第21話 同じ声
書状が来た。
教会からの書状というのは、ふつう請求への返答か、儀式の日取りである。この二年、ヴィオレッタが受け取ったものは全部そのどちらかだった。
今度のものは、どちらでもなかった。
大司教クレマンより。霜月の十一日、午後の三つ刻、大聖堂にてお目にかかりたい。
「お嬢様」
マリアンヌが、書状を戻しながら言った。
「呼ばれるのは、初めてでございますね」
「そうですわね」
ヴィオレッタは、扇を開かなかった。
この二年、彼女は必ず呼びつける側にいた。礼拝堂に呼び、執務室で待たせ、登記所へ人をやった。盤は、いつでも自分が並べたものだった。
並べたものの上でしか、彼女は勝ったことがない。
◇
大聖堂は、王城の礼拝堂より三倍広い。
聖具室は、その奥にあった。祭服を掛ける棚と、香炉の箱と、卓が一つ。窓は高い位置に一つだけで、午後の三つ刻でも薄暗かった。
助祭が二人、扉の外に立った。
入ってくるときに、右のほうが足を引いた。右足である。ヴィオレッタは、それを見た。
見て、覚えた。覚えるのは、簡単だった。
扉が閉まった。
◇
クレマン大司教は、卓の向こうに座っていた。
七十に近い。背が高く、姿勢がまっすぐで、声が低い。
「お呼び立ていたしまして」
「いいえ」
「お掛けくださいませ」
ヴィオレッタは、腰を下ろした。
下ろして、その内側を覗いた。
◇
――お若い。
――さて、どこから申し上げるか。
◇
困ったことに、全部あった。
この男は、何ひとつ伏せていない。これから何を言うつもりかも、なぜ言うのかも、畳んでそこに置いてある。置いてあるものを、彼女は好きなだけ覗くことができる。
覗いても、何も起こらない。
弱みというのは、本人が弱みだと思っているものを言う。この男は、自分の持ち物を一つも弱みだと思っていない。
――やりにくいこと。
◇
「選定記録を、ご請求になりましたな」
クレマンは、そこから入った。
「レナールが、上申して参りました。……あれは、そういう男でございました」
「規則どおりに」
「はい。規則どおりに出し、規則どおりに報せて参りました」
「では、わたくしが何を見たかも」
「存じております」
男は、静かに言った。
「ですから、お呼びいたしました」
◇
ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。
この男は、隠しに来たのではない。
隠しに来た人間なら、まず彼女が何を掴んでいるかを測る。測ってから、こぼれた分だけを埋めに来る。二年、彼女が相手にしてきたのはそういう連中だった。
この男は、測っていない。
◇
「聖女は、教会が選ぶのではございませぬ」
◇
「見つけるのでございましょう」
◇
男の言葉が、止まった。
◇
「変容が先で、選定はあとでございますわ。教会は、起きたものを二月から四月遅れて見つけて、その日を変容の日とお書きになりますの」
彼女は、そのまま続けた。
「聖名を授けますのも、儀式ではございませんわね。……前の名を、簿から外す手続きでございましょう」
◇
「さようでございます」
クレマンは、頷いた。
◇
三月前、干し場の板から札を外して、彼女は自分でそこまで辿り着いた。辿り着くのに、二千枚の札と、二晩の名寄せと、侍女の目が一つ要った。
突きつければ、たいていの人間は色を変える。二年、彼女はそれで足りてきた。
この男は、変えなかった。頷いて、次を待っている。
◇
「猊下は、それを二百年、お書き留めになりましたのね」
「書き留めるのが、務めにございます」
◇
聖具室が、静かになった。
ヴィオレッタは、そのあいだ、この男の内側を見ていた。
揺れなかった。
罪悪でもない。開き直りでもない。二百年やってきた作業の手順を、手順として述べただけの色である。
――ロズリーヌ。
彼女は、その名を思い出した。
塔で告げたとき、あの娘は何も跳ねなかった。跳ねる場所が、もう無かったからである。
◇
「猊下」
「はい」
「外されたお名前は、どちらに」
「どこにも」
クレマンは、あっさりと言った。
「書き写す欄が、ございませぬゆえ」
◇
「あの女は、じきに何も覚えなくなります。歴代、皆そうでございました」
◇
ヴィオレッタは、扇の縁を指でなぞった。
三月前、あの娘は自分の名前を二つとも落とした。落としたことを、彼女は自分の目で見ている。
この男は、それを最初から知っていた。
「そのあとは」
彼女は訊いた。
「記録は、こちらで終わらせております」
◇
答えるまでに、一拍もなかった。
問われたから答えた、という速さである。用意していたのでもない。この男の中では、それは隠す種類の話ではないのだ。
ヴィオレッタは、しばらく黙っていた。
黙りながら、いま自分の中で何が起きたかを点検した。
腹は、立っていなかった。
◇
「猊下」
「はい」
「終わらせる、と仰いますのは」
「記録を、でございます」
男は、少し首を傾げた。
訊かれた意味が分からない、という顔だった。
「あなた様は、何をお思いになりました」
「……」
「わたくしどもは、記録の話をいたしております」
◇
