第15話 列
南街区の教区教会は、思っていたより小さかった。
鐘楼が一つ、庭が一つ、裏手に井戸がある。施しは、その庭で出される。
ヴィオレッタは、向かいの粉屋の二階を借りた。一日一シリングである。主人は、貴族の女が窓を借りたがる理由を一度も訊かなかった。金を先に払ったからだ。
――安いこと。
人の口は、たいてい安い。閉じさせるほうも、開かせるほうも。
◇
早春だった。雪は落ちきっていたが、庭の土はまだ黒い。
午後の二つ刻に、裏木戸が開いた。
列が、できた。
◇
「六十二人でございます」
半刻ののち、マリアンヌが言った。
「数え直しましたので、間違いございません」
「結構ですわ」
ヴィオレッタは、窓の桟に肘を置いていた。
助祭が一人、修道女が二人。卓に銭の箱を出し、順に配っていく。名は訊かない。訊く必要がないからだ。配って、頭を数えて、それで終わりである。
◇
彼女は、頭の中で帳簿を開いた。
教会の会計に、施しの項がある。南街区の教区、年に四十ポンド。
一人につき六ペンス。月に二度。
四十ポンドは八百シリング、九千六百ペンスである。六で割れば、千六百人ぶん。年に二十四度で割れば、一度あたり六十六人と少し。
数えたのは、六十二人だった。
「……二ポンドと十六シリングほど、多うございますわね」
「盗んでおいでですか」
「いいえ」
ヴィオレッタは、扇を開かなかった。
「日によって、五人や六人は動きますもの。二年ぶん均せば、たぶん合いますわ」
◇
つまらないこと、と彼女は思った。
二年、彼女が人を潰してきたのは、たいていこの一ポンドのところだった。合わない数を見つけ、合わない理由を人前で述べる。それで足りた。
ここは、合っている。
合っているところに、探しものがある。
◇
彼女は、列を読んだ。
六十二人ぶんの内側が、いっぺんに入ってきた。
◇
――粉。
――あと三人。
――足が痛い。
――粉。
――昨日の子は、来ておらぬな。
――粉。粉。粉。
◇
近かった。
石も、壁も、一枚も隔てていない。歪みも、遅れもない。
どれも同じ形をしていた。ヴィオレッタは十七年、人の内側にはかならず継ぎ目があると思って生きてきた。表に出す顔と、内にあるもの。二つがずれているから、色が立つ。
この列には、ずれがなかった。
繕う相手がいないからである。
◇
彼女は、窓から一歩下がった。
下がってから、自分がなぜ下がったのかを点検した。
――澄んでおりますわね。
美しいとは、思わなかった。
◇
――響きの違う者は。
窓の外は、見なかった。
見る必要が、なかったからである。
――おりませんわね。
六十二人、全部こちらの人間である。
◇
二度目の施しは、半月後だった。
六十七人。前より五人多い。
春が来ると列が伸びる、と粉屋の主人が言った。冬に死ぬ者があり、春に出てくる者がある。ヴィオレッタは、その二つがなぜ同じ季節に起きるのかを訊かなかった。
◇
「お嬢様」
列の半ばあたりで、マリアンヌが言った。
「一人、粉屋へ参りません」
「どなた」
「三十番目の子でございます。前のときも、参りませんでした」
◇
ヴィオレッタは、そちらを見た。
十ばかりの子どもだった。丈の合わない外套を着て、両手を袖に入れて立っている。
彼女は、その内側を覗いた。
◇
飢えが、なかった。
◇
列に並んだ六十六人が同じ色をしていて、一人だけ違う。恐怖でも、悪意でもない。ただ、いま腹が減っていないというだけの、平らな色だった。
――お前は。
◇
「マリアンヌ」
「はい」
「よく見つけましたこと」
侍女の内側が、赤いまま少し揺れた。
――褒められた。
――……気味が悪い。
◇
子どもは、路地の三本目で捕まった。
逃げなかった。逃げる前に、ヴィオレッタが名を訊いたからである。
「お前、お名前は」
「……ジャン」
「ジャン」
「この辺りに、四人おります」
◇
ヴィオレッタは、扇を止めた。
名を訊かれた子どもが、まず言ったのは、その名では自分を指せないということだった。
「では、どうお呼びすればよろしいの」
「粉屋のジャンと、井戸のジャンと、脚のジャンと」
子どもは、指を折った。
「わたしは、余りのジャンです」
◇
「余り」
「はい」
「どなたが、そうお呼びに」
「みんな」
◇
子どもの内側に、恥はなかった。
ヴィオレッタは、そこを二度見た。
この年で、自分の呼び名に一度も傷ついたことのない人間というのは、要するに、呼ばれた回数が少ないのである。
◇
「銀鍵亭に、手紙を置きましたわね」
子どもの肩が、動いた。
「六日置いていただく約束で、二シリング。……お前のお銭ですわね」
「……はい」
「二月ぶん、貯めておいででしたの」
「はい」
「なぜ、お使いにならなかったの」
「食べさせてくださる方が、おりますので」
◇
その一言に、嘘はなかった。
ヴィオレッタは、扇を畳んだ。
「その方が、手紙をお預けになりましたの」
「はい」
「銭は」
「頂きました。三シリング」
「では、その三シリングでお払いになればよろしかったのに」
子どもは、少し黙った。
「……新しい銭でしたので」
◇
なるほど、とヴィオレッタは思った。
刻みのある銭は、施しの銭である。持っていても誰も驚かない。新しい銭を子どもが宿屋の卓に出せば、主人は顔を覚える。
この子は、自分がどう見えるかを知っている。
――お前のほうが、わたくしより上手ですわね。
