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悪役令嬢は、嘘だけはつかない ~悪気はございませんの~  作者: 桜野結
第3章

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第26話 名

 王弟の部屋は、南棟の二階にあった。


 年に二度しか使わない部屋である。壁に何も掛かっておらず、卓と椅子と、旅の箱が二つ。長くいる者の部屋ではない。


 王弟は、この城で生まれている。


 生まれた城に部屋を持たないのは、兄が王になったからである。王になれば、弟は外へ出る。


   ◇


 出た先が、北の領地だった。


 雪が半年ある。人は少なく、印を押す紙も少ない。


 オーギュストは、火の前に立っていた。


「よく来られた」


「お呼びでございましたので」


「掛けられよ」


   ◇


 ヴィオレッタは、掛けた。


 この男は、酒も茶も出さなかった。


 出せば、人が入る。入れたくない話をするつもりでいる。


「十四年前の霜月に、わたしは城におった」


 前置きが、無かった。


   ◇


「兄上が、熱で臥せっておられた。……十日だ」


「伺っておりますわ」


「見舞に、三日通った」


「それも」


 男は、火のほうを向いたままだった。


「三日目に、兄上が目を覚まされた」


   ◇


「熱は、下がっておった。顔も、声も、同じだ」


 オーギュストは言った。


「わたしを見て、こう仰った。……どちら様でございましょう、と」


   ◇


   ◇


「四十を過ぎた弟が、目の前に立っておる。三十年、隣で育った弟だ」


 男は、火に一本くべた。


「兄上は、わたしを知らなかった」


「その日のうちに、思い出されましたわ」


「思い出したのではない」


   ◇


「翌日には、わたしの名を呼ばれた。その翌日には、母上のことも話された。……三日で、全部戻った」


「では」


「戻るものか」


 オーギュストは、振り返った。


「三十年ぶんが、三日で戻るものか」


 ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。


   ◇


 ――覚えたのですわね。


 三日で、覚えたのである。


 覚えられる場所にあったからだ。城には、王の一代ぶんを書いた紙が山ほどある。読める者が一人で読めば、三日で足りる。


   ◇


 城は、王のために書く。


 起きた日と、名と、誰に会ったか。日課の順、好んだ皿、狩りに出た日。書いてあるものを順に読めば、一人の男が一人ぶん組み上がる。


 組み上げたものを、顔の同じ体に載せる。


 載せれば、兄になる。


   ◇


「記録は、熱とお書かせになりましたわね」


「書かせた」


「なぜ」


 男は、少し黙った。


「当時、アルベールは六つだ」


 オーギュストは言った。


「兄上を退ければ、摂政が立つ。立つのは、印を持っておる者だ」


「北の領地の方には、印がございませんわね」


「無い」


   ◇


 この男は、そこを隠さなかった。


 隠す必要が無いと思っている。十四年前に王座を狙わなかったのは、狙っても取れなかったからである。取れないものを狙わないのは、恥ではない。


 ――お強いこと。


 恥だと思っていない者は、読んでも落ちない。


   ◇


 彼女が二年で落としてきた者は、みな何かを恥じていた。


 恥じているところを突かれると、人は隠す。隠した瞬間に、それは弱みになる。


 この男には、隠す場所が無い。


   ◇


「いまは、違う」


 彼女は言った。


「アルベール様は、二十でいらっしゃいますわ」


「そうだ」


「まだ、ご即位ではございませんわね」


「そうだ」


 オーギュストは、椅子に掛けた。


 掛けてから、初めてこちらを見た。


   ◇


「ご息女。わたしは、あなたを買いに来た」


   ◇


   ◇


「御前で、申していただきたい」


 男は言った。


「兄上の内側は、兄上ではない。……あなたには、それが見える」


