第18話 変容
札は、二千枚あまりあった。
干し場の板から外して運ばせたものである。麻紐で年ごとに束ねてあり、古いものは色が抜けて墨が薄い。いちばん古い束は、二百年あまり前のものだった。
卓には載りきらなかった。ヴィオレッタは、自室の床に直接並べさせた。
「品目、枚数、年月日」
マリアンヌが、束を解きながら言った。
「それと、返し先でございます。……お嬢様、これは何をお探しでございますか」
「知りませんの」
ヴィオレッタは、床に膝をついた。
「探すものが分かっておりましたら、こんな数は要りませんわ」
◇
二晩で、名寄せが済んだ。
返し先の名を書き出し、同じ名の札を集める。それだけの作業である。字が読めればできる。読めなければ、一枚もできない。
名は、三十二あった。
◇
ヴィオレッタは、その三十二を年順に並べた。
一人あたり、四年から九年ぶん。長い者と短い者の差は倍以上ある。並べても、そこには何の規則もなかった。
規則がないほうが、むしろ嫌な感じがした。
規則のあるものは、誰かが作っている。規則のないものは、起きているのである。
◇
「お嬢様」
三晩目に、マリアンヌが顔を上げた。
「枚数が、おかしゅうございます」
「どこが」
「寝具でございます」
侍女は、一つの束を指した。
「シーツと、枕覆いと、掛けの覆い。……ふだんは、月に一度でございます。それが、ある月から急に、月に六度、七度になっております」
「病でしょう」
「では、終わりませぬ」
マリアンヌは、次の束を引いた。
「四月ほどで、月に一度に戻っております。……その次の代も、同じでございます。その前の代も」
◇
ヴィオレッタは、床の札を見た。
「全部ですの」
「三十二代、全部でございます」
侍女は、束の山を見渡した。
「跳ねる月は、代によって違います。ですが、跳ねてから戻るまでは、どれも三月から五月でございます」
◇
ヴィオレッタは、しばらく黙っていた。
寝具を、月に六度も七度も洗わせる娘。四月ほどで、それが止まる娘。
――眠れませんのね。
汗をかく。夜中に起きる。起きたまま朝まで座っている。知らない部屋で目を覚ました人間が何をするかを、彼女は考えてみた。
考えて、四月ほどで慣れる、というところまで来た。
人は、慣れる。
三十二人が、それぞれ知らない部屋で三月から五月かけて慣れていた。そのあいだ、その部屋の外では誰も何も気づいていない。気づいていたのは、布を洗っていた者だけである。
布を洗っていた者は、字が読めない。
◇
「マリアンヌ」
「はい」
「跳ねた月を、三十二ぶん書き出しなさい」
◇
教会の選定記録は、七日前に届いていた。
レナール司教は、渋らなかった。値もつけなかった。請求の形式が整っていたので、整っているとおりに処理しただけである。
三十一枚あった。
◇
一枚ごとに、四つの日付が書いてある。
変容の日。上申の日。選定の日。聖名を授けた日。
ヴィオレッタは、その「変容の日」の欄と、マリアンヌの書き出した「跳ねた月」を並べた。
◇
ずれていた。
三十一枚、全部ずれている。
教会の記した変容の日は、洗濯場で寝具が跳ね始めた月より、いつも二月から四月あとだった。
「……遅れておりますわね」
「はい」
「一枚残らず、遅れておりますの」
「はい」
◇
ヴィオレッタは、扇を開かなかった。
開く手が、少し止まっていた。
教会は、変容を起こしていない。
起こした者は、記録より先に動いている。教会は、起きたあとに気づいて、気づいた日を「変容の日」として書いているだけである。
二百年、教会はそれを奇跡と呼んできた。
奇跡というのは、たいてい、遅れて到着した者がつける名前だった。
◇
順序も、逆だった。
彼女は、四つの日付を左から読み直した。
変容の日。上申の日。選定の日。聖名を授けた日。
選定が、あとに来る。
聖女に選ばれた娘に、神が触れたのではない。神に触れられた娘を、教会があとから見つけて、聖女に選んでいる。
