第24話 写
三日は、すぐに出た。
「霜月の八日、九日、十日でございます」
マリアンヌが束を置いた。
「王弟殿下は、その三日、城においででした」
「名目は」
「御見舞でございます」
ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。
御見舞である。
見舞う相手がいたということになる。
「陛下は、病んでおいででしたの」
「はい。……その年の霜月に、十日ほど」
「病名は」
「熱、とだけございます」
◇
十四年前の冬、国王は十日寝ていた。
寝ていたあいだに、六つの息子の名を三度呼び間違えた。
病んだ王が、子の名を呼び間違える。
城の者は、それを不吉だとは思わない。案じるだけである。案じて、治れば忘れる。
◇
治ったので、みな忘れた。忘れなかったのは、名を間違えられた本人と、見舞に来た弟だけだった。
◇
熱である。
熱なら、呼び間違える。呼び間違えて、治れば、それで済む。
――よく出来ておりますこと。
「その届は、どなたがお書きになりましたの」
マリアンヌは、束を繰り直さなかった。
繰り直さなくても、覚えていたからである。
◇
「……王家の記録官でございます」
「名は」
「ロランと申します」
先月、書庫へ移された男である。
◇
書庫は、北棟の一番奥にある。
窓が高く、床が乾いている。紙のために作った部屋で、人のためには作っていない。
束が壁を埋めている。年ごとに綴じてあり、年ごとに埃の色が違う。
◇
書く役は、日の入る部屋にいる。写す役は、書く役の隣にいる。並べ替える役だけが、ここにいる。
男は、脚立の上にいた。
◇
痩せた男である。二十年、この城の書付を書いてきた。書く役だけがなくなって、いまは束を並べ替えている。
「ロランどの」
男は、下りてきた。
下りて、礼をした。
――来たか。
――何をしに来た。
◇
濁っていない。この男は、恨んでいるのを隠していない。
隠す者は、まず顔で隠す。顔で隠せた者だけが、内で隠しにかかる。この男は、どちらもしていない。
隠す気が無いので、弱みにならない。
◇
――ざまあ、とは思っておいでではありませんのね。
◇
思っていれば、まだ楽である。
この男の中にあるのは、二十年ぶんの書付が一度に疑われたという一事だけだった。疑ったのは彼女で、彼女はいま、その男に用がある。
この男は、何かを隠して落ちたのではない。
◇
落ちたのは、隠していないことが分かったからである。言われたとおりに書く男は、言った者を守れない。守れない者は、書く役に置いておけない。
◇
誰もそこまで言わなかった。
言わずに、机だけを動かした。
「十四年前の霜月に、陛下の御見舞の届をお書きになりましたわね」
「……書きました」
「熱、と」
「はい」
「熱でございましたの」
男の目が、動いた。
◇
「わたくしは、書いた者に伺っておりますの」
「……」
「見た者ではなく」
ロランは、束を卓に置いた。
置いて、しばらく手を離さなかった。
◇
「王弟殿下が、そう書けと仰いました」
◇
ヴィオレッタは、扇を開かなかった。
「殿下は、何をご覧になりましたの」
「存じませぬ」
「では、なぜお書きになりましたの」
「殿下が、そう仰ったからでございます」
◇
「お断りになろうとは、お思いになりませんでしたの」
「思いました」
「では、なぜ」
「王弟殿下でございます」
◇
「わたくしにも、同じことをなさいますのね」
「……はい」
「では、お書きなさい」
「なにを」
「王弟殿下がそう仰ったので書いた、と。その届の裏に」
◇
ロランは、書かなかった。
「二十年、そのようなことは」
「ございませんでしょうね」
ヴィオレッタは、扇を閉じた。
「ですから、初めてお書きになるのですわ」
◇
この男は、二十年、そうやって書いてきた。
言われたとおりに書いて、書いたものが正しいかどうかを一度も考えなかった。だから正しいものも書けたし、正しくないものも書けた。
「ロランどの」
「はい」
◇
「その届は、いまも綴じてございますの」
「ございます」
「拝見できまして」
「立会人でいらっしゃいますので」
男は、脚立に戻った。
◇
戻ってから、一度だけこちらを見た。
――この娘は、詫びぬのだな。
詫びない。