 ヴィオレッタは、扇を開かなかった。


 この男は、正しい。


 国王の内側で鳴っているものを、彼女は二度聞いている。塔で聞いたのと同じ響きだった。


   ◇


 嘘は、つけない。


 訊かれれば、彼女は本当のことを言う。


 言えば、この男の勝ちである。


   ◇


 二年前の夜、彼女は同じことをした。


 広間の真ん中まで出ていって、この方は嘘をついておいでだと言った。言ったから、裁きが早く終わった。


 同じことを、今度は御前でやれと言われている。


「叔父上様」


「なんだ」


「わたくしの目は、証しになりませんの」


   ◇


「なった」


 男は言った。


「二年前に、一度なっておる」


 ――そこを買いにおいでですのね。


「大聖堂と、宰相府と、公爵家。三部の写しに、あなたの名が書いてあった」


 オーギュストは言った。


「あれが、この国であなたの目を紙にした唯一のものだ。……あれさえあれば、二度目も通る」


「ございませんわ」


   ◇


 男の指が、止まった。


「先日、消しましたの」


 ヴィオレッタは言った。


「御前で、お立ち会いでいらっしゃいましたわね」


 部屋が、静かになった。


 十日前、この男は自分の目の前でそれを見ている。


 見て、名を捨てる女だと読んだ。捨てられる女は買える、と読んだ。


   ◇


 買おうとした値打ちは、その日に彼女が捨てたものだった。


 名を捨てる女を見て、この男は「捨てられる女」と読んだ。


 読み違えではない。捨てたのは本当である。


 ただ、捨てたものが何であったかを、この男は数えていなかった。


   ◇


 いい色ですこと、とヴィオレッタは思った。


 ――わたくしを買いにおいでになるのでしたら、十日、お早うございましたわね。


 オーギュストは、笑わなかった。


 笑わないまま、内側が動いた。


 ――ならば、自分で言う。


 その色を、彼女はよく見た。


 見て、何も言わなかった。


 陛下に呼ばれたのは、翌日の午後である。


   ◇


 私室には、女官も侍従もいなかった。


 書棚が四つ。卓が一つ。窓の外に、冬の庭が見えた。


 国王は、卓の向こうに座っていた。


 五十を少し過ぎている。痩せていて、背が高く、顔の作りは弟と同じである。


 同じなのに、似ていない。


「座りなさい」


「はい」


   ◇


 呼ばれた理由を、彼女は考えなかった。


 考えるまでもない。十日前に名を捨てた女が、昨夜、王弟の部屋に呼ばれている。城で二つのことが続けて起きれば、陛下の耳には一つに聞こえる。


   ◇


 ヴィオレッタは、座った。


 座って、袖から紙を出した。


 訊かれる前に出した。


 訊かれてからでは、答えねばならなくなる。答えれば、どこで手に入れたかも言うことになる。


 四つに折ってある。折り目が、擦り切れている。


 卓の上で開いた。


   ◇


 行が四つ。字と字のあいだが空いていない。丸いものと、棒のようなものと、細かく引っ掻いたようなものが混ざっている。


 国王は、それを見た。


 見て、動かなくなった。


 鳴っていた。


   ◇


 歪んでいて、遅れていて、意味の取れない音が三つか四つ。塔で聞いたのと、同じ響きである。


 この距離で聞くのは、初めてだった。


 二度とも、遠かった。


 塔では扉の内側からで、私室では廊下越しだった。遠いので、音の形しか取れない。


 いまは、卓一つである。


   ◇


 近いと、鳴りの速さが分かる。


 この男の鳴りは、速い。考えている量が多いからである。


「どこで」


 国王は言った。


「塔でございます」


「いつ」


「去年の冬に」


 男は、紙の端に指を置いた。


「読まれたか」


「読めませんの」


「読めぬのに、持っておったか」


「はい」


   ◇


   ◇


「一年、袖に入れておりましたわ」


 ヴィオレッタは言った。


「読める者に差し出せば、その者が何かは一目で分かりますの。……差し出せば、こちらが何を持っているかも渡りますわね」


