第94話 善いことを、なさったのでしょう?
箱が落ちたのは、茶会の半ばだった。
焼き菓子の皿を運んでいたラフォン家の侍女が、芝生の縁でつまずいた。よろけた肩がマリアンヌの腕に当たり、小箱が手を離れて卓の脇に転がる。
蓋が外れた。
砂糖をまぶした木の実が、白い卓布の上に散らばる。その下から、二重になっていた底板がずれて、ころりとひとつ、光るものがこぼれ出た。
真珠の髪飾り。
大粒の真珠を3つ、銀の葉で留めた品。去年の夜会で、ヴィオレッタが髪に挿していたものだ。
「それ……」
隣の卓の令嬢が、扇を口元に当てた。
「ヴィオレッタ様の、では」
ざわめきが、庭の端まで波のように走った。
マリアンヌの顔から、血の気が引いていく。
「存じません」
声が掠れていた。
「わたくしは、何も……この箱は、いま、いただいたばかりで」
心は、もっと正直だった。
――終わった。
――お嬢様は、庇ってなどくださらない。そういう方だ。
――今日のうちに、暇を出される。盗人として子爵家に戻される。妹たちが。
水色が、凍って、ひび割れていく。
ヴィオレッタは、椅子に座ったまま動かなかった。
何も言わない。扇も開かない。ただ、侍女が青ざめていくのを、最後まで眺めていた。
怯えている人間の色は、いつ見ても混じり気がない。この娘がここまで剥き出しの色を見せるのは、侍女になってから初めてのことだった。
――お嬢様が、何もおっしゃらない。
――やはり。
沈黙が長くなるほど、周りの心が勝手に結論を出していく。
――盗んだのね。
――子爵家の娘だもの。お金に困っていたのでしょう。
――ヴィオレッタ様の侍女なんて、まともな娘が務まるはずがないわ。
そこへ、ジュスティーヌが進み出た。
目に、涙を溜めている。
「ヴィオレッタ様、どうか、お許しくださいませ」
膝を折り、ヴィオレッタの足元にすがるような姿勢になる。
「この方も、きっと出来心で……。おそばにいるのがおつらくて、つい、魔が差したのだと思います。どうか、官憲にだけは。お暇を出すだけで、どうか」
ヴィオレッタは、その心を覗いた。
――ここで、ヴィオ様が切る。
――少しだけ傷ついて、でも、裏切り者がいなくなって、ヴィオ様は救われる。
――ごめんね、マリアンヌ。でも、これがいちばん優しいから。
桃色だった。
涙は本物で、マリアンヌへの哀れみも本物で、その哀れみの手でマリアンヌを突き落としている自覚だけが、どこにもない。
「マリアンヌ」
ヴィオレッタは、ようやく口を開いた。
「この箱、どなたからいただいたの」
「……ラフォン様から。茶会が始まってすぐに」
ざわめきの質が、わずかに変わった。
何人かが、さっきの光景を思い出しているのが分かる。皆の見ている前で、伯爵令嬢が侍女に箱を手渡した、あの場面を。
――え、そこ?