落としたのは彼女で、落とすつもりは無かった。無かったことを言えば、言い訳になる。言い訳をすれば、この男は許すかどうかを決めねばならなくなる。
◇
決めさせるつもりは、無かった。
――お前が決めることではございませんの。
届は、五行だった。
◇
国王、熱。臥床十日。医師二名。王弟殿下御見舞。以上。
医師の名は、書いていない。
二名、とだけある。
王の臥床に付いた医師の名を書かない届は、他に一枚も無い。彼女は、その年の前後を繰った。
どれにも、名がある。
◇
ヴィオレッタは、その一行を長く見た。
名を書かなければ、その二人は残らない。
残らなければ、十四年経ったいま、誰にも訊けない。
――お上手ですこと。
十四年前、王弟は伏せた。
伏せたのなら、なぜ十四年、使わなかったのか。
◇
ヴィオレッタは、指を折らなかった。
折るまでもない。
十四年前、アルベールは六つである。
六つの王太子を立てて父を退ければ、摂政が立つ。立つのは血ではなく、実務を握っている者になる。
当時の宰相は、いまの宰相ではない。
◇
誰であれ、王弟ではなかった。
◇
摂政は、血で決まらない。
六つの王を後ろから見る役は、印を押せる者に回る。北の領地で年に二度しか城に来ない男に、印は無い。
いまは、違う。
王太子は二十になった。まだ即位していない。
◇
いま陛下を退ければ、王太子が立つ。立ったばかりの王を後ろから見る役は、いちばん近い血筋のものである。
――十四年、お待ちになりましたのね。
◇
待てる男は、待てない男より始末が悪い。
北棟の監査室は、三日で埋まった。
◇
立会人が三人になったので、椅子が増えた。二つは王家から出た男で、どちらも五十を過ぎている。
一人は宰相府から、一人は王弟の推挙で来た。どちらも束を繰る手が遅い。
◇
繰る気が無いからである。この二人の役は、検めることではなく、検めたと言えるようにしておくことである。
一つが、彼女である。
◇
教会が出した選定記録は、三十一枚のままだった。
ベルナールは、三十一行まで写した。
三十二行目は、空である。
「立会人殿」
王家の一人が言った。
「この空欄は、どういたしますので」
「そのままですわ」
「簿が、終わりませぬが」
◇
「終わらせませんの」
男は、それ以上言わなかった。
言えば、自分が終わらせたい側だと分かる。
◇
――王弟殿下は、終わらせたくておいでですのね。
終われば、監査は次へ行く。
次は、王家の書付である。
教会の書き方を検めた目が、そのまま王家の書き方に向く。向いた先に、三年前からの手入れがある。
◇
王弟は、そこまで一本の道を引いてある。引いた道を歩くのに、自分の足は使わない。
ヴィオレッタは、ベルナールを呼んだ。
「三十二行目に、名を入れるには」
「教会の簿に載りませぬと」
「載せるには」
◇
「……記録が、終わっておりますゆえ」
「終わりを、動かせば」
ベルナールは、羽根ペンを置いた。
◇
「動かせるのは、裁きのほうでございます」
◇
◇
あの夜、聖女セシリアは、公爵家の娘を陥れようとした罪で裁かれた。
その日をもって、教会は記録を終わらせている。
終わりを動かすには、裁きを開き直すしかない。
裁きの写しは、三部ある。
◇
大聖堂に一部。宰相府に一部。公爵家に一部。
三部とも、取り寄せた。
公爵家の名で、形式どおりに請求した。
じきに、揃った。
自室の卓に、三部を並べた。
◇
同じものである。同じ日付で、同じ順で、同じ言葉が書いてある。写す者が三人いて、三人とも間違えなかった。
間違えないように写す。写したものを三箇所に置く。置いておけば、一部が失われても残る。
残すために、この国は同じ紙を三度書く。
◇
証しの項は、四つあった。
毒の壺。階段の欠けた石。娘の証言が二つ。
◇
壺は、寝室の卓にあった。中身を検めたのは教会である。
石は、東の階段が一段、欠けていた。欠けた跡が新しく、削った工具の目が残っていた。
◇
証言は、女官が一人と、洗い場の娘が一人。どちらも、あの女が階段の下で待っているのを見ている。
◇
その手前に、もう一行あった。
――アルヴェール公爵家息女ヴィオレッタ、内心を視たる旨を申し立つ。
◇
証しの筆頭に、置いてある。
◇
壺も石も、あとから出たものである。
先に出たのは、彼女の一行だった。
◇
あの夜、公爵家の娘が広間の真ん中でこう言った。