「渡したな」


「渡しましたわ」


 国王は、顔を上げた。


「なぜ、いま」


「陛下が、お書きになったからでございます」


   ◇


 男は、否定しなかった。


 否定せずに、四行目を指した。


「これは、名だ」


「存じておりますわ」


「誰の名かも」


「塔の女のものでございましょう」


「聖名の前の名ではない」


 国王は言った。


「その前の、前だ」


 ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。


 ――なぜ、ご存じですの。


 訊かなかった。


 訊かずに、待った。


   ◇


 国王は、窓の外を見た。


「四年前に、一度会った」


 男は言った。


「聖名を賜る儀の前だ。……大聖堂で、列の端に立っておった」


「わたしは、一言かけた」


「この国の言葉ではない。……教会の言葉でもない」


 国王は、指を紙の上に置いたままにした。


「かけて、顔を見た」


   ◇


 外から言ってやれば、分かる者は顔が動く。分からぬ者は、動かない。


 中で鳴るほうは、本人にしか鳴らない。


 ――同じことを、お考えになりましたのね。


 彼女は視える。この男は、視えない。


 視えない者が同じ場所に辿り着くには、声に出して確かめるしかない。


「動きましたの」


「動いた」


「それから」


「名乗った」


   ◇


 国王は、そこで一度、口を閉じた。


   ◇


「あの女は、自分から名乗った。……十年ぶりに呼ばれた、と申した」


   ◇


   ◇


 ヴィオレッタは、四行目を見た。


 この一行は、聞き書きである。


 名乗った者がいて、書き留めた者がいた。書き留めたものが、いまこの卓の上にある。


   ◇


 書き留めたのは、この男である。


 聞いたその日に書いたのだろう。前世の字で書いたのは、この国の字で書けば誰かが読むからである。


 読まれれば、書いた者が何者かも分かる。


 ――この世で、ここにしかございませんのね。


   ◇


「それから、お書きになりましたの」


「書いた」


「何と」


「名を外されるな、と」


 国王は言った。


「聖名を受ければ、前の名が簿から消える。消えれば、薄れる。……二百年、三十二人がそうなった」


「お調べになりましたのね」


「十年かけた」


   ◇


   ◇


 十四年前に来て、十年読んだ。読み終えたのが、四年前である。


 この男は、毎晩読んだ。


 王の書斎には誰も入らない。入らない部屋で、教区の登録簿の写しと、教会の書付と、二百年ぶんの墓の記録を並べた。


   ◇


 並べて、六年ごとに人が入れ替わっていることに気づいた。


 気づいてから、なぜかが分かるまでに、さらにかかった。


 読み終えた年に、次の聖女が立った。


   ◇


「間に合いましたのに」


 ヴィオレッタは言った。


「書いたのは、儀のあとだ」


「なぜ」


「儀の前に渡せば、あの女は逃げる」


 男は、指を紙から離した。


「逃げれば、教会が追う。追えば、わたしが渡したことが出る」


 ――ご自分を、お守りになりましたのね。


   ◇


 ヴィオレッタは、その内側を覗いた。


 濁っていない。


 この男は、隠していない。伏せてもいない。自分が何をしたかを、十四年ぶん畳んでそこに置いてある。


 置いてあるものを、彼女は好きなだけ覗くことができる。


 覗いても、何も起きない。


   ◇


 この男は、自分を許していないからである。


 許していない者から、取り上げられるものは何も無い。


 彼女は他人の内側で、いつも「自分は正しい」を探してきた。


 正しいと思っている者は、必ずどこかで詰まる。詰まったところを突けば、色が抜ける。


   ◇


 この男は、正しいと思っていない。


 思っていないまま、十四年、国を治めてきた。


「紙は、いつお渡しになりましたの」


「断罪の三日後だ」


「塔へ」


「人をやった」


「あの女は、読めましたの」


   ◇


