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悪役令嬢は、嘘だけはつかない ~悪気はございませんの~  作者: 桜野結
第2章

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第16話 洗濯女

 王城の洗濯場は、東の外れにある。


 井戸が二つ、釜が四つ、干し場が中庭を潰す形で広がっている。城で最も湿っていて、最も人が来ない場所である。貴族はここに用がない。用があるのは布だけだった。


 初夏の朝で、湯気が上がっていた。


 ヴィオレッタは、干し場の入口に立っていた。


「十一人でございます」


 マリアンヌが、うしろで言った。


「洗濯場付きの女が十一人。うち、通いが四人。住み込みが七人」


「教会の布は」


「月に二度、まとめて入りますわ。ミサ用の白布と、司教の祭服。……王家が費用を持っておりますゆえ、洗いは城で」


「そう」


 ヴィオレッタは、干し場を見た。


 白い布が、風で一斉に動いた。


   ◇


 アニェスをここに入れると決めたのは、ひと月前である。


 王家の年金がついた以上、あの女はどこにも属さずに暮らしていける。それをわざわざ城に引き寄せたのは、慈悲ではない。


 理由は、二つあった。


 一つ。あの女は、字が読めない。


 人に物を運ばせると、途中で読まれる。読んだ者は、読んだことを覚える。覚えた者は、いつか喋る。宮廷でものを運ばせるというのは、そういう危険を毎回買うということだった。