ジュスティーヌの心に、小さな波紋が立った。
――大丈夫。箱は渡しただけ。中身は、マリアンヌがあとから入れたことにすればいい。
ヴィオレッタは、それを追わなかった。
この娘の心が何を数えているかを並べたてたところで、証拠にはならない。わたくしの目は、昔から証拠にならないのだ。
だから、訊くことにした。
「わたくし、ひとつ分からないことがございますの」
ジュスティーヌのほうへ、まっすぐに顔を向ける。
「この子がわたくしの髪飾りを盗ったとして、それをわざわざ、いただいたばかりの菓子箱の、それも二重の底にしまって、ラフォン家の茶会へ持ってくる理由が」
庭が、静かになった。
言われてみれば、と誰かが思った。その心の声が、あちこちで重なる。盗んだ品を、他家の茶会へ。人前で開けるかもしれない、貰いものの箱に。
「ですから、こう考えたほうが筋が通りますわ」
ヴィオレッタの目は、ジュスティーヌから動かない。
「どなたかが、わたくしのために、この子をそばから遠ざけようとなさった」
ジュスティーヌの心が、ぱっと灯った。
――気づいてくれた。
――ヴィオ様が、分かってくれた。
追い詰められた者の色ではない。長い片思いの末に、ようやく相手が振り向いた娘の色だ。
ヴィオレッタは、静かに尋ねる。
「わたくしのために。……善いことを、なさったのでしょう?」
礼は言っていない。喜ぶとも言っていない。ただ、問うただけだ。
ジュスティーヌの目から、涙がこぼれた。
「……はい」
庭のどこかで、誰かが息を呑んだ。
「はい、ヴィオレッタ様。わたくしです」
ラフォン伯爵夫人が、上座で凍りついた。
――黙りなさい。
――黙りなさい、ジュスティーヌ。
母親の悲鳴のような心の声は、娘には届かない。
「その方は、いずれヴィオレッタ様を裏切ります。わたくしは、ヴィオレッタ様に、これ以上傷ついてほしくなかったのです」
ジュスティーヌは、胸の前で手を組んだ。誇らしげに、と言っていい顔だった。
「髪飾りは、お屋敷の方にお願いして、持ち出していただきました。箱の底は、わたくしが作らせました。侍女にぶつかってもらったのも、わたくしの頼みです。……でも、牢には入らないように、ちゃんとお願いするつもりでした。誰も、不幸にならないように」
言い終えて、ジュスティーヌは晴れやかに顔を上げる。
庭には、物音ひとつない。
令嬢たちの心が、一斉に色を変えていくのが視える。哀れみでも、怒りでもない。もっと原始的な、得体の知れないものから身を引くときの色。
――この人、何を言っているの。
――人の家の物を盗ませて、侍女に罪を着せて。
――それを、笑いながら。
――ブランシャール家のお嬢様の詩を、写しだと言い回ったのも、この方だったわね。
「皆さま、お聞きになりまして?」
ヴィオレッタは、ようやく扇を開いた。
「ラフォン家のジュスティーヌ様が、わたくしの髪飾りを人に盗ませ、わたくしの侍女に盗人の罪を着せようとなさったそうですわ。……わたくしのために」
ジュスティーヌが、きょとんとする。
「ヴィオレッタ様?」
「わたくし、喜ぶとは一言も申しておりませんわ」
「え……」
桃色が、ぐらりと揺れる。
――なんで。
――救済ルートなら、ここでヴィオ様は泣いて、「ありがとう」って。
「この子がわたくしを裏切ること? 存じておりますわ。前にも申し上げましたでしょう。あの子は、わたくしが大嫌いですの」
青ざめたまま立ち尽くしている侍女に、ちらりと目をやる。
「嫌っていることを隠しもしない者を、わたくしは、分かったうえでそばに置いておりますの。いつ裏切られてもいい。裏切るなら、わたくしの目の前でどうぞ、と。……それを、どこのどなたが、わたくしの代わりに片づけてよいと決めましたの」
「わたくしは、ただ、本当のヴィオレッタ様を」
「本当のわたくしは」
ヴィオレッタは、微笑んだ。
「いまここで、あなたを笑っておりますわ」
ジュスティーヌの唇が、震えた。
「ついでに申し上げておきますわね。施療院への寄進も、孤児院の毛布300枚も、わたくしは一度もいたしておりません。わたくし、お優しくなどございませんの。あなたがどれほどお望みでも」
庭の隅で、誰かがこらえきれずに吹き出した。
ジュスティーヌは、まだ分からないという顔をしている。分からないまま、心の奥で、何かを必死にめくっていた。本の頁を。どこかに、この場面の続きが書いてあるはずだと。
ヴィオレッタは、扇を閉じた。
「あなたが好きなのは、わたくしではありませんわね」
静かな声で。
「本の中の女ですわ」
ジュスティーヌの心から、初めて、色が抜けていく。
――本の、中。
――なんで。なんで、それを。
蜂蜜色の髪の娘は、膝をついたまま、ヴィオレッタを見上げていた。その目に映っているのが誰なのか、ようやく、少しだけ分かりかけたような顔で。
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