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悪役令嬢は、嘘だけはつかない ~悪気はございませんの~  作者: 桜野結
第3章

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第25話 審

 アルヴェール公爵家の館は、王都の西にある。


 馬車で四半刻。近いのに、二年で三度しか帰っていない。


 最後に帰ったのは、婚約の触れが出た日である。触れを持って帰って、父の前に置いて、その日のうちに城へ戻った。


 置いたものを、父は読まなかった。読まずに、家令に片づけさせた。


   ◇


 門を入ると、家令が出てきた。


 ギヨーという。父の代からの男で、髪が白く、腰が低い。


「お嬢様。ようこそお戻りで」


 男は、玄関ではなく、東の脇の戸のほうへ手を向けた。


「本日は、こちらから」


「なぜ」


「玄関の敷石を、直しておりまして」


   ◇


 ヴィオレッタは、敷石を見た。


 直していない。


 ――紙が、来ておりますのね。


 昨夜、父の一行が城に届いた。届く前に、この館では何かが決まっている。決まったことが、戸の使い分けに出る。


   ◇


「ギヨー」


「はい」


「お前は、この家に何年いますの」


「三十年になります」


「そう」


 彼女は、玄関のほうへ歩いた。


 男は、追ってこなかった。追えば、押し戻したことになる。


 押し戻せる相手かどうかを、この男はまだ決めかねている。


   ◇


 三十年、この男は決めかねたことがない。


 公爵家の門は、誰を通し、誰を脇へ回すかで格を示す。それを決めるのが家令の仕事で、迷ったことは一度も無かったはずである。


 迷ったのは、この娘の格が今日から動くと聞いたからだった。


 動くと聞いて、動く前に動かした。


   ◇


 ――決めてさしあげますわ。


 玄関の扉は、内側から開いた。


 開けた下男は、彼女の顔を見て一度止まった。止まってから、深く礼をした。


「ギヨー」


「……はい」


「明日から、脇の戸をお使いなさい」


   ◇


 男の色が、抜けた。


 抜けたところを、彼女は見ずに通り過ぎた。


 三十年いた男を三十年目に外へ出すのに、理由は一つで足りる。気にくわない、である。


   ◇


 脇の戸を使えと言われた家令は、翌日から使用人の中でも下から数えられる。


 解いてはいない。落としてもいない。門を決める役から、門を通る側へ回しただけである。


 落とせば、父が理由を訊く。


 訊かれない形にしておけば、父は気づいたときには終わっている。


   ◇


 父の書斎は、二階の奥にあった。


 アルヴェール公爵は、五十を少し過ぎている。背が高く、痩せていて、声が低い。


 卓の向こうで、書付を読んでいた。


「参りました」


「座れ」


   ◇


 父は、顔を上げなかった。


   ◇


 この人は、娘の目を見ない。


 書斎には、母の絵が掛かっている。十年前に死んだ人で、彼女はその顔を覚えていない。覚えていないので、絵が似ているかどうかも分からない。


 視られるのが嫌なのではない。視えるという話を、この人は一度も信じたことがない。信じていないものを、家の名の勘定には入れている。


   ◇


「取り下げよと申した」


「伺いましたわ」


「では」


「取り下げませんわ」


   ◇


「侯爵家に、何と申し開きをする」


「いたしませんわ」


「せぬのか」


「申し開きは、間違えた者がいたしますの」


   ◇


「間違えておらぬと申すか」


「はい」


「宴の名簿から侯爵家の娘を外して、間違えておらぬと」


「外したのは、わたくしでございます」


「理由は」


「気にくわなかったからでございます」


   ◇


 父の手が、卓の上で止まった。


 この人は、娘のこういう答え方を聞いたことがない。城では、彼女はこうやって喋ってきた。家では、一度も喋らなかった。


 羽根ペンが、置かれた。


「理由を申せ」


「監査に、行が一つ足りませんの」


「行」


「はい」


   ◇


 父の内側が、動いた。


 ――行。


 ――行のために、家の名を。


 濁っていない。この人は、本気で分からないのである。


 紙の一行と、家の名を並べて量ることが、この人にはできない。片方が重すぎて、秤が傾いたまま止まっている。


   ◇


 この人にとって、家の名は数えるものではない。


