カーテンコール オフィーリアと侯爵子息①
アレクシスは周囲のダメ人間に翻弄されてオフィーリアを失ったという悲恋として書こうとしたのに、いつのまにか本人がダメ男になっていました。
こんなはずではなかったのですが、お楽しみいただけたら嬉しいです。
唐突に執務室に響くペンの音が止まる。
それと同時に書類をめくる紙の音も止んだ。
『……腹が減ったな』
アレクシス=グラナードは、あらためて時計を見つめた。
時刻は昼食の時間をとっくに過ぎていて、もはや夕方に近い。
これから食事をとるためだけに外出するのは億劫だ。
積み上がるだけで一向に減る様子のない書類の山が視界に映る。
自分の上司である第二王子エリオットはやればできるのだが集中力が続かない質で、今も気分転換と称して、ふらりとどこかへ出掛けている。
おのずと決裁書類は溜まっていき、できる範囲で進めているものの、王子の最終決裁が必要な重要書類はどうしても残ってしまう。
最初のころは彼を捕まえて、おだてたり叱ったりして仕事を進めさせていたが、一向に改善の兆しもなく時間の無駄だと気がついてからはアホらしくてやめた。
気さくで人当たりは悪くないが、注意力散漫だし思い込みの激しい性格で書類仕事が苦手な第二王子。
それを補うために自分が選ばれたのだろうが、今更注意しても性格なんて矯正できない。
第二王子の側近に選ばれたのは名誉なことだが、正直、これほど仕事漬けになるとは思わなかった。
とにかく食事をしようと立ち上がったところで、ふとオフィーリアのことを思い出す。
思えば彼女が軽食を持参するのは決まってこんなときだ。
……忙しいときに限ってやってくると思っていたが、認識を改めないと。
有益な情報を持参する彼女との会話は良い気分転換になっていたらしい。
オフィーリアが持参する手作りの軽食も、疲れた体に負担にならないよう調理されたものばかりだった。
たとえば城の厨房で作る食事や下町の食堂で出す昼食は味つけが濃く、胃に負担のかかるものが多い。
最近、ゾーイの父親が経営する食堂から足が遠のいているのもそのためだ。
当初は何もかもが新鮮に映った。
女神のように美しい女性がいると聞いて興味本位で仲間と一緒に訪れたのだが、腹の探り合いもない、気を許せる会話と珍しい食事に夢中になった。
城から距離があるのも気分が変わっていいものだと思っていたが、今は足が遠のく原因の一つになっている。
あのころは、たぶんオフィーリアとの関係に少しだけ不安を感じていたせいもあるだろう。
あの日の彼女の顔は、事あるごとにアレクシスの脳裏に蘇って今でも忘れられない。
約束の時間より早くモリンズ伯爵家へ着いた彼は、驚かせたいからと先触れを断って彼女の私室を訪れた。
驚く侍女に静かにするよう合図を送り、笑いを噛み殺して私室を覗き見る。
オフィーリアは書棚に背を向けて、分厚い本を広げていた。
……手元にあるのは歴史書か?
真面目で勤勉な彼女らしいとアレクシスの口元に笑みが浮かぶ。
そして声を掛けようとした、次の瞬間だった。
『ダレル』
呼吸が止まる。
……誰だ、その男は?
彼女は慈しむような声で見知らぬ誰かの名を呼んだのだ。
アレクシスの名を呼ぶときと同じ声で、慕う誰かの存在を確かめるようにページを撫でる。
彼は驚愕し、青ざめた。
まさか君は、私以外の男を愛しているのか?
この瞬間、彼女への信頼が揺らいだ。
『あら、アレクシス様? いつの間にいらしていたのです?』
本を閉じて、オフィーリアはいつもと同じ柔らかい笑みを浮かべる。
あまりにも自然な態度に聞き間違いかと思ったほどだ。
いっそダレルというのが誰のことか聞こうかと思った。
誠実な彼女なら偽りなく話してくれるだろう。
だが真実を聞かされるのが怖くて、自分以外の誰かに翻弄されるのが腹立たしくてアレクシスは聞くのをやめた。
そんなときにゾーイと出会ったのだ。
アレクシスだけを見つめ、アレクシスだけを求める彼女が愛おしかった。
家同士の契約でオフィーリアと結婚することは決まっている。
ならば束の間、昼食の時間だけでも自分の思いどおりにさせて欲しい。
自分以外の男を求めるオフィーリアなら許してくれると、そう思ったのだ。
『そういえば、オフィーリアに会っていないな』
忘れていたわけではなく、忙しくて後回しになっていただけだ。
決まりはないが、婚約者なら一ヶ月に一度は会うのが世間では常識とされている。
そして前回会ったのがいつかと手帳を見直して愕然とした。
『三ヶ月前だと⁉︎』
いくら多忙とはいえ、連絡ひとつせずに許される期間ではない。
それにオフィーリアのほうからも連絡はないというのは、いくらなんでもおかしい。
このところ忙しくて実家からの手紙や連絡を放置していたからその中に紛れているのか?