「読めなかった」


   ◇


 国王は、そう言った。


「教会が記録を終わらせたのは、断罪の当日だ。……三日で、字が抜けた」


 三日である。


 名が簿から全部消えた日から、三日。


   ◇


 断罪の当日に、教会は記録を終わらせた。


 終わらせた翌日から、あの女は字を読まなくなった。二日目には、読めなくなった。三日目に、この男の使いが着いた。


 使いは、紙を置いて帰った。


 置かれた紙は、卓の隅に一年あった。


 ヴィオレッタは、扇を開かなかった。


「四年、遅うございましたわね」


   ◇


 国王の手が、卓の上で止まった。


 これを言える者は、この国に一人しかいない。


 言っても、この男は彼女を切れない。切れば、切った理由が残る。


「陛下」


「なんだ」


「陛下は、二百年でいちばん厚いお名前をお持ちですわ」


   ◇


「貨幣に打ってございます。法令の頭にございます。教区の登録簿の一枚目にございますわ。朝夕の祈祷で、二度読まれますの」


 彼女は言った。


「お一人だけ、薄れませんのね」


「そうだ」


「三十二人は、薄れましたわ」


「薄れた」


「陛下は、それをご存じで、十年お読みになっておいででしたのね」


   ◇


 国王は、答えなかった。


 答えないので、彼女はもう一つ置いた。


「三年前から、記録の書き方をお変えになりましたわね」


「変えた」


「何のために」


「厚くするためだ」


 男は、そう言った。


 十年読んで、理屈が分かった。


 分かって、最初にしたのは、自分の名を厚くすることだった。


   ◇


 あの者たちを救う手だてを、この男は十年かけて一つも思いつかなかった。


 思いついたのは、自分が薄れない方法だけである。


 思いついたものを、すぐにやった。


 やってから、一人だけ助けようとして、三日遅れた。


 ――お上手ですこと。


   ◇


 ヴィオレッタは、立った。


 立って、礼をした。


「陛下」


「なんだ」


「わたくしは、陛下を落としませんわ」


「落とせるか」


「落とせませんの」


 彼女は、扇を開いた。


「紙が、ございませんもの。……先日、自分で捨てましたので」


   ◇


   ◇


 自室に戻って、彼女は紙を出した。


 一行目に、オノレ。


 二行目に、ジェルヴェ。


 替えの利く男の名である。


 三行目に、羽根ペンを下ろした。


 書いた。


 この国の貨幣に打ってある名である。


 書いてから、彼女はしばらくその一行を見ていた。


   ◇


 この紙は、落とす相手を書き留めるために作った。


 一行目と二行目は、替えの利く男である。書いておけば、替わったときに分かる。


 替えは、利かない。


 利かないので、落とすこともできない。


 書き留めたのは、落とすためではなかった。


   ◇


 ――数えるためですわ。


 数えれば、何人いるかが分かる。


 何人いるかが分かれば、二百年で何人減ったかも出る。出れば、次に減るのが誰かも読める。


 三行目までで、三人である。


 四行目には、まだ誰も書かない。


 御前会議が開かれたのは、三日後である。


   ◇


 議題は、監査の進み具合だった。


 三十一行が埋まり、三十二行目が空のまま残っている。教会は記録の開き直しに入っている。


 それだけの会である。


 オーギュストは、最後に手を挙げた。


「一つ、申し上げたい」


 男は、立った。


   ◇


「兄上は、十四年前に変容しておられる」


   ◇


   ◇


 部屋の色が、一斉に動いた。


 記録官の筆が、止まった。


 止まってから、書き始めた。


 ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。


 ――お言いになりましたわね。


   ◇


 病、とは言わなかった。


 病と言えば、廃せる。廃せば、新しい王の後見に入れる。


 だが病では、弱い。十四年前の熱の届は、この男自身が書かせたものである。書かせた男が、いまさら病を持ち出せば、なぜ十四年黙っていたかを訊かれる。