「……そういうことですのね」
◇
彼女は、札の束をもう一度見た。
名寄せをしたとき、一つだけ手間取ったものがある。
同じ寸法の、同じ品目の布が、途中で別の名で返されるようになっているのだ。最初は書き損じかと思った。三十二代、全部でそれが起きていると分かって、書き損じではないと分かった。
名の変わり目は、いつも「聖名を授けた日」の翌月である。
◇
教会の簿には、聖名しか残っていない。
前の名は、授けた日に外される。外された名は、どこにも書き写されない。書き写す欄が、どこにもないからである。
だが、洗濯場の板には、両方刺さっていた。
誰も見張っていない。誰も価値を認めていない。捨てるなと言われただけで、なぜ捨てないのかを知っている者すらいない。
二百年ぶんの前の名が、そこにあった。
◇
ヴィオレッタは、いちばん新しい束を引いた。
四年前。品目は、寝具と、白布と、外套。
返し先は、聖女セシリア御用。
その一つ前の月の札を抜いた。
◇
そこには、別の名が書いてあった。
◇
「マリアンヌ」
「はい」
「明日、塔へ参りますわ」
◇
塔の門は、書状で開いた。
夏の終わりで、石の階段は昼でも冷たかった。二百と七段ある。数えたのは二度目のときで、それきり数えていない。
独房は、前と同じだった。卓と、寝台と、燭台。窓の格子。
栗色の髪の女が、同じ椅子に座っていた。
「あ」
セシリアが顔を上げた。
「久しぶり。……えっと」
「ヴィオレッタと申しますわ」
「そう、それ」
彼女は笑った。
「ごめん。名前だけ、すぐ抜けるの」
◇
ヴィオレッタは、椅子に腰を下ろした。
「一つ、お持ちいたしましたわ」
「なに」
「あなたの、前のお名前ですの」
◇
セシリアの目が、細くなった。
「前の?」
「聖名を授かる前でございますわ。この国での、最初のお名前」
「……わたし、それ、思い出せないんだけど」
「ええ」
ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。
「ですから、お持ちいたしましたのよ」
◇
「ロズリーヌ」
◇
女は、しばらく黙っていた。
ヴィオレッタは、その内側を覗いた。
何も、起きなかった。
驚きも、懐かしさも、否定もない。名を聞いた人間の内側には、ふつう何かが立つ。石を落とせば水が跳ねるのと同じで、それは反射である。
跳ねなかった。
◇
「……ロズリーヌ」
セシリアは、口の中でもう一度言った。
「知らない」
「ご自分のお名前ですわ」
「うん。でも、知らない」
彼女は、あっさりと言った。
「わたしのじゃないもん」
◇
ヴィオレッタは、扇の縁を指でなぞった。
「では、伺いますわ」
「うん」
「あなたが、この国に来られましたのは、四年前でございますわね」
「そう。……たぶん」
「四年前の春、あなたは修道院の一室で目を覚ましましたの。三月ほど、夜眠れませんでしたわね。寝具が月に六度、七度と出ておりますわ」
セシリアの手が、卓の上で止まった。
「……なんでそれ」
「洗濯場が覚えておりましたのよ」
◇
「ロズリーヌという娘は、それより前から修道院におりましたわ」
ヴィオレッタは、続けた。
「同じ寸法の布を、同じ枚数、出しておりますの。……体は、同じでございます」
「……」
「変わったのは、中身だけですわ」
◇
セシリアは、燭台の火を見た。
考えている。数を数えてはいない。本当に、探している。
「じゃあさ」
彼女は言った。
「その子、どこ行ったの」
◇
ヴィオレッタは、答えなかった。
答えを持っていなかったからである。
この娘は、いま自分がどこから来たかを訊いたのではない。自分がいま座っている場所に、もともと座っていた者のことを訊いた。
十七年、彼女はそういう問いを立てたことがない。誰かをどけて何かを取るとき、どけた者の行き先を数えたことがなかった。
「……存じませんわ」
「ふうん」
セシリアは、それ以上訊かなかった。
訊かないので、ヴィオレッタも言わなかった。
