番外編 数えていない 〜侍女マリアンヌの手記〜
ヴィオレッタ付きの侍女、マリアンヌの一人称です。 第三編の裏側にあたる、他愛のない話を集めました。 筋には関わりませんので、読み飛ばしても差し支えありません。
この冬は、書くことが多すぎた。
私は見たものだけを帳面につけている。感想は書かない。書かないと決めているのに、今期は三度ほど、うっかり書きかけて消した。
消した跡が残っている。
跡は感想ではないので、そのままにしてある。
◇
まず、菓子のことを書く。
あの方は、人前でどなたかを潰した日の夜、厨に菓子を七種類ご注文になる。全部ひとくちだけ召し上がって、残りは私が片づける。
これまでは、月に一度か二度だった。
この冬は、違った。
◇
女官頭。侯爵家のご令嬢。ご実家の家令。塔の修道女。王弟殿下の書役。
ひと月のあいだに、五度である。
◇
六度目の注文を出したとき、厨の下働きの子が、盆を渡しながら言った。
「もう、毎晩お作りしておきましょうか」
私は、断った。
断ってから、断る理由が自分でもよく分からなかった。
◇
冬の終わりに、去年の上着が入らなくなった。
◇
私は、菓子の数を三つに減らした。
「マリアンヌ。足りませんわ」
「五つでは、いかがでしょう」
「足りませんわ」
「……お嬢様。五つが下限でございましたでしょう」
あの方は、扇を開いた。
「いつ、そう申しましたの」
◇
仰っていない。
下限を決めたのは、私である。
勝手に決めた下限を、勝手に破られたと思って腹を立てていた。
◇
いまは、七つ運んでいる。
七つとも、あの方がひとくちずつ召し上がる。そこは変わらない。変えようがない。
変えたのは、そのあとである。
◇
三つを私が引き取り、残りの四つを厨へ戻す。
◇
公爵令嬢の食べかけである。
厨では、これを取り合っている。
◇
初めのうちは、半分がありがたがり、半分が気味悪がっていた。気味悪がったほうも、翌週には取り合うほうに回っている。
菓子だからである。
◇
言い出したのは私で、承知なさったのはあの方である。
仰ったのは、一言だった。
「勝手になさいまし」
◇
厨で私の評判が上がった。
私は何もしていない。上着が入らなくなっただけである。
◇
次に、賭けのことを書く。
あの方が扇をお開きになると誰かが落ちる。これは城の常識で、女官控えでは賭けになっていて、胴元は私だった。
種は、前に書いた。手が冷えるとお開きになる。それだけである。
◇
この冬、あの方は扇を開きっぱなしにしておいでだった。
◇
北棟は日が入らない。監査室というのは紙のために作った部屋で、人のためには作っていない。あの方はそこへ毎日おいでになる。
部屋が寒いので、扇が閉じない。
閉じないので、賭けが成立しない。
◇
賭けは、その月のうちに崩れた。
崩れるあいだに、実際には五人落ちている。開いた回数のほうは、数え切れない。掛け金は全部返した。
胴元として、初めての払い戻しである。
◇
よい商いでしたのに、と私は思う。
思っただけで、誰にも言っていない。
◇
王弟殿下のことを書く。
あの方が城にお入りになった日、私は廊下で礼をした。
陛下だと思ったからである。
◇
顔が同じで、声が同じで、歩き方まで似ておられる。違うのは肉の付き方だけで、廊下の暗いところではまず分からない。
通り過ぎてから、王弟殿下だと気がついた。
◇
その晩、うちのお嬢様に申し上げた。
「廊下で、王弟殿下を陛下と取り違えましてございます」
「まあ」
「……申し訳ございません」
「よろしいのですわ」
あの方は、扇を膝に置いた。
「外はそっくりでいらっしゃいますもの」
「外は、でございますか」
「ええ」
◇
それきりだった。
私は、内側がどうなのかを伺わなかった。
伺えば感想になるからではない。伺うと、たぶん答えが返ってきてしまうからである。
◇
私は、あの方の仰ることを全部知りたいわけではない。
知らずに済むぶんだけ、夜よく眠れる。
◇
なお、女官控えでは見分け方の一覧ができた。
厚いほうが弟君。痩せているほうが陛下。
書いたのは私ではない。写したのは私である。
◇
名前のことを書く。
この冬、城で最も流行ったのは、名前を覚えることだった。
◇
始まりは、塔の修道女である。
お嬢様が塔へおいでになったとき、麓の女が階段の三段目で止めた。止めた女は、その日のうちに塔から下りている。
城には、こう伝わった。
――名も訊かずに世話をしていたので、お怒りになった。
◇
違う。
止められたのが気にくわなかっただけである。
私はそばにいたので知っている。知っているが、訂正はしていない。
訂正すると、ややこしくなる。
◇
噂は、ひと月で城じゅうを回った。
◇
厨の下働きが、洗い場の娘の名を覚え始めた。馬丁が、厩の見習いの名を覚え始めた。女官控えでは、下級女官の名が読み上げられるようになった。
◇
六十を過ぎた女官頭が、洗い場の名簿を諳んじられるようになった。
立派なことである。
誰も幸せになっていないが、立派ではある。
◇
私も、一度やられた。
「マリアンヌ。厨の下働きは、何人おりますの」
「十四人でございます」
