第26話 名
王弟の部屋は、南棟の二階にあった。
年に二度しか使わない部屋である。壁に何も掛かっておらず、卓と椅子と、旅の箱が二つ。長くいる者の部屋ではない。
王弟は、この城で生まれている。
生まれた城に部屋を持たないのは、兄が王になったからである。王になれば、弟は外へ出る。
◇
出た先が、北の領地だった。
雪が半年ある。人は少なく、印を押す紙も少ない。
オーギュストは、火の前に立っていた。
「よく来られた」
「お呼びでございましたので」
「掛けられよ」
◇
ヴィオレッタは、掛けた。
この男は、酒も茶も出さなかった。
出せば、人が入る。入れたくない話をするつもりでいる。
「十四年前の霜月に、わたしは城におった」
前置きが、無かった。
◇
「兄上が、熱で臥せっておられた。……十日だ」
「伺っておりますわ」
「見舞に、三日通った」
「それも」
男は、火のほうを向いたままだった。
「三日目に、兄上が目を覚まされた」
◇
「熱は、下がっておった。顔も、声も、同じだ」
オーギュストは言った。
「わたしを見て、こう仰った。……どちら様でございましょう、と」
◇
◇
「四十を過ぎた弟が、目の前に立っておる。三十年、隣で育った弟だ」
男は、火に一本くべた。
「兄上は、わたしを知らなかった」
「その日のうちに、思い出されましたわ」
「思い出したのではない」
◇
「翌日には、わたしの名を呼ばれた。その翌日には、母上のことも話された。……三日で、全部戻った」
「では」
「戻るものか」
オーギュストは、振り返った。
「三十年ぶんが、三日で戻るものか」
ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。
◇
――覚えたのですわね。
三日で、覚えたのである。
覚えられる場所にあったからだ。城には、王の一代ぶんを書いた紙が山ほどある。読める者が一人で読めば、三日で足りる。
◇
城は、王のために書く。
起きた日と、名と、誰に会ったか。日課の順、好んだ皿、狩りに出た日。書いてあるものを順に読めば、一人の男が一人ぶん組み上がる。
組み上げたものを、顔の同じ体に載せる。
載せれば、兄になる。
◇
「記録は、熱とお書かせになりましたわね」
「書かせた」
「なぜ」
男は、少し黙った。
「当時、アルベールは六つだ」
オーギュストは言った。
「兄上を退ければ、摂政が立つ。立つのは、印を持っておる者だ」
「北の領地の方には、印がございませんわね」
「無い」
◇
この男は、そこを隠さなかった。
隠す必要が無いと思っている。十四年前に王座を狙わなかったのは、狙っても取れなかったからである。取れないものを狙わないのは、恥ではない。
――お強いこと。
恥だと思っていない者は、読んでも落ちない。
◇
彼女が二年で落としてきた者は、みな何かを恥じていた。
恥じているところを突かれると、人は隠す。隠した瞬間に、それは弱みになる。
この男には、隠す場所が無い。
◇
「いまは、違う」
彼女は言った。
「アルベール様は、二十でいらっしゃいますわ」
「そうだ」
「まだ、ご即位ではございませんわね」
「そうだ」
オーギュストは、椅子に掛けた。
掛けてから、初めてこちらを見た。
◇
「ご息女。わたしは、あなたを買いに来た」
◇
◇
「御前で、申していただきたい」
男は言った。
「兄上の内側は、兄上ではない。……あなたには、それが見える」
ヴィオレッタは、扇を開かなかった。
この男は、正しい。
国王の内側で鳴っているものを、彼女は二度聞いている。塔で聞いたのと同じ響きだった。
◇
嘘は、つけない。
訊かれれば、彼女は本当のことを言う。
言えば、この男の勝ちである。
◇
二年前の夜、彼女は同じことをした。
広間の真ん中まで出ていって、この方は嘘をついておいでだと言った。言ったから、裁きが早く終わった。
同じことを、今度は御前でやれと言われている。
「叔父上様」
「なんだ」
「わたくしの目は、証しになりませんの」
◇
「なった」
男は言った。
「二年前に、一度なっておる」
――そこを買いにおいでですのね。
「大聖堂と、宰相府と、公爵家。三部の写しに、あなたの名が書いてあった」
オーギュストは言った。
