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悪役令嬢は、嘘だけはつかない ~悪気はございませんの~  作者: 桜野結
第3章

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第23話 弟

王家監査が聖女選定に入ることになった、と触れが出た。


 出ただけである。


 誰がやるのか、どこでやるのか、何を見るのかは、一行も書いていなかった。


 検めるのは、聖女の選び方である。


 誰が変容し、いつ上申され、いつ選ばれ、いつ聖名を賜ったか。教会がそれを正しく記してきたかどうかを、王家が確かめる。


 確かめて、これから先は王家の簿にも同じことを書かせる。


 書かせるのは、一つだけ増えた欄である。前の名を書く欄。


   ◇


 決まったのは大聖堂の身廊で、三十人が聞いていた。


 三十人は、聞いたことを喋った。喋ったので消せなくなった。だが喋る者と、やる者は違う。


 叙任の儀から十日が過ぎて、監査はまだ一枚の紙も作っていない。


 教会は、まだ一枚も出していない。


 出せと言われていないからである。誰が、どの形式で、いつまでに、と書いた紙がどこにも無い。


   ◇


 ヴィオレッタは、北棟へ行った。


   ◇


 城の北棟は、書庫と、使われていない部屋が並んでいる。冬は日が入らない。


 その一つに、卓が二つ置かれていた。


 男が一人、座っている。


 卓の上に、束が三つ。どれも去年の写しで、今年のものは一つも無い。


   ◇


「王家監査は、こちらでよろしくて」


「……はい」


 男は立った。


 四十がらみで、背が低く、指が黒い。二十年ぶん墨を触ってきた指である。


「お名前を」


「ベルナールと申します」


「お一人ですの」


「はい」


「二十年、書付をお書きになった方は」


「書庫へ移られました」


「では、お前は」


「あの方の下で、十一年、写しを作っておりました」


   ◇


 ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。


 書く役を落としたのは彼女である。落とした穴に、写しを作っていた男が繰り上がっていた。


 落とすつもりは無かった。ある届の書き手を訊いただけである。訊かれた側が、二十年ぶんを一度に疑われたと受け取った。


 受け取り方まで、彼女の勘定には入っていない。


   ◇


「何をお作りになりますの」


「……存じませぬ」


 ベルナールは言った。


「上から、聖女選定を検めよと。それだけでございます」


「検めて、どうなさいますの」


「……」


「では、わたくしが申し上げますわ」


 彼女は、紙を一枚引き寄せた。


   ◇


「行を三十二、お引きなさい」


「三十二、でございますか」


「二百年で、三十二代でございましょう」


「はい」


「一代につき一行。それだけですわ」


 ベルナールは、線を引いた。


 まっすぐに引いた。この男は、線だけは速い。


   ◇


「欄は、四つ」


 ヴィオレッタは言った。


「変容の日。上申の日。選定の日。聖名を授けた日」


「……教会の簿から、書き写せばよろしゅうございますか」


「いいえ」


 四つとも、教会の簿にある欄である。写せば済む。


 済むものを先に置いた。置いてから、五つ目を言う。


「五つ目を、お引きなさい」


「五つ目」


「前の名」


   ◇


 羽根ペンが、止まった。


   ◇


「教会の簿には、ございませぬ」


「存じておりますわ」


「無いものは、写せませぬが」


「写すのではございませんの」


 ヴィオレッタは、扇を開いた。


「教会にお書きいただくのですわ」


   ◇


 ベルナールは、五つ目の線を引いた。


 引いてから、しばらくその線を見ていた。


 夏に、彼女は干し場の板から荷札を外している。


 教会から来る布に、必ず一枚ついてくる札である。何が、何枚、いつ入ったか。返すときに外して、板へ刺す。途切れずに刺してあった。


 あれは紙屑だと、城の者は言った。名前が一つも書いていないからである。


 書いていないほうが、都合がよかった。品目と、枚数と、年月日と、返し先がある。返し先には聖女の名が入っている。


 名が変わる月が、そこに出る。


   ◇


