第91話 本当はお優しい方だと存じております
今回は、最初の短編の設定に少しだけ戻ったお話です。
このお話には、もともと「転生者」や「本の中の世界」という設定がありました。ところが話が複雑になりすぎたので、本編では早めに畳んでしまっています。
その設定を使ってみたくなり書きました。本編とのつながりはあまり気にせず、温かい目で読んでいただけましたら幸いです。
詩というものは、たいてい長すぎる。
サン=ロラン侯爵夫人の午後の集まりで、若い伯爵令嬢がその日4つ目の詩を読み上げていた。春の小川がどうの、去った恋がどうのと、同じ言葉を言い換えて並べただけの12行。
読み手の心は、朗読のあいだじゅう、ひとつのことしか言っていない。
――褒めて。誰か、褒めて。
最後の一行が終わり、まばらな拍手が起きる。ヴィオレッタ・ド・アルヴェールは、扇を閉じた。
「ひとつ、お尋ねしてもよろしくて?」
「は、はい。ヴィオレッタ様」
「その小川、何度流れれば気が済みますの?」
広間の空気が、薄い氷のように張る。
「4行目で流れて、7行目でも流れて、11行目でまた流れておりましたわ。よほど水の多い土地でお育ちになったのね」
誰も笑わない。笑えば次は自分の番だと、全員が知っている。けれど心の中では、何人もが吹き出していた。ヴィオレッタにはそれが、くぐもった笑い声の重なりとして聞こえる。
詩を読んだ令嬢の顔が、首まで赤く染まった。心の色は、それよりもっと濃い。恥と、怒りと、涙になる手前の熱。
いい色、とヴィオレッタは思う。褒められたい一心で書いたものを笑われた人間は、取り繕う余裕もなく、まっすぐに傷つく。
「わたくし、退屈でしたの。それだけですわ」
そう言って扇を開きかけたとき、広間の後ろから、ひどく場違いな声が届いた。
――出た、ヴィオ様の毒舌。はー、生で聞けた。
扇を開く手が、途中で止まる。
――でも分かる。あれ、わざとだよね。あの子の詩、たぶん誰かの借り物で、人前で恥をかく前に止めてあげたんだ。原作でもそういう解釈あったもん。ヴィオ様は、本当は優しいから。
平たい声。
この国の言葉ではある。意味もちゃんと通る。ただ、抑揚がどこにも引っかからない。聞き覚えのある響きに、ヴィオレッタは視線だけを動かした。
かつての聖女と同じ響きだ。別の国、別の時代から流れ込んできた者の声。
声の主は、窓際の卓にいた。蜂蜜色の髪を緩く編み、丸い目をした令嬢。ラフォン伯爵家の三女、ジュスティーヌ。去年の春に重い熱を出し、しばらく人前に出ていなかったと聞く。
ヴィオレッタは、その娘の心の色を視た。
淡い金。ところどころに、春の花のような桃色が混じっている。
それきりだった。
どれほど覗いても、下に何もない。慈愛の下の嫌悪も、敬意の下の打算も、祈りの下の金勘定もない。人の心には必ず二層目がある。表に出す色と、沈めた色。生まれてこのかた、ヴィオレッタはその例外を一人も見たことがなかった。
この娘は、自分に何も求めていない。値札がひとつも下がっていない。
ヴィオレッタは、ゆっくりと扇を開く。
◇
集まりがはねたあと、回廊で呼び止める声がある。ジュスティーヌだ。
「ヴィオレッタ様。先ほどのお言葉、とても……お優しかったです」
「優しくした覚えはございませんわ」
ヴィオレッタは足を止めずに答えた。
「退屈だったから申し上げたの。それ以上の理由はなくてよ」
「はい。存じております」
ジュスティーヌは、にこにこと隣を歩いてくる。
――照れてる。ツンの角度が原作どおり。解釈一致すぎる。
意味の分からない言葉が半分ほど混じっていたが、言わんとすることは分かった。この娘は、ヴィオレッタが口にしたことを一言も信じていない。
「ジュスティーヌ様」
「はい!」
「わたくし、あなたのことを存じ上げませんの。お話しするのも今日が初めてですわね」
「はい。でも、わたくしはヴィオレッタ様のことを、少しだけ存じております」