「あれが、この国であなたの目を紙にした唯一のものだ。……あれさえあれば、二度目も通る」
「ございませんわ」
◇
男の指が、止まった。
「先日、消しましたの」
ヴィオレッタは言った。
「御前で、お立ち会いでいらっしゃいましたわね」
部屋が、静かになった。
十日前、この男は自分の目の前でそれを見ている。
見て、名を捨てる女だと読んだ。捨てられる女は買える、と読んだ。
◇
買おうとした値打ちは、その日に彼女が捨てたものだった。
名を捨てる女を見て、この男は「捨てられる女」と読んだ。
読み違えではない。捨てたのは本当である。
ただ、捨てたものが何であったかを、この男は数えていなかった。
◇
いい色ですこと、とヴィオレッタは思った。
――わたくしを買いにおいでになるのでしたら、十日、お早うございましたわね。
オーギュストは、笑わなかった。
笑わないまま、内側が動いた。
――ならば、自分で言う。
その色を、彼女はよく見た。
見て、何も言わなかった。
陛下に呼ばれたのは、翌日の午後である。
◇
私室には、女官も侍従もいなかった。
書棚が四つ。卓が一つ。窓の外に、冬の庭が見えた。
国王は、卓の向こうに座っていた。
五十を少し過ぎている。痩せていて、背が高く、顔の作りは弟と同じである。
同じなのに、似ていない。
「座りなさい」
「はい」
◇
呼ばれた理由を、彼女は考えなかった。
考えるまでもない。十日前に名を捨てた女が、昨夜、王弟の部屋に呼ばれている。城で二つのことが続けて起きれば、陛下の耳には一つに聞こえる。
◇
ヴィオレッタは、座った。
座って、袖から紙を出した。
訊かれる前に出した。
訊かれてからでは、答えねばならなくなる。答えれば、どこで手に入れたかも言うことになる。
四つに折ってある。折り目が、擦り切れている。
卓の上で開いた。
◇
行が四つ。字と字のあいだが空いていない。丸いものと、棒のようなものと、細かく引っ掻いたようなものが混ざっている。
国王は、それを見た。
見て、動かなくなった。
鳴っていた。
◇
歪んでいて、遅れていて、意味の取れない音が三つか四つ。塔で聞いたのと、同じ響きである。
この距離で聞くのは、初めてだった。
二度とも、遠かった。
塔では扉の内側からで、私室では廊下越しだった。遠いので、音の形しか取れない。
いまは、卓一つである。
◇
近いと、鳴りの速さが分かる。
この男の鳴りは、速い。考えている量が多いからである。
「どこで」
国王は言った。
「塔でございます」
「いつ」
「去年の冬に」
男は、紙の端に指を置いた。
「読まれたか」
「読めませんの」
「読めぬのに、持っておったか」
「はい」
◇
◇
「一年、袖に入れておりましたわ」
ヴィオレッタは言った。
「読める者に差し出せば、その者が何かは一目で分かりますの。……差し出せば、こちらが何を持っているかも渡りますわね」
「渡したな」
「渡しましたわ」
国王は、顔を上げた。
「なぜ、いま」
「陛下が、お書きになったからでございます」
◇
男は、否定しなかった。
否定せずに、四行目を指した。
「これは、名だ」
「存じておりますわ」
「誰の名かも」
「塔の女のものでございましょう」
「聖名の前の名ではない」
国王は言った。
「その前の、前だ」
ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。
――なぜ、ご存じですの。
訊かなかった。
訊かずに、待った。
◇
国王は、窓の外を見た。
「四年前に、一度会った」
男は言った。
「聖名を賜る儀の前だ。……大聖堂で、列の端に立っておった」
「わたしは、一言かけた」
「この国の言葉ではない。……教会の言葉でもない」
国王は、指を紙の上に置いたままにした。
「かけて、顔を見た」
◇
外から言ってやれば、分かる者は顔が動く。分からぬ者は、動かない。
中で鳴るほうは、本人にしか鳴らない。
――同じことを、お考えになりましたのね。
彼女は視える。この男は、視えない。
視えない者が同じ場所に辿り着くには、声に出して確かめるしかない。
「動きましたの」
「動いた」
「それから」
「名乗った」
◇
国王は、そこで一度、口を閉じた。