 ――教会の簿と、突き合わせる紙が一つございますのよ。


   ◇


 彼女は、まだ出さなかった。


 出せば、監査は教会の写しを検める仕事になる。検める仕事は、いつか終わる。


   ◇


 選定記録は、四日で来た。


「三十一枚でございます」


 ベルナールが言った。


   ◇


 三十一枚である。


 秋に公爵家の名で請求したときも、三十一枚だった。二度出して、二度とも同じ形で来た。


 王家の名で請求しても、同じだった。


 一代ぶんが、入っていない。


 入っていないのは、去年断罪された女のぶんである。教会は断罪の折に記録を終わらせた。終えたものは簿に残らない、と大司教は言った。


   ◇


「三十二代と伺っておりましたが」


 ベルナールは言った。


「……送り状にも、三十一件とございます」


「そう」


   ◇


 彼女は、束を繰らなかった。


 繰らなくても、何が入っていないかは知っている。


 彼女が欲しいのは、三十一枚ではない。


 三十二枚目である。


   ◇


 あの行が空のまま残れば、簿は終わらない。終わらなければ、監査は続く。続くあいだ、彼女は北棟に用がある。


 用があるうちは、誰も彼女を追い出せない。


   ◇


「三十二行目は、どういたしましょう」


「空でよろしいのですわ」


「空の行は、簿になりませぬ」


「なりませんの」


「はい。……載っておらぬ者の行は、作れませぬ」


 ヴィオレッタは、その内側を覗いた。


   ◇


 ――決めたくない。


   ◇


 濁ってはいなかった。この男は、規則で断っている。規則で断っているうちは、まだ何も背負っていない。


「では、断った旨をお書きなさい」


「……は」


「王家監査は三十二行を求めた。記録官はこれを断った。……そう、お書きなさい」


「なぜ、でございますか」


「二百年、読まれますのよ」


   ◇


 男は、断らなかった。


 断ったと書けば、断った者の名が残る。二十年ぶん書いてきた男が書庫へ移されたのを、この男は先月見ている。


 三十二行目は、空のまま残った。


 ヴィオレッタは、その内側をもう一度覗いた。


 ――書かされた。


 濁っている。この男は、いま初めて自分の名で何かを断った。断った名は、二百年残る。


 いい色ですこと、と彼女は思った。


   ◇


 空のまま残ったので、簿は終わらなくなった。


   ◇


 ――終わらないほうが、都合がよろしいのですわ。


   ◇


 王妃の茶会は、五日後だった。


 冬の温室である。硝子越しに日が入って、床だけが暖かい。夫人と令嬢が、二十人ほど。


 ヴィオレッタの席は、上から三つ目にあった。


 この顔ぶれを、彼女は半分も覚えていない。


 覚えていないほうが多いのに、誰がどの家の者かは全部分かる。座っている場所で分かるようにできている。


   ◇


 一年前は、末席である。その前は、呼ばれていない。


 女官頭が、春の宴の名簿を持って回っていた。


 ソレル夫人である。夏に一度、この女は洗い場の配置で笑いを取っている。今日は笑っていない。


 この女は、去年の夏に洗い場の配置を書き替えて、その理由を人前で述べた。述べて、笑いを取った。


 取られたのは、公爵令嬢である。


   ◇


「ヴィオレッタ様。ご確認を賜れますでしょうか」


 名簿を受け取った。


 順に見た。


「ブレー侯爵家のお嬢様を、お外しなさいまし」


   ◇


 温室が、静かになった。


   ◇


 オルタンス・ド・ブレーは、右の列の三番目にいた。十九である。背が高く、首が長い。


 茶器を置く音がした。


 この娘の家は、王家の縁が遠い。遠いぶん、宮廷で声を出すことでしか名が残らない。


 声を出すのが、うまい娘だった。


「……理由を、伺ってもよろしゅうございますか」


 訊いたのは、本人だった。


 訊けるのは侯爵家だからである。伯爵家なら黙って外される。


   ◇


「公爵家のご息女が、宴の名簿をお決めになりますので」


「決めておりませんわ」


 ヴィオレッタは言った。


「申し上げただけでございます」


「同じことでございましょう」


「同じではございませんの」


 彼女は、名簿をソレル夫人のほうへ滑らせた。


「お決めになるのは、女官頭でございますわ」


   ◇


