第22話 復命
叙任の儀は、大聖堂で行われる。
王都司教の座に人を置くのは教会の内向きの手続きであって、本来、王家が出向くものではない。だが空席を作ったのが王太子の婚約者である以上、出ないという選択はなかった。出なければ、教会に一つ貸しができる。
ヴィオレッタは、その程度の理由で行くつもりでいた。
朝、礼装を検められているとき、マリアンヌが式次第の写しを持ってきた。
「三点、ございます」
侍女は、前置きをしなかった。
「証人席が、通例の倍でございます。王家、貴族、教会から、それぞれ。……前回の叙任は、十二名でございました。本日は三十名」
「そう」
「記録官が、三人おります」
ヴィオレッタは、鏡の中で扇を止めた。
「教会の記録官が、でして?」
「教会が二人。王家が一人。……王家の一人は、教会からのご依頼でございます」
三点目を、マリアンヌは最後に置いた。
「お嬢様のお席が、上座でございます。陛下の斜め後ろではなく、祭壇の正面でございます」
◇
見せるための席だった。
三十人に見せ、三本の筆で書き留めさせる。教会は、何かを人前で起こすつもりでいる。
ヴィオレッタは、扇を畳んだ。
――なるほど。
三日前に何を言われたかを、彼女はよく覚えていた。一言残らず覚えていた。覚える必要のあることだったからだ。
「マリアンヌ」
「はい」
「本日、わたくしは長く喋りますわ。……途中で誰かに止められましたら、誰が止めたかを覚えておきなさい」
侍女は、答えなかった。
答えないまま、扇の骨をひとつ直した。
◇
大聖堂は、王城の礼拝堂より三倍広い。
柱が二列、身廊の奥まで並び、その先に祭壇がある。冬の朝で、色硝子を通った光が床に落ちていた。
上座に国王と王妃。その左にアルベール。祭壇の正面に、ヴィオレッタ一人。
側廊に三十人。柱の陰に、筆を持った三人。
新司教が進み出た。ジェルヴェという。四十半ばの、肉の薄い男だった。
着任して二十日になる。ヴィオレッタはこの男の顔を、まだ二度しか見ていない。二度目で、名を思い出すのに一拍かかった。
替えの利くものに、人は名前を付けない。
◇
クレマン大司教は、祭壇の階の上に立っていた。
七十に近い。背が高く、姿勢がまっすぐで、声が低い。三日前に聖具室で向き合ったときと、寸分違わない立ち方だった。
ヴィオレッタは、その内側を覗いた。
――神の御前である。
――万事、滞りなく。
困ったことに、全部あった。
この男は、何ひとつ伏せていない。三日前に聖具室で述べたことも、二百年ぶんの手続きも、畳んでそこに置いてある。置いてあるものを、彼女は好きなだけ覗くことができる。
覗いても、何も起こらない。
弱みというのは、本人が弱みだと思っているものを言う。この男は、自分の持ち物を一つも弱みだと思っていない。
◇
叙任の儀そのものは、短かった。
油を額に置き、指輪を渡し、名を呼ぶ。ジェルヴェが跪き、応える。三十人が黙って見ている。
クレマンが、身廊のほうへ向き直った。
「聖名について、申し上げます」
説教が始まった。
人は生まれたときの名で神に呼ばれるのではない。神に選ばれた者は、新しい名を賜る。司教も、修道女も、そして聖女も。古い名は神に返し、新しい名で御業に仕える。
声はよく通った。三十人が頷いていた。
ヴィオレッタは、頷かなかった。
――簿から外す手続きでございます。
三日前、この男は同じことを、別の言い方で説明した。
◇
「ヴィオレッタ様」
クレマンが、祭壇の階から呼んだ。
三十人の首が、一斉にこちらを向いた。
「畏れながら、神の御前にて、一つお伺い申し上げます」
ヴィオレッタは、扇を膝の前で揃えた。
「どうぞ」
「アルヴェール公爵家ご息女におかれましては、この城の内に、神の触れられた者を、お見つけになりましたか」
◇
身廊が、静かになった。
問いの意味を取れた者は、三十人のうち何人もいなかったはずである。だが、この場でこの男が問うたという事実だけは、全員が理解した。
三本の筆が、動き始めた。
ヴィオレッタは、その問いの作りを見た。
よく出来ている、と思った。
この女は嘘をつけない。それは宮廷が二年かけて確かめたことである。神の御前で問えば、否とは言えない。是と答えれば、次の問いは決まっている。
名を、この場で言わせる。