この男は、嘘をついていない。
二百年、教会がしてきたのは記録の管理である。娘たちがそのあとどこへ行ったかは、この男の担当ではない。担当でないものについて、この男は何も感じない。感じないものは、色にならない。
――なるほど。
ヴィオレッタは、そこで初めて、この男を読む方法がないことを納得した。
◇
「本題に入りましてもよろしゅうございますか」
「どうぞ」
クレマンは、卓の上で指を組んだ。
「城の内に、もう一人おられます」
◇
聖具室の空気が、動いた気がした。
「……なぜ、そうお思いに」
「二百年、書き留めて参りました」
男は、言った。
「城の内では、二十年から三十年に一度でございます。前の代から、二十六年が経っております」
◇
ヴィオレッタは、扇を膝の上で止めた。
合わない。
二百年で三十二代なら、六年に一度である。しかも四年前に、この国は一人見つけている。
「猊下。数が合いませんわ」
彼女は言った。
「三十二代で、二百年でございましょう。六年に一度でございますわ。……二十年から三十年と仰いますのは、どちらの数でございますの」
「別の簿にございます」
クレマンは、あっさりと言った。
◇
「聖女に立てられました者が、三十二代。これは、修道院で拾えた数でございます」
男は、指を組み替えた。
「立てられなかった者が、別にございます。男であった者。身分の高すぎた者。……見つけましたときには、既に亡くなっていた者」
「そちらも、お書き留めに」
「見つけましたぶんだけは。……二百年で、八人でございました」
◇
ヴィオレッタは、そこで一度、息を吸った。
修道院の娘は、拾える。同じ屋根の下に置き、布を洗い、日を数える相手がいる。
城の中の者は、拾えない。
「八人で、二百年」
「はい」
「……二十五年に一度でございますわね」
「さようでございます」
クレマンは、頷いた。
「前の一人から、二十六年でございます」
◇
「では、見つけられなかったぶんは」
「数えようがございませぬ」
クレマンは、答えた。
「八人と申し上げましても、それは我々の目の届いた分でございます。……実のところ、城の内に何人おられるかを、教会は存じませぬ」
◇
嘘は、なかった。
二百年ぶんの帳簿を持っている男が、二百年ぶん数え落としている自覚を持っている。持っていて、恥じてもいない。
ヴィオレッタは、その簿を見たいと思った。
思って、口にしなかった。
欲しいと言えば、値がつく。この男は、まだ値を言っていない。
「それだけですの」
「いいえ」
彼は、首を振った。
「三年ほど前から、記録の書き方が変わっております。……上からの指図で」
◇
ヴィオレッタは、扇を止めた。
「どなたの」
「存じませぬ」
嘘は、なかった。
◇
「ヴィオレッタ様。あなた様のお耳を、教会にお貸しくださいませ」
◇
来た、と彼女は思った。
この男が二百年ぶんの手の内を並べたのは、これを言うためである。並べる価値があると判断したのだ。
「わたくしの耳、と仰いますと」
「城の中で、お一人だけ、声の違う者をお聞き分けになると伺いました」
「どちらから」
「レナールが」
◇
ヴィオレッタは、目を伏せた。
塔から戻った日、彼女はアルベールに一時間かけて全部話した。話した相手はあの男だけである。
だが、塔の門を開ける書状は教会の管轄にはない。閲覧請求は教会に出した。請求の項目を並べれば、何を探しているかは分かる。
あの男は、規則どおりに出し、規則どおりに報せた。
規則を守る男というのは、こういう形で人を売る。
◇
「お断りいたしますわ」
彼女は言った。
「わたくしの耳は、証拠になりませんの。御前会議に出せぬものを、お貸しする筋がございませんわ」
「さようでございますか」
クレマンは、頷いた。
落胆も、脅しもなかった。断られたという事実を、事実として受け取っただけである。
ヴィオレッタは、立ち上がりかけた。
◇
「レナールは、こちらで切りましてございます」
◇
彼女は、立ち上がらなかった。
◇
「……いま、何と」
「あの男は、記録をお渡し申し上げましたゆえ」
クレマンは、同じ調子で続けた。
「規則どおりでございます。ですが、渡してよいものと、渡してはならぬものがございます。それを分けられぬ者を、王都に置いてはおけませぬ」
「……」
「あなた様が動かれるのを、待っておりました」
◇
ヴィオレッタは、卓の縁を見ていた。
三十一枚。
選定記録は、三十一枚しか来なかった。札の名は三十二ある。一枚足りない。彼女はそれを人前に置いた。置いた先は教会ではなく、王家の簿のほうだった。
降りたのは、レナールである。
狙っていない男が、三日後に降りた。あのとき彼女は、教会の後始末だと読んだ。
◇
――違いましたのね。
あの一枚が欠けていたのは、レナールのしくじりではない。
「……欠けておりましたのは」
「二年前から、欠けております」
◇
聖具室が、静かになった。
◇
「あの女の記録は、断罪の折に終えましてございます。抜いたのではございませぬ。……終えたものは、簿に残りませぬゆえ」
「では、なぜ二度、同じものを」