「お名前は」
◇
十四人ぶん、申し上げた。
毎晩、菓子を四つ分けている相手である。覚えていないほうがどうかしている。
◇
「よくできましたこと」
私は、嬉しくなかった。
嬉しくなかったのに、その晩、帳面に書いた。
◇
北棟のことを書く。
監査室に、ベルナールという記録官がいる。
四十がらみで、背が低く、指が黒い。線を引くのが速い。
この方とは、廊下でよく会う。会うたびに、同じことを言われる。
◇
「空の行は、簿になりませぬ」
「……はい」
「お伝えいただけますでしょうか」
「申し上げました」
「なんと仰せで」
「そのままでよろしいのですわ、と」
◇
ベルナールは、うなずいて去る。
ひと月に二度、これをやる。
◇
この方は、決めない。
決めないまま、線だけを引いておいでである。
私は、感想を申し上げない。申し上げないまま、見たものだけを書いている。
やっていることは、たぶん同じである。
◇
同じなので、菓子を分けることにした。
三つのうち、一つを北棟へ回している。私の取り分は、二つである。
ベルナールは、何も訊かずに受け取る。
食べかけであることには、たぶん気づいておいでではない。
◇
訊かないのが、いいところだと思う。
◇
上着のことを書く。
入らなくなった上着を、私は仕立て直しに出した。
出したものが戻ってきて、翌朝それを着ていたら、うちのお嬢様が振り返られた。
◇
「マリアンヌ」
「はい」
「よくお仕立てになりましたこと」
◇
私は、手を止めた。
◇
この言葉には、覚えがある。
舞踏会で、去年のお召し物を直してこられたご令嬢に、あの方が同じことを仰った。袖の縫い代が足りていない、という意味である。
宮廷は、これも賛辞だと思い始めている。
最上級は、いまも布地のほうである。
◇
「お嬢様」
「なんですの」
「それは、お褒めになっておいでではございませんね」
「褒めておりませんわ」
◇
あの方は、鏡のほうを向いた。
「二寸、お出しになりましたわね」
「……はい」
「三寸お出しになるべきでしたのよ」
◇
正しい。
◇
私は、仕立て屋に二寸と伝えた。三寸と言うのが嫌だったからである。
嫌だと思ったことを、鏡越しに当てられた。
◇
この方は、人の心が読めるわけではない。
縫い代を見ておいでなのである。
そちらのほうが、よほど始末に負えない。
◇
王弟殿下のお部屋に伺われた夜のことを書く。
「あの方は、わたくしを買いにおいでですのよ」
「……お売りになりますので」
「ええ。伺いますわ」
◇
私は、扉の外で待っていた。
二時間である。
◇
南棟の廊下は寒い。壁に何も掛かっていない。年に二度しか使わない部屋の前で、二時間立っていた。
中の声は、聞こえなかった。
◇
立っているあいだ、私はいろいろなことを考えた。
考えたことは、全部感想なので書かない。
◇
一つだけ書く。
もしお売りになったら、私は買い手のほうに付いていくのだろうか。それとも、置いていかれるのだろうか。
◇
置いていかれるほうだと思った。
◇
扉が開いて、あの方が出ておいでになった。
売れていなかった。
◇
最後に、これを書く。
王弟殿下が継承の順から外れた日、私は厨へ寄った。
七つ頼むつもりでいた。
◇
ご注文は、無かった。
◇
落としたのだから、あるはずである。私はそう思って、伺った。
「本日は、お作りいたしませんので」
「要りませんわ」
「……お嬢様」
「落としておりませんもの」
あの方は、扇を膝に置いた。
「数えただけでございますわ」
◇
厨は、その晩、暇だった。
◇
帰りの馬車で、あの方が仰った。
「わたくしの名は、何枚ございますの」
私は、数えた。
「公爵家の簿と、教区の登録簿。妃教育の記録と、婚約の触れ」
「四つ」
「……はい」
◇
四つである。
この冬に、三つお捨てになった。
◇
その晩、私は自分のぶんを数えてみた。
◇
公爵家の使用人名簿に、一枚。
◇
それだけである。
教区の登録簿にはあるはずだが、私は見たことがない。給金の帳面は、人数で書いてある。
一枚だった。
◇
少し、こわくなった。
◇
こわくなってから、気がついた。
薄れるのは、名を外された方々である。私は外されていない。外されるほど、どこかに載ってもいない。
載っていない者は、外しようがない。
◇
うちのお嬢様は、この冬、落とす相手の名を紙に書き留めておいでだった。三行あるそうである。
私の名は、そこに無い。
◇
数えていただいていないからである。
◇
数えていないものを、あの方は落とさない。
だから私は、たぶん安全である。
◇
安全ではあるが、これを安全と呼んでよいものかどうか、私にはよく分からない。
◇
私は、ヴィオレッタ・ド・アルヴェール様が嫌いだ。
お仕えするようになってから、一度も好きになったことがない。
嫌いなまま、あの方が数えなかったものを、私が数えている。
この冬は、自分のぶんも数えた。
◇
あと、上着は三寸出し直した。
お読みいただき、ありがとうございました!
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