言えば、その者は教会のものになる。教会が見つけたことになり、教会の簿に入る。簿に入れば、聖名が与えられる。
与えられれば、前の名が消える。
「――おりますわ」
彼女は言った。
嘘は、つけない。
◇
身廊が、鳴った。
クレマンの顔は、動かなかった。動かないまま、次の言葉に入った。
「では、そのお名を、神の御前にて」
「畏れながら」
ヴィオレッタは、扇を開いた。
「順番がございますの」
◇
彼女は、上座へ向き直った。
「殿下」
アルベールが、顔を上げた。
「昨年の冬、わたくしは殿下より、一つ条件を賜っておりますわ。……聞いたことを、全部話せ。一言残らず。要約も、省略も許さん、と」
「言った」
「まだ、果たしておりませんの」
彼女は言った。
「ただいま、復命してもよろしゅうございますか」
◇
アルベールが、この女の意図を理解するのに、一拍もかからなかった。
――やれ。
温度はなかった。算盤が、いつもの倍で動いていた。
「許す」
◇
ヴィオレッタは、祭壇のほうへ向き直った。
「猊下。少々、長くなりますわ」
「ヴィオレッタ様――」
「霜月の十一日。午後の三つ刻」
彼女は、始めた。
「場所は、この大聖堂の奥、聖具室。同席者はございません。扉の外に、助祭の方がお二人。お一人は右の足をお引きになりますわね」
筆の音が、変わった。
◇
「猊下は、まずこう仰いましたわ」
ヴィオレッタの声は、平坦だった。
「――聖女は、教会が選ぶのではございませぬ。見つけるのでございます」
身廊の色が、動いた。
「――聖名を授けますのは、儀式ではございませぬ。前の名を、簿から外す手続きでございます」
動いた色が、揃わなくなった。
「――あの女は、じきに何も覚えなくなります。歴代、皆そうでございました」
◇
「ヴィオレッタ様!」
クレマンが、階を一段降りた。
ヴィオレッタは、続けた。
「――記録は、こちらで終わらせております」
声は、大きくならなかった。
◇
身廊が、静まった。
鳴らなくなったのではない。鳴らし方が分からなくなったのだ。三十人が、いま自分の耳に何が入ったのかを、それぞれの速さで計算していた。
三本の筆は、止まっていなかった。
◇
「猊下は、そのあとにこう仰いましたわ」
ヴィオレッタは、扇を畳んだ。
「――城の内に、もう一人おられます」
◇
側廊が、動いた。
この城の内に、という意味である。三十人が、それぞれ隣を見た。
◇
「――聖女に立てられました者が、三十二代。これは、修道院で拾えた数でございます」
◇
「――立てられなかった者が、別にございます。男であった者。身分の高すぎた者。見つけましたときには、既に亡くなっていた者」
筆が、三本とも速くなった。
「――二百年で、八人でございました」
「おやめなさい」
◇
クレマンが、もう一段降りた。
ヴィオレッタは、扇を開かなかった。
「――城の内では、二十年から三十年に一度でございます。前の代から、二十六年が経っております」
◇
身廊が、鳴った。
二十六年である。この場には、二十六年より長くこの城にいる者が、幾人も座っていた。
◇
「――三年ほど前から、記録の書き方が変わっております」
彼女は、そこで一度だけ息を継いだ。
「――上からの、指図で」
「おやめなさいと申しております!」
◇
声が、大聖堂の天井に当たって落ちた。
ヴィオレッタは、そこで初めて口を閉じた。
閉じて、その内側を覗いた。
◇
色が、立っていた。
◇
――聞かせてはならぬ。
三日前の聖具室で、この男は同じことを平気で喋った。喋って、何も起きなかった。伏せるつもりが、一片もなかったからである。
いま、初めて伏せようとした。
伏せようとした瞬間に、それは弱みになる。
弱みは、持っている中身で決まるのではない。持ち主が、それをどこに置いたかで決まる。
「まあ」
ヴィオレッタは言った。
「……やっと、視えましたわ」
◇
「猊下」
彼女は、扇の先を階のほうへ向けた。
「いま、王太子殿下の御命を、お止めになりましたわね」
クレマンの口が、開いた。
開いて、言葉が出なかった。
三十人の目が、その一点に集まっていた。王太子が許した復命を、教会の大司教が二度、声を上げて止めた。止めるだけの理由が中身にあったということを、この場の全員が、いま同時に理解した。
