第28話 階段ではございませんわ
その夜、アデルを呼んだ。
部屋には二人だけにした。マリアンヌも外に出した。
「前の妃のことは、伺いませんわ」
アデルは黙って立っていた。手の甲の火傷を、片方の手で隠していた。隠す癖がついている手つきであった。
「わたくしは、人にものを訊くのが好きではございません。訊けば、答えが返ってまいります。答えは、返した者の責でございましょう」
「……」
「訊きませんわ。ですから、あなたの責にもなりませんわね」
◇
長い間があった。
燭台の火が一度傾いて、戻った。窓の外を、誰かが灯を持って通った。
「奥様は」
アデルが言った。
「左の耳が、聞こえておられませんでした」
ヴィオレッタは何も言わなかった。
言えば、訊いたことになる。
◇
「いつからですの」
「……三年目からでございます」
「お医者は」
「城には、おりました」
城には、いた。
呼ばれたとは言わなかった。
「奥様は、右からお声をかけるようにと、わたくしどもに仰せでした。左から呼ぶと、驚かれますので」
「驚かれる」
「はい。声をお上げになります。……声をお上げになりますと」
アデルはそこで黙った。
◇
「亡くなられる前の半年、奥方はどうしておいででしたの」
「……客間には、お出になりませんでした」
「ご病気で」
「いいえ」
「では」
「お顔が」
アデルは、そこでもう一度黙った。
二度黙る者は、黙るところを自分で選んでいる。選べるだけの分別があって、それでも二度とも、同じ側の話で黙った。
◇
「お体を清めたのは、あなたですの」
「いいえ」
「奥方付きの女官でございましょう」
「城の外の者が参りました。わたくしどもは、入れていただけませんでした」
それきり、何も言わなかった。
一礼して下がる背に、色は立たなかった。言ってしまえば、伏せているものはなくなる。
◇
――片方の耳。
◇
人は、片方の耳だけを階段で失わない。
半年、顔を人に見せられなかった女がいる。
その女が階段から落ちて死に、医者は呼ばれず、死んだあとも、長年仕えた女官が体に近づけてもらえなかった。
◇
落ちて死んだ者の顔は、隠さない。
隠すのは、落ちる前からついていたものがあるときである。
◇
――階段ではございませんわ。
◇
――わたくしが、持ちかけた話でございますわ。
◇
半年、書状をやり取りした。
字は丁寧で、日取りは細かく、こちらの体面がよく立ててあった。紙は嘘をつかない。つく必要がないからである。
彼女の目は、目の前にいる者にしか効かない。
紙には効かない。会っていない男には効かない。会わずに選んだ男を、半年かけて、自分の侍女にあてがった。
翌日の午後、ヴィオレッタは南の客を庭に誘った。
冬の庭である。見るものは何もない。何もないから、供は遠くに置いても不自然にならなかった。
◇
「先の奥方は、どのような方でございましたの」
訊いてしまってから、自分でも意外だと思った。
彼女は人にものを訊かない。訊けば答えが返り、返った答えを引き受けねばならなくなる。
◇
ティボーは足を止めた。
止めて、少し笑った。困った笑い方ではなかった。懐かしい話を振られた男の笑い方であった。
「よく笑う女でしたよ」
「そうでございますか」
「歌が上手でしてね。朝から歌う。城の者が皆、目を覚ましてしまうと言って笑っておりました」
◇
男は歩き出した。
歩きながら、その女の話を続けた。菓子の好みの話をし、馬を怖がった話をし、冬になると足が冷えて眠れぬと言っていた話をした。
どれも、よく覚えていた。
◇
「惜しいことをいたしました」
ヴィオレッタは、その内側を見ていた。
何も立たなかった。
惜しい、と言ったところでも、立たなかった。
嘘であれば、色が立つ。悔いていれば、悔いと言葉のあいだにずれが出る。庇っていれば、庇うぶんだけ厚くなる。
どれもなかった。