 読めない者は、運んだものを覚えない。忠義でも口の堅さでもない。中身が、その者にとって最初から存在しないのである。


 二つ。洗濯場には、教会の布が通る。


 城に入る物と出る物のうち、誰も見張っていないものが二つある。厨の残飯と、洗い物だった。


   ◇


「お嬢様」


 マリアンヌが、一度だけ訊いた。


「なぜ、あの女でございますか」


 ヴィオレッタは、干し場から目を離さなかった。


「読めないからですわ」


「……それだけで」


「他に何が要りますの」


 侍女は、それ以上訊かなかった。


   ◇


 配置は、五日で覆された。


   ◇


「洗濯場付きの名簿から、外れておりました」


 マリアンヌの声は、平坦だった。


「厨の下働きに回されております。……女官頭のソレル夫人が、書き替えられたそうでございます」


「理由は」


「洗濯場は教会の布を扱う。素性の知れぬ者は置けぬ、と」


 ヴィオレッタは、扇を止めた。


 ――なるほど。


 筋は通っている。通っているが、この女は自分の指図が上から降りてきたものであることを知っていたはずだった。知っていて、書き替えた。


「それだけですの」


「……いいえ」


 マリアンヌは、続けた。


「本日の朝、女官控えの間で、ソレル夫人があの女に名簿を渡されました。自分の名を探せ、と」


「そう」


「読めませんでしたので、皆さまがお笑いになりました」


   ◇


 ヴィオレッタは、女官控えの間へ行った。


 行って、扉の手前で足を止めた。


 中では、まだ続いていた。十四、五人いる。女官が大半で、行儀見習いの令嬢が三人ほど混じっている。中央に、灰色の上着の女が立っていた。


 両手を前で組み、顔を上げていない。手には、名簿が開いたまま持たされている。


「ご自分のお名前でございますよ」


 ソレル夫人の声は、優しかった。


「たった四文字。……お分かりになりませんの」


 笑いが起きた。


 悪意のある笑いではなかった。この場の誰も、この女を憎んでいない。憎むほど知らない。ただ、目の前に一つ、笑ってよいものが置かれているというだけだった。


   ◇


 ヴィオレッタは、その笑いの色を一つずつ拾った。


 ――気の毒に。


 ――でも、可笑しい。


 ――女官頭様も、人が悪い。


 ――早く終わらないかしら。


 どれも薄かった。薄くて、乾いていて、明日には残らない種類のものである。


 彼女は、扇を開いた。


 開いて、そのまま踵を返した。


   ◇


「お嬢様」


 廊下で、マリアンヌが追いついた。


「よろしいのでございますか」


「なにが」


「……いえ」


 侍女は、それきり黙った。


   ◇


 自室に戻って、ヴィオレッタは椅子に沈んだ。


 腹が立っていた。


 立っているのは、あの女が嗤われたからではない。ひと月かけて置いた駒が、五日で盤から降ろされたからである。


 女官頭が、公爵令嬢の配置を書き替えた。書き替えて、その理由を人前で述べ、人前で笑いを取った。


 これを通せば、次からは何を置いても降ろされる。


 ――目障りですこと。


 彼女は、扇を膝に置いた。


 動機は、それで足りていた。足りているものに、別の名前をつける必要はない。


   ◇


 三日、彼女は洗濯場へ通った。


 通って、何もしなかった。釜の脇に椅子を出させ、そこに座って、女たちが動くのを見ていた。


 最初の日、女たちは怯えた。二日目、怯えなくなった。三日目には、誰も彼女を見なくなった。


 人は、動かないものを景色だと思う。


   ◇


 三日で、彼女は十人を覚えた。


 名と、顔と、手つきと、どの釜を使うかを覚えた。糊付けが二人、絞りが三人、干しが三人、繕いが二人。ミサ用の白布に触れてよい者が、そのうち三人だけであることも覚えた。