   ◇


 だから、重いほうを選んだ。


 変容である。


 この半年、宮廷はその言葉ばかり喋っていた。三十人が大聖堂で聞いて、三日で城じゅうが覚えた。誰でも知っている言葉になっていた。


 誰でも知っているものは、軽く見える。


 軽く見えるものが、いちばん重かった。


   ◇


 この男は、宮廷が半年喋っている言葉を選んだ。


 選べば、誰にでも通じる。通じれば、その場で決まる。


 通じる言葉には、通じるだけの中身が付いている。


 付いている中身を、この男は読んでいない。


「大司教猊下」


 ヴィオレッタは言った。


 オノレが、顔を上げた。


   ◇


「変容は、教会がお認めになるものでございますわね」


「……さようでございます」


「三十二例でございましょう」


「はい」


「一度の例外もございませんのね」


「ございませぬ」


 彼女は、扇を開いた。


   ◇


「では、三十三例目でございますわ」


   ◇


   ◇


 オノレの口が、開いた。


 開いて、言葉が出なかった。


 この男は、断れない。


 教会は、変容を認めてきた。認めてきたものを、今日だけ認めないとは言えない。言えば、二百年が崩れる。


 ――前の猊下が、お作りになったものでございますわ。


   ◇


「猊下。変容をお認めになった方は、その後どうおなりですの」


「……御業に仕え、やがて薄れてまいります」


「三十二代、皆さまそうでいらっしゃいましたわね」


「さようでございます」


 ヴィオレッタは、そこで一度、止まった。


「陛下は、薄れておいでですの」


   ◇


   ◇


 誰も、答えなかった。


 この十四年、国は治まっている。


 堰が直り、税が均され、隣国との更新が滞りなく回っている。薄れた者に、それはできない。


「薄れておいででしたら、十四年の治政はどなたがお立てになりましたの」


 宰相が、書付から目を上げた。


   ◇


 この男は、十四年ぶんの帳面を全部見ている。


 見ている者の前で、薄れていたとは言えない。


 堰の普請は、五年目に入っている。税の均しは、三年で通った。隣国との更新は、去年の夏から滞りなく回っている。


 どれも、この宰相が卓の上で回してきたものである。


   ◇


 回してきた者に、薄れた王が上に座っていたことを認めさせるのは、無理だった。


「薄れて、おられぬ」


 宰相は言った。


「では、変容ではない」


 オーギュストが言った。


 そこだった。


 ヴィオレッタは、扇を閉じた。


「叔父上様。いま、お取り下げになりますの」


   ◇


 男の口が、止まった。


 取り下げれば、王弟が御前で偽りを申し立てたことになる。記録官は、もう書いている。


 取り下げなければ、陛下は変容しておられることになる。


   ◇


 変容しておられて、薄れておられない。


「猊下」


 ヴィオレッタは言った。


「薄れぬ変容が、二百年で一例もございませんでしたのは、なぜでございましょう」


 オノレは、答えられなかった。


 答えられないので、彼女が答えた。


「お名前でございますわ」


   ◇


 部屋が、静かになった。


「聖名を賜れば、前のお名前が簿から外れますの」


 彼女は言った。


「外れれば、どこにも書かれておりませんわね。書かれていないものから順に、薄れますのよ」


「あの方々は、外されましたわ」


「陛下は、外されておりませんの」


   ◇


 彼女は、卓の上に指を置いた。


「貨幣。法令。教区の登録簿の一枚目。朝夕の祈祷。城の書付には、日付の隣に必ず並びますわ」


「この国でいちばん厚いお名前でございますの」


   ◇


「厚いので、薄れませんわ」


   ◇


 部屋の色が、一斉に動いた。


 この国は長く、聖女が薄れるのを御業と呼んできた。今日、御業に理屈が付いた。


 付いたのは、紙の数である。


 神でも、血でもない。書かれている紙の数で、人が保たれたり保たれなかったりする。


