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悪役令嬢は、嘘だけはつかない ~悪気はございませんの~  作者: 桜野結
第22章

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第96話 袖が、長すぎますわ



 マダム・ジラールの店の奥で、ヴィオレッタは鏡の前に立っていた。


 仮縫いの衣である。夏の終わりに頼んだ、夜会用の深い緑。針子のニコルが、裾の前にしゃがんで待ち針を打っている。


   ◇


「この縫い目」


 ヴィオレッタは、左の脇を指さした。


「三針、曲がっておりますわね」


 針子の手が止まる。娘の内側が、さっと白くなった。


  ――どうして。見えるはずがないのに。


   ◇


 見えるのである。鏡の中で、脇の線がほんのわずか、外へ逃げている。


「ほどいて、縫い直してくださいな。明日の朝までに」


「あ、明日の、でございますか」


「明日ですわ」


「……かしこまりました。申し訳ございません」


「謝るより、縫ってくださいな」


 理由は、それ以上言わない。ニコルは青い顔のまま、糸切り鋏を握りしめた。


   ◇


 王都でいちばん気難しい客は誰か。仕立屋に訊けば、皆が同じ名を挙げるだろう。


 公爵家の令嬢である。仮縫いのたびに、どこかを直させる。一度で通ったためしがない。


 ただ、払いはどの家より早い。直させた手間の分まで、きちんと上乗せして払う。金の話になると、公爵家の執事は誰より早いのだ。


   ◇


 表の間のほうが、急に騒がしくなった。


「マダム。マダム・ジラールは、どこ」


 よく通る、高い声である。


 店主が、慌てた足音で表へ出ていく。仕切りの幕越しに、声だけが聞こえてきた。


   ◇


「袖が、長すぎますわ」


「先週、この長さでと、奥様が」


「わたくしが、こんな野暮な長さを頼むものですか」


 布を打つような音がする。扇で、袖を叩いたのであろう。


   ◇


 ヴィオレッタは、幕の隙間から表をのぞいた。


 大きな鏡の前に、細身の夫人が立っている。カルノー子爵夫人。王都の子爵家や男爵家の奥方たちは、この夫人の茶会で、次の季節の衣の形を決める。夫人が褒めた店には客が増え、首を振った店からは客が消える。


 表の長椅子では、順番を待つ客が三人ほど座っていた。夫人は、わざとそちらに聞こえるように話している。


   ◇


 客たちは、扇の陰で目を伏せていた。誰も、店主の味方をしない。味方をすれば、次の茶会で自分の衣が笑われる。


   ◇


 その内側は、袖の長さなど見ていなかった。


  ――長さなど、どうでもいいのよ。


  ――直させて、また直させて、気に入らないと言えばいい。それで払わずに済むわ。


   ◇


 店主の内側も、聞こえてくる。


  ――夏の衣も、その前の外套も、まだお代をいただいていない。


  ――三着目まで払っていただけなければ、春までもたない。


  ――でも、逆らえば、バルトさんの店と同じになる。


   ◇


 バルトという名には、覚えがあった。


 去年まで、西の通りにあった靴屋である。カルノー子爵夫人が茶会で、あの店の靴は踵が鳴る、とひと言いった。ひと月で客が消え、秋には店が閉まっている。


 その靴の代も、払われていなかったと聞く。


   ◇


 ヴィオレッタは、幕の陰で腕を組んだ。


 ジラールが潰れれば、困るのは自分である。王都に仕立屋は多い。けれども、三針の曲がりを言われて、ひと晩で縫い直せる針子を置いている店は、ここしかない。ほかの店では、直しのたびに十日は待たされる。


 あの夫人のために、十日も待つつもりはなかった。


   ◇


「舞踏会は、来月ですわ」


 夫人は、鏡の中の自分に向かって言った。


「ヴェルニエ侯爵家の舞踏会までに、わたくしの言うとおりに仕上げなさい。間に合わなければ、一銭も払いません」


「……かしこまりました」


「袖は、肘まで。よろしいわね」


   ◇


 夫人が帰ったあとも、店主は表の間でしばらく動かなかった。


   ◇


 長椅子の客たちも、目を合わせずに順番を待っている。さっきの話は、誰も聞かなかったことになっていた。


 ヴィオレッタは、仮縫いの衣のまま幕を出た。


「マダム」


「お、お嬢様。お見苦しいところを」


「袖は、肘までと仰いましたわね」


   ◇


 店主が、力なくうなずく。


「来週には、きっと、やはり長くと仰います。いつもそうなのでございます」


「では、来週は長くなさい」


「え」


「仰せのとおりに、お直しなさい。全部。足しても、引いてもいけませんわ」


   ◇


 店主は、ぽかんと口をあけた。


「お嬢様。それでは、とても着られたものには」


「着るのは、あの方ですわ」


 ヴィオレッタは、待ち針の刺さった自分の袖を見下ろした。


「それから、あの方の仮縫いは、お客の多い日になさいな。表の間の、大きな鏡の前で。あの方は、お好きでしょう」


   ◇


 店主は、まだ分からない顔をしている。


 分からないまま、深く頭を下げた。公爵家の令嬢に言われて、逆らう仕立屋はいない。それに、どう作ったところで、あの夫人が払わないことに変わりはないのである。


 奥では、ニコルが三針の縫い目をほどきはじめていた。

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