確認がてら整理しようと同僚に声をかけたところで、扉が勢いよく開いた。
そこには真っ青な顔をしたエリオット殿下が立っていたのだ。
『ザルツセンが関税の見直しを求めてきた。でないと小麦の出荷量を減らすと』
『は⁉︎』
一体何が起きているのか。
このとき全員の頭を占めたのは疑問だろう。
我が国……シューゲルンは主食である小麦のうち四割を他国からの輸入に頼っている。
もちろんザルツセンからの輸入が減ったところで、その他の国から買えばいいだけだ。
だが、もしこちらの事情を知られてしまえば、通常よりも高値を提示される可能性があった。
現状、ザルツセンと我が国との関係が悪いわけではない。
それなのに突然税率の変更を要求する理由がわからなかった。
エリオットは不満そうな視線をアレクシスへと向ける。
『どうしたんだ、アレクシス。この手の情報はいつもおまえから上がってきていたではないか? なぜ今回に限って報告がなかったのだ⁉︎』
そのせいで、父王に呼び出されて叱責されたのだという。
なにを他人のせいにしているのか……アレクシスは深くため息をついた。
他国の情報には国としての機密事項も含まれる。
だから本来は殿下自身がどこまで介入が許されるかを見極めて、部下であるアレクシスたちに調べさせるものだ。
王から割り振られる書類もそういう役回りを果たすことを前提としたものであるし、おそらく王直々にそう指示されているはず。
まさかそんな重要な指示を聞き流したとでもいうのか?
その後始末を自分に押し付けられるのは割に合わない。
なるべく穏やかな口調を心がけて、アレクシスは困惑したような微笑みを浮かべた。
『私は今までエリオット様から他国の情報収集を指示されたことはありませんが?』
『は、そんなバカな⁉︎ あれだけの精度の情報が無作為で手に入るわけがないだろう?』
『オフィーリアですよ。モリンズ商会の集めた情報です』
アレクシスは、ただオフィーリアとの会話で気になったものを話題として取り上げていただけだ。
ところがあまりにも的を得ていたために、エリオットの中でアレクシスの仕事と割り振られてしまったのだろう。
『ではオフィーリア嬢が、おまえを訪ねてきていたのは……』
『私に情報を与えるためでもあったのでしょう。多忙な時期と重なったのは、そういう時こそ人や物の動きが活発になるからなのかもしれません』
忙しい時に訪問したいと申し出があったときは、会うと必ず謝罪があり、手短に要件を伝えて帰って行った。
忙しいとわかっているならば別の日にすればと思っていたが、実際のところは、彼女なりに至急伝えねばならないと判断した重要な内容だったからなのだろう。
エリオットは、何かに気がついた様子で目を見開く。
『ではオフィーリア嬢が、定期的に会いに来ていたのには理由があると言っていたのはこのことか……!』
『……オフィーリアと? いつ話したのですか』
『前回、おまえに会いにきた帰りだ……あのとき、私は』
エリオットは不自然なところで言葉を切った。
青褪めた顔色に不穏なものを感じて、アレクシスは眉を顰める。
エリオットは真面目で勤勉、優秀と評判だったオフィーリアを苦手としていたはずだ。
堅苦しいし可愛げがないなどと忌避していたのに、いつの間に二人で話をしていたのか?
