19.
「あの、さっきの方はどなたですか?」
フレデリカは一旦世間話をすることにした。何と説明をしようか、時間を稼ぐためだ。
「なんだ、話の途中で。彼は私が出資している学生だ。」
「出資……?」
「平民にも知能の高い者がいる。だが彼らは文字を学ぶ機会がないまま仕事に励まねばならないからな。それでは知能がもったいないだろう。必要な金銭などを代わりに負担し、学習機会を作っているのだ」
「庶民にお金を恵んでいるのですか……?」
「まあそうなるな。」
「なぜそんなことを……?」
「隣国では身分問わず学校に行く制度ができ始めているという。国民全体の知能の差が出れば、そのうち国力に大きな差が出る。庶民でも学問に関わる機会を考えなければならない。」
この人は、ずっと遠くのものを見ている。自分のことではなく、国のことや将来のことを見ているのだとフレデリカは思った。
「なるほど……。素敵な考え方です」
「で、問題というのは何なんだ?」
「公爵様と会っている最中も、ディートリヒ様の顔がよぎるのです」
「……は?」
「誰かの言葉をディートリヒ様のお名前に空耳したり、庭師の顔がディートリヒ様に見えたり、どこにいてもディートリヒ様の幻覚を見るのです」
「……………………」
フレデリカはディートリヒの反応を知りたいと思ったが、ディートリヒは眉根を寄せて、怒っているとも困っているとも取れるような微妙な顔をした。
「これは呪いでしょうか?」
「…………少なくとも私は何もしていない。おそらくそれは…………」
ディートリヒは微妙な表情のまま、歯切れの悪い言葉を吐く。
「……ひとついえるのは、それは時間がたてば起きなくなるだろうということだ。誰でもそういうことはある」
「…………」
「君は私のところにはもう来ない方がいい。公爵様と婚約するのだろう。誤解を生んでは困る。」
「……ディートリヒ様はそれでいいのですか?」
「何を言いたいんだ。」
「いえ、わかりました。相談にのっていただきありがとうございます。」
今日ディートリヒに会って、フレデリカはヴォルカニア公爵との婚約はできないだろうと思った。
外では雨が降り始めていた。
遠くで雷鳴が聞こえる。まだ雨は弱いが、これから本降りになり始めるだろう。
ディートリヒはフレデリカを屋敷の出口まで送ってくれた。最低限の礼儀は尽くしてくれるらしい。
「ご協力ありがとうございました。失礼します。」
これで本当に最後になるだろう挨拶を済ませると、フレデリカは踵を返した。
入り口前に停めてある馬車にのりこもうとする。
しかし視界の悪いフレデリカは、雨で地面が濡れていることもあり、躓いて転びそうになってしまった。
「―――――――!」
「おい、無事か」
地面に倒れこみそうになるフレデリカに気がつき、ディートリヒはすぐさま手を引いて受け止めてくれる。
水たまりが大きく跳ねる。
「申し訳ありません……!」
引き寄せられたフレデリカは、ディートリヒの肩口に顔を埋めるような形になった。フレデリカは大きく動揺している。ディートリヒはバツの悪そうな顔をしただけだった。思ったよりも力強い腕の力にフレデリカは顔が赤くなる。
ディートリヒはすぐにフレデリカから離れると、そのまま屋敷の入り口に戻っていった。
「気をつけろ。怪我でもしたら公爵様が悲しむだろう」
フレデリカの心臓はばくばくと騒音を立て続けている。
これで本当に言い訳が効かなくなってしまった。
フレデリカは馬車に乗りこむと、ゆったりと席にかけた。
雨は少しずつ強さを増している。
悪くなっていく天候とは反対に、フレデリカの胸中はかえってすがすがしいほどだった。
***
いつものアリスミリアの屋敷、いつもの部屋でアリスミリアとフレデリカ、アランジェールは会話に花を咲かせていた。
「あなた公爵様と婚約したんですって?さすがね、そこまでは予想していなかったわ」
「アリスミリア、まだ婚約はしてないわ。悩んでいて……」
「そうなの?あなたもう噂の的よ。本当かどうかわからない話が飛び交っているわ。暇人たちの餌になりたくなければ、しばらく舞踏会には顔を出さない方がいいかもね。」
「何を悩むことがあるんだい?」
ディートリヒの屋敷を訪れた後、フレデリカはこれからのことを相談するため、アリスミリアに手紙を送ったのだった。アリスはすぐに予定を空け、会える日をつくってくれた。
アリスの強い勧めでアランジェールも同席することになった。アリスミリア曰く「アランジェールの方が楽観的だから、話すときっと気が楽になるわ」とのことだった。
「公爵様はとても優しくて、すばらしい方よ。けれど、少し問題があって……」
「もしかして、誰かほかに気になっている相手がいるのかい?」
アランジェールは意外に鋭い質問を投げかけてくる。
フレデリカの困った表情に動揺が映った。
「実は、そうなの……。呪いについて植物学者の先生に相談したのだけど、その先生のことが気になってしまって……。公爵様より、その人の方がまた会いたいと思ってしまうの。」
「それって恋!?好きなんじゃないの!?」
「アリス、落ち着いて。念のため確認だけど、その先生は独身なの?」
「もちろんよ!先生も結婚相手を探しているらしいわ。だけど先生の方は、わたしに興味がないみたいで……。好みじゃないのかも。もう接点もないし、諦めたほうがいいのはわかっているのだけどね……。」
「それは難しそうね……」
「待って、植物学者?その人はカラナントに住むディートリヒじゃないだろうね?」
「そうよ、知り合いなの?」
「知り合いも何も、父の友人だよ。隣国の言葉について時々父に習いに来ているよ。」
「まあ、そうだったの……。」
そんな偶然があるなんて、とフレデリカは思ったが、確かにアランジェールの屋敷もカラナントから近い。距離で言えば、知り合いである可能性も十分考えられた。