 覚えるのは、簡単だった。


 名を三つ書いた夜から、彼女はそれを苦にしなくなっている。三つの音を、順に置くだけである。


   ◇


 三日目の夜、彼女はマリアンヌを呼んだ。


「ソレル夫人は、洗濯場の女をなんとお呼びですの」


 侍女は、少し考えた。


「……人数で、でございます。洗い場十一、と」


「口癖は」


「『あちらに名は要りませぬ』と。……女官控えでは、たびたび」


「そう」


 ヴィオレッタは、扇を畳んだ。


「たびたび仰る方は、人前でも仰いますわ」


   ◇


「マリアンヌ」


「はい」


「月初めの配置の場に、行儀見習いのご令嬢は何人お出になりまして」


「三人でございます」


「十人に増やしていただきなさい」


 彼女は、扇を膝に置いた。


「見習いの見物は、多いほうがよろしゅうございましょう」


   ◇


 侍女の内側が、赤く動いた。


 ――席を、作られる。


   ◇


「よろしいご想像ですこと」


 ヴィオレッタは、扇を開いた。


「あの方は、ご自分でお喋りになりますわ。……喋る場所を、こちらでご用意するだけですの」


   ◇


 月初めに、女官の配置を確かめる場がある。


 大広間ではない。北の廻り縁に面した、細長い部屋である。女官頭が名簿を読み上げ、老女官が確かめ、変更があればその場で決まる。


 女官が三十人ほど。老女官が上座。行儀見習いの令嬢が十人、壁際に並んでいる。


 先月までは、三人であった。


 ヴィオレッタは、入口の近くに立った。


 立ったところで、部屋の色が動いた。


 ――なぜ、あの方が。


 ――配置に、公爵令嬢がお出になる場ではございませんわ。


 ――先日のこと、まさか。


   ◇


 ソレル夫人が、名簿を開いた。


 五十がらみの、背の低い、隙のない女である。この城で二十年、女を配ってきた。配る権利を二十年握っている者の色は、たいてい似ている。


 ――わたくしの部屋である。


「ソレル夫人」


 ヴィオレッタは、読み上げが始まる前に声を出した。


「先日、洗濯場付きの名簿を書き替えられましたわね」


「……はい」


「素性の知れぬ者は置けぬ、と仰いましたそうで」


「教会の布を扱いますゆえ」


 女は、まっすぐに答えた。


 筋は、通っていた。


「よろしいご分別ですこと」


 ヴィオレッタは、扇を開いた。


「では、伺いますわ」


   ◇


「いま、洗濯場に、何人おりますの」


「……十人でございます」


「先日まで、十一人でございましたわね」


「……はい」


「ご立派。……では、十人ぶん、お名前を」


 部屋が、静かになった。


   ◇


 ソレル夫人は、名簿に手を伸ばした。


「そちらは、結構ですわ」


 ヴィオレッタは言った。


「先日は、読めぬ者に読ませておいでだったと伺いましたわ。……本日は、覚えていらっしゃる方に、仰っていただきましょう」


   ◇


 女の口が、開いた。


 開いて、止まった。


   ◇


 ヴィオレッタは、待った。


 待っているあいだ、その内側を覗いた。


 ――洗濯場。


 ――洗濯場の、女。


 名前を探しているのではない。そこに、探す場所がないのである。二十年、この女は洗濯場の女を人数で扱ってきた。人数には、名前を置く欄がない。


「一人も、でございますの」


「……」


「二十年、お配りになりましたのに」


   ◇


「洗濯場の者に、名は要りませぬ」


 ソレル夫人は、言った。


 言ってから、自分が何を言ったかを聞いた。


   ◇


 部屋の色が、一斉に動いた。


 ――いま。


 ――いま、なんと仰った。


 三十人のうち、半分以上は名を持たない側の出である。女官というのは、そういう者が上がってくる場所だった。


 ヴィオレッタは、それを一つずつ聞いた。


 聞いてから、口を開いた。


   ◇


「マルト」


   ◇


「ジャンヌ。ロズ。ベルト」


 彼女は、区切らずに続けた。


「マドロン。コレット。シモーヌ。ペリーヌ。ルイーズ。テレーズ」


   ◇


「十人でございますわ」


 部屋は、鳴らなかった。


「糊付けがマルトとテレーズ。絞りがロズ、ベルト、マドロン。干しがコレット、シモーヌ、ペリーヌ。繕いがジャンヌとルイーズ」


 彼女は、扇を畳んだ。


「ミサ用の白布に触れてよろしいのは、コレット、シモーヌ、ペリーヌのお三方。……ソレル夫人がお決めになった配置ですわね」


「……」


「ご自分でお決めになった三人を、ご存じないのでございますの」


   ◇


 ソレル夫人は、答えなかった。


   ◇


「もうお一人、おいででしたわね」


 ヴィオレッタは、扇を開いた。


「アニェス、と申しますの。……先日、あなた様がお外しになった方ですわ」


   ◇


 女の肩が、動いた。


   ◇


「十一人めのお名前だけは、ご存じでいらっしゃいましたのね」


   ◇


 ソレル夫人は、答えなかった。


 この女は、崩れなかった。膝もつかず、言い訳もしない。二十年ぶんの背筋は、そのくらいでは曲がらない。


 曲がらないまま、部屋の中で一つだけ変わったことがあった。


 三十人が、誰も彼女を見ていない。


   ◇


 老女官が、上座で咳をした。


「本日の読み上げは、わたくしが」


 それだけだった。


 ソレル夫人は、名簿を置いた。置いて、壁際へ下がった。


 職は、動かなかった。位も、俸給も、そのままである。


 名を呼ぶ役だけが、なくなった。


   ◇


 ヴィオレッタは、それでよいと思った。


 辞めさせてしまえば、二度と見られない。この城にあと二十年置いておけば、名を呼ぶ役のない女官頭を、二十年見物できる。


   ◇


 壁際の十人は、家へ帰れば喋る。