 それが本当なら、この部屋にいる全員が数えられる側になる。


 数え始めた顔が、幾つかあった。


   ◇


   ◇


 オーギュストが、こちらを見た。


 ――名。


 この男は、いま初めてそれを聞いた。


 兄を疑ってきた十四年、この男は名前の勘定を一度もしなかった。


   ◇


 この男は、人を数えてきた。


 誰が印を持ち、誰が誰の下におり、王位の順が何番目か。数える先が、全部「人」だった。


 名は、人に付いている札だと思っている。


 札のほうが人を保つとは、思いつかない。


「叔父上様」


 ヴィオレッタは言った。


「王座が、陛下をお保ちしておりますのよ」


「お退けになれば」


   ◇


「薄れますわ」


   ◇


   ◇


 オーギュストは、立ったままだった。


 立ったまま、指が卓の端にかかった。


 ――廃せば、死ぬ。


 濁っていない。


 この男は、兄を殺すつもりではなかった。退けて、後ろに立つつもりだった。退けた日に兄が薄れ始めるなら、それは弑逆と同じ形をしている。


 同じ形のものを、御前で申し立てた記録が残る。


   ◇


 記録官は、二人いる。


 二人とも、いま同じ言葉を同じ日付で書いている。冬に、この城は同じ形のものを一度作っている。


 作ったものは、丸まらなかった。


 国王が、立った。


「弟よ」


   ◇


「そなたが、申し立てた」


   ◇


   ◇


 オーギュストは、答えなかった。


「教会が認めれば、わたしは神に触れられた者になる」


 国王は言った。


「認めさせたのは、そなただ」


「取り下げるか」


「……」


   ◇


「取り下げぬなら、一つ片づけねばならぬ」


 男は、卓を回った。


「申し立てた者が、王位の順の二番目におる。……二番目の者が申し立てたものを、この国は信じられぬ」


   ◇


「降りよ」


   ◇


   ◇


 オーギュストは、そこで初めて息を吸った。


 降りれば、申し立ては私心の無いものになる。兄は神に触れられた者として残り、王座は動かない。


 降りなければ、偽りを申し立てた王弟になる。


 どちらでも、この男の十四年は終わる。


   ◇


「……降ります」


   ◇


   ◇


 継承の順から王弟の名が外れたのは、その日の夕方である。


 外れただけである。


 領地はそのまま、名もそのまま、館も従者もそのままだった。


 落ちていない。


 落ちていないが、この男はもう一度も城に来ない。


   ◇


 王位の順から名が外れるというのは、そういうことである。


 建国祭に呼ばれる。葬いに呼ばれる。それ以外の日に、城が用を作らなくなる。


 用が無い者の名は、城の書付に並ばない。


 並ばなくなったものが、どうなるかを、この男はまだ知らない。


   ◇


 廊下で、すれ違った。


 ヴィオレッタは、礼をした。


 礼をしてから、言った。


「叔父上様は、お名前の勘定をなさいませんのね」


「……」


「わたくし、そればかり数えておりますの」


 男は、何も言わなかった。


 言わないまま、通り過ぎた。


 ――お名前は、薄れませんわ。


   ◇


 北の領地の書付に、毎日書かれる名である。


 書かれるが、誰も読まない。


 教会が記録を開き直したのは、その月のうちだった。


 前の名が、出た。


 ベルナールが、三十二行目に書いた。


   ◇


 変容の日。上申の日。選定の日。聖名を授けた日。前の名。


 五つとも、埋まった。


 簿は、綴じられた。


「二百年、置きます」


 ベルナールは言った。


「二百年、どなたが確かめますの」


「……教会が、お確かめになりました」


   ◇


 署名の欄に、大司教の名がある。


 自分の手で書いてある。


 教会は、三十二例を認めた。


 認めたものを、これから二百年、王家の簿が持つ。持つ側が変われば、次に名を外すときには王家の許しが要る。


 一つ増えただけの欄である。


 増えただけだが、消せなくなった。


 ヴィオレッタは、うなずいた。