「わたくし、嘘だけはつきませんの」
ヴィオレッタは言った。
「ですから、全部申し上げますわ。……順番どおりに」
◇
「――ヴィオレッタ様。あなた様のお耳を、教会にお貸しくださいませ」
「――レナールは、こちらで切りましてございます」
◇
クレマンは、それきり口を開かなかった。
止めたところを、既に三十人に見られている。もう一度止めれば、止めた理由まで数えられる。
◇
ヴィオレッタは、そこで一度だけ上座を見た。
国王が、こちらを見ていた。
彼女は、その内側を覗かなかった。
覗かなくても、三日前から知っている。覗けば、いま自分の顔が動く。動けば、三十人がそれを見る。
彼女は、目を戻した。
◇
「猊下」
彼女は、扇を閉じた。
「一つだけ、伺ってよろしくて」
「……」
「聖名を賜った方々は、前のお名前を、どちらに置いておいでですの」
「――神に、お返しになったのです」
「では、そのお返しになったお名前は、どちらの簿に書いてございますの」
答えは、なかった。
◇
「ございませんのね」
ヴィオレッタは、身廊のほうへ向き直った。
「名を書く欄が、どこにもございませんの。……ですから、誰も残りませんのよ」
彼女は、三本の筆のほうを見た。
「記録は、教会がお作りになりますわね」
扇を開いた。
「本日は、三十人がお作りになりますわ」
◇
国王が、立った。
◇
――お立ちになったのは、上からの指図、と申し上げた一拍あとでございますわね。
◇
「大司教」
「……陛下」
「三十二代ぶんの選定記録を、王家が検める」
声に、抑揚はなかった。
「本日この場で聞いたことは、三十人が聞いた。……なかったことにはならん」
◇
クレマン大司教は、崩れなかった。
膝もつかず、言い訳もせず、ただ祭壇の階の上に立っていた。
ヴィオレッタは、その内側をもう一度覗いた。
――間違うてはおらぬ。
立っている色は、それだけだった。
この男は、負けたことを理解していない。理解していないので、悔しがってもいない。二百年ぶん正しかったものが、本日を境に正しくないことになった。それだけの出来事が、この男の中では起きていない。
起きていないまま、椅子だけがなくなる。
――明日も、同じ顔でお目覚めになりますのね。
ヴィオレッタは、扇を開いた。
開いて、それ以上は見なかった。見ても、増えるものがない。
◇
教会は、速かった。
クレマンは翌日に職を解かれた。二日目に、大司教座は空いた。三日目に、次が来た。
名を、オノレという。
叙任されたばかりのジェルヴェは、そのまま王都司教の座に残った。教会は人を替えただけである。組織としては、一枚も損をしていない。
前と、同じだった。
◇
ただ一つ、前と違うことがあった。
三十人が聞いていた。
王家の記録官が一人、教会の記録官が二人、同じ言葉を同じ日付で書いた。教会は自分の記録官に書かせるために三人を並べたのであって、書かれた中身を選ぶ権利までは持っていない。
王家の監査が、聖女選定に入ることになった。
これから聖名を授けるには、王家の簿に前の名を残さねばならない。手続きが一つ増えるだけである。
増えるだけだが、消せなくなった。
◇
宮廷は、いつもの作業に取りかかった。
起きたことを一行に丸め、丸めたものだけを回す。二年前、この城はフェリクス司教の一件をそうやって片づけている。柳小路の家も、四十八ポンドも、誰一人持ち出さなかった。
今度は、丸まらなかった。
三十人が同じ場所にいて、同じ言葉を聞いている。一行に縮めようとすると、聞いていた三十人のうちの誰かが、必ず残りを足した。
三日で、宮廷は聖女の話を覚えた。
――前のお名前は、どちらへ行きますの。
◇
ヴィオレッタは、それを聞き流さなかった。
二年で初めて、この城が彼女の落としたものを拾って走っている。使えるうちに使う気しか、彼女にはなかった。
◇
塔へ行ったのは、その週のうちだった。
馬車で二時間。門は、書状で開いた。
独房は、前と同じだった。卓と、寝台と、燭台。窓の格子。
栗色の髪の女が、同じ椅子に座っていた。
「セシリア」
女が、顔を上げた。
◇
「……ごめん」
彼女は言った。
「だれだっけ」
◇
ヴィオレッタは、扉の内側で立ち止まった。