 十の家に配れば、ひと月で宮廷に行き渡る。二年、彼女はその配り方だけで生きてきた。


   ◇


 その日から、洗濯場の女たちは、指図を受けると一度こちらを見るようになった。


 ヴィオレッタは、それを面倒だと思った。


 名前を覚えるというのは、覚えられた側に何かを起こすものらしかった。起こす気は、一片もなかったのである。


   ◇


 アニェスは、洗濯場に戻った。


   ◇


 礼を言いに来たのは、その週のうちである。


 釜の脇で、灰色の上着の女が膝を折った。所作は正しかった。十年、屋敷の裏で正しく仕込まれた膝である。


「ありがとう存じます」


「およしなさいまし」


 ヴィオレッタは、扇を開いた。


「あなたのために、いたしましたのではございませんの」


「……はい」


「女官頭が、わたくしの指図を書き替えましたのよ。……それだけですわ」


「はい」


 女は、それ以上訊かなかった。


 訊かないので、ヴィオレッタは用件に入った。


   ◇


「アニェス」


「はい」


「ときどき、物を運んでいただきますわ」


「……はい」


「封のあるものです。中は見ないでくださいまし」


「はい」


 答えは、速かった。


 ヴィオレッタは、その内側を覗いた。


 ――見ない。


 それだけだった。


 覚悟でも、忠義でもない。この女にとって、封の中身は最初から無いものである。無いものを、人は見ようと思わない。


 ――使えますこと。


   ◇


「お嬢様」


 立ち去りかけたところで、女が言った。


「一つ、お伺いしてもよろしゅうございますか」


「どうぞ」


「エステルお嬢様は、お元気でいらっしゃいますか」


   ◇


 ヴィオレッタは、扇を止めた。


 嘘は、つけない。


「壊しましたわ」


 彼女は言った。


「わたくしが、人前で。……あの方は、いま領地においでですわ」


   ◇


 女は、しばらく黙っていた。


 ヴィオレッタは、その内側を覗いた。


 覗いて、何も出てこないので、もう一度覗いた。


 ――さようでございますか。


 それだけだった。


 怒りも、悲しみも、安堵もない。十年、感情を出さぬように躾けられた者の色ではなかった。躾けられた者は、押さえたぶんが必ず裏に溜まる。この女の裏には、何も溜まっていない。


 入れる器のほうが、もう無いのである。


   ◇


「あの子は」


 女が、言った。


「あの子は、わたくしのことを、覚えておいででしょうか」


   ◇


 ヴィオレッタは、答えなかった。


 答えれば、十年ぶんの話をすることになる。廊下で膝をついた七つの娘の話も、二度塞がれた口の話も、この女は一つも知らない。


 知らないまま、この女は器を無くした。


 黙るという選択肢は、彼女にとっていつも一等はっきりした返事である。


 だが、目の前の女は、それを読める側の人間ではなかった。


「……さようでございますか」


 女は、そう言って頭を下げた。


 ヴィオレッタが何も言わなかったことを、忘れられていると受け取ったのだ。


   ◇


 訂正する義理は、なかった。


 義理はなかったが、彼女は口を開いた。


「先日、領地から便りが参りましたわ」


「……はい」


「わたくし宛でございます。壊した相手に、よくも書けたものですこと」


 女は、顔を上げなかった。


「一行きりでしたわ」


 ヴィオレッタは、扇を開いた。


「母は、元気にしておりますでしょうか、と」


   ◇


「お返事は、いたしませんでしたわ」


   ◇


 ヴィオレッタは、干し場へ出た。


 白い布が、風で一斉に動いていた。


 彼女は、いま自分が何をしたのかを点検した。


 訂正した。訂正して、得たものは一つもない。あの女の中身が増えたわけでも、駒として使いやすくなったわけでもなかった。


 ――損でございますわね。


 ――お前は、賢いのに損をする。


 意味は、いまも分からない。分からないまま、当てはまるものが一つ増えた。


   ◇


 干し場の奥に、板が一枚打ちつけてある。


 荷札を刺しておく板だった。教会から来た布に、必ず一枚ついてくる。何が、何枚、いつ入ったか。洗い終わって返すときに外して、ここに刺しておく。


 ヴィオレッタは、その板の前で足を止めた。


   ◇


「マルト」


 糊付けの女が、手を止めた。


「この札は、いつから溜めておいでですの」


「さあ……わたくしが参りましたときには、もう」


「捨てませんの」


「捨てるなと言われております。……なぜかは、存じません」


 女は、当たり前のように答えた。


 害のない問いだと思ったからである。


   ◇


 ヴィオレッタは、板に近づいた。


 札は、何百枚もあった。古いものは色が抜け、新しいものは墨がまだ黒い。どれにも、同じ形式で書いてある。


 品目。枚数。年月日。


 そして、一番下に、返す先の名が書いてある。


 ――聖女 セシリア 御用。


 彼女は、その一枚を抜いた。


 抜いて、下の一枚を見た。


 ――聖女 マルグリット 御用。


   ◇


 教会の記録は、教会が持っている。請求すれば、規則どおりに出てくる。


 だが、教会が自分で作った記録は、教会が都合よく整えたあとのものだった。


 この板は、違う。


 誰も見張っていない。誰も価値を認めていない。捨てるなと言われただけで、なぜ捨てないのかを知っている者すらいない。


   ◇


 ヴィオレッタは、札を一枚ずつ外し始めた。


 年月日の並んだものが、何百枚もある。


 名を持たない者たちが、名を持つ者の日付を、二百年ぶん刺しておいたのである。

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