、気にくわぬものを口に入れない。入れる前から合わぬと決まっている。それを口に合わぬと言って、どこが嘘であろうか。


   ◇


 ティボーは黙った。


 黙っているあいだ、内側の色はやはり動かなかった。商いを潰されても、この男は痛まない。痛むのは、痛いと思っているところだけである。


   ◇


 ただ、決めごとの色が、少し厚くなった。


 この国では殴るまい、という決めごとである。厚くなるのは、試されているときであった。


   ◇


  ――もう少し。


   ◇


 その週、侍女を一人辞めさせた。


 三年勤めた娘である。理由は、歩くときに踵が鳴るからであった。あとから執事に、二月ぶん多く持たせておきなさいと伝えた。理由は言わなかった。


   ◇


 送別の宴は、王城で開かれることになった。


 公爵家ではない。花嫁は公爵家の侍女であって、王家に縁のある者ではない。それでも王城で開かれた。ヴィオレッタが望んだからである。


   ◇


 望んだ理由を、彼女は誰にも言わなかった。


 人が要る。


 多いほどよい。身分の高い者ほどよい。この国でいちばん高いところにいる者が、その場にいるならば、なおよい。


   ◇


 王城に上がって、臨席を願った。


「侍女の送別に、私が出るのか」


「出ていただきますわ」


「理由を申せ」


「格でございます」


 嘘ではなかった。


 格が要る。何のために要るのかは、言わなかった。言わないことは、嘘ではない。


   ◇


「そなた、何を企んでおる」


「企みますわ」


「答えになっておらぬ」


「なっておりますわ。企むと申し上げました」


 アルベールは天井を見た。


「出よう」


「恐れ入ります」


「後で全部出せ」


「はい」


   ◇


 招く家は、自分で選んだ。


 口の軽い家から順に選んだ。噂を運ぶ足の速い家である。ラフォン伯爵家にも、わざわざ招きを出した。


 伯爵夫人は来た。


 娘の婚礼が終わった直後である。織り手を取り上げられ、間に合わせで仕立てた衣装で嫁がせたばかりであった。それでも招きには来る。来ないほうが高くつくからである。


   ◇


 支度の日、ヴィオレッタは髪を高く結わせた。


 頬の出る結い方である。侍女に理由を訊かれたので、そのほうが顔が見えるからだと答えた。嘘ではなかった。

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