◇
「あの女は、自分から名乗った。……十年ぶりに呼ばれた、と申した」
◇
◇
ヴィオレッタは、四行目を見た。
この一行は、聞き書きである。
名乗った者がいて、書き留めた者がいた。書き留めたものが、いまこの卓の上にある。
◇
書き留めたのは、この男である。
聞いたその日に書いたのだろう。前世の字で書いたのは、この国の字で書けば誰かが読むからである。
読まれれば、書いた者が何者かも分かる。
――この世で、ここにしかございませんのね。
◇
「それから、お書きになりましたの」
「書いた」
「何と」
「名を外されるな、と」
国王は言った。
「聖名を受ければ、前の名が簿から消える。消えれば、薄れる。……二百年、三十二人がそうなった」
「お調べになりましたのね」
「十年かけた」
◇
◇
十四年前に来て、十年読んだ。読み終えたのが、四年前である。
この男は、毎晩読んだ。
王の書斎には誰も入らない。入らない部屋で、教区の登録簿の写しと、教会の書付と、二百年ぶんの墓の記録を並べた。
◇
並べて、六年ごとに人が入れ替わっていることに気づいた。
気づいてから、なぜかが分かるまでに、さらにかかった。
読み終えた年に、次の聖女が立った。
◇
「間に合いましたのに」
ヴィオレッタは言った。
「書いたのは、儀のあとだ」
「なぜ」
「儀の前に渡せば、あの女は逃げる」
男は、指を紙から離した。
「逃げれば、教会が追う。追えば、わたしが渡したことが出る」
――ご自分を、お守りになりましたのね。
◇
ヴィオレッタは、その内側を覗いた。
濁っていない。
この男は、隠していない。伏せてもいない。自分が何をしたかを、十四年ぶん畳んでそこに置いてある。
置いてあるものを、彼女は好きなだけ覗くことができる。
覗いても、何も起きない。
◇
この男は、自分を許していないからである。
許していない者から、取り上げられるものは何も無い。
彼女は他人の内側で、いつも「自分は正しい」を探してきた。
正しいと思っている者は、必ずどこかで詰まる。詰まったところを突けば、色が抜ける。
◇
この男は、正しいと思っていない。
思っていないまま、十四年、国を治めてきた。
「紙は、いつお渡しになりましたの」
「断罪の三日後だ」
「塔へ」
「人をやった」
「あの女は、読めましたの」
◇
「読めなかった」
◇
国王は、そう言った。
「教会が記録を終わらせたのは、断罪の当日だ。……三日で、字が抜けた」
三日である。
名が簿から全部消えた日から、三日。
◇
断罪の当日に、教会は記録を終わらせた。
終わらせた翌日から、あの女は字を読まなくなった。二日目には、読めなくなった。三日目に、この男の使いが着いた。
使いは、紙を置いて帰った。
置かれた紙は、卓の隅に一年あった。
ヴィオレッタは、扇を開かなかった。
「四年、遅うございましたわね」
◇
国王の手が、卓の上で止まった。
これを言える者は、この国に一人しかいない。
言っても、この男は彼女を切れない。切れば、切った理由が残る。
「陛下」
「なんだ」
「陛下は、二百年でいちばん厚いお名前をお持ちですわ」
◇
「貨幣に打ってございます。法令の頭にございます。教区の登録簿の一枚目にございますわ。朝夕の祈祷で、二度読まれますの」
彼女は言った。
「お一人だけ、薄れませんのね」
「そうだ」
「三十二人は、薄れましたわ」
「薄れた」
「陛下は、それをご存じで、十年お読みになっておいででしたのね」
◇
国王は、答えなかった。
答えないので、彼女はもう一つ置いた。
「三年前から、記録の書き方をお変えになりましたわね」
「変えた」
「何のために」
「厚くするためだ」
男は、そう言った。
十年読んで、理屈が分かった。
分かって、最初にしたのは、自分の名を厚くすることだった。
◇
あの者たちを救う手だてを、この男は十年かけて一つも思いつかなかった。
思いついたのは、自分が薄れない方法だけである。
思いついたものを、すぐにやった。
やってから、一人だけ助けようとして、三日遅れた。
――お上手ですこと。
◇
ヴィオレッタは、立った。
立って、礼をした。
「陛下」
「なんだ」
「わたくしは、陛下を落としませんわ」
「落とせるか」