「お耳が、お悪いようですので」


 ヴィオレッタは言った。


 誰も、意味を取れなかった。


 取れないまま、全員がこちらを見ていた。


   ◇


「わたくしのことを、保留の婚約者と仰いましたそうで」


 彼女は、名簿を膝に置いた。


「保留は、去年の冬に解けておりますの。……お聞きになっておりませんのね」


 保留が解けたのは、去年の冬である。


 解けたと触れは出たが、宮廷は一年、解けていないつもりで喋り続けた。そのほうが面白いからである。


   ◇


 笑いが、起きた。


   ◇


 小さく、短く、右のほうから起きて、左で消えた。


 それで足りた。


 ヴィオレッタは、オルタンスの内側を覗いた。


 ――誰が言った。


 ――あの場には、四人しかおらぬ。


「そのようなことは、申しておりませぬ」


 オルタンスは言った。


 声は、震えていなかった。この娘は、それなりに強い。


「では、どなたが仰いましたの」


 娘の口が、止まった。


   ◇


 名を言えば、その場にいた三人のうちの誰かを売ることになる。


 言わなければ、自分が被る。


 ヴィオレッタは、待った。


 待つあいだ、周りの色を眺めていた。


 ――自分でなくてよかった。


 ――ブレーは、目障りだった。


 ――誰が漏らしたのかしら。


   ◇


 いい色ですこと、と彼女は思った。


   ◇


 彼女はこの温室で、誰の顔も覚えたことがない。覚える必要が無かったからである。


 いまは、二十人の内側が一度に見えている。


 名を覚えないのは、覚える価値が無いからだと思っていた。


 数えなかっただけである。数えれば、何枚あるかが分かる。


「お黙りになるのでしたら、お外しいたしますわ」


 オルタンスは、黙っていた。


「ソレル」


「はい」


「お消しなさい」


   ◇


 女官頭は、その場で線を引いた。


   ◇


 春の宴に出ないというのは、二月ほど何も起きないということではない。


 その二月のあいだに、家の格が一つ動く。動いたものは、翌年には戻らない。宴の名簿は毎年、前の年の名簿を写して作る。写す者は、去年出ていない家を今年も書かない。


   ◇


 オルタンスは、茶器に手をやらなかった。


 やれば、手の震えが見える。


 帰りの廊下で、マリアンヌが言った。


「よろしいのでございますか」


「なにが」


「侯爵家でございます」


「気にくわないのですもの」


 ヴィオレッタは言った。


   ◇


 マリアンヌは、それ以上訊かなかった。


 訊かないので、彼女は一つだけ足した。


「お嬢様」


「まだございますの」


「……あの方は、来月ご婚約でいらっしゃいます」


   ◇


 ヴィオレッタは、足を止めなかった。


「それが」


「春の宴に出られませぬと、先方の家が」


「マリアンヌ」


「はい」


「わたくしに、その話をして何になりますの」


   ◇


 侍女は、黙った。


 黙ったが、内側は黙らなかった。


 ――止められると思ったのだ。


   ◇


 この娘は、一度も止めたことがない。今日、初めて止めようとして、止め方を知らなかった。


 ――お覚えなさいまし。次は、もっと早く仰るのですわ。


 言わなかった。


   ◇


「一年半、あの声で言われておりましたのよ」


 王弟が城に入ったのは、その翌日である。


 オーギュストという。


 北の領地から、馬車が三台。年に二度しか来ない男が、冬に来た。


 この男が城に入るのは、建国祭と、王家の葬いのときだけである。


 どちらでもない月に来た。


 王家監査の立会人として来た、と触れが出ていた。


 立会人という役は、先週まで無かった。


   ◇


 謁見は、その日の午後だった。


 ヴィオレッタは、アルベールの隣に立った。


 立って、扉が開くのを待った。


 入ってきた男を見て、彼女は一度、目を止めた。


   ◇


 陛下に、似ていた。


   ◇


 顔の作りが同じである。額の広さも、鼻の高さも、口の端の下がり方も同じだった。


 背が少し低く、肉が厚い。


 髪の色まで同じだった。


 違うのは、年の入り方である。兄のほうが痩せていて、弟のほうが厚い。


   ◇


 声も似ていた。


   ◇


「兄上。ご機嫌うるわしゅう」


 国王が、うなずいた。