◇
――この男は、惜しいと思っている。
◇
――本当に、惜しいと思っている。
◇
歌が上手で、菓子が好きで、足の冷える女を、この男は惜しんでいる。
惜しみながら、二年前まで殴っていた。
その二つが、この男の中では喧嘩をしていない。
喧嘩をしていないものは、ずれない。
ずれないものは、視えない。
◇
「姫君は、お優しい」
ティボーが言った。
「亡くなった者のことを訊いてくださる方は、そう多くはありません」
「優しくはございませんわ」
「ご謙遜を」
「本当でございます。わたくしは、確かめておりましただけですの」
◇
嘘はつけない。
だから、いつも本当のことを言う。本当のことを言われた者は、たいてい、冗談だと思う。
ティボーは笑った。
翌朝、マリアンヌが茶を運んできた。
昨日と同じ手つきで湯を注ぎ、注ぎ終えてから口を開いた。
◇
「あの者を、見ておりました」
「どちらの」
「王太子でございます」
マリアンヌの目は、外しか見ない。
内側は視えない。だが外をよく見る。ヴィオレッタが十七年ものを覚えずに生きてきたぶん、この侍女は覚えている。
◇
「召使いに物をお渡しになるとき、必ず手が触れぬようになさいます」
「潔癖ですのね」
「いいえ」
マリアンヌは茶碗を置いた。
「触れるのがお嫌なのではございません。手の届く場所を、測っておいでです」
◇
「測る」
「はい。誰が、どこに立っているか。あの者は部屋に入られると、まず人の位置を数えられます。それから座られます」
ヴィオレッタは茶碗を持ち上げて、飲まずに置いた。
◇
――測る男。
◇
その日のうちに、アデルは国へ帰されることになった。
供が一人減る。理由は、体調がすぐれぬため、ということであった。ドニ卿が自ら伝えに来て、丁寧に詫びた。詫びる必要のない相手に詫びる男である。
◇
ヴィオレッタは止めなかった。
止めれば、あの女が何か言ったからだと知れる。知れれば、あの女は国に着く前にいなくなる。
馬車が出るとき、アデルは一度だけこちらを見た。
助けてくれとは言わなかった。言わないだけの分別が、この女には二年ぶんある。
◇
ヴィオレッタも、何も言わなかった。
言えることが一つもなかったからではない。言えば、この女のためになることが一つもなかったからである。
三日目に、宴を開いた。
公爵家の広間である。卓の数は十二。王都の家からも人を呼び、楽師を入れ、南の客に恥をかかせぬだけの支度をした。
◇
給仕には、先月入ったばかりの娘を立てた。
器を持つ手つきは悪くない。ただ、人の多い場所には慣れていない。
「なぜあの娘を」
マリアンヌが訊いた。
「慣れさせませんと」
嘘ではなかった。
人は慣れねばならない。嘘ではないが、それだけでもなかった。ヴィオレッタは、嘘をつかぬために、答えを半分だけ渡すことに慣れている。
◇
宴は和やかに進んだ。
ティボーは南の葡萄酒を持参しており、それを自ら注いで回った。愛想がよく、声がよく通り、卓ごとに違う話をした。王都の令嬢たちが幾人か、頬を染めていた。
◇
マリアンヌは壁際に立っていた。
この夜の宴は、この侍女のためのものである。当人だけが、その席を持たない。
王都の令嬢が三人、南の客を囲んでいた。
ティボーは三人に順に酒を注ぎ、順に違う言葉をかけた。一人には髪を、一人には扇を、一人には母君の消息を。三人とも、自分だけが特別に扱われたと思った顔をしていた。
◇
注ぎ終えると、男は半歩下がった。
半歩下がって、部屋を見た。
誰がどこに立っているかを、目で拾っていた。給仕が三人。楽師が四人。扉が二つ。ヴィオレッタは、それを見ていた。
◇
壁際のマリアンヌも、それを見ていた。
視線が一度だけ合った。侍女は何も言わなかった。言わなくても、同じものを見たことは分かった。
給仕の少年が、皿を落としかけた。
落としはしなかった。持ち直して、詫びて、下がった。