◇
「どちらで、お受け取りに」
「城の、裏の門でございます」
◇
ヴィオレッタは、動かなかった。
「……城の」
「はい。表の門ではございません。壁沿いに東へ行って、坂を下りたところの」
「刻限は」
「洗い物の荷が出る時分でございます。週に二度」
「その方は、門から出ておいでですの」
「存じません」
子どもは、首を振った。
「わたしが着きますと、もう外に立っておいでです」
◇
「どんな方」
「フードをかぶっておいでで、お顔は見ておりません」
「背は」
「お嬢様より、少し低いくらい」
「手は」
子どもは、そこで初めて考えた。
「……荒れておりません」
◇
ヴィオレッタは、そこで一度、扇を膝に置いた。
城の裏門に週に二度立ち、施しの列に並ぶ必要がなく、手が荒れていない者。
二百人のうちの誰かである。
◇
「ジャン」
「はい」
「なぜ、お引き受けになりましたの」
子どもは、袖から手を出した。
「名前を、訊かれましたので」
◇
路地が、静かだった。
◇
ヴィオレッタは、自分がたったいま同じ手を使ったことに気がついた。
三本目の路地で、逃げようとした子どもを止めたのは、扇でも、身分でもない。名を訊いたことである。
二年、彼女は人の弱みを突いて生きてきた。弱みというのは、本人が隠しているもののことだった。
この子には、隠しているものが何もない。
何もないところに、まだ一つ、突ける場所が残っている。
◇
「一つ、申し上げておきますわ」
「はい」
「わたくしは、お前に何も差し上げませんの」
ヴィオレッタは言った。
「お助けもいたしませんし、次にお会いする約束もいたしませんわ。……嘘がつけませんので、先に申し上げておきますのよ」
「はい」
「腹も立ちませんの?」
「立ちません」
子どもは、当たり前のように答えた。
「みなさま、そうですので」
◇
帰りの馬車で、ヴィオレッタは紙を出した。
膝の上で、羽根ペンを走らせた。
――余りのジャン。南街区。十ばかり。手紙を置く。
書いてから、しばらくそれを見ていた。
この一行は、誰の帳簿にも載らない。載せる先がない。彼女が持っていても、一文の得にもならなかった。
「損でございますわね」
「……は」
「なんでもございませんわ」
◇
城の裏門は、東の壁の外れにあった。
坂を下りたところに木戸が一つ、荷車が二台。門番が一人だけ立っている。
ヴィオレッタは、三日通った。
◇
入る物は、検められた。
薪。菜。粉。樽。門番は一つずつ紙と引き合わせ、数が合わないと荷車を止めた。
出る物は、検められなかった。
灰が出た。屑が出た。空の樽が出た。洗い物の荷が、麻布に包まれて出た。
誰も、開けなかった。
◇
――入るほうだけ、数えておりますのね。
当然だった。城が惜しむのは、入ってくるものの値である。出ていくものに値はない。値のないものを検める者を、雇う理由がない。
二年、彼女は同じことをしてきた。
人の内側から、取れるものだけを取ってきた。取ったあとに何が出ていったかを、一度も数えなかった。
◇
名簿のほうは、その月のうちに終わった。
終わった、と彼女は思った。
思ってから、二冊目の頁を繰り直して、手が止まった。
◇
厨方十八名のうち、名があるのは四人である。
残りの十四人を、彼女は自分の頭の中で分けていた。釜の脇の女。背の高いほう。左利き。赤い手。
赤い手が、二人いた。
◇
同じ女を二度数えたのか、別の女を一人数え落としたのかを、彼女は決められなかった。
決められないので、印もつけられなかった。
◇
――百七十六人。
たぶん、終わった。
たぶん、というのは、数えていないのと同じである。
◇
その夜、ヴィオレッタは自室で紙に向かった。
名のない者は、数の外にいる。数の外にいる者は、探されない。探されないから、そこに紛れるのがいちばん安い。
二十四人ぶんの欄が、どこにもない。
欄を作るには、名が要る。
名を訊くには、こちらから訊きに行かねばならない。
◇
「マリアンヌ」
「はい」
「わたくし、字の読める者ばかり使っておりましたわね」
侍女は、暖炉の前で手を止めた。
「……はい」
「読める者は、運んだものを覚えますわ。覚えた者は、いつか喋りますの」
ヴィオレッタは、扇を開いた。
「一人、存じておりますわ」
◇
マリアンヌは、しばらく黙っていた。
その内側が、ゆっくり濁っていくのが視えた。
――あの女を、また使うのか。
――この人は、拾ったものを、必ず二度使う。
◇
「王家の年金を、お返しいただきますわ」
「……お返し」
「城でお勤めいただきますの。年金より、そのほうが安うございますし」
「あの方は、承知なさいますか」
「なさいますわ」
ヴィオレッタは、窓の外を見た。
春の雨だった。
「あの方は、断り方をご存じございませんもの」
◇
マリアンヌは、答えなかった。
答えないまま、薪を一本くべた。
◇
「洗い場に、空きはございまして?」
「……一人、暇が出たと伺っております」
「結構ですわ」
ヴィオレッタは、扇を畳んだ。
「十一人でございましたわね。洗い場は」
「はい」
「一人も、名を存じませんの」
◇
彼女は、紙を引き寄せた。
欄を十一、縦に引いた。
◇
空いたままの欄というものを、彼女はこれまで一度も作ったことがない。
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