◇
「もう一つ、伺ってよろしくて」
「なに」
「向こうでの、あなたのお名前は」
◇
セシリアの口が、開いた。
開いて、止まった。
◇
「……あれ」
彼女は、自分の指を見た。
「なんだっけ」
◇
「思い出せませんの」
「うん」
「いつからでして」
「……分かんない」
セシリアは、笑おうとした。
笑いかけて、途中でやめた。
「前は、あったの。ちゃんと。……あの階段のとこで、あなたに『わたしの名前とあなたの名前は覚えてる』って言ったの、覚えてる」
「ええ」
「あれ、両方なくなった」
◇
ヴィオレッタは、その内側を覗いた。
薄い、乾いた色だった。焦りですらない。
この娘は、二つ名前を持っていた。一つは教会が外し、一つは自分で落とした。
外された名は、洗濯場の板に刺さっている。落としたほうは、どこにも刺さっていない。
――名前を持たない者は、記録に残りませんのよ。
三月ほど前、彼女はどこかでそう考えた。考えたときは、他人の話だった。
◇
「ねえ」
セシリアが言った。
「わたし、あとどれくらい」
「存じませんわ」
「知ってるでしょ。……札、全部見たんでしょ」
◇
嘘は、つけない。
「四年の方が、おいででしたわ」
ヴィオレッタは言った。
「九年の方も、おいででしたの。……並べても、何も出て参りませんでしたわ」
「四年」
「ええ」
「わたし、もう四年過ぎてるんだけど」
「ええ」
◇
セシリアは、しばらく黙っていた。
それから、卓に肘をついた。
「教えてくれてありがと」
「値の話をいたしましょうか」
「いい」
彼女は、手を振った。
「もう、払えるもの残ってないもん」
◇
ヴィオレッタは、立ち上がった。
立ち上がって、扉のところで足を止めた。
「セシリア様」
「なに」
「終わり方は、どれも同じでございましたわ」
「……なにそれ」
「札が、止まりますの」
彼女は、扇を開いた。
「前の月まで、ふつうに出ておりますの。翌月から、一枚も来ませんわ。……病んで減っていった方は、お一人もおいでになりませんでした」
◇
セシリアは、答えなかった。
答えないまま、燭台の火を見ていた。
◇
帰りの馬車で、ヴィオレッタは札の束を膝に置いていた。
三十二の名。三十二ぶんの、前の名。四つの日付。
整理はついた。分かったことを、彼女は指を折って数えた。
一。聖女だから入れ替わったのではない。入れ替わったから、聖女に選ばれた。
二。教会は、それを起こしていない。遅れて見つけて、名前をつけているだけである。
三。聖名を授けるのは、儀式ではない。前の名を簿から外す作業である。
四。三十二人とも、終わりは前触れなく来ている。
◇
数え終わって、彼女は五つ目がないことに気づいた。
誰がやっているのか。
二百年、三十二回、同じことを起こしている者がいる。教会ではない。教会は毎回、二月から四月遅れて到着している。
遅れて到着した者に、この盤は組めない。
◇
「マリアンヌ」
「はい」
「教会から参りました選定記録は、何枚ございまして」
「三十一枚でございます」
ヴィオレッタは、膝の上の束を数えた。
札の名は、三十二ある。
「一枚、足りませんわね」
「はい」
「どなたのぶんが」
侍女は、答えるまでに一拍かけた。
「……セシリア様のぶんでございます」
◇
ヴィオレッタは、窓の外を見た。
夏の終わりの、乾いた道だった。
請求の形式は、整えてある。整えたものは、整っているとおりに処理される。あの男は、渋りもせず、値もつけず、規則どおりに三十一枚を出した。
三十二枚あるものを、三十一枚出す。
それは、規則を守っていない。
――まあ。
彼女は、扇を開いた。
「ようやく、掴めるものが出て参りましたわ」
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】に
応援していただけますと励みになります!
この作品が面白いと思ったら
『( ゜∀゜)o彡°』
とだけコメントください