立ち止まったまま、しばらく何も言わなかった。
――値をつけた女が、値を忘れましたのよ。
彼女は、そう思った。
取り立てる先が、なくなっただけである。約束は消えていない。消えていないが、相手のほうに置き場がない。
彼女は、椅子に腰を下ろした。
「ヴィオレッタと申しますわ」
「そう」
セシリアは、少し笑った。
「きれいな名前だね」
◇
「約束を、一つ果たしに参りましたの」
「約束?」
「同じ声を見つけたら、必ず教えてほしい。……そう仰いましたわ」
女は、燭台の火を見た。
考えている。数を数えてはいない。本当に、探している。
「……そんなこと、言った?」
「仰いましたわ」
「ふうん」
彼女は、それ以上訊かなかった。
訊かないので、ヴィオレッタも言わなかった。
言わないことは、嘘ではない。二年、彼女はその一点だけで生きてきた。
◇
卓の隅に、紙が一枚あった。
四つに折られて、折り目のところが擦り切れている。一年、そこに置いてあったのだろう。
「それを、拝見してよろしくて」
「いいよ」
セシリアは、目もやらなかった。
◇
ヴィオレッタは、紙を開いた。
行が四つ。字と字のあいだが空いていない。丸いものと、棒のようなものと、細かく引っ掻いたようなものが混ざっている。
一年前と、一字も変わっていない。
「読んでくださいまし」
「え」
「四行目でよろしいですわ。……あの日、読んでいただけませんでしたの」
◇
セシリアは、紙を受け取った。
受け取って、しばらく見ていた。
◇
「……これ、なに」
◇
嘘は、なかった。
◇
「お前の生まれた場所の字でございますわ」
「ふうん」
彼女は、少し笑った。
「きれいだね」
◇
ヴィオレッタは、紙を畳んだ。
畳んで、袖に入れた。
「頂きますわ」
「いいよ」
◇
紙は、残った。
読める者のほうが、先になくなった。
◇
帰りの馬車で、雪が降り出した。
マリアンヌが、膝掛けを一枚よこした。
「お嬢様」
「なに」
「あの方は、お名前をお聞きになりましたか」
「ええ」
「では、明日には、お忘れでございましょう」
ヴィオレッタは、膝掛けを掛けた。
そのとおりだった。
あの独房には、名を書く欄がない。書いたところで、置いておく場所がない。
――一度名乗れば、済むと思っておりましたのよ。
済まなかった。
名前というのは、呼ぶ側ではなく、置いておく側が要るものらしかった。
◇
彼女は、そこで手を止めた。
置いておく側。
◇
施療院の三人には、紙がない。大聖堂の書付に名はなく、墓石には何も彫っていない。慈善基金の欄に載っているのは、十八ポンドという数だけである。
塔の女にも、簿がない。聖名は外され、前の名も外され、断罪の日に記録が終わっている。
三十二人とも、同じだった。
◇
彼女は、膝の上で指を折った。
教会が記録を終わらせたのは、断罪の折である。陛下が翌日にお問い合わせになったとき、あの女は既に簿になかった。
その翌年の冬に、あの女は値を思いつけなくなった。次の夏に、二つの名を失った。この冬、こちらの顔を忘れた。
順序が、合っていた。
◇
――証拠には、なりませんわね。
並べただけのものは、そう見えるというだけのことである。彼女の目が御前会議に出せないのと、同じ理屈だ。
並べただけのものを、彼女は二年、いつも正しく読んできた。
◇
書かれている名が、その人を保つ。
◇
では、と彼女は思った。
この国で、いちばん厚く書かれている名は。
◇
貨幣に打ってある。法令の頭にある。教区の登録簿の一枚目にあり、朝夕の祈祷で二度読まれ、城の書付には日付の隣に必ず並ぶ。
薄れようがない。
二十年経とうと、三十年経とうと、一枚も減らない。
◇
――三年ほど前から、記録の書き方が変わっております。
クレマンは、上からの指図だと言った。
あの男は、隠していたのではない。
――手入れを、なさっておいでですのね。
◇
馬車が、石畳の継ぎ目を越えた。
◇
これから聖名を授けるには、王家の簿に前の名を残さねばならない。
手続きが一つ増えるだけだと、彼女は思っていた。
増えるだけでは、なかった。
残れば、消えない。消えなければ、薄れない。
◇
――次の方は、お忘れになりませんのね。
◇
三十二代ぶんの選定記録を、王家が検める。陛下は、そう仰った。
