第95話 明日も、御髪をお結いいたします
ラフォン伯爵夫人の動きは、早かった。
茶会がはねるより前に、夫人は自らヴィオレッタの前に進み出て、深々と頭を下げた。娘は熱病の名残でまだ心が弱っている、本日をもって北の修道院へ預ける、アルヴェール家にはあらためて夫とともにお詫びに上がる、と。
――公爵家を敵に回したら、うちは終わる。
――あの子ひとりで済むなら、安いもの。
母親の心に、娘を案じる色は、ほとんどなかった。
「お好きになさいませ」
ヴィオレッタはそれだけ答えた。官憲を呼べとも、呼ぶなとも言わない。どちらでも、彼女には同じことなのだ。
◇
屋敷に戻ると、ヴィオレッタは下働きを全員、台所の前に並ばせた。
「ラフォン家から、お給金の3か月分を受け取った者は、前へ出なさい」
誰も動かない。
けれど、列の端で、そばかすの娘の心が悲鳴を上げていた。
――ばれた。なんで。なんで。
周りの下働きたちが、少しずつ、その娘から距離を取っていく。人の心は面白い、とヴィオレッタは思う。誰も何も言っていないのに、罪のある者のまわりには、勝手に空白ができる。
ニノンが、膝から崩れた。
「お、お許しください。お母さんの、薬代が」
「そう」
「もう、二度としません。本当です」
「ええ。二度とはできませんわね」
ヴィオレッタは、娘を見下ろした。
「今日限りで結構よ。荷物をまとめなさい」
「お嬢様……!」
「3か月分のお給金で主を売る者は、4か月分で、次の主も売りますもの」
薬代の事情は、本当なのだろう。心がそう言っている。
だから何だ、とヴィオレッタは思った。それはこの娘の事情であって、わたくしの事情ではない。
◇
その夜、鏡台の前で、マリアンヌは長いこと櫛を動かしていた。
昼間の青ざめた顔は、もう跡形もない。手つきはいつもどおり正確で、けれど心は、ずっと同じところを回っていた。
「お嬢様」
「なに」
「なぜ、庇ってくださったのです」
「庇っておりませんわ」
ヴィオレッタは鏡の中の自分を見たまま答えた。
「わたくしの侍女を、わたくし以外の者が勝手に切るのが、気に食わなかっただけよ」
「……左様でございますか」
櫛が、また動き出す。
しばらくして、マリアンヌがもう一度口を開いた。
「髪飾りが見当たらないと申し上げた朝、お嬢様は、来週には出てくるとおっしゃいました」
ヴィオレッタは答えなかった。
「ご存じだったのですね。わたくしが、人前で盗人にされることを」
「ええ」
嘘はつかない。
鏡の中で、侍女の顔がわずかに歪んだ。心の色が、ひと息に赤く濁る。怒り。それから、屈辱。主に見捨てられかけたのではなく、主に分かっていて使われたのだと知った者の色。
ヴィオレッタは、その色を美しいと思った。
マリアンヌは櫛を置き、両手を膝の前で揃える。
「わたくし、お嬢様が大嫌いでございます」
「知っておりますわ」
「ですが」
侍女は、少しだけ言葉を探している。
「わたくしを好きだと言いながら、わたくしの家ごと泥に沈めようとした方よりは、ましでございます」
「そう」
「明日も、御髪をお結いいたします」
「真珠のを使ってちょうだい」
マリアンヌの手が止まる。鏡台の端には、昼間の騒ぎをくぐり抜けた髪飾りが、何事もなかったような顔で置かれていた。
「……あれを、でございますか」
「ええ。わたくしの物ですもの。人の手を渡ったくらいで、しまい込む理由がございませんわ。来週には出てくると申しましたでしょう。出てきたのだから、挿しますの」
――この方は、本当に。
侍女の心が、呆れたような水色に戻っていく。
「かしこまりました」
マリアンヌは一礼して、燭台の火を半分落とした。
◇
ジュスティーヌを乗せた馬車が王都を発ったのは、3日後の朝だった。
その馬車が門の前を通るとき、ヴィオレッタはたまたま窓辺にいる。
幌の隙間から、蜂蜜色の髪がのぞく。修道院へ向かう娘は、アルヴェール家の窓を見上げ、そこにヴィオレッタの姿を見つけると、小さく手を振った。
心の声が、まっすぐに届く。
――ヴィオ様、今は分かってもらえなくても大丈夫。
――いつか、きっと分かってくれる。私、待ってるから。
桃色だった。
あの茶会のあとでさえ、その色は少しも濁っていなかった。後悔も、恨みも、学んだ痕も、なにひとつない。下に何もない、春の花のような色。
ヴィオレッタは、人の心から目を逸らした。覚えているかぎり、これまで一度もなかったことだ。
これまで、数えきれないほどの醜い色を視てきた。母の慈愛の下の嫌悪も、父の威厳の下の保身も、聖女の祈りの下の筋書きも。どれも汚く、どれも人間らしかった。
けれど、二層目のない色を視たのは、これが最初で。
それが、いちばん、たちが悪かった。
馬車が角を曲がって見えなくなるまで、ヴィオレッタは窓辺に立っていた。それから、カーテンを引く。
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