――この方は、いま嘘をついておいでですわ。
◇
誰も、それを証しにできるとは思っていなかった。
思っていなかったので、書いてしまった。
ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。
あのとき、彼女はこれを言った。
言ったから、裁きが早く終わった。言わなければ、壺と石と証言だけで長くかかっている。
早く終わらせたのは、彼女である。
◇
早く終わったので、教会はその日のうちに記録を閉じた。
閉じられた記録は、開かない。開く手続きが無いのではなく、開いた者がいないからである。
誰も、閉じたものを開けたいと思わなかった。
――わたくしですわ。
◇
あの女の名を消したのは、教会の手続きである。
手続きを引いたのは、彼女の一行だった。
この一行が、証しの筆頭にある限り、裁きの形は動かない。
抜けば、動く。
◇
抜いても、判決は残る。壺と石と証言が残っているからである。あの女は有罪のままで、塔から出ることはない。
動くのは、記録の終わりだけである。
ただ、一つ消える。
――わたくしの名でございますわ。
◇
大聖堂と、宰相府と、公爵家。三部に彼女の名が書いてある。
この三部が、彼女を厚くしてきた。
公爵家の簿にも名はある。教区の登録簿にもある。妃教育の記録にもある。
だが、あの三部だけが違う。
◇
あれは、彼女が視える女だと国が認めた紙である。
◇
17年、彼女は視えることを誰にも証してこなかった。
証しようがない。目に見えないものを見たと言えば、嘘つきか、狂人か、どちらかになる。
二年前のあの夜だけ、国がそれを紙に書いた。
◇
書いたのは、彼女の言葉が当たっていたからではない。
壺と石が先に出ていて、彼女の一行を足すと早く終わったからである。
どちらでもよかった。
紙になったことだけが、残った。
◇
抜けば、それが無くなる。
塔へ行ったのは、翌日だった。
馬車で二時間。門は、書状で開いた。
塔は、教会の預かりである。修道女が二人、麓の小屋に住んでいる。
石の階段は、二百と七段ある。
三段目で、止められた。
「畏れながら」
◇
頬の赤い、痩せていない女だった。
「本日は、お目通りをお控えいただきたく」
「なぜ」
「猊下より、そのように」
◇
ヴィオレッタは、階段の上を見た。
この階段を上るのに書状が要ったことは、一度もない。
昨日、三部を請求した。
請求は、大聖堂を通っている。
――早うございますこと。
「お名前を、伺ってよろしくて」
「……マルトと申します」
◇
「マルトどの」
ヴィオレッタは、扇を開いた。
「お前は、いつからここに」
「もう長うございます」
「ここにおられる方のお名前は」
◇
修道女の口が、止まった。
「……存じませぬ」
「長うお世話をなさって」
「名は、簿にございませんので」
――そうでしょうとも。
「では、お前は誰を止めておいでですの」
女は、答えなかった。
◇
「名の無い者を、名の無いまま止めておいでですわ」
ヴィオレッタは、階段を一段上った。
「わたくしは、名がございますの」
「畏れながら――」
「アルヴェール公爵家の者ですわ」
◇
彼女は、もう一段上った。
「王家監査の立会人ですわ」
もう一段。
「陛下の御名で、この塔の管理を検めることもできますのよ」
修道女が、下がった。
ヴィオレッタは、通り過ぎた。
通り過ぎてから、言った。
「マルトどの」
「……はい」
◇
「明日から、お前はここにおられませんわ」
女の色が、抜けた。
抜けたところを、彼女は見なかった。
見ても、増えるものがない。
◇
――名も訊かずにお世話をなさった方ですもの。
それが理由ではない。
止められたのが、気にくわなかっただけである。
独房は、前と同じだった。
卓と、寝台と、燭台。窓の格子。
栗色の髪の女が、同じ椅子に座っていた。
「セシリア」
◇
女が、顔を上げた。
「……はい」
ヴィオレッタは、扉の内側で止まった。
前は、だれだっけ、と訊いた。
今日は、はい、と答えた。
◇
名を呼ばれて振り向くのと、名が自分のものだと知っているのは、別である。
「お前の名は」
「……」
女は、少し笑った。
「いま、呼んだよね」
卓の上に、木の匙が一本あった。
冬に来たときは、二本あった。
◇
「匙が、一本になっておりますわね」
