第97話 もっと長く、と仰いました
二度目の仮縫いの日は、朝から雨である。
それでも、ジラールの表の間には客が多かった。長椅子に四人。ヴィオレッタは、縫い直しの済んだ緑の衣を受け取りに来て、奥の幕の陰にいる。
◇
この日を選んだのは、店主であった。表の間がいちばん混むのは、雨の日だという。外を歩けない奥方たちが、ここぞとばかりに仮縫いへ来る。
◇
長椅子の端に、若い令嬢がひとり座っていた。
ルソー伯爵家のエミリーである。母親の付き添いで来たらしく、退屈そうに手袋の指を引っぱっている。
カルノー子爵夫人が入ってくると、令嬢は手袋から顔を上げた。
◇
「まあ、袖をこんなに短くして」
夫人は、鏡の前で両腕を広げた。肘から先が、むき出しになっている。
「どなたが、こんな」
「肘まで、と仰せでございましたので」
店主の声は、落ち着いていた。
◇
夫人が、わずかに眉を上げる。
――あら。今日は言い返すのね。
◇
けれども、それ以上は袖のことを言わなかった。言えば、先週の自分の言葉に触れる。長椅子の客たちが、こちらを見ている。
「……袖は、それでよろしいわ。裾が短いのよ。もっと長く」
「仰せのとおりに」
◇
店主は、そのひと言しか返さなかった。
夫人の内側が、少しだけ揺れる。
――素直すぎるわ。
――まあ、いいわ。どこまで直させれば音を上げるか、見てやりましょう。
◇
ヴィオレッタは、幕の隙間から長椅子を見ていた。
四人の内側が、順に聞こえてくる。
いちばん奥の老婦人は、居眠りの手前であった。その隣の奥方は、自分の番がいつ来るかしか考えていない。
ルソー伯爵夫人の内側は、固く閉じていた。
――わたくしは、何も聞いていない。何も。
聞いたからこそ、そう唱えているのである。この奥方は、来月もカルノー子爵夫人の茶会に呼ばれたいのだ。
◇
エミリーは、手袋を引っぱるのをやめていた。
母親の袖をつついて、何かささやいている。何を言ったのかは、聞こえない。内側だけが、はっきりと聞こえた。
――肘までの袖を見て、それでよろしい、って。
――先週は、長すぎるって怒っていたのよね。
母親が、娘の手を膝の上で押さえた。押さえられても、娘の目は鏡から離れない。
◇
黙っていられるのは、母親のほうである。娘は、黙っていられない性分らしい。
ヴィオレッタは、その横顔を覚えておくことにした。
◇
夫人が帰ると、ヴィオレッタは幕を出た。
「マダム。次の仮縫いは、いつになさるの」
「来週の、同じ曜日でございます」
「では、わたくしの手袋の採寸も、同じ刻限に入れてくださいな」
店主は何も訊かずに、控えへ書きつける。
◇
三度目の日は、晴れていた。
それでも、長椅子は埋まっている。店主が、前の日から客に声をかけていたらしい。お客の多い日になさいな、と言われたことを、そのまま守っているのである。
◇
ヴィオレッタは、奥の小部屋で手袋の採寸を受けていた。指の一本ずつに、巻き尺が回る。壁際には、マリアンヌが控えている。幕の向こうの声は、ここまで全部届いた。
長椅子には、またルソー伯爵家の母娘がいる。表の間の隅の台では、ブランシュ男爵夫人が胴の採寸を受けていた。
◇
「裾が、まだ短いわ」
鏡の前で、カルノー子爵夫人が言った。
裾は、もう靴の先を隠している。夫人が一歩動くたびに、床をこすって、さらりと鳴った。
「もっと長く。それから、この飾り紐。地味ですこと」
「何色に、いたしましょう」
「黄色よ」
◇
ブランシュ男爵夫人の内側が、ぎょっと跳ねた。
――黄色。あの深い青に。
長椅子の扇も、そろって止まる。止まったまま、誰も何も言わない。
「黄色に、いたします」
店主が答えた。それきりである。
◇
夫人の内側に、はじめて小さな棘が立った。
――この店、わたくしを試しているのかしら。
夫人は、鏡越しに店主の顔を見た。店主は待ち針の箱を抱えて、目を伏せている。手が、少しだけ震えていた。
――いいえ。怯えているだけね。
棘は、すぐに引っこんだ。
◇
壁際で、マリアンヌの眉が、ほんの少しだけ上がる。
「……あの女、本気でございますか」
針子に聞こえないほどの声である。
「本気ではないから、困るのですわ」
ヴィオレッタも、同じだけの声で返した。
「本気なら、黄色の衣で茶会に出るでしょう。着ないつもりだから、何色でも言えますのよ」
マリアンヌは、それきり黙った。黙ったまま、幕のほうへ一度だけ目をやる。あの女の顔を、覚えておくつもりらしい。
◇
ヴィオレッタは、採寸の針子に、小指をもう少しきつく、と言った。
怯えているのは本当である。夫人の読みは、そこまでは当たっていた。外れているのは、怯えた店が何をしているかのほうであった。
◇
帰りぎわ、夫人が長椅子の前で足を止める。
「ジラールも、近ごろは、言われたことしかできなくなりましたのね」
奥方たちに向けた言葉である。誰も笑わない。
エミリーだけが、小さく首をかしげていた。
――言われたことしか、って。言われたとおりにしたら、いけないのかしら。
◇
幕の陰で、ヴィオレッタは扇を開いた。
言われたことしかできない店。結構な評判である。あの夫人が自分の口で広めてくれるなら、なおよい。
あと一度か二度、言わせればよかった。
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