第98話 縫い目だけは、ジラールの仕事ですから
緑の衣の仕上がりを知らせる使いが来たのは、夕方であった。
明朝、お屋敷までお届けいたします、と使いは言った。ヴィオレッタには、明朝まで待つつもりがない。
「馬車を」
マリアンヌは何も言わずに、外套を持ってきた。
◇
ジラールの表の戸は、もう閉まっていた。
裏へ回ると、奥の作業場に灯りがひとつだけ残っている。ニコルが、ひとりで針を動かしていた。
膝の上にあるのは、深い青の衣である。その胸もとに、黄色の飾り紐が半分ほど縫いつけてある。
◇
ニコルは戸口のヴィオレッタに気づくと、針を持ったまま立ち上がった。
「お、お嬢様。こんな刻限に」
「仕上がったと伺いましたもの。待つのは、嫌いですの」
「すぐに、お持ちいたします」
娘は青い衣を作業台に置いて、棚へ走った。置くときに、黄色の紐が見えないよう、端切れをそっとかぶせている。
◇
内側も、隠したがっていた。
――見られた。こんなものを。
――ジラールの名で、これを出すなんて。
◇
ヴィオレッタは、作業台の前に立った。
かぶせてあった端切れを、扇の先でめくる。
黄色は、思っていたより明るい。深い青の上で、そこだけ灯りを受けて浮いている。品のよい取り合わせとは、どう言っても言えなかった。
けれども、縫い目は別である。
◇
紐を留める糸目が、端から端まで、同じ幅で並んでいた。一本も、外へ逃げていない。
「まっすぐですわね」
棚の前で、ニコルの肩が止まった。
◇
「……そこだけは、曲げられません」
緑の衣を抱えて戻ってきた娘の声は、小さい。
「黄色の紐も、引きずる裾も、子爵夫人様のご注文です。でも、縫い目が曲がっていたら、それはご注文ではありません。わたしの下手です」
「だから、まっすぐに」
「はい。どんなにおかしな衣でも、縫い目だけは、ジラールの仕事ですから」
◇
ヴィオレッタは、扇を閉じた。
この娘は、三針の曲がりをひと晩で直している。直せと言われて、黙って直した。そのときの悔しさが、まだ指に残っているのかもしれない。
「それで、よろしいわ」
ニコルが、顔を上げた。
「衣はあの方のもの。縫い目はジラールのもの。そのまま、分けておきなさいな」
娘は、わかったような、わからないような顔でうなずいた。
◇
作業場の奥から、店主が出てくる。物音を聞きつけたらしく、寝間着の上にショールを引っかけている。
「お嬢様。わざわざ、お越しいただくなど」
「四度目は、いつでしたの」
「昨日でございます」
店主は、ショールの前をかき合わせた。
◇
四度目は、襟であったという。今年の形は品がない、去年の形に戻しなさい、と夫人は言った。胸のリボンは、ひとつでは寂しいから二つに。
「お客は」
「長椅子に、三人。ルソー伯爵家の奥様とお嬢様は、また」
「そう」
「お嬢様のほうが、ずっと鏡をご覧になっておいででした」
◇
店主の内側では、別のものが鳴っていた。
――これで五日後に納めて、払わないと言われたら。
――バルトさんの店先と同じ板が、うちの戸にも。
西の通りの、板を打ちつけた戸が浮かぶ。店主はそれを、毎晩見ているのであろう。
◇
「マダム」
ヴィオレッタは、緑の衣をマリアンヌに渡した。
「一針も、足さずに。一針も、引かずに」
「……はい」
「それと、この子に灯りをもうひとつ。目を悪くされては、わたくしが困りますもの」
店主が、慌てて燭台を取りに走った。ニコルは、もう針を持ち直している。
◇
屋敷に戻ると、ベルナールを呼んだ。
「カルノー子爵家は、お金に困っておいでかしら」
「いいえ」
執事は、少しも迷わなかった。
「領地の上がりは、十分でございます。奥方様の宝石の払いも、遅れたことはございません。払いが滞るのは、仕立屋と靴屋と、手袋屋だけでございます」
◇
「払えるのに」
「払わずに済む店にだけ、払わないのでございましょう」
金の話になると、この執事は誰より早い。
ヴィオレッタは、扇を閉じた。
衣は、一度着れば終わる。宝石は、売るときに値がつく。夫人は、あとで困る店にだけは払い、困らない店からは取り上げる。困らないのではない。困っても、黙るしかない店なのだ。
◇
五日後、衣が仕上がった。
届けに行ったのは、店主本人である。戻ってくるなり、店主は公爵家の裏口に来た。顔が、紙のように白い。
◇
「ご覧になって、お声も出ないご様子でございました」
店主は、両手を握りしめていた。
「こんなものは頼んでいない、と。それで、わたくし、申しました。仰せのとおりに、お直しいたしました、と」
「それで」
「お代は払わない、と仰いました。この衣も、前の二着も。明日の舞踏会で、皆様に申し上げる、と。ジラールの腕は落ちた、と」
◇
店主の内側には、また西の通りの空き店が浮かんでいる。
戸に板を打ちつけた、靴屋の店先であった。
ヴィオレッタは、仕上がったばかりの自分の緑の衣を見た。脇の縫い目は、まっすぐに通っている。
「では、わたくしも参りますわ」
「舞踏会に、でございますか」
「この衣を、着ていく場所が要りますもの」
◇
店主が帰ったあと、マリアンヌが緑の衣を衣桁に掛けた。
掛けながら、脇の縫い目を指でなぞっている。
「まっすぐでございます」
「三針ぶん、直させましたもの」
「あの黄色の紐も、まっすぐでございましたね」
見ていたのである。ヴィオレッタが端切れをめくったとき、この侍女は戸口から一歩も動かず、目だけで追っていたらしい。
「ええ」
マリアンヌは、それきり何も言わなかった。言わずに、袖のしわを、二度伸ばした。
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