ジュスティーヌは胸の前で両手を組んだ。
「本当はお優しい方だと、存じております」
ヴィオレッタは、返す言葉を探した。そんなことは、もう何年もなかった。
嘘ではないのだ。この娘は本気でそう思っている。心の色と口の言葉に、髪一筋のずれもない。偽りなら笑い飛ばせる。けれど、ずれのない思い違いを前にすると、笑う足場がどこにもなかった。
「それは、ずいぶんと見る目のないことですわね」
それだけ言って、ヴィオレッタは回廊を曲がった。背中で、金色の声が弾んでいる。
――うん、知ってる。最初はみんなにそう言うんだよね。大丈夫。私が、ちゃんと救ってあげるから。
◇
それから半月ほどで、妙な噂が王都を歩き始めた。
「近ごろ、お嬢様が施療院に寄進をなさっている、という話がございます」
鏡台の前で髪を梳きながら、マリアンヌが言った。
侍女の顔は鏡の中で伏せられていて、櫛を動かす手には迷いがない。この娘を侍女にしてから、ヴィオレッタの髪が乱れたまま朝食の席に着いた日は一度もない。
そして心も、いつもどおり。
――お嬢様が寄進。笑わせる。
「していないわ」
「存じております」
「ずいぶん早く答えるのね」
「お嬢様がそのようなことをなさる方なら、わたくしはここにおりません」
ヴィオレッタは鏡越しに侍女を見る。マリアンヌは目を合わせない。心の色は、相変わらず冷えた水色。主を好いていない色だ。礼儀の下に沈めてはあるが、沈め方がひどく浅く、上からでも透けて見える。
この娘のそういうところを、ヴィオレッタは気に入っている。
「出どころは」
「ラフォン家のお嬢様だと伺っております。あちこちの茶会で、お嬢様は人目につかぬところで善行を積んでおられる、と。……孤児院に毛布を贈っておられる、というお話もございました」
「毛布」
「はい。冬の前に、300枚」
ヴィオレッタは目を閉じた。
わたくしは嘘をつかない。それは、自分で決めたことだ。
けれど、わたくしについての嘘を他人がつくことまでは、止めようがない。わたくしの名前をかぶった善行が、わたくしの知らないところで、勝手に歩き回っている。
毛布、300枚。
「不愉快だわ」
「左様でございますか」
「ええ。ひどく」
マリアンヌの手が、一瞬だけ止まった。
――お嬢様が、本気で腹を立てている。珍しい。
◇
ジュスティーヌがアルヴェール家の屋敷を訪ねてきたのは、その3日後のことだった。
手には、リボンをかけた籠。焼き菓子を自分で焼いたのだという。伯爵家の令嬢が台所に立つ話など聞いたこともないが、心の声を聞くかぎり、どうやら本当らしい。
――ヴィオ様、甘いもの好きなんだよね。設定資料に書いてあった。
好きではない。
応接の間に通す途中、扉の前でマリアンヌが一礼した。
その瞬間、ジュスティーヌの足が止まった。
金色の心に、初めて、細い冷たさが走る。
――マリアンヌ。
――やっぱりいる。原作で、断罪の場で最後にヴィオ様を売る子。
――ヴィオ様が本当に救われる隠しルートは、この子をそばから遠ざけないと開かない。
ヴィオレッタは、その色の動きを最後まで見ている。
冷たさは、すぐに消えていく。迷いも、ためらいも、後ろめたさも浮かばない。ひとりの人間を主のそばから追い払うと決めたあとでも、ジュスティーヌの心は、春の花のような桃色のままだった。
――大丈夫。マリアンヌにとっても、そのほうが幸せだよね。
「ヴィオレッタ様、お菓子、お口に合うといいのですけれど」
「ええ」
ヴィオレッタは微笑んだ。
この娘は、なにひとつ悪いことをしていないと信じたまま、人を踏む。そういう種類の人間を、彼女はまだ一度も相手にしたことがない。
悪意のある人間なら、損をさせれば止まる。
では、善意の人間は、何をされれば止まるのだろう。
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