「落とせませんの」
彼女は、扇を開いた。
「紙が、ございませんもの。……先日、自分で捨てましたので」
◇
◇
自室に戻って、彼女は紙を出した。
一行目に、オノレ。
二行目に、ジェルヴェ。
替えの利く男の名である。
三行目に、羽根ペンを下ろした。
書いた。
この国の貨幣に打ってある名である。
書いてから、彼女はしばらくその一行を見ていた。
◇
この紙は、落とす相手を書き留めるために作った。
一行目と二行目は、替えの利く男である。書いておけば、替わったときに分かる。
替えは、利かない。
利かないので、落とすこともできない。
書き留めたのは、落とすためではなかった。
◇
――数えるためですわ。
数えれば、何人いるかが分かる。
何人いるかが分かれば、二百年で何人減ったかも出る。出れば、次に減るのが誰かも読める。
三行目までで、三人である。
四行目には、まだ誰も書かない。
御前会議が開かれたのは、三日後である。
◇
議題は、監査の進み具合だった。
三十一行が埋まり、三十二行目が空のまま残っている。教会は記録の開き直しに入っている。
それだけの会である。
オーギュストは、最後に手を挙げた。
「一つ、申し上げたい」
男は、立った。
◇
「兄上は、十四年前に変容しておられる」
◇
◇
部屋の色が、一斉に動いた。
記録官の筆が、止まった。
止まってから、書き始めた。
ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。
――お言いになりましたわね。
◇
病、とは言わなかった。
病と言えば、廃せる。廃せば、新しい王の後見に入れる。
だが病では、弱い。十四年前の熱の届は、この男自身が書かせたものである。書かせた男が、いまさら病を持ち出せば、なぜ十四年黙っていたかを訊かれる。
◇
だから、重いほうを選んだ。
変容である。
この半年、宮廷はその言葉ばかり喋っていた。三十人が大聖堂で聞いて、三日で城じゅうが覚えた。誰でも知っている言葉になっていた。
誰でも知っているものは、軽く見える。
軽く見えるものが、いちばん重かった。
◇
この男は、宮廷が半年喋っている言葉を選んだ。
選べば、誰にでも通じる。通じれば、その場で決まる。
通じる言葉には、通じるだけの中身が付いている。
付いている中身を、この男は読んでいない。
「大司教猊下」
ヴィオレッタは言った。
オノレが、顔を上げた。
◇
「変容は、教会がお認めになるものでございますわね」
「……さようでございます」
「三十二例でございましょう」
「はい」
「一度の例外もございませんのね」
「ございませぬ」
彼女は、扇を開いた。
◇
「では、三十三例目でございますわ」
◇
◇
オノレの口が、開いた。
開いて、言葉が出なかった。
この男は、断れない。
教会は、変容を認めてきた。認めてきたものを、今日だけ認めないとは言えない。言えば、二百年が崩れる。
――前の猊下が、お作りになったものでございますわ。
◇
「猊下。変容をお認めになった方は、その後どうおなりですの」
「……御業に仕え、やがて薄れてまいります」
「三十二代、皆さまそうでいらっしゃいましたわね」
「さようでございます」
ヴィオレッタは、そこで一度、止まった。
「陛下は、薄れておいでですの」
◇
◇
誰も、答えなかった。
この十四年、国は治まっている。
堰が直り、税が均され、隣国との更新が滞りなく回っている。薄れた者に、それはできない。
「薄れておいででしたら、十四年の治政はどなたがお立てになりましたの」
宰相が、書付から目を上げた。
◇
この男は、十四年ぶんの帳面を全部見ている。
見ている者の前で、薄れていたとは言えない。
堰の普請は、五年目に入っている。税の均しは、三年で通った。隣国との更新は、去年の夏から滞りなく回っている。
どれも、この宰相が卓の上で回してきたものである。
◇
回してきた者に、薄れた王が上に座っていたことを認めさせるのは、無理だった。
「薄れて、おられぬ」
宰相は言った。
「では、変容ではない」
オーギュストが言った。
そこだった。
ヴィオレッタは、扇を閉じた。
「叔父上様。いま、お取り下げになりますの」
◇
男の口が、止まった。
