第17話 二百人
札は、外すのに三日かかった。
干し場の板は、二百年ぶんの厚みで刺さっている。古いものほど下にあり、下にあるものほど紙が脆い。マリアンヌが一枚ずつ抜き、通いの小者が籠に入れ、籠が一杯になると自室へ運ばせた。
洗濯場の女たちは、誰も止めなかった。
「捨てるなと言われております」
糊付けのマルトは、そう言っただけである。
「捨てはいたしませんわ」
「はい」
女は、それで納得した。
◇
板の前に立っていると、女たちの内側がよく届いた。
――ずいぶん熱心なこと。
――紙屑でございますのに。
――お偉い方は、ときどき妙なものをお集めになる。
薄い。乾いている。明日には残らない。
ヴィオレッタは、それを心地よく聞いた。この場所には、繕うべき相手がいない。
◇
アニェスに最初の荷を持たせたのは、その週である。
封をした紙を一通。宛先は王都の父の屋敷で、中身は水利の書付だった。読まれて困るものは、何ひとつ入っていない。
試すためのものである。
「三日で戻りました」
マリアンヌが言った。
「封は、そのままでございます」
「途中で誰かに」
「門で一度、止められております。……開けはいたしませんでした」
「なぜ」
「洗い物の荷に入っておりましたので」
◇
入る物は、検められる。
出る物は、検められない。
春に、彼女は三日通ってそれを確かめた。確かめたときは、他人の道の話だった。
いまは、自分の道である。
◇
「アニェス」
釜の脇で、灰色の上着の女が膝を折った。
「はい」
「洗い物の荷は、週に二度でございましたわね」
「はい」
「荷を括るのは、どなた」
「わたくしどもでございます。……十一人で、順に」
「括ったあとに、荷に触る方は」
女は、少し考えた。
「門までは、小者が運びます」
「触りませんの」
「担ぎますので、触ります」
◇
当たり前のことを、この女は当たり前に答える。
ヴィオレッタは、それを面倒だと思ったことがない。訊いたことしか答えず、訊かれていないことを先回りしない。宮廷では、そういう口のきき方をする者に一度も会ったことがなかった。
「では、一つお願いいたしますわ」
「はい」
「括ったあとで、荷が太っていないか、見てくださいまし」
「太る、と申しますと」
「洗っていないものが混じっていないか、ですの」
◇
答えは、四日目に来た。
「ございました」
アニェスは、顔を上げずに言った。
「先々週と、先週。……二度とも、火曜の荷でございます」
「中身は」
「存じません」
「開けませんでしたの」
「開けよとは、承っておりませんので」
◇
ヴィオレッタは、扇を止めた。
◇
次の火曜、彼女は荷を門の内側で止めさせた。
小者が二人、麻布を解いた。
◇
中身は、洗い物だった。
シーツが十二枚。枕覆いが八枚。数は札のとおりで、余りは一つもない。
太っていなかった。
◇
「先週までは、ございましたのね」
「はい」
「今週は」
「ございません」
◇
ヴィオレッタは、麻布の結び目を見ていた。
止まったのだ。
彼女が荷を見張らせた週に、向こうも荷を使うのをやめた。
◇
裏切りを探すのに、二日かけた。
門番から始めた。
◇
東の裏門に立つ男は、ジョスといった。三十がらみで、背が低く、四年そこに立っている。
ヴィオレッタは、その内側を覗いた。
――また来られた。
――洗い物の何が、そんなに面白いのか。
◇
「ジョス」
男が、飛び上がった。
「へ、へい」
「わたくしが洗い場に座っておりましたことを、どなたかにお話しになりまして」
「……話しました」
男は、あっさり答えた。
「話すな、とは伺っておりませんでしたので」
「どなたに」
「……厨の者と、馬丁と、家の女房と、それから」
男は、指を折り始めた。
「……お待ちなさい」
「へい」
「幾人ですの」
「さあ」
◇
洗濯場の十一人にも訊いた。
十一人とも喋っていた。
通いの職人にも訊いた。石を運ぶ者も、屋根を葺く者も、鋳掛けの男も、みな喋っていた。公爵令嬢が三日、釜の脇に椅子を出して座っていた。この夏、城でいちばん面白い話だったのである。
◇
裏切りは、一つもなかった。
◇
ヴィオレッタは、自室に戻って椅子に沈んだ。
二年、彼女は人前で潰してきた。人前というのは、見せるための場所である。四十人に見せ、二百人に見せ、見せることでしか勝ってこなかった。
――人前は、両方から見えますのね。
彼女は、扇を膝に置いた。
誰も密告していない。誰も雇われていない。彼女が三日座ったことが、そのまま城じゅうに配られた。相手は、耳を澄ませてすらいない。ただ、こちらが勝手に光っていた。
◇
「マリアンヌ」
「はい」
「わたくし、隠れるのが下手ですのね」
「……はい」
侍女は、即答した。
◇
南街区には、行かなかった。
行く用が、なかったからである。
◇
手紙のほうは、それきり途絶えた。
銀鍵亭には、夏のあいだ一度も置かれていない。次は場所を変える、と書いた者は、変えた先をこちらに教えない。教える筋がない。あれは、こちらに宛てた手紙ではなかった。
「お返事は、お出しになれませんので」
マリアンヌが言った。
「宛先がございませんもの」
「ええ」
ヴィオレッタは、扇を膝に置いた。
「あちらは、わたくしを見ておりますわ。わたくしは、あちらを見られませんの」
◇
二年、彼女はいつも呼びつける側にいた。
礼拝堂に呼び、執務室で待たせ、登記所へ人をやった。盤は、いつでも自分が並べたものだった。
いま、盤の外に一人立っている。
◇
名のない二十四人に取りかかったのは、その翌週である。
最初に潰れたのは、二十四という数のほうだった。