検めれば、前の名が三十二ぶん出てくる。出てきたものは、王家の簿に載る。
秋に引いた三つの欄が、埋まる。
◇
「マリアンヌ」
「はい」
「あの独房には、欄がございませんわ」
「……はい」
「作れますのよ」
◇
侍女は、膝掛けの端を直した。
――この人が。
――……この人が、そんなことを。
◇
「お情けではございませんわ」
ヴィオレッタは、窓の外を見た。
「あの女には、まだ払っていただくものがございますの。……忘れられては、取り立てられませんもの」
◇
マリアンヌは、答えなかった。
答えないまま、内側が濁った。
――嘘は、ついていない。
――この人は、本気で取り立てるおつもりだ。
――……忘れられぬように、名前のほうを作られる。
◇
いい色ですこと、とヴィオレッタは思った。
思って、それきり聞かなかった。
◇
「殿下」
東棟の執務室で、彼女は扉を閉めた。
「復命の続きがございますわ」
アルベールは、書類を置いた。
「名は」
「陛下でございます」
◇
ヴィオレッタは、その内側を覗いた。
算盤が、動かなかった。
◇
一つも動かなかった。
この男の算盤は、新しい数字が入れば必ず動く。十七年、一度の例外もなかった。動かないということは、入っていないということである。
入っていないのは――既に、そこにあるからである。
「ご存じでしたのね」
「ああ」
「いつから」
「六つのときだ」
アルベールは、書類を引き寄せた。
「父が、私の名を呼び間違えた。……三日、間違え続けた」
◇
「では、なぜわたくしに」
「他にもいるかを知りたかった」
彼は、顔を上げなかった。
「一人なら、事故だ。二人なら、誰かがやっている」
「……何人おりますの」
「知らん」
◇
ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。
この男は、去年の建国祭の夜に自分を選んだ。あの夜、盤に並んでいたのは、人の中身が視えるという一点だけだったはずだ。
そうではなかった。
六つの冬から並んでいた項目が、一つあったのだ。十一年かけて、それに合う道具が一つ、宮廷に現れるのを待っていた。
――道具は、動いた。
いつだったか、彼女は馬車の中でそう思った。
思いながら、自分がどちら側にいるかを、一度も数えていなかった。
「殿下」
「なんだ」
「わたくし、値をつけられておりましたのね」
「そうだ」
アルベールは、あっさりと言った。
「不服か」
「いいえ」
ヴィオレッタは、扇を開いた。
「――安すぎますわ」
◇
暖炉の薪が、一本落ちた。
自室に戻って、ヴィオレッタは紙を一枚出した。
羽根ペンを取り、一行目に名を書いた。
オノレ。
三日前に来た、替えの利く男の名である。顔は、まだ一度しか見ていない。
二行目に、ジェルヴェと書いた。
◇
十七年、彼女は誰の名も覚えずに生きてきた。札は掛け替えがきく、と思っていた。
掛け替えがきくと思えたのは、数えていなかったからである。
数えれば、何枚あるかが分かる。何枚あるかが分かれば、替わったことが分かる。替わったことが分かれば、替えている者がいることも分かる。
欄が一つ、増えただけの価値だった。
増えた欄は、これから二百年、埋め続けなければならない。
◇
彼女は、三行目に羽根の先を下ろした。
そこには、まだ何も書けなかった。
◇
袖から、四つ折りの紙を出した。
卓の上で開く。行が四つ。字と字のあいだが空いていない。
◇
彼女は、隣国の字なら読める。教会の古い言い回しも読む。十七年、文字に困ったことは一度もなかった。
これは、どこの国の字でもない。
◇
読める者は、この世に何人もいないのだろう。
読めるということが、そのまま同じ側の証しになる。差し出せば、相手が何者かは一目で分かる。
分かる代わりに、こちらが何を持っているかも渡ることになる。
◇
塔で一度。国王の私室で一度。
彼女はもう、あの音を知っている。
知っているなら、次は分かる。
◇
三行目の名は、その耳で拾う。
四行目は、拾った相手に読ませることになる。
◇
ヴィオレッタは、紙を畳んで、三行目の隣に置いた。
置いて、蝋燭を消した。
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