取り下げれば、王弟が御前で偽りを申し立てたことになる。記録官は、もう書いている。
取り下げなければ、陛下は変容しておられることになる。
◇
変容しておられて、薄れておられない。
「猊下」
ヴィオレッタは言った。
「薄れぬ変容が、二百年で一例もございませんでしたのは、なぜでございましょう」
オノレは、答えられなかった。
答えられないので、彼女が答えた。
「お名前でございますわ」
◇
部屋が、静かになった。
「聖名を賜れば、前のお名前が簿から外れますの」
彼女は言った。
「外れれば、どこにも書かれておりませんわね。書かれていないものから順に、薄れますのよ」
「あの方々は、外されましたわ」
「陛下は、外されておりませんの」
◇
彼女は、卓の上に指を置いた。
「貨幣。法令。教区の登録簿の一枚目。朝夕の祈祷。城の書付には、日付の隣に必ず並びますわ」
「この国でいちばん厚いお名前でございますの」
◇
「厚いので、薄れませんわ」
◇
部屋の色が、一斉に動いた。
この国は長く、聖女が薄れるのを御業と呼んできた。今日、御業に理屈が付いた。
付いたのは、紙の数である。
神でも、血でもない。書かれている紙の数で、人が保たれたり保たれなかったりする。
それが本当なら、この部屋にいる全員が数えられる側になる。
数え始めた顔が、幾つかあった。
◇
◇
オーギュストが、こちらを見た。
――名。
この男は、いま初めてそれを聞いた。
兄を疑ってきた十四年、この男は名前の勘定を一度もしなかった。
◇
この男は、人を数えてきた。
誰が印を持ち、誰が誰の下におり、王位の順が何番目か。数える先が、全部「人」だった。
名は、人に付いている札だと思っている。
札のほうが人を保つとは、思いつかない。
「叔父上様」
ヴィオレッタは言った。
「王座が、陛下をお保ちしておりますのよ」
「お退けになれば」
◇
「薄れますわ」
◇
◇
オーギュストは、立ったままだった。
立ったまま、指が卓の端にかかった。
――廃せば、死ぬ。
濁っていない。
この男は、兄を殺すつもりではなかった。退けて、後ろに立つつもりだった。退けた日に兄が薄れ始めるなら、それは弑逆と同じ形をしている。
同じ形のものを、御前で申し立てた記録が残る。
◇
記録官は、二人いる。
二人とも、いま同じ言葉を同じ日付で書いている。冬に、この城は同じ形のものを一度作っている。
作ったものは、丸まらなかった。
国王が、立った。
「弟よ」
◇
「そなたが、申し立てた」
◇
◇
オーギュストは、答えなかった。
「教会が認めれば、わたしは神に触れられた者になる」
国王は言った。
「認めさせたのは、そなただ」
「取り下げるか」
「……」
◇
「取り下げぬなら、一つ片づけねばならぬ」
男は、卓を回った。
「申し立てた者が、王位の順の二番目におる。……二番目の者が申し立てたものを、この国は信じられぬ」
◇
「降りよ」
◇
◇
オーギュストは、そこで初めて息を吸った。
降りれば、申し立ては私心の無いものになる。兄は神に触れられた者として残り、王座は動かない。
降りなければ、偽りを申し立てた王弟になる。
どちらでも、この男の十四年は終わる。
◇
「……降ります」
◇
◇
継承の順から王弟の名が外れたのは、その日の夕方である。
外れただけである。
領地はそのまま、名もそのまま、館も従者もそのままだった。
落ちていない。
落ちていないが、この男はもう一度も城に来ない。
◇
王位の順から名が外れるというのは、そういうことである。
建国祭に呼ばれる。葬いに呼ばれる。それ以外の日に、城が用を作らなくなる。
用が無い者の名は、城の書付に並ばない。
並ばなくなったものが、どうなるかを、この男はまだ知らない。
◇
廊下で、すれ違った。
ヴィオレッタは、礼をした。
礼をしてから、言った。
「叔父上様は、お名前の勘定をなさいませんのね」
「……」
「わたくし、そればかり数えておりますの」
男は、何も言わなかった。
言わないまま、通り過ぎた。
――お名前は、薄れませんわ。
◇
北の領地の書付に、毎日書かれる名である。
書かれるが、誰も読まない。
教会が記録を開き直したのは、その月のうちだった。
前の名が、出た。