◇
名簿の二冊目は、束で書いてある。厨方、十八名。洗い場付き、十一名。馬丁、九名。
厨に立たせて数えると、二十二人いた。
洗い場は十一人、馬丁は九人で、どちらも合っていた。庭は、欄も人数もない。庭に立たせると、十四人いた。
残りの六人は、厩の見習いと、薪割りと、湯番の下についていた。どれも、束の中に足されて、束の数だけが四年前のままだった。
「四年ぶん、直しておられませんわね」
「……はい」
「増えた者は、束に足されますの。減った者は」
「減りますと、書き替えます」
マリアンヌが言った。
「俸給が要らなくなりますので」
◇
なるほど、とヴィオレッタは思った。
この城の名簿は、金の出るほうにしか正確でない。人が増えても俸給は束のままで、減れば必ず直る。
二十四人は、どこにも隠れていなかった。束のなかで、はみ出していただけである。
◇
三冊目には、名前が一つもない。
仕事の名だけが書いてある。
石工。屋根屋。鋳掛け。桶屋。硝子。井戸浚い。
人数の記載もない。書く欄がないのではなく、書く必要が誰にもなかったのである。
◇
彼女は、通用門に卓を出させた。
朝、職人が入る。門番が紙と引き合わせる。紙には、仕事の名と、親方の名しか書いていない。
ヴィオレッタは、その脇に座って、一人ずつ名を訊いた。
◇
最初の男は、答えなかった。
二人目は、親方の名を答えた。
三人目は、自分の名を答えて、そのあとで「何かございましたか」と訊いた。
――咎められる。
――名を訊かれるのは、たいてい、しくじったときだ。
◇
なるほど、とヴィオレッタは思った。
名を訊かれることが、この人たちにとっては罰なのである。
◇
「咎めておりませんわ」
彼女は、四人目にそう言った。
「数えておりますの」
「……何を、でございますか」
「人を」
男は、意味が分からないという顔をした。
分からないまま、名を言った。
◇
幾人になるかは、数えるまで分からなかった。
六日で、三十一人あった。
夏のあいだだけ来る屋根屋が四人、井戸浚いが三人。数えていないものは、たいてい思ったより多い。
◇
ヴィオレッタは、紙に三十一の欄を引いた。
名を書き入れ、仕事を書き添え、印をつけた。
三十一人。全部、近かった。
汚くて、ぐしゃぐしゃで、遅れも歪みもない。この国の言葉で、この国の抑揚で鳴っていた。
◇
――二百人。
いや、と彼女は思い直した。
二百三十一人である。
◇
住み込みが二百人。あの男が二百と言ったのは、この数である。この男は、数を間違えたことが一度もない。
そこに、通いの職人が三十一人。住んでいないので、二百には入らない。
どちらでもよかった。彼女が数えたかったのは、この城に出入りする全部である。
◇
二百三十一人。
響きの違う者は、一人もいない。
◇
「おりませんでしたわ」
東棟の執務室で、彼女はそう報告した。
アルベールは、書類を置いた。
「全部か」
「二百三十一人。……通いの職人まで入れて、ですわ」
「名のない者もか」
「名をお訊きしましたので、ございますわ」
彼は、それについて何も言わなかった。
◇
「殿下」
「なんだ」
「上は、いかがでございました」
◇
「おらん」
◇
ヴィオレッタは、その内側を覗いた。
算盤が、動かなかった。
◇
この男の算盤は、新しい数字が入れば必ず動く。動かないということは、入っていないということである。
入っていないのは、こちらが何も持ち帰らなかったからだ。
――手ぶらで参りましたものね。
彼女は、そう読んだ。
読んで、それ以上は覗かなかった。
◇
「では、この城にはおらんな」
「おりませんわ」
「では、どこにいる」
「……」
「ヴィオレッタ」
アルベールは、羽根ペンを取った。
「君は、いる者を探した。いない、で終わりにするなら、私は君に何を払っている」
◇
彼女は、扇を開かなかった。
二百三十一人を、彼女は自分の耳で潰した。潰して、何も出なかった。
出なかったものを、彼女は初めて、成果として持ってきた。
――お恥ずかしいこと。
◇
「では、来るほうを調べますわ」
「来るほう」
「ええ」
彼女は言った。
「いま城におらぬのなら、これから来るのですわ。……あの女は、四年前にどこからか参りましたのよ」
◇
「どうやって来た」
「存じませんの」
ヴィオレッタは、扇を畳んだ。
「ですけれど、来たあとで、必ず一人だけ気づく方がおいでですわ」
「誰だ」
「教会でございます」
◇
二百年、三十二回。
教会は、来たものを見つけ、名を付け、簿に入れ、そして前の名を外してきた。二月から四月遅れて到着するだけの目である。
遅れてでも、到着はしている。
この国で、到着した記録を持っているのは、あの組織だけだった。
◇
自室に戻って、彼女は書面を作った。
公爵家の名で、教会に選定記録の閲覧を請求する。歴代の選定について、変容、上申、選定、聖名の各日付を含む一切。
形式は、二度確かめた。
◇
「マリアンヌ」
「はい」
「レナール司教は、渋られると思いまして?」
侍女は、少し考えた。
「……いいえ」
「なぜ」
「あの方は、規則の外のことを、なさいませんので」
◇
「ええ」
ヴィオレッタは、書面に封をした。
「規則を守る方は、規則どおりに差し出してくださいますわ」
◇
差し出されたものを疑う理由が、そのときの彼女には一つもなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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