   ◇


 二人が並ぶと、片方が片方の写しのように見えた。


 どちらが写しなのかは、決めようがなかった。


 ヴィオレッタは、上座を見た。


 国王が、こちらを見ていなかった。


   ◇


 鳴っている。


 歪んでいて、遅れていて、意味の取れない音が三つか四つ。塔で一度、私室で一度、彼女はこれを聞いている。


   ◇


 王弟のほうへ、耳を移した。


   ◇


 鳴っていなかった。


   ◇


 顔が同じで、声が同じで、中身だけが違う。


 違っているのは、兄のほうである。


   ◇


「アルベール。大きゅうなった」


「叔父上」


「久しいな」


 オーギュストは、それからこちらを向いた。


「アルヴェール公爵家のご息女か」


「ヴィオレッタと申しますわ」


「聞いておる」


 男は、笑った。


「大聖堂で、大司教を一人お落としになったとか」


「落としてはおりませんわ」


 ヴィオレッタは言った。


「申し上げただけでございます」


   ◇


「同じことだ」


「同じではございませんの」


 彼女は、扇を開いた。


「落ちたのは、猊下のご都合でございますわ」


 オーギュストは、もう一度笑った。


 笑いながら、彼女はその内側を覗いた。


   ◇


 ――十四年前のあれを、まだ誰も言わぬ。


   ◇


 覗いたまま、彼女は扇を閉じなかった。


 閉じれば、手が動く。動けば、顔が動く。


   ◇


 歪みは、無かった。


   ◇


 この男は、嘘をついていない。伏せてもいない。


 十四年前に何かがあって、それをまだ誰も言っていない、という一事が、そこに置いてあるだけである。


 置いてあるものを、彼女は好きなだけ覗くことができる。


 この形の相手を、彼女は何度か見ている。どれも、落ちるまで一度も焦らなかった。


 持ち物を弱みだと思っていない者は、取り上げようとするまで動かない。


   ◇


 聖具室で、大司教も同じ形をしていた。


 あのときは、覗いても何も起きなかった。この男の中で、それはまだ弱みになっていない。


   ◇


 弱みになるのは、伏せようとした瞬間である。


   ◇


 ――まだ、お伏せになっておりませんのね。


   ◇


「叔父上は、いつまでご滞在で」


 アルベールが訊いた。


「監査が終わるまでだ」


 オーギュストは答えた。


「終わらぬなら、春までおる」


 監査が終わるまで、と男は言った。


 終わらせないのは、彼女である。


 三十二行目は、空のままである。


 簿は、終わらない。


   ◇


 ――春まで、おいでになりますのね。


   ◇


 その夜、東棟に呼ばれた。


 アルベールは、書類を読んでいた。


 読みながら、こう言った。


「叔父上は、あの三日、城におられた」


 ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。


   ◇


「六つのときの」


「そうだ」


「三日とも」


「三日とも」


「殿下は、そのとき何を」


「訂正した」


 アルベールは言った。


「三度、父の前に立って、私の名を申し上げた」


「陛下は」


「四度目に、正しく呼ばれた」


   ◇


 六つの子どもが、三日かけて父に自分の名を教えた。


 教えれば直る、と思ったのである。


   ◇


 直った。


 直ったことのほうが、この男を十四年こじらせている。


   ◇


 羽根ペンは、止まらなかった。


 この男は、ずっと前にそこを通っている。


「ご存じでいらしたのですね」


「知っていた」


「では、なぜ」


「言えば、父が終わる」


 アルベールは、顔を上げなかった。


「叔父上も、同じ勘定をしておられる」


 彼は言った。


「十四年、言わずにおられるのは、言えぬからではない。……使い道が来ておらぬからだ」


   ◇


「来ましたら」


「言われるだろうな」


 ヴィオレッタは、扇を膝の上で止めた。


 この男は、叔父の内側を覗いていない。覗けない。


 覗けないまま、十四年、同じ答えに辿り着いている。


 十四年、この男は父を疑いながら、父の跡を継ぐ支度をしてきた。


 支度をやめれば、疑っていることになる。


   ◇


 ――算盤だけで、そこまでお出しになりますのね。