ティボーはその少年のほうを見なかった。見ずに、話を続けた。話を続けながら、少年が下がっていく先を、目の端で追っていた。
◇
――位置を数えている。
◇
その娘が酒器を運んできた。
卓の角を回るとき、ヴィオレッタは足を出した。
娘は転ばなかった。よろけただけである。
よろけて、酒器を傾けた。
◇
南の赤が、ティボーの膝から靴にかけて落ちた。
◇
広間が静かになった。
楽師が一拍だけ遅れて、弓を止めた。
◇
ティボーの手が上がった。
肘から先が、まっすぐに上がった。迷いのない上がり方であった。
肩から振り上げたのではない。肘から先だけが、いつもの高さまで、いつもの速さで上がった。振り下ろす先まで、もう決まっている手であった。
◇
十二の卓が、それを見ていた。
◇
手は止まった。
止まって、髪を撫でつける形に変わった。
「これは、私の不注意だ」
ティボーは笑った。
「注ぎ回るなど、王太子のすることではありませんな。娘、震えるな。私が悪い」
◇
広間が笑った。
笑いは大きく、長く、心から安堵していた。誰も、いま何を見たのかを口にしなかった。見なかったことにするほうが、宴は続けやすい。
娘は震えていた。
◇
「この国では、そうはなさらないのですわね」
◇
ヴィオレッタは、卓の向こうに言った。
声を落とさなかった。落とせば、庇ったことになる。
ティボーの笑いが、半分の速さになった。
「……こちらの流儀に、従いますとも」
◇
そのとき、初めて色が立った。
薄い、細い、たった今生まれたばかりの色である。
二年前に妻を殴り殺したことでは、この男の内側は動かない。罪だと思っていないからである。思っていないものは、伏せようがない。伏せぬものは、視えない。
だが、この国では殴らぬようにしよう、と決めた。
決めた瞬間に、伏せるものが生まれた。
◇
――ここまで来て、ようやく一つ。
◇
宴の終わりに、ティボーは婚礼を急いだ。
「春の初めに、と考えております」
「夏の終わりでございます」
「……ずいぶんと待たせられる」
「支度をいたしますのはこちらでございます。こちらの都合で申し上げますわ」
◇
「花嫁は、待たされるのを喜びますまい」
「わたくしの侍女でございます。喜ばせるのも、待たせるのも、わたくしの分でございますわ」
「春に迎えに参ると、国の者に申してまいりました」
「では、嘘をおつきになったのですわね」
「……姫君」
「わたくしは嘘が嫌いでございます。人につかせるのも、あまり好みませんの。ですから、夏の終わりと申し上げておりますのよ。今から申しておけば、嘘になりませんわ」
◇
ティボーは少し黙って、それから笑った。
「姫君は、値切らせてくださらぬ」
「値切られるようなものを、置いておりませんの」
夏の終わりまで、季節が二つある。
翌朝、南の客から詫びの品が届いた。
絹が二反。上等の品である。宛先は公爵家であった。酒をかぶったのは客のほうで、酒をこぼしたのは公爵家の給仕である。どちらから詫びる筋のものでもない。
◇
筋の通らぬ品は、たいてい、値をつけ直すために来る。
昼に、ティボーが自ら来た。
「昨夜の娘は、罰されましたか」
「いいえ」
「寛容であられる」
「寛容ではございませんわ。あの娘に落ち度がございませんもの」
「ほう」
「わたくしが足を出しましたの」
◇
ティボーは笑った。
声を立てて、長く笑った。今日いちばん機嫌のよい笑い方であった。
「姫君は、召使いを庇うのに、ずいぶん凝った嘘をおつきになる」
「嘘ではございません」
「なるほど、なるほど」
◇
男は信じなかった。
本当のことを言われた者は、たいてい、冗談だと思う。彼女は十八年、そうやって生きてきた。
◇
――信じなかった。
◇
信じていれば、この男は少し警戒したはずである。
