第99話 仰せのとおりに、お直しいたしました
ヴェルニエ侯爵家の広間は、灯りで白く見えるほどであった。
カルノー子爵夫人は、すぐに見つかった。いつもの奥方たちに囲まれて、窓際にいる。衣は、去年の夏の茶会で見た薄紫であった。
◇
「まあ、子爵夫人。今夜は、去年のお衣装ですのね」
奥方のひとりが、扇の陰で言った。
「新しいのを、ジラールで誂えておいででしたでしょう」
夫人は、待っていたようにため息をつく。
「それが、ひどいものでしたの」
◇
夫人の声は、よく通った。
「何度申しても、言ったことと、まるで違うものを作りますのよ。袖は短すぎる、裾は引きずる。あの店は、腕が落ちましたわ」
奥方たちが、顔を見合わせた。
「ジラールが」
「わたくし、来月の衣を頼んでおりますのに」
◇
夫人の内側は、軽い。
――これで、あの店も終わり。払わずに済むわ。
ヴィオレッタは、緑の衣の裾をさばいて、窓際へ歩いていった。
◇
奥方たちが、道をあける。
カルノー子爵夫人が、こちらを向いた。顔が、ぱっと明るくなる。
「公爵令嬢様。ちょうどよいところに」
――気難しいので名高い令嬢。この方が頷けば、あの店はおしまい。
「公爵令嬢様も、ジラールをお使いでしたわね。お気の毒に。腕が落ちて、お困りでしょう」
◇
「落ちておりませんわ」
ヴィオレッタは、扇を開いた。
「この衣も、ジラールですもの。仮縫いで、脇が三針曲がっておりましたの。ひと晩で、まっすぐになりましたわ」
奥方たちの目が、緑の衣の脇へ流れる。縫い目は、まっすぐに通っていた。
◇
夫人の口もとが、わずかにこわばった。
「それは、公爵家のお仕事ですもの。わたくしのは、言ったことと違うものを」
◇
ヴィオレッタは、扇の陰で、まわりの内側を拾う。
奥方たちは、まだどちらにもつかずにいる。公爵家の令嬢と、茶会の女主人。どちらに頷けば得か、量っているところであった。
その輪の外側に、ルソー伯爵夫人がいる。
――何も聞いていない。何も。
あの雨の日と、同じ唱えごとである。その背に、娘が半分隠れていた。
――言ったわ。黄色、って。もっと長く、って。
◇
「言ったことと違う、と仰いますのね」
ヴィオレッタは、夫人から目を外した。
「エミリー様。あの雨の日、長椅子にいらしたわね」
◇
名を呼ばれた娘が、びくりとする。
母親が腕を引く。けれども、公爵家の令嬢に名を呼ばれて、返事をしない伯爵家の娘はいない。
「は、はい。おりました」
「何か、お聞きになりまして」
◇
エミリーは、母親の顔を見た。それから、カルノー子爵夫人の顔を見た。最後に、ヴィオレッタの顔を見る。
ヴィオレッタは、何も言わなかった。答えを教えもしない。ただ、待っている。
――言っても、いいのかしら。
――だって、本当のことだもの。
「……子爵夫人は、肘までの袖をご覧になって、それでよろしい、と仰いました。それで、裾をもっと長く、と」
◇
広間のその一角が、しんとした。
娘は、しまったという顔をしている。けれども、口は止まらなかった。
「次の週も、まだ短いから、もっと長くと。それから、紐を黄色にと仰って」
◇
ルソー伯爵夫人が、娘の腕を引いた。
引きながら、自分も口をひらく。娘ひとりに言わせておけば、母親が黙っていた分だけ、あとで娘が笑われるのだ。
「……襟を去年の形に、と仰ったのは、わたくしも伺いましたわ。胸のリボンを二つに、とも」
「黄色の紐は、わたくしも」
別の奥方が、扇を下ろした。ブランシュ男爵夫人である。
「あの深い青に、と思いましたもの。隣で、採寸しておりましたの」
◇
奥方たちの頭の中に、一枚の衣ができあがっていく。
肘までの袖。床を引きずる裾。深い青に、黄色の飾り紐。去年の襟。胸にリボンが二つ。
誰かが、こらえきれずに小さく笑った。
◇
カルノー子爵夫人の内側が、ばらばらに鳴っていた。
――言っていない、とは言えない。皆が聞いている。
――言った、と言えば。わたくしの好みが、あれだということに。
夫人の茶会で、次の季節の形が決まる。その夫人の好みが、黄色い紐と引きずる裾。