   ◇


「殿下」


「なんだ」


「叔父上様は、なぜ監査の立会人をお引き受けになりましたの」


   ◇


 羽根ペンが、止まった。


   ◇


「叔父上が言い出した」


「まあ」


「立会人という役は、先週まで無かった」


 ヴィオレッタは、頭の中で紙を並べた。


   ◇


 監査は、二百年ぶんの選定記録を全部開ける。


 開ければ、教会の書き方が出る。


 教会の書き方が出れば、王家の書き方も並べられる。


 選定記録は、教会が出す。出したものを、王家が検める。


 検めるのは教会の書き方である。だが並べて置けば、王家の書き方も同じ卓に載る。


 ――三年ほど前から、記録の書き方が変わっております。


 クレマンは、上からの指図だと言った。


   ◇


 監査は、それを表に出す。


 出したがっているのは、教会ではない。


「殿下」


「なんだ」


「監査は、陛下の記録に届きますわ」


 アルベールは、書類を置いた。


「届く」


「お止めになりまして」


「止められん」


 彼は言った。


「止めれば、私が知っていることになる」


   ◇


「殿下」


「なんだ」


「わたくしが止めましたら」


「君が知っていることになる」


「存じておりますわ」


「では訊くな」


   ◇


「訊いておりませんの」


 ヴィオレッタは言った。


「申し上げただけでございます」


   ◇


 ヴィオレッタは、笑わなかった。


   ◇


 この男は、ずっと同じ形で詰んでいる。


 知っているので、動けない。動けば、知っていたことになる。


   ◇


 ――だから、道具をお買いになりましたのね。


   ◇


 御前会議は、三日後に開かれた。


 監査の進め方を決める会である。


 国王、王妃、宰相、アルベール、オーギュスト。教会からオノレ大司教とジェルヴェ司教。壁際に記録官が二人。


 ヴィオレッタは、壁際の椅子に掛けていた。


 壁際の椅子は、去年まで無かった。


 婚約者の席として置かれたもので、卓には着かない。声を出す席でもない。


   ◇


 議題は、三つ出た。


 教会が二つ、王家が一つである。


 オノレは、期限を求めた。


「いつまでに検められますのでしょうか」


「区切りは要る」


 宰相が答えた。


「一年か」


「三年、頂戴できませぬか」


 オノレの内側は、期限のことしか考えていない。


 中身が何であるかは、この男の勘定に入っていない。入れる気も無い。


   ◇


 三年で、この男は座を降りる。


 降りたあとのことは、降りたあとの者の話になる。


 ――替えの利く方は、区切りだけをお欲しがりですのね。


 オーギュストは、その次に口を開いた。


   ◇


「王家の目が、足りぬ」


   ◇


 男は、卓の上で指を組んだ。


「記録官が一人で、あれだけの束を検める。……検めたと申しても、誰も確かめられん」


「立会人を、と」


「三人置かれよ」


 言い方が、うまかった。


 監査を疑っているのではなく、監査を守る形になっている。守る形にしておけば、断るほうが不誠実に見える。


 オノレの色が、動いた。


   ◇


「畏れながら」


 大司教は言った。


「王家の目ばかり三つ増えますのは、いかがなものでございましょう」


「教会の記録を検めるのだ。教会の目で足りるか」


「……」


   ◇


「畏れながら、王弟殿下」


 口を開いたのは、若いほうの司教だった。


「立会人の方々は、何をお書きになりますので」


「書かぬ」


 オーギュストは答えた。


「読むだけだ」


「読んだことは、どちらへ」


「どこへも参らぬ。……読んだ者がいた、というだけで足りる」


   ◇


 止まった。


   ◇


 オーギュストは、三人と言った。教会は、三人とも王家になると読んだ。


 読み違いではない。この男は、そのつもりで言っている。


 二人が王家、一人が宰相府。宰相府の一人は、去年から北の領地に借りがある。


 三つとも、この男の目である。


 二人はこの男の側に立つ。残りの一人は、宰相府から出る。


 ヴィオレッタは、そこで扇を開いた。


   ◇


「畏れながら、陛下」


   ◇


 顔が、一斉に動いた。


 壁際の椅子から声が出るとは、誰も思っていない。