「うん」
「もう一本は」
「……あったっけ」
◇
「セシリア」
「はい」
「お前は、いま何を数えておいでですの」
「かぞえてないよ」
◇
冬に来たときは、数えていた。
燭台の火を見て、何かを探していた。探し方は忘れても、探していること自体は残っていた。
◇
「なにか、さがしてたきがする」
女は言った。
「なにをさがしてたか、わかんないんだけど」
◇
二本あったことを、この女は覚えていない。
覚えていないので、無くなったことにも気づいていない。
覚えていない。
呼ばれたから、自分だと思っただけである。
ヴィオレッタは、椅子に腰を下ろした。
「ヴィオレッタと申しますわ」
「そう」
◇
「二度目でございますの」
「そうなんだ」
女は、それ以上訊かなかった。
訊かないので、彼女も言わなかった。
◇
冬に、この部屋で同じことをした。
あのとき、この女は名前を伺っておいでかとマリアンヌに訊かれて、明日には忘れると言われた。
忘れていた。
――一度名乗れば済むと思っておりましたのよ。
済まない。
◇
名前は、呼ぶ側ではなく、置いておく側が要る。
置く場所を、彼女はこれから作る。
作れば、次に来たとき、この女は覚えている。
王家の簿に一行できる。教区の登録簿に写しが回る。二百年ぶんの束の末尾に、一つ足される。
◇
足された名は、消えない。消えなければ、薄れない。
◇
覚えていても、彼女のことは思い出さない。
思い出す紙が、どこにも無いからである。
――それで結構ですわ。
帰りの馬車で、マリアンヌが膝掛けをよこした。
「お嬢様」
「なに」
「あの三部から、お名前が消えますが」
「消えますわね」
◇
侍女は、しばらく黙っていた。
「よろしいのでございますか」
ヴィオレッタは、窓の外を見た。
◇
「マリアンヌ」
「はい」
「お前は、わたくしの名が何枚あるかを数えたことがございますの」
「……ございません」
「数えてもおらぬのに、減ることを案じておいでですのね」
侍女は、膝掛けの端を直した。
――怒っておいでだ。
◇
怒ってはいない。
この娘は、外側を見る。外側しか見ないので、内側の勘定に口を出すと必ず外す。
――お前は、そのままでよろしいのですわ。
◇
言わなかった。
再審には、教会の同意が要る。
あの裁きは、王家と教会の両方で開かれている。聖女を裁くのに、教会が席を持たない形はない。
オノレは、三日渋った。
大司教の執務室で、男は同じことを四度言った。
◇
「再審は、教会の裁きをやり直すことになります」
「やり直しませんわ」
ヴィオレッタは言った。
「判決は、動かしませんの」
「動かさぬ再審が、ございますか」
「ございませんの」
「では」
「ですから、作りますわ」
◇
この男の内側は、前例のことしか考えていない。
――前がない。
――前がないものを、わたしの代で。
いい色ですこと、とヴィオレッタは思った。
◇
この男は、二年前の裁きが正しかったかどうかを一度も考えていない。
考えているのは、自分の代に何が初めて起きるかだけである。
「猊下。一行、抜くだけでございますわ」
「一行で済みませぬ」
「なぜ」
◇
「一行抜けば、残りの証しで足りるかを検め直すことになります」
「検め直して、足りますわ」
「足りるかどうかを、教会が申すことになります」
◇
「申していただければ、よろしいのでは」
「……申せませぬ」
「なぜ」
オノレは、答えなかった。
そこだった。
教会は、あのときの検分をもう一度出さねばならない。
出せば、あの夜、誰が何をどの順で検めたかが並ぶ。
◇
並べば、順が見える。
順が見えれば、抜けているところも見える。あの夜、教会は最後に来た。最後に来た者が、最初から検めたことにして書いてある。
ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。
◇
「猊下。毒の壺を検めましたのは、どちらでございますの」
「教会でございます」
「その前に、どなたか触れておいでですわ」
オノレの色が、動いた。
◇
「……ご存じでいらっしゃいますので」
「存じませんの」
彼女は言った。
「ですが、女官頭が控えを持っておりますわ」
◇
ソレル夫人は、あの夜、城の女官の配置を書いている。
誰がどの部屋に立ち、誰が何を運んだか。