ベルナールが、三十二行目に書いた。
◇
変容の日。上申の日。選定の日。聖名を授けた日。前の名。
五つとも、埋まった。
簿は、綴じられた。
「二百年、置きます」
ベルナールは言った。
「二百年、どなたが確かめますの」
「……教会が、お確かめになりました」
◇
署名の欄に、大司教の名がある。
自分の手で書いてある。
教会は、三十二例を認めた。
認めたものを、これから二百年、王家の簿が持つ。持つ側が変われば、次に名を外すときには王家の許しが要る。
一つ増えただけの欄である。
増えただけだが、消せなくなった。
ヴィオレッタは、うなずいた。
◇
塔へ行ったのは、雪の降る日だった。
馬車で二時間。門は、書状で開いた。
麓の小屋に、修道女が一人いた。
前の女ではない。
石の階段は、二百と七段ある。
誰も、止めなかった。
独房は、前と同じだった。
卓と、寝台と、燭台。窓の格子。
栗色の髪の女が、同じ椅子に座っていた。
◇
「セシリア」
女が、顔を上げた。
「はい」
「お前の名は」
◇
「セシリアです」
◇
◇
ヴィオレッタは、扉の内側で止まった。
止まって、しばらく何も言わなかった。
――置く場所ができましたのね。
王家の簿に一行ある。教区の登録簿に写しが回っている。二百年ぶんの束の末尾に、一つ足された。
足された名は、消えない。
◇
消えなければ、薄れない。
戻りはしない。
抜けた十年は、抜けたままである。
十年ぶんの中身は、どこにも書いていない。
書いていないものは、戻らない。戻すには、書いた者が要る。あの十年を書き留めた者は、この世に一人もいなかった。
◇
名だけが戻った。
名だけである。
彼女は、椅子に腰を下ろした。
「ヴィオレッタと申しますわ」
「……そう」
女は、少し笑った。
◇
「きれいな名前だね」
◇
◇
三度目である。
三度とも、同じことを言われた。
ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。
この女の中に、置く場所は作らなかった。
作れるのは、簿のほうだけである。
◇
この女は、明日もヴィオレッタを忘れる。
忘れたまま、自分の名前は覚えている。覚えている場所が、外にできたからである。
外にあるものは、減らない。
減らないので、この女はもう薄れない。
――それで結構ですわ。
帰りの馬車で、雪が強くなった。
◇
マリアンヌが、膝掛けをよこした。
「お嬢様」
「なに」
「三十二行目は、どなたがお書きになりましたので」
「ベルナールですわ」
「……その前は」
ヴィオレッタは、窓の外を見た。
◇
教会が記録を開き直した。開き直せたのは、裁きの終わりが動いたからである。動いたのは、証しが一つ取り下げられたからである。
取り下げたのは、彼女である。
そう書いてある紙は、どこにも無い。
◇
御前の記録に残っているのは、気にくわないから落としたと申した女の一行だけである。
二年の仕事が、一行になった。
一行になったものを、宮廷はこれから何年も読む。読んで、近寄らなくなる。
◇
近寄られないほうが、仕事は早い。
早いほうがよい理由は、もう無い。
「マリアンヌ」
「はい」
「わたくしの名は、何枚ございますの」
侍女は、少し考えた。
「公爵家の簿と、教区の登録簿。妃教育の記録と、婚約の触れ」
「四つ」
「……はい」
◇
「三部、減りましたわね」
「はい」
ヴィオレッタは、膝掛けを掛けた。
減った。
減ったが、薄れてはいない。
まだ、四つある。
――足りておりますわ。
少し前まで、彼女は自分の名を数えたことがなかった。
数えなくても減らないと思っていた。減らないのではなく、誰も取りに来なかっただけである。
◇
取りに来る者がいると分かったのは、この冬である。
城に戻ると、東棟から呼ばれた。
アルベールは、書類を読んでいた。
「叔父上は、北へ発たれた」
「伺いましたわ」
「継承の順は、私の次が空いた」
「左様でございますね」
羽根ペンが、動いていた。
「君がやったのか」
「いいえ」
ヴィオレッタは、扇を開いた。
◇
「数えただけですわ」
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