第20話 寸法
外してあった束は、御用の三十二より多かった。
大聖堂御用。司教座御用。修道院御用。ミサ用の白布と、祭服と、祭壇布。二百年ぶん、月に二度、途切れずに来て、途切れずに返っている。
人ではなく、建物に返る布である。
名寄せのとき、ヴィオレッタはそれを一括りにして脇へ置いた。
置いた理由は、名がなかったからだった。
◇
「もう一度、並べますわ」
彼女は、床に膝をついた。
「返し先ごとに、年順に。……品目と、寸法も書き添えなさい」
「寸法まで、でございますか」
「札に書いてございましょう」
「……はい。書いてございます」
マリアンヌは、それ以上訊かなかった。
◇
二晩かかった。
◇
三十二の御用の束を、彼女は年順に並べ直した。
いちばん新しいのが、聖女セシリア御用。四年前から、二年ぶん。
その一つ前が、聖女マルグリット御用。
◇
マルグリットの札は、五年前の秋で止まっていた。
前の月まで、寝具が月に一度、白布が月に二度、ふつうに出ている。翌月から、一枚も来ない。
三十二代、どれも同じ止まり方をしている。病んで減っていった者は、一人もいない。
◇
ヴィオレッタは、その止まった月の隣に、脇へ置いた束を並べた。
◇
――西の施療院 御用。
◇
五年前の、翌月から始まっている。
品目は、寝具と、白布。枚数は、一組ぶん。
寸法が、マルグリットの束と一分も違わなかった。
◇
彼女は、しばらく札を持ったまま動かなかった。
◇
名は、外される。
聖名を授けた日に、前の名が簿から外れる。外された名は、どこにも書き写されない。書き写す欄が、ないからである。
寸法は、外れない。
布は、体に合わせて仕立てる。仕立てたものは、名が変わっても、代が変わっても、同じ丈のままそこにある。
◇
――生きておいでですのね。
◇
彼女は、西の施療院御用の束を、年順に全部並べた。
二百年ぶん、途切れていなかった。
いま出ている組は、三つある。
◇
馬車で、三時間かかった。
王領の西の外れで、丘の中腹に、石の建物が一つ立っている。畑があり、井戸があり、鐘楼はない。
教会の施療院である。年に幾らかが慈善基金から出ていて、その項は、一年半前に彼女が三晩かけて読んだ会計報告にも載っていた。
載っていて、彼女は飛ばした。
実在する支出だったからである。
◇
院長の修道女は、六十がらみの、痩せた女だった。
馬車を見て、名乗りを聞いて、それから、少し困った顔をした。
――何のご用でございましょう。
――ここには、見て頂けるものがございません。
「奥の三人に、お会いしたいのですわ」
女の色が、止まった。
◇
「……どちらで、お聞きになりました」
「洗い物ですわ」
「は」
「布が、城で洗われておりますの。二百年、ずっと」
◇
院長は、その意味を取らなかった。
取れる理由がなかった。この女は、布がどこへ行ってどこから帰るかを、一度も考えたことがない。汚れたものを籠に入れると、翌々週にきれいになって戻ってくる。世の中はそういう仕組みで回っている。
――ずっと、そうでございますので。
ヴィオレッタは、その色を読んで、面白いと思わなかった。
◇
奥の部屋は、南向きだった。
北向きでないことに、彼女は少し驚いた。
寝台が三つ。窓が二つ。暖炉に火が入っている。床は磨かれていた。
三人とも、起きていた。
◇
一人は、椅子に座って窓を見ていた。
一人は、寝台の縁に腰かけて、足を揺らしていた。
もう一人は、卓の前で布を畳んでいた。
◇
「マノン様」
院長が、呼んだ。
誰も、振り返らなかった。
◇
「……お名前を、お呼びになりましたわね」
「はい」
「その名を、どちらで」
「存じません」
院長は、当たり前のように答えた。
「引き取りましたときに、そう伺いましたので。……お返事はございません。十年、一度も」
◇
「院長」
「はい」
「あの方々は、どのようにして、こちらへ」
「夜に、荷車で参ります」
女は、隠さなかった。隠すほどのことだと思っていない。
「大聖堂から、書付が一枚。お預かりくださいませ、と。……それだけでございます」
「お名前は」
「書いてございません」
「では、マノンというのは」
「運んで参りました者が、そう申しました」
院長は、少し考えた。
「口で、でございます。……紙には、ございません」
◇
「費えは」
「慈善基金から、年に十八ポンド頂戴しております。三人ぶんで」
「布は」
「城から参ります。頂戴するものと、お返しするものと、籠が二つ」
「どなたが、お決めになりましたの」
「存じません」
女は、当たり前のように答えた。
「わたくしが参りましたときには、もうそうなっておりましたので」
◇
ヴィオレッタは、卓の前の女に近づいた。
五十がらみである。髪は白く、爪はきちんと整えられている。手が、動いていた。
布の端を揃え、四つに畳み、脇へ置く。次の一枚を取る。同じことを、繰り返している。
誰も、頼んでいなかった。
◇
彼女は、その内側を覗いた。
◇
色は、あった。
薄い。だが、たしかにある。人の内側を十七年見てきて、これほど薄いものを見たのは、塔で二度目に会ったときが初めてだった。
――端が、合わない。
――もう一度。
◇
それだけだった。
◇
布のことしか、なかった。