   ◇


 塔へ行ったのは、雪の降る日だった。


 馬車で二時間。門は、書状で開いた。


 麓の小屋に、修道女が一人いた。


 前の女ではない。


 石の階段は、二百と七段ある。


 誰も、止めなかった。


 独房は、前と同じだった。


 卓と、寝台と、燭台。窓の格子。


 栗色の髪の女が、同じ椅子に座っていた。


   ◇


「セシリア」


 女が、顔を上げた。


「はい」


「お前の名は」


   ◇


「セシリアです」


   ◇


   ◇


 ヴィオレッタは、扉の内側で止まった。


 止まって、しばらく何も言わなかった。


 ――置く場所ができましたのね。


 王家の簿に一行ある。教区の登録簿に写しが回っている。二百年ぶんの束の末尾に、一つ足された。


 足された名は、消えない。


   ◇


 消えなければ、薄れない。


 戻りはしない。


 抜けた十年は、抜けたままである。


 十年ぶんの中身は、どこにも書いていない。


 書いていないものは、戻らない。戻すには、書いた者が要る。あの十年を書き留めた者は、この世に一人もいなかった。


   ◇


 名だけが戻った。


 名だけである。


 彼女は、椅子に腰を下ろした。


「ヴィオレッタと申しますわ」


「……そう」


 女は、少し笑った。


   ◇


「きれいな名前だね」


   ◇


   ◇


 三度目である。


 三度とも、同じことを言われた。


 ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。


 この女の中に、置く場所は作らなかった。


 作れるのは、簿のほうだけである。


   ◇


 この女は、明日もヴィオレッタを忘れる。


 忘れたまま、自分の名前は覚えている。覚えている場所が、外にできたからである。


 外にあるものは、減らない。


 減らないので、この女はもう薄れない。


 ――それで結構ですわ。


 帰りの馬車で、雪が強くなった。


   ◇


 マリアンヌが、膝掛けをよこした。


「お嬢様」


「なに」


「三十二行目は、どなたがお書きになりましたので」


「ベルナールですわ」


「……その前は」


 ヴィオレッタは、窓の外を見た。


   ◇


 教会が記録を開き直した。開き直せたのは、裁きの終わりが動いたからである。動いたのは、証しが一つ取り下げられたからである。


 取り下げたのは、彼女である。


 そう書いてある紙は、どこにも無い。


   ◇


 御前の記録に残っているのは、気にくわないから落としたと申した女の一行だけである。


 二年の仕事が、一行になった。


 一行になったものを、宮廷はこれから何年も読む。読んで、近寄らなくなる。


   ◇


 近寄られないほうが、仕事は早い。


 早いほうがよい理由は、もう無い。


「マリアンヌ」


「はい」


「わたくしの名は、何枚ございますの」


 侍女は、少し考えた。


「公爵家の簿と、教区の登録簿。妃教育の記録と、婚約の触れ」


「四つ」


「……はい」


   ◇


「三部、減りましたわね」


「はい」


 ヴィオレッタは、膝掛けを掛けた。


 減った。


 減ったが、薄れてはいない。


 まだ、四つある。


 ――足りておりますわ。


 少し前まで、彼女は自分の名を数えたことがなかった。


 数えなくても減らないと思っていた。減らないのではなく、誰も取りに来なかっただけである。


   ◇


 取りに来る者がいると分かったのは、この冬である。


 城に戻ると、東棟から呼ばれた。


 アルベールは、書類を読んでいた。


「叔父上は、北へ発たれた」


「伺いましたわ」


「継承の順は、私の次が空いた」


「左様でございますね」


 羽根ペンが、動いていた。


「君がやったのか」


「いいえ」


 ヴィオレッタは、扇を開いた。


   ◇


「数えただけですわ」


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