「三人でよろしゅうございますわ」


 彼女は言った。


「ただ、三つとも王家では、猊下の仰るとおりでございます」


「では、どうする」


 宰相が訊いた。


「一つを、王家でも教会でもないところから」


「……どこから出す」


「公爵家でございます」


 オーギュストの指が、動いた。


   ◇


 組んでいた指の、上の一本だけである。


「公爵家は、王家の縁ではないか」


「縁でございます」


 ヴィオレッタは、扇を膝に戻した。


「縁でございますが、王家ではございませんの。……猊下、いかがでございましょう」


 公爵家は、王家の縁である。縁であることは誰でも知っている。


 知っていることを、この男は反論に使った。使えば、こちらは一度だけ認めればよい。


   ◇


 オノレは、断れなかった。


 断れば、三つとも王家になる。


「……結構でございます」


「宰相閣下は」


「異存はない」


 国王が、うなずいた。


 立会人は三人になった。


 王家が二つ、公爵家が一つである。


   ◇


 ――ご自分でお作りになった席でございますわ。


   ◇


 会が退けたあと、オーギュストが廊下で振り返った。


「よく通る声だ」


「恐れ入りますわ」


「壁際から、あれを申されるとはな」


 男は、笑っていた。


   ◇


「どなたがお座りになりますの」


 ヴィオレッタは訊いた。


「公爵家の席にか」


「……父が出せる者は、おりませんわ」


「では」


「わたくしが座りますわ」


   ◇


 立会人は、書かない。読むだけである。


 読むだけの席に公爵令嬢を置くのは、体裁の話に見える。見えるように作った。


   ◇


 読むだけの席から、彼女は束の全部を見ることになる。


「公爵家のご息女は、お一人か」


「二人おりますわ」


「もうお一人は」


「十一でございます」


   ◇


 オーギュストは、それ以上訊かなかった。


 オーギュストは、笑うのをやめなかった。


 やめないまま、内側が一度だけ動いた。


   ◇


 ――使えるかもしれぬ。


   ◇


 いい色ですこと、とヴィオレッタは思った。


   ◇


 自室に戻ると、マリアンヌが束を持って待っていた。


「お嬢様」


「なに」


「ブレー侯爵家のご嫡子でございますが」


「……なんですの」


「王弟殿下の書役でいらっしゃいます」


 ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。


   ◇


 先日、彼女はあの家の娘を名簿から外した。


 外したのは、気にくわなかったからである。


 その家の嫡子が誰の下にいるかを、彼女は調べていない。


 調べていれば、外すのを一月遅らせた。遅らせて、もっと高いところで使った。


 外したことで、あの男の手が一本、短くなった。


   ◇


「まあ」


 彼女は言った。


   ◇


 マリアンヌは、その内側を覗けない。


 覗けないので、たぶん今日も、いま自分の主人が何を考えているかを一つも取れていない。


   ◇


 ――知っておりましたら、もっと高く売りましたのに。


   ◇


 売れたものを、気分で捨てた。


 捨てたのに、勝手に高く付いた。この城で彼女が確かめてきたのは、そういうことが起きるということである。


 だから宮廷は、彼女を怖がっている。


   ◇


 怖がられているうちは、誰も本気で数えに来ない。


   ◇


 卓の上に、紙が一枚置いてある。


 一行目に、オノレ。


 二行目に、ジェルヴェ。


 替えの利く男の名である。


   ◇


 三行目は、空のままだった。


   ◇


 書けば、その者を狙うということになる。


 狙えば、いずれ落とすことになる。二年、彼女は書き留めたものを一つ残らず落としてきた。


   ◇


 ――替えが、利きませんわね。


   ◇


 王弟の名は、そこには書かない。


 あの男は替えが利かないからではない。書き留めておく必要が、まだ無いからである。


 春までいる、と本人が言った。


   ◇


「マリアンヌ」


「はい」


「十四年前、王弟殿下が城におられた日を、お調べなさい」

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