 あるか、無いか、傷があるか。三つしかない。


 数えられないものを守る者は、いつも同じ手を打つ。減るように見えることを、全部やめさせる。


「どなたが、お書きになれと」


 ヴィオレッタは訊いた。


   ◇


「誰が書けと言った、とは」


「昨夜のあの一行でございます。父上は、二年、この城のことを一行もお書きになりませんでしたわ」


 父は、答えなかった。


 答えないので、彼女は待った。


「……ブレー侯爵が、参った」


   ◇


   ◇


 三日前、彼女は侯爵家の娘を春の宴の名簿から外している。


 外したのは、気にくわなかったからである。


 外された家は、公爵家へ来た。公爵家へ来て、娘の再審の話を置いていった。


 置いていったのは、侯爵ではない。侯爵に置かせた者がいる。


   ◇


「侯爵は、何と」


「家の名に傷がつく、と」


「それだけで」


「……娘の証しが偽りであったなら、婚約もまた、と」


 ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。


   ◇


 婚約まで持ち出したのは、侯爵ではない。あの家は宮廷で声を出すことでしか名が残らない家で、王家の婚約に口を出す度胸はない。


 度胸のある者が、後ろにいる。


   ◇


 三日で、侯爵家は公爵家へ来た。


 娘一人が宴の名簿から消えたことを、侯爵家は三日で王弟の耳に入れたことになる。入れたのは、あの家の嫡子である。


 嫡子は、王弟の書役をしている。


 ――叔父上様は、お早うございますこと。


   ◇


「父上」


「なんだ」


「わたくしは、婚約を保留にいたしませんわ」


「保留になるかどうかは、お前が決めることではない」


「ええ」


 彼女は、扇を開いた。


「ですから、父上もお決めになれませんの」


 父の口が、開いた。


 開いて、言葉が出なかった。


   ◇


 この人は、娘に一度も逆らわれたことがない。逆らう機会が無かったからである。城に出した娘は、城の話しかしなかった。


 城の話を、初めて家に持ち帰った。


   ◇


 持ち帰ったのは、逆らうためではない。


 この人が誰の指図で書いたのかを、確かめに来ただけである。確かめたので、もう用が無い。


「あの夜」


 父は言った。


「お前が、あれを言わねば」


   ◇


 ――そこですのね。


   ◇


 この人が娘の目を見ない理由は、そこにあった。


 娘が視えることが嫌なのではない。娘が視えたと人前で言ったことが、この人には恥だったのである。


   ◇


 恥である。


 公爵家の娘が、広間の真ん中まで出ていって、人の心が読めると言った。言った中身が当たっていたかどうかは、この人の勘定に入っていない。


 当たっていたから、余計に悪い。


 当たると、次からは誰も近づかなくなる。


   ◇


「言わねば、どうなっておりましたの」


「壺と、石で足りた」


「三月かかりましたわ」


「三月かけて、家の名は無傷だ」


 ヴィオレッタは、立った。


「無傷の三月と、傷のついた一日でしたら」


 彼女は言った。


「わたくしは、一日を選びますの。……あのときも、今度も」


   ◇


 廊下に、妹がいた。


 シルヴィという。十一である。


 壁際に立って、こちらを見ていた。見ていたが、近づいてこなかった。


「シルヴィ」


「……はい、姉上」


「大きくおなりね」


「はい」


「お前は、わたくしを覚えておいでですの」


「……はい」


「どこで」


「絵で、ございます」


   ◇


 この家には、姉の絵が一枚ある。


 十四のときに描かせたもので、以来、本人は三度しか帰っていない。


   ◇


 娘は、それだけ言って下がった。


 ヴィオレッタは、その内側を覗かなかった。


 覗かなくても分かる。この家で、姉は城へ出ていった人である。出ていって、司教を落として、いま実家の家令を一人切った人である。


 ――怖がられておりますわね。


   ◇


 結構ですわ、と彼女は思った。


 再審は、十日後に開かれた。


   ◇


 御前会議の間である。


 卓に、国王、王妃、宰相、アルベール、オーギュスト。壁際に記録官が二人。立会人が三人。


 側廊に、傍聴の席が並べてあった。


「あれは、どなた方ですの」


「宰相府がお入れになりました」


 マリアンヌが、小さく言った。


「……半分は、王弟殿下のご紹介でございます」


「そう」


