第92話 あの子は、わたくしが大嫌いですもの
ジュスティーヌは、まず親切から始めた。
「マリアンヌさん、でしたわね」
アルヴェール家の庭で、ヴィオレッタが薔薇の剪定を眺めているあいだに、ラフォンの娘は侍女のほうへ回り込んでいた。声は柔らかく、手つきは丁寧で、心はどこまでも澄んでいる。
「もしよろしければ、うちへいらっしゃいませんか。母が、気の利く方を探しておりますの。お給金は、今の倍をお約束しますわ」
マリアンヌは、教本どおりの角度で膝を折った。
「もったいないお言葉にございます。ですが、わたくしはアルヴェール家にお仕えしておりますので」
「でも、ここは……おつらいでしょう?」
ジュスティーヌは、ちらりとヴィオレッタのほうを見た。
「あの方はお優しい方ですけれど、お言葉がきつくていらっしゃるから。毎日おそばにいるのは、大変だと思うのです」
「お気遣い、痛み入ります」
口ではそう答えながら、マリアンヌの心は固く閉じている。
――なぜ、わたくしに。
――ラフォン家のあの女が、子爵家の娘ひとりを倍の給金で欲しがる理由がない。
ヴィオレッタは、剪定鋏の音を聞きながら、扇の陰で口の端を上げた。マリアンヌは、ほかの何を疑わなくても、理由のない親切だけは必ず疑う。妹を3人抱えた子爵家の長女にとって、うまい話はたいてい、あとから請求書がついてくるものなのだ。
――断られちゃった。
ジュスティーヌの心が、少しだけしょげた色になる。
――でも、そうだよね。原作のマリアンヌも、最後まで本心を見せない子だった。
――なら、ヴィオ様のほうに分かってもらうしかない。
◇
次の機会は、すぐに来た。
ジュスティーヌは庭の東屋で、ヴィオレッタと二人きりになるのを待っていたらしい。マリアンヌが茶の支度に下がった隙に、向かいの椅子へ身を乗り出してきた。
「ヴィオレッタ様。差し出がましいことを申し上げてもよろしいでしょうか」
「差し出がましいと分かっていて、おっしゃるのね」
「はい」
ジュスティーヌは、まっすぐな目をしていた。
「あの侍女の方には、お気をつけくださいませ。……あの方は、いつか、ヴィオレッタ様を裏切ります」
東屋の外で、風が薔薇を揺らしている。
ヴィオレッタは、茶器の縁を指でなぞる。
「知っておりますわ」
「え」
「あの子は、わたくしが大嫌いですもの」
ジュスティーヌが、目を瞬く。
「嫌っていることを、隠しもしませんのよ。毎朝わたくしの髪を結いながら、腹の中では、わたくしを罵っておりますわ。見ていれば分かりますもの」
見ていれば分かる、とは言った。何で見ているかは言っていない。嘘はひとつもない。
「でしたら、なぜ、おそばに」
「髪を結うのが上手いからですわ」
それも本当だった。
ジュスティーヌの心が、ぎゅっと縮むように色を濃くする。
――強がってる。
――原作どおりだ。ヴィオ様は、誰も信じられないから、裏切られても平気なふりをする子なんだ。
――やっぱり、私が守らなきゃ。
「ジュスティーヌ様」
「は、はい」
「あなた、わたくしの何をご存じですの」
「全部、ではありません」
少しはにかんで、ジュスティーヌは笑う。
「でも、ヴィオレッタ様が本当はお優しいことは、知っております。誰にも分かってもらえなくても、わたくしだけは知っております」
ヴィオレッタは声を上げて笑った。
これほど的外れなことを、これほど真剣な目で言われたためしがない。
ジュスティーヌも、つられたように笑う。心の色は、嬉しさで眩しいほどに輝いていた。
――笑ってくれた。私の前でだけ。
違う、とヴィオレッタは思う。あなたが可笑しかったのよ。
けれど、それを言っても届かないことは、もう分かっていた。この娘の耳には、ヴィオレッタの口から出たものはすべて、本の中の誰かの台詞に置き換わって聞こえるのだ。
◇
半月後の夜会は、王都の西にある侯爵邸で開かれた。
広間に入って幾らも歩かないうちに、ヴィオレッタは呼び止められる。
灰色の僧衣を着た年配の女が、人垣を分けて近づいてくるところだった。王都の東の外れで孤児院を預かる院長だと、周りの心がささやいている。
「アルヴェール公爵家のヴィオレッタ様でいらっしゃいますね。このたびは子どもたちのために毛布を……まことに、ありがとう存じます」
深々と下げた頭の下で、心は別のことを言っていた。
――一枚も、届いていないけれど。
――ここで皆さまの前でお礼を申し上げておけば、公爵家も引っ込みがつかなくなる。冬までに、本当に届くかもしれない。
なるほど、とヴィオレッタは思う。届いていない毛布は、こうして値札に化けるのだ。
「届いておりませんでしょう」
院長が顔を上げる。
「わたくし、毛布など一枚もお贈りしておりませんもの。冬までお待ちになっても、届きませんわ」
院長の心が、すとんと底へ落ちた。
けれど周りの令嬢たちは、扇の陰で目を見交わしている。
――まあ、ご謙遜を。
――人知れず善行を積む方は、決してお認めにならないものだと聞いたわ。
――ラフォン様のおっしゃったとおりね。
ヴィオレッタは、もう一度だけ言った。
「贈っておりませんの」
「ええ、ええ。存じておりますわ、ヴィオレッタ様」
隣にいた子爵夫人が、何もかも心得ているという顔で頷く。
本当のことを言っているのに、通らない。わたくしについての嘘のほうが、よほど滑らかに人の耳へ入っていく。嘘をつかないと決めてから、これほど言葉が届かない夜はなかった。
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