◇
ヴィオレッタは、扇をゆっくりと閉じた。
「ジラールは、仰せのとおりに、お直しいたしましたのね」
夫人は答えない。
「あの黄色の紐は、ニコルという針子が夜なべで縫いましたの。わたくし、作業場で拝見しましたわ。端から端まで、一針も曲がっておりませんでした」
◇
奥方たちの目が、もう一度、緑の衣の脇へ流れた。
三針の曲がりを言い当てる令嬢が、一針も曲がっていない、と言う。腕が落ちたかどうかの話は、それで終わりであった。
◇
「ですから、子爵夫人」
ヴィオレッタは、にこりともせずに続けた。
「次のお茶会には、ぜひ、あのお衣装で。皆様、来季の形を伺いに参りますもの」
◇
夫人の顔から、血の気が引いていく。
着れば、あれが自分の好みということになる。着なければ、着られないものを店に作らせて、代を踏み倒そうとしたことになる。
どちらにしても、同じことであった。
――この娘。
夫人の内側が、はじめてヴィオレッタのほうを向いた。
――最初から、全部。
ヴィオレッタは、もうそちらを見ていない。
◇
「バルトの靴も」
広間の隅で、年配の奥方がぽつりと言った。
「踵が鳴る、と仰いましたわね。わたくし、あの靴を今も履いておりますけれど、一度も鳴ったことがございませんの」
奥方たちの扇が、ひとつ、またひとつと止まっていく。
◇
ヴィオレッタは、それ以上何も言わなかった。
言う必要がない。奥方たちは、もう自分の店のことを考えている。自分の出入りの店で、あの夫人だけ払いが遅れていないか。あの夫人が首を振ったせいで、いい店をひとつ失っていないか。
◇
カルノー子爵夫人は、その晩、最後の曲を待たずに帰っていった。
誰も、引きとめない。窓際の奥方たちは、夫人がいなくなった場所を埋めるように、少しずつ寄り合った。
◇
帰りの馬車では、マリアンヌが向かいの席に座っていた。
控えの間で待つあいだに、もう話は聞いているらしい。侍女たちの控えの間は、広間より噂が速いのである。
「あの女が、最後の曲を待たずに帰ったそうでございますね」
「ええ」
「次のお茶会には、お嬢様もいらっしゃるのですか」
「招かれませんわ」
ヴィオレッタは、窓の外の灯りを見ていた。
「わたくしも、ほかの方も」
◇
マリアンヌは、膝の上で手を重ね直した。
「では、あの黄色の衣は」
「どこへも着ていかれないでしょうね。ずっと、衣装棚の奥ですわ」
「ニコルという子が、夜なべで縫いましたのに」
「縫い目は、まっすぐでしたもの。ジラールの仕事は、それで済んでおりますわ」
マリアンヌの口もとが、少しだけゆるむ。ゆるめたまま、ヴィオレッタの袖に目を落とした。しわは、寄っていない。それでも侍女は、指で一度だけなでた。
◇
三日後、ジラールが屋敷へ来た。
ヴィオレッタの、冬の衣の採寸である。巻き尺を当てながら、店主は小さな声で言った。
「カルノー子爵家から、お代が届きました」
◇
「三着分、全部でございます。外套も、夏の衣も、あの黄色の衣も」
「そう」
「払わなければ、今度は、払わない家だと言われますから」
店主の内側は、ずいぶん静かになっていた。巻き尺と、布の目のことしかない。
ベルナールの話では、手袋屋にも靴屋の残りにも、同じ日に使いが来たという。子爵夫人の茶会の招きは、その月のうちに、ほとんど断りの返事で戻ってきたそうである。
◇
仮縫いは、半月後であった。
ニコルが、裾の前にしゃがんで待ち針を打っている。打ちながら、何度もこちらの顔をうかがっていた。
ヴィオレッタは、鏡の中の衣を、肩から裾まで見下ろした。脇も、襟も、袖の長さも。
◇
「お嬢様。どこを、お直しいたしましょう」
店主が、鉛筆を構えて訊いた。
「どこも」
ヴィオレッタは、鏡から目を離した。
「このままで、結構ですわ」
◇
店主の鉛筆が、止まった。
ニコルが、待ち針を一本、床に落とす。王都でいちばん気難しい客の口から、その言葉を聞いた仕立屋は、この店がはじめてであった。
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