 二十人ほどが掛けている。半分は宮廷の者で、半分は知らない顔だった。知らない顔が入る裁きは、外へ出る裁きである。


 教会は、席を持たない。オノレはそれを条件にした。


   ◇


 王弟の後ろに、若い男が立っていた。


 二十五くらいで、背が高く、首が長い。


 ユベール・ド・ブレーという。


 春の宴の名簿から外された娘の兄である。


 ヴィオレッタは、その顔を覚えていなかった。


 名だけは、昨日から覚えている。


   ◇


 宰相が、申し立てを読み上げた。


 二年前の裁きにつき、証しを一つ取り下げること。取り下げるのは、アルヴェール公爵家息女ヴィオレッタの申し立て一件であること。判決の変更を求めるものではないこと。


   ◇


「証しは四つ、と伺っておる」


 宰相が言った。


「一つ取り下げれば、三つになる」


「はい」


「三つで足りるかを、この場で検める」


 壺、石、証言二つ。


 三つとも、あの夜のうちに出ている。


   ◇


「足りるな」


 宰相は、そう言った。


 二年前に自分が並べた紙である。足りないと言えば、自分の裁きが崩れる。


 この男は、あの夜、四つ並べた。


 並べたうちの一つが自分から降りると言っている。降りても三つ残ると言えば、あの夜の仕事は正しかったことになる。


   ◇


 正しかったことにしたい者が、この場にもう一人いる。


 ――お早いこと。


 それで終わるはずだった。


   ◇


「一つ、伺いたい」


 オーギュストが、指を組んだ。


「取り下げる、と申された。……なぜ、いま」


「監査に、行が一つ足りませんので」


「行のために、ご自分の証しを捨てられるか」


「捨てますわ」


   ◇


 男は、うなずいた。


 うなずいてから、次を出した。


「偽りであったからではないか」


   ◇


 場が、鳴った。


   ◇


 ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。


 ――お待ちしておりましたわ。


「偽りではございませんわ」


 彼女は言った。


   ◇


「証せるか」


「証せませんの」


「証せぬものを、証しとして出されたのか」


「出しましたわ」


   ◇


 男は、そこで一度止まった。


 止まったのは、認められると思っていなかったからである。


 この男の勘定では、ここで言い訳が出るはずだった。


 言い訳が出れば、崩せる。崩せば、偽りだったことにできる。


   ◇


 この女は嘘をつけない。宮廷が二年かけて確かめたことである。


 嘘をつけない者を追い詰めるには、認めれば損になることを訊けばよい。


 訊いた。


 認めた。


 ――損は、こちらで数えますわ。


   ◇


 証せないものを証しとして出した。それは本当である。


 本当だから、認める。認めたところで、判決は動かない。壺と石と証言が残っているからである。


 この男は、証しの数を数えていない。


 数えていれば、ここを突いても何も落ちないと分かる。


   ◇


「では、伺おう」


 オーギュストは言った。


「なぜ、あの夜、進んで証しに立たれた」


   ◇


 卓が、静かになった。


   ◇


 二年前のあの夜、公爵家の娘は求められていない。呼ばれてもいなかった。広間の真ん中まで出ていって、自分から言った。


 言わなければ、三月かかった。


 三月かけて、同じ判決が出た。


 訊かれたことに、彼女は答えねばならない。


   ◇


「あの女が」


 彼女は言った。


「気にくわなかったからでございます」


   ◇


 誰も、動かなかった。


 王妃の指が、卓の上で止まった。宰相が、書付から目を上げた。記録官の筆は、一度だけ迷って、それから書いた。


 アルベールは、顔を上げなかった。


   ◇


「記録官」


 王妃が言った。


 この人が御前会議で口を開いたのを、彼女は見たことがない。


「いまのは、お書きになりますの」


「……お書きせぬわけには」


「そう」


   ◇


 王妃は、それだけ言って手を戻した。


 止めようとしたのか、確かめただけなのかは、分からなかった。


   ◇


 覗かなかった。


 この場で顔を動かすわけにはいかない。


   ◇


「……気にくわぬ、とは」


 オーギュストが訊いた。


「そのままの意味でございますわ」


 ヴィオレッタは、扇を開いた。


   ◇