「二度とも、簿にあるだけをお出しいたしました」
クレマンは、指を組み替えた。
「一枚足りぬことに、あなた様は必ずお気づきになります。気づけば、必ず人前にお出しになる。……それを、お待ち申し上げておりました」
◇
「ヴィオレッタ様は、規則をよくお使いになります」
彼は言った。
「規則を使う方は、規則どおりに差し出されたものを、疑いませぬ」
◇
ヴィオレッタは、しばらく動かなかった。
――道具は、動いた。
一年ほど前、彼女は馬車の中でそう思ったことがある。登記所へ侍女をやった夜だった。あのとき、自分がどちら側にいるかを数えなかった。
いま、数えられた。
◇
「猊下」
「はい」
「わたくしが動かなければ、どうなさいましたの」
「動かれます」
クレマンは、あっさりと言った。
「二年、拝見しておりました。……あなた様は、口になさったことを、なさらなかったことがございませぬ」
◇
ヴィオレッタは、椅子から立った。
立って、扉のところで足を止めた。
「一つ、伺ってよろしくて」
「どうぞ」
「猊下は、なぜ全部お話しになりましたの」
クレマンは、少し考えた。
考えて、本当に分からない、という顔をした。
「隠す話ではございませぬゆえ」
◇
扉が開いた。
助祭が二人、立っていた。右のほうが、足を引いて下がった。
◇
城に戻ったのは、日が落ちる前だった。
馬車を降りたところで、小姓が待っていた。国王が呼んでいる、という。
教会の件の後始末である。司教が一人降り、大司教が城まで来た。何も訊かれないほうが、おかしかった。
◇
国王の私室は、狭い。
卓が一つ、椅子が二脚、暖炉が一つ。壁の書棚は半分が空いている。この城でいちばん飾りのない部屋だった。
国王は、暖炉のそばに立っていた。
「教会に、呼ばれたそうだな」
「はい」
「何を言われた」
ヴィオレッタは、口を開こうとした。
開いて、そこで止まった。
◇
――聞いたことを、全部私に話せ。
◇
一言残らず。要約も、省略も許さん。
あの条件は、王太子が出したものである。国王ではない。
この場で答えれば、王太子への復命より先に、国王が中身を知る。順番が入れ替わる。
入れ替えて、まずいかどうかが、彼女には分からなかった。
「……教会の内向きのお話でございますわ」
それは、嘘ではなかった。全部でもなかった。
◇
国王は、それ以上訊かなかった。
暖炉の火を見ていた。
この男を、ヴィオレッタは二年見てきた。四十半ばで、口数が少なく、決めるのが遅い。決めたことは覆さない。宮廷の誰もが、扱いやすい王だと思っている。
彼女も、そう思っていた。
◇
「ヴィオレッタ」
国王が、呼んだ。
◇
その一拍前に、鳴った。
◇
遠かった。
石を一枚どころか、壁を三枚隔てたところで鳴っていた。歪んでいて、遅れていて、意味の取れない音が三つか四つ。
塔で、同じものを聞いたことがある。
二百と七段の階段を上った先の、栗色の髪の女の中で鳴っていたのと、同じ響きだった。
◇
ヴィオレッタは、目を伏せた。
◇
覗かなかった。
覗けば、この男が何を考えているかが読める。読めば、いま自分の顔が動く。動けば、この男がそれを見る。
この部屋には、二人しかいない。
彼女は、床の一点を見ていた。
「……はい」
「教会には、しばらく近づくな」
「かしこまりました」
◇
国王は、それだけ言った。
◇
自室に戻って、ヴィオレッタは椅子に沈んだ。
沈んで、しばらく動かなかった。
◇
約束を、彼女は三つ数えた。
一つ。聞いたことを、全部話せ。一言残らず。要約も、省略も許さん。
話せば、王太子は父の中身を知る。知った男が次に何をするかを、彼女は考えてみた。考えて、二つ以上の道が浮かばなかった。
二つ。誰かの同じ声を見つけたら、必ず教えて。
教えれば、塔の女は自分が一人ではないことを知る。知って、どうするのかは分からない。あの娘は、もう値をつけられない。
三つ。あなたの耳を、教会に貸せ。
これは、断った。断ったが、断ったことが相手の勘定を狂わせた様子はなかった。
◇
三つとも、果たせば誰かが死ぬ。
果たさなければ、彼女が嘘をつくことになる。
嘘は、つけない。
◇
彼女は、扇を膝に置いた。
置いて、そこで一つだけ、まだ自分の手に残っているものに気づいた。
◇
いつ言うか。
どこで言うか。
どちらから先に言うか。
◇
二年、彼女は「全部は言わない」で戦ってきた。黙るという選択肢を、いつも一等はっきりした返事として使ってきた。
その手は、もう使えない。三つとも、期限のない約束である。期限がないものは、いつまでも果たさずにいられる。いられるが、いずれ果たさねばならない。
残っているのは、順番だけだった。
◇
三日後に、新しい司教の叙任がある。
大聖堂で。大司教が来る。王家が出る。
◇
ヴィオレッタは、扇を開いた。
◇
「……順番は、こちらで決めさせていただきますわ」
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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