自分の膝に酒をかけさせた女が、目の前にいると分かるからである。分からぬままでいてくれるなら、それに越したことはない。
◇
厨の裏で、その娘が器を洗っていた。
肩がまだ震えていた。洗い終えた器を、二度も置き直していた。
「よく倒しましたわ」
娘は何も言えずに、頭を下げた。
ヴィオレッタは詫びなかった。
足を出したのは自分である。詫びれば、出した意味がなくなる。それに、この娘に詫びたところで、この娘には何も返らない。
◇
その週から、マリアンヌは荷を整えはじめた。
夏の終わりまで季節が二つあるというのに、もう箱を出していた。入れるものが少ないので、整えるのに時間はかからない。それでも毎晩、少しずつ入れ替えていた。
◇
妹から手紙が来ていた。
いちばん上の妹の字である。姉上のおかげで、と書いてあり、そのあとに、姉上はお幸せですか、とは書いていなかった。訊けば答えが返る。この家の娘は、皆それを知っている。
◇
その夜、マリアンヌを部屋に呼んだ。
全部話した。
色が立たなかったこと。立たない理由。ドニ卿が二年眠れずにいること。片方の耳のこと。人前に出られなかった半年のこと。死んだあと、女官が近づけてもらえなかったこと。
マリアンヌは立ったまま聞いていた。
途中で一度も、座らせてくれとは言わなかった。
◇
話し終えると、部屋は静かになった。
窓の外で、馬が一度いなないた。誰かが厩の戸を閉めた。
◇
「参ります」
ヴィオレッタは顔を上げた。
「聞いておりませんでしたの」
「聞いておりました」
「聞いて、参ると」
「はい」
◇
「兄の借財は、来年の春に期限がまいります」
「妹は三人おります。上の妹は、来年で十七になります」
「わたくしが参れば、三人とも嫁げます。参らねば、一人も嫁げません」
◇
「それに、お嬢様がおまとめくださった話でございます」
「断りなさい。わたくしが持ちかけて、わたくしが引きますわ」
「お嬢様の顔が潰れます」
「そのようなもの、潰れて構いませんわ」
「わたくしが構います」
◇
「殴られますわよ」
「存じております」
「殴り殺されますわよ」
「……存じております」
「二年は保つと思っております。前の奥方が、そうでございましたので」
ヴィオレッタは長いこと黙っていた。
◇
「下がりなさい」
「お嬢様」
「下がりなさいと申しました」
マリアンヌは一礼して、扉のところで止まった。
止まって、振り向かずに言った。
「お嬢様は、お止めになりませんのね」
◇
「止めませんわ」
「わたくしのものだと申し上げましたけれど、わたくしのものを、わたくしが好きにするとは申しておりませんわ」
扉が閉まった。
ヴィオレッタは燭台の火を見ていた。
火は、傾きもせずに立っていた。
◇
――止めない。
◇
止めれば、あの侍女は借財を背負ったまま、この家に居続けることになる。
妹は三人とも嫁げず、兄は次の買い手を探す。次の買い手が、南の王太子より上等である保証はどこにもない。
◇
止めるというのは、そういうことである。
もっとも、止める資格の話でもない。
あの侍女の前に南の男を置いたのは、扇の音が気にくわなかった女である。詫びるつもりはない。詫びたところで、あの男は消えない。
◇
――ただ、あちらを潰す。
◇
潰せば、縁談は流れる。
流れれば、この侍女は何も手に入らない。借財も、妹も、そのままである。
それでも、殴られて死ぬよりはましであった。
まし、という言い方は好きではない。好きではないが、嘘ではない。
◇
翌朝、マリアンヌはいつもどおりに茶を運んできた。
昨夜のことは何も言わなかった。ヴィオレッタも訊かなかった。
「昨夜、あなたは何と申しましたかしら」
マリアンヌは湯を注ぎ終えて、姿勢を戻した。
◇
「参ります、と申し上げました」
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