「気にくわない者を、わたくしは落としますの」


   ◇


「聖女を、か」


「聖女でも、司教でも」


「王族でも、と申されるか」


   ◇


 訊いてきた。


 嘘はつけない。ここで否と言えば、嘘になる。


   ◇


「まだ、落としたことがございませんの」


 ヴィオレッタは言った。


「ですから、存じませんわ」


   ◇


 場の色が、一斉に動いた。


 ――言った。


 ――この場で。


 ――記録官が、書いておる。


 いい色ですこと、と彼女は思った。


   ◇


 二十人が、いま同時に同じことを考えている。この女は、気にくわないという理由で人を落とす。落とされる側になりうるのは、この部屋にいる全員である。


 考えたことは、外へ出る。


 出れば、宮廷が覚える。


   ◇


 宮廷は、ずっと彼女を怖がってきた。


 怖がり方が、曖昧だった。何をされるか分からないから怖い、という怖がり方である。曖昧なものは、じきに慣れる。


   ◇


 今日、慣れなくなった。


 気にくわなければ落とす、と本人が言った。落とす基準がはっきりしたので、誰も基準の内側に入らないよう気をつけ始める。


 ――覚えてくださいまし。


 オーギュストは、そこで止めなかった。


 止めれば、こちらの言い放ちで終わる。


   ◇


「王太子妃の座を、望まれたのではないか」


「望みましたわ」


「では――」


「望みましたが、あの夜には、まだ頂いておりませんの」


   ◇


 男の口が、止まった。


 婚約を申し込まれたのは、断罪から一年後の建国祭の夜である。


 あの夜、公爵家の娘は婚約者ではない。座を得るために証しに立ったのなら、一年待たされた説明がつかない。


   ◇


 ヴィオレッタは、日付を並べなかった。


 並べれば、こちらが構えていたことになる。


「宰相閣下」


 彼女は言った。


「触れの日付は、宰相府にございますわね」


「ある」


「では、結構ですわ」


   ◇


「叔父上」


 アルベールが、初めて口を開いた。


「証しの検めは、済んでおります」


「動機を訊いておる」


「動機は、証しではございません」


   ◇


 オーギュストは、甥のほうを見た。


 見て、少し笑った。


「庇われるか」


「数えております」


   ◇


 算盤である。


 この男は、庇うときも算盤で庇う。


 オーギュストは、指を解いた。


   ◇


 解いてから、後ろの男に何か言おうとした。


 言う前に、ヴィオレッタが立った。


「ブレーどの」


   ◇


 若い男が、顔を上げた。


「昨夜、アルヴェール公爵家に書状を届けさせましたのは、お前ですわね」


   ◇


「……何のことでございましょう」


「侯爵家の使いでございましたわ」


「わたくしは、存じませぬ」


「では、どなたが」


「存じませぬ」


   ◇


 三度、存じませぬと言った。


 二度で足りるところを、三度言う者は、たいてい心当たりがある。


   ◇


 男の内側が、跳ねた。


   ◇


 ――なぜ知っている。


 知らない。


 昨夜の一行を運んだのは侯爵家の使いで、侯爵に置かせた者がいる。それだけが分かっていた。


 訊いてみたら、跳ねた。


   ◇


 跳ねるのは、当たったからではない。


 当たっていなくても、心当たりがあれば跳ねる。この男には心当たりがあった。それで足りる。


 御前に出せるものではない。


 だから出さない。訊いただけである。


   ◇


「王弟殿下」


 ヴィオレッタは、そちらを向いた。


「ご存じでいらっしゃいましたの」


 オーギュストは、答えなかった。


   ◇


 答えられない。


 知っていたと言えば、王弟が私事で公爵家に手を回したことになる。知らなかったと言えば、書役が主君の名を勝手に使ったことになる。


 どちらでも、後ろの男は落ちる。


「……知らぬ」


 男は、そちらを選んだ。


   ◇


 ユベール・ド・ブレーは、その場で下がらされた。


 王弟の書役は、翌日に替わった。


 ヴィオレッタは、その男の顔をもう一度見なかった。


 妹を潰し、兄を潰した。


   ◇


「王弟殿下」


 ヴィオレッタは、もう一度言った。


「お一つ、伺ってよろしくて」


「なんだ」


「わたくしの家に手をお回しになるおつもりでしたら、お手がもう少し要りますわ」


   ◇


「……脅しか」


「勘定でございます」