憎悪も、恐怖も、諦めも、何もない。表と内のずれが生まれるためには、表に出す顔が要る。この女は、出す相手を持っていない。
継ぎ目のない人間を、彼女は一年前に一人見ている。あれは、書き換えた結果だった。
これは、書き換えていない。
◇
ヴィオレッタは、脇の籠から布を一枚取って、卓に置いた。
女の手が、それを拾った。
端を揃え、四つに畳み、脇へ置いた。
「……上手ですこと」
返事は、なかった。
◇
「マノン」
ヴィオレッタは、呼んでみた。
手は、止まらなかった。
「マルグリット」
止まらなかった。
◇
彼女は、もう一つ試した。
塔で聞いた響きを、頭の中に置いてから、この女の内側に耳をやった。
――端が、合わない。
近かった。
この国の言葉で、この国の抑揚で鳴っていた。
◇
なるほど、とヴィオレッタは思った。
二つとも消える。
向こうの言葉も、こちらの名も、最後には両方なくなる。残るのは、手が覚えたことだけである。
◇
「院長」
「はい」
「あの方々を、なんとお呼びですの」
女は、口ごもった。
「……奥の方、と」
「三人とも」
「はい」
「区別がつきませんと、お困りでしょう」
「窓の方と、寝台の方と、卓の方でございます」
◇
場所で呼んでいる。
場所が変われば、呼び名も変わる。
◇
「院長」
「はい」
「公爵家から、費えをお出しすることもできますのよ」
女が、顔を上げた。
「南向きのお部屋を、もう二つ。窓を大きくして、火を絶やさぬようにいたしますわ。……年に三十ポンドもあれば、足りましょう」
「……よろしいのでございますか」
「いいえ」
ヴィオレッタは、扇を開いた。
「いたしませんの」
◇
院長の色が、止まった。
◇
「お三方は、もう何も覚えていらっしゃいませんわ。覚えていない方に使ったお金は、戻って参りませんの」
「……」
「戻らぬものは、費えと申しませんのよ」
彼女は、扇を畳んだ。
「捨てる、と申しますの」
◇
院長は、答えなかった。
答えられなかったのである。この女は二十年、戻ってこないものだけを配って生きてきた。それに名前がついたのは、たぶん初めてだった。
◇
「幾人、お預かりになりました」
「わたくしの代で、五人でございます」
「では、二人は」
「亡くなりました」
院長は、そこで初めて目を伏せた。
「四年前と、去年でございます」
「どちらに」
「裏の墓地に」
「お名前は」
◇
答えは、なかった。
◇
「……存じません」
女は言った。
「石は、置いてございます。彫るものがございませんでしたので、そのままで」
◇
ヴィオレッタは、裏へ回った。
墓地は、二つに分かれていた。
鐘楼側に、名を彫った石が並んでいる。院長と、修道女と、身元の知れた病人である。彫った者がいて、彫らせた者がいた。
畑の外れに、平たい石が別に並んでいる。数えると、十九あった。
どれにも、何も彫っていない。
◇
――十九。
◇
二百年で、三十二人である。
一人は、いま北の塔にいる。三人は、奥の部屋にいる。石が十九。
合わせて、二十三人。
残りの九人ぶんが、この土の下にない。
どこにあるのかを訊く相手を、彼女は持っていなかった。訊いても、答えられる者がいない。ここの院長は自分の代の五人しか知らず、その前の院長は、もう石になっている。
石には、何も彫っていない。
◇
帰りの馬車で、マリアンヌが口を開いたのは、一時間ほど経ってからだった。
「お嬢様」
「なんですの」
「あの方々は、どなたにも会いに来ていただけないのでございますね」
「ええ」
「二百年、でございますか」
「そうなりますわね」
◇
侍女の内側が、濁った。
――ひどい。
――……いいえ。
――ひどい、とも言えない。誰も、何もしていない。
◇
いい色ですこと、とヴィオレッタは思った。
思って、そのあと、自分でも少し驚いた。
いつもより、遅れて思った。
◇
教会は、あの三人を殺していない。
布を届け、薪を焚き、南向きの部屋に置き、爪を切っている。二百年、一度も欠かさずに。
欠かしていないので、誰も咎められない。
やめたのは、書くことだけである。
◇
――記録は、終わらせております。
その言い方を、彼女はまだ聞いていなかった。
聞いていないのに、形だけがもう分かっていた。
◇
あの女は、四年目である。
三年後か、五年後か、九年後かは分からない。分からないが、札が止まる月は必ず来る。止まった翌月から、西の施療院御用の束が一つ増える。
増えたところで、誰も気づかない。
二百年、誰も気づかなかったのだ。
◇
自室に戻って、ヴィオレッタは卓に紙を置いた。
羽根ペンを取り、欄を三つ、縦に引いた。
◇
春に、彼女は洗い場の十一人ぶんの欄を引いた。あのときは、三日通えば埋まった。名は、訊けばあった。訊く者がいなかっただけである。
今度は、訊く相手がいない。
◇
彼女は、一つ目の欄の上に手を止めた。
マノン、と書けば嘘になる。あの女は、その名で返事をしない。
窓の方、と書けば、窓を離れた瞬間に嘘になる。
◇
半刻、彼女はそうしていた。
◇
三つの欄は、空いたままだった。
◇
彼女は、紙を暖炉に入れなかった。
入れる理由が、思いつかなかったからである。
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