女官頭の帳面は、そのために作られている。
◇
夏に、あの女は洗い場の人数を水増しして俸を浮かせていた。
浮かせたぶんの帳尻を合わせるために、洗い場の娘を一人、厨へ飛ばしている。
その一件は、秋に彼女の手に入った。
入れてから、一度も使っていない。
今日、使う。
◇
「ソレルには、あの夜の控えを出させますわ」
ヴィオレッタは言った。
「出れば、教会の検分より先に城の女官が壺に触れたことが分かりますの。……教会は、それを知らずに検分をお済ませになりました」
「――」
◇
「猊下の代の話ではございませんわ。前の猊下の代でございます」
オノレの手が、卓の上で止まった。
――前の代だ。
――だが、出せば、わたしの代に出る。
◇
「一行抜くだけでしたら」
ヴィオレッタは言った。
「検め直しは、証しの数を数えるだけで済みますわ。……壺には、誰も触りませんの」
オノレは、二日で同意した。
条件は、一つだけだった。
◇
教会は再審に席を持たない。王家の裁きとして開く。
――お逃げになりましたのね。
逃げてくれたほうが、こちらは早い。
◇
教会が席を持たなければ、検め直しは王家の勘定になる。
勘定をするのは、監査の記録官である。記録官の上に、立会人が三人いる。
三人のうち一人が、彼女である。
申し立ては、御前会議に出した。
◇
国王、王妃、宰相、アルベール、オーギュスト。
ヴィオレッタは、壁際ではなく卓に着いた。立会人には席がある。
「あの裁きにつき、証しを一つ取り下げますわ」
顔が、動いた。
「取り下げるのは、わたくしの申し立てでございます」
◇
「判決はどうなる」
宰相が訊いた。
「残りますわ」
「では、何が変わる」
「記録の終わりが、動きますの」
オーギュストが、指を組んだ。
◇
「なぜ、いま」
男は、そう訊いた。
「監査に、三十二行目が要りますの」
「三十一枚しか来ぬのだったな」
「はい」
「一行のために、ご自分の証しをお捨てになるか」
◇
「安うございますわ」
「安いか」
「一行と一行でございます」
◇
「捨てた紙は、戻らぬぞ」
「戻りませんわね」
「惜しくはないか」
「惜しゅうございます」
◇
オーギュストが、こちらを見た。
「惜しいものを捨てるのか」
「惜しくないものは、はじめから持っておりませんの」
ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。
◇
「情ではございませんわ」
◇
そう言った。
嘘ではない。
塔の女に返すものは、あれから一つも増えていない。
ただ、本当かどうかを、彼女自身が確かめられなかった。
確かめる欄が、どこにも無いからである。
オーギュストは、笑わなかった。
◇
笑わないまま、内側が一度だけ動いた。
――名を捨てる女か。
その色を、彼女はよく見た。
◇
この男は、名の量が人を保つことを知らない。
知らないので、名を捨てる女を「捨てられる女」だと読む。
読み違えたまま、置いておく。
◇
二年、彼女は読み違えている相手を正したことがない。
正せば、正しく警戒される。
申し立ては、通った。
再審は、十日後と決まった。
その夜、公爵家から使いが来た。
父からである。
封は、切ってあった。
一行だった。
◇
――家の名に傷がつく。取り下げよ。
◇
ヴィオレッタは、その紙を燭台の火に近づけなかった。
畳んで、卓の隅に置いた。
◇
父は、娘の目を一度も見ようとしない人である。
視られるのが嫌なのではない。視えるという話を、この人は信じたことがない。
◇
信じていないものを、家の名の勘定には入れている。
入れておいて、傷がつくと書いてくる。
父は、この城のことに一行も書いてこなかった。
書いてきたのは、今日が初めてである。
◇
娘が王太子の婚約者になったときも、保留が解けたときも、大司教が一人落ちたときも、この人は書かなかった。
書かないのが、公爵家の作法である。
◇
その作法を、今日は破っている。
破らせたのが誰かは、明日行けば分かる。
「マリアンヌ」
「はい」
「明日、公爵家へ参りますわ」
「かしこまりました」
「それから」
彼女は、卓の上の三部を揃えた。
◇
「わたくしの名を、三つ捨てますわ」
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