 彼女は、扇を閉じた。


「一つ減りましたので、申し上げただけですの」


 一つ目は気にくわなかったからで、二つ目はついでである。


   ◇


 ――ついででも、減りますわ。


 申し立ては、通った。


 証しは三つになり、判決は動かなかった。


 あの女は有罪のままで、塔から出ることはない。


   ◇


 動いたのは、記録の終わりである。


 その日のうちに、大聖堂と宰相府と公爵家の三部から、一行が削られた。


 ――アルヴェール公爵家息女ヴィオレッタ、内心を視たる旨を申し立つ。


   ◇


 削った跡は、残らない。写し直すからである。


 三部の新しい写しに、彼女の名は無い。


 この国で、彼女が視えると書いてある紙は、一枚も無くなった。


   ◇


 残っているのは、宮廷の記憶だけである。


 記憶は、消えない代わりに書き替わる。二年で足りるものが、五年で足りなくなる。


 その代わりに、今日、一つ増えた。


 気にくわなければ落とす女だという一行が、記録官の手で書かれている。


   ◇


 視えることの紙が消えて、恐れられることの紙が残った。


 どちらが厚いかは、まだ分からない。


 北棟へ持って行った。


「終わりが動きましたわ」


 ベルナールは、束を置いた。


「では、教会は」


「記録を、開き直せますの」


「開き直せば、前の名が出ますか」


「出ますわ」


   ◇


 男は、三十二行目を見た。


 欄が五つ。変容の日。上申の日。選定の日。聖名を授けた日。前の名。


 どれも、まだ空である。


「……作れるようには、なりました」


「ええ」


「埋まりますでしょうか」


「埋めますわ」


   ◇


「畏れながら」


 ベルナールは言った。


「前の名は、教会がお出しになりますので」


「出しますわ」


「お出しにならなかった場合は」


   ◇


「出さなかった旨を、お書きなさい」


「……また、でございますか」


「ええ。また」


   ◇


 男は、羽根ペンを取った。


 取ってから、少しだけ笑った。笑ったのを、彼女は初めて見た。


   ◇


 ベルナールは、それ以上訊かなかった。


 この男は、月に二度、同じことを言う。言うだけで、決めない。


 決めないまま、線だけを引いてきた。


 ――お前の線は、そのうち使いますわ。


   ◇


 会が退けたあと、廊下でマリアンヌが待っていた。


「お嬢様」


「なに」


「……お手が」


 扇を持つ手の指が、白くなっていた。


   ◇


 ヴィオレッタは、手を開いた。


 開いて、扇を持ち直した。


「マリアンヌ」


「はい」


「見なかったことになさい」


「かしこまりました」


 侍女は、何も言わなかった。


 言わなかったが、内側が動いた。


   ◇


 ――お強いのだと思っていた。


 強い。


 強いが、痛まないわけではない。この娘は外側しか見ないので、そこを取り違える。


 取り違えたままにしておく。


   ◇


 その夜、王弟の使いが来た。


 書状ではない。口上である。


「明晩、殿下がお話ししたいことがおありとのことでございます」


「どちらで」


「殿下のお部屋にて」


   ◇


 ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。


 今日、この男は書役を一人失っている。


 失った日の夜に、こちらを呼ぶ。


 書役は、替えが利く。


 替えの利くものを一つ取られたくらいで、この男は動かない。動いたのは、別のものを見たからである。


   ◇


 ――お手が、足りませんのね。


 足りないから呼ぶのではない。


 名を捨てる女を見て、この男は勘定を一つ書き替えた。書き替えた先を、確かめに来る。


 勘定は、間違っている。


 間違っているほうが、こちらは都合がよい。


   ◇


「お受けいたしますわ」


 彼女は言った。


 使いが下がってから、マリアンヌが言った。


「お一人で、でございますか」


「ええ」


「よろしいのでございますか」


   ◇


「マリアンヌ」


「はい」


「あの方は、わたくしを買いにおいでですのよ」


 侍女は、束を握った。


「……お売りになりますので」


   ◇


 ヴィオレッタは、扇を開いた。


   ◇


「ええ。伺いますわ」


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