第93話 来週には出てきますわ
同じ夜会の広間の奥では、別の噂がもうひとつ歩いていた。
――ブランシャール家のコラリー様のあの詩、どなたかの写しだったのですって。
――ヴィオレッタ様が見抜いて、恥をかく前に止めてさしあげたそうよ。
――ラフォン様がそうおっしゃっていたもの。
壁際に、あの日の詩の令嬢が立っている。誰も話しかけない。近づこうとする者もいない。心の色は、あの日の赤から、くすんだ灰に変わっていた。
――書いたのに。
――三晩かけて、自分で書いたのに。
ヴィオレッタは、そちらへ歩いていく。人垣が、ひとりでに割れた。
「コラリー様」
令嬢の肩が、びくりと跳ねる。
「あの小川の詩、どなたかの写しだそうですわね」
「ち、違います。あれは、わたくしが」
「ええ。存じておりますわ」
ヴィオレッタは、周りにも聞こえる声で続けた。
「同じ小川をあれほど何度も流せるのは、お書きになったご本人だけですもの。人の詩を写すなら、もう少しましなものを選びますでしょう。あれは正真正銘、コラリー様ご自身の、下手な詩ですわ」
広間のあちこちで、誰かが吹き出しかけて、咳に変える。
コラリーは真っ赤になり、それから、ぽかんと口を開けた。心の色が、ぐちゃぐちゃに混ざっていく。恥ずかしい。腹が立つ。なのに、あの灰色だけが、どこかへ消えている。
――助けて、くださった?
違う、とヴィオレッタは思う。下手な詩を下手と言い、写しでないものを写しでないと言った。それだけのことだ。それで誰が浮かぼうと沈もうと、知ったことではない。
踵を返すと、柱の陰で、桃色が眩しく灯っていた。
――ほら、やっぱり。ヴィオ様は優しい。
――私の言ったとおりになった。
噂を撒いた当の本人が、その噂を打ち消されて、自分の手柄のように喜んでいる。ヴィオレッタは扇の陰で、ほんの少しだけ眉を寄せた。
この娘の中では、何が起きても、筋書きのほうが正しいのだ。
◇
その娘の心の声が筋書きを語り始めたのは、同じ夜会の終わりのことだった。
帰りの馬車を待つ回廊ですれ違ったとき、ジュスティーヌは心の中で何かを指折り数えていた。
――宝石箱の3段目。真珠の髪飾り。
――アルヴェール家の下働きの、ニノンって子。お給金の3か月分で、引き受けてくれた。
――来週のうちのお茶会で、マリアンヌにお菓子の箱をあげる。底を二重にして、髪飾りはそこ。
――うちの侍女が、うっかりぶつかって箱を落とす。みんなの前で、髪飾りが出てくる。
ヴィオレッタは、柱の向こうで足を止める。
――ヴィオ様は傷つくと思う。それは、ごめんなさい。
――でも、マリアンヌは盗人として暇を出されるだけ。牢には入らないように、私がちゃんとお願いする。子爵家に帰って、静かに暮らせばいい。
――原作では、マリアンヌの証言でヴィオ様が断罪される。それに比べたら、誰も不幸にならない。
――うん。みんなにとって、いちばん優しい結末だ。
桃色が、どこまでも柔らかく灯っていた。
盗みの濡れ衣を着せて、主のそばから追い出す。それを数えながら、この娘の心には一点の濁りもない。子爵家の娘が盗人の汚名を背負って帰ったあと、その家にどんな目が向けられるか。妹たちの縁談がどうなるか。ジュスティーヌの算段には、そこから先の頁がなかった。
本の中で、マリアンヌは名前のある脇役でしかない。脇役の家族は、本には出てこない。
◇
翌日、ヴィオレッタは用もないのに台所の脇を通った。
洗い桶を運んでいた下働きの娘が、廊下の端に寄って頭を下げる。そばかすの浮いた、まだ若い娘。
――3段目。真珠。月が替わる前に。
――お給金の3か月分。お母さんの薬代になる。
ニノン。
ヴィオレッタは足を緩めずに通り過ぎた。
止めるのは、たやすい。今夜のうちに宝石箱を別の部屋へ移せばいい。ニノンを呼びつけて、3段目には何が入っているかと尋ねるだけでもいい。それだけで、この筋書きは紙切れになる。
けれど、紙切れにしたところで、ジュスティーヌは止まらない。
悪意のある人間は、企みが潰れれば怯える。次はもっと用心するか、手を引く。だが、この娘には怯える理由がない。自分は善いことをしようとしただけなのだから。筋書きが一枚破れたら、次の一枚を書くだけだろう。そのたびに、わたくしの名をかぶった善行が王都に増えていく。
止めるなら、人前で。
それも、この娘自身の口で。
それに、とヴィオレッタは思った。
あの子が人前で青ざめるところを、一度くらい見ておくのも、悪くない。
◇
月が替わる3日前の朝、鏡台の前で、マリアンヌの櫛が止まった。
「お嬢様。真珠の髪飾りが、見当たりません」
「そう」
「3段目にしまっておいたはずでございます。お探しいたしましょうか」
「いいえ」
ヴィオレッタは鏡の中の自分を見たまま、答える。
「来週には出てきますわ」
マリアンヌの心が、怪訝そうに揺れる。
――来週。
――なぜ、そう言い切れるのだろう。
けれど侍女はそれ以上は訊かず、別の髪飾りを選んで、いつもどおり正確に髪を結い上げた。
◇
ラフォン家の茶会は、よく晴れた午後だった。
庭に白い卓が並び、20人ほどの令嬢と、その母親たちが集まっている。ラフォン伯爵夫人は上座に陣取り、娘が主催する茶会を満足げに眺めていた。
その心は、娘とはまるで似ていない。
――公爵令嬢が来た。これでうちの格も上がる。
この母親からどうやってあの娘が生まれたのか、ヴィオレッタには少しだけ興味があった。
「ヴィオレッタ様、ようこそおいでくださいました!」
ジュスティーヌが駆け寄ってくる。それから、一歩後ろに控えるマリアンヌへ、リボンのかかった小箱を差し出した。
「これは、マリアンヌさんに。いつも、ヴィオレッタ様に尽くしていらっしゃるから」
周りの令嬢たちが、まあ、と声を漏らす。侍女にまで心を配る、優しい伯爵令嬢。そういう絵だった。
マリアンヌは、ためらう。
――受け取りたくない。
――けれど、この場で断れば、お嬢様の顔に泥を塗る。
「……ありがたく、頂戴いたします」
両手で箱を受け取る侍女の横顔を、ヴィオレッタは黙って眺める。
ジュスティーヌの心が、安堵の色にふわりと広がる。
――よかった。これで、全部うまくいく。
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