それも自分のいないところで……そんな些細なことに腹が立って仕方なかった。
『オフィーリアから何を聞いたのかわかりませんが、ご自身で情報を集める手間を省いていい理由にはなりません。何度も何度も、私や周囲の人間に頼り切ることなくエリオット様ご自身でも情報を集めてくださいとお教えしてきたはずですが?』
王族が指示を出して集める情報と、貴族が集めるものは規模が違う。
今回のような案件は広く末端まで情報を求めれば、どこかで引っかかるような大掛かりなものだ。
アレクシスの苦言にエリオット殿下は気まずそうな表情で視線を逸らした。
……前言撤回。
やればできるのではなく、完全に向いていない。
この人の足りない部分を補えというのは無理がある。
アレクシスは深々とため息をついた。
とにかく対応するにも情報が足りない。
脱いでいた上着を掴み、扉へと歩いて行く。
エリオットは訝しげに眉を顰めた。
『……どこへ行くんだ?』
『モリンズ商会へ、オフィーリアに会って情報をもらってきます』
『は、何を言っているんだ?』
『モリンズ家はザルツセンと関係が深い。彼女なら情報を持っていると思いますので』
『いや、だがおまえは……』
『なんでしょうか? 婚約者に会いに行ってはいけないと?』
『……まさかおまえ、それを本気で言っているのか?』
部屋にいる誰もが、信じられないものを見る目でアレクシスを見つめている。
眉根を寄せてアレクシスは首を傾げた。
『なにか問題があるということですか?』
『あるに決まっているだろう? しかも問題しかない』
『何を言って……』
『おまえは彼女との婚約を解消しているじゃないか』
それにオフィーリア嬢は、もういない。
エリオット殿下の台詞の意味が全く理解できなくて、呆然と立ち尽くす。
ただ、じわりと嫌な予感が足元から這い上がってきた。
青褪めたアレクシスを見て、エリオットも同じように顔色を失った。
『まさか、おまえ……実家から何も聞いていないのか?』
とにかく帰れ。
追い立てられるようにグラナード家に向かう。
かつての賑やかさを失い、どこか静まり返ったような雰囲気に嫌な予感は増す。
そして項垂れた父と母から、ようやく全てを聞いたのだ。
『オフィーリアとの婚約を解消するなんて、なんでそんな勝手なことをしたのですか⁉︎』
『だが口にはしないがアレクシスは解消を望んでいると、エリオット様がおっしゃったのだぞ?』
『そんなことは一度も言っていない……余計なことしかしない、あの馬鹿が!』
『ア、アレクシス! 不敬であるぞ!』
不敬罪であろうと、かまうものか。
王が認めた婚約を解消させるなど、明らかにエリオットの権限を超えている。
思い込みで婚約に横槍を入れるような王族を敬うなど、どうしてできる?
先ほどからずっと顔色の悪い両親に向かって、そう吐き捨てた。
まるで悪夢みたいに恐ろしい悲劇だ。
序曲はありもしないアレクシスとゾーイの身分を越えた恋物語。
オフィーリアの醜聞、転調はエリオットによる婚約解消とモリンズ商会の追放、そして悲劇の結末は……。
『オフィーリアが、死んだ?』
『あなたにも手紙で知らせたのよ? 多忙で帰ってこないから、手紙のほうが早いと思って。婚約解消を知らせる手紙にも書いたわ。それなのに、いつまでたっても返答がないから全て知った上で解消に賛同していると思っていたの。オフィーリアのことも、もう好きではないのだと思っていたわ。それがまさか、知らなかったなんて……』
姉の呆れたような台詞に唇を噛んだ。
なぜそんな大切なことを直接言ってくれなかった?
知らなかったのは忙しくて手紙を開封しなかったからなんて、今更言い訳に過ぎない。
『エリオット殿下もですが、父上も母上も、私の気持ちを勝手に決めつけないでいただきたい!』
こんな笑えない筋書きを書いたのは誰か?
アレクシスは頭を抱えた。
『なぜモリンズ家を敵に回すような愚かなことを?』
『だってエリオット様が教えてくださったのよ? アレクシスが食堂に通い詰めていて、目的は女神のように美しい平民の女性だって。しかも彼女に恋をしているというじゃない! オフィーリアさんとは兄妹のような関係だし、エリオット様はあなたの初恋を叶えてあげたいというの。あんなお優しく素敵な方と婚約できて、私は幸せ者だわ』
あの人が優しいのは外面だけだ。
うっとりとした姉の顔を冷ややかな視線で見つめ返す。
その幸せが長く続かないことを、アレクシスは知っていた。
『それにあなただって、女神と評判の美しい婚約者ができて幸せじゃない!』
恋に浮かれた姉の分別に欠ける台詞を聞いて、アレクシスはため息をついた。
くだらない喜劇のはじまりはアレクシスとゾーイの婚約。
綺麗なだけの婚約者で、どこが幸せだと?
それにしても、グラナード家が不幸にしかならない婚約を誰が望んだ?
これほど複雑な絵を、軽薄なエリオットだけで描けるものではない。
アレクシスがゾーイのもとに通い詰めたのは、ほんの数ヶ月の話だ。
十年の月日を支えてくれたオフィーリアと、降って湧いたかのようなゾーイを比べるなどおこがましい。
そんなことくらい生粋の貴族である父と母だってわかっている。
それにオフィーリアだって言っていたじゃないか、婚約するにしても侯爵子息と平民では身分の差が……そこで顔を跳ね上げた。
『ゾーイは平民です。普通なら私との婚約など望める立場にない』
『彼女は養子縁組をして貴族の養女になったのだよ』
『ならばゾーイの後ろ盾は誰ですか?』
『マーティン卿だ』
その言葉で、全てのパーツがきれいにはまった。
項垂れた両親の様子にも、ザルツセンの態度にも納得がいく。
深々とため息をついて、まずは顔色の悪い両親に確認した。
『いくつの商会から取引きを断られたのですか?』
『……めぼしい商会は全てだ。あとは国内だと商会とも呼べない小規模な店くらいしかない』
『あのモリンズ商会が手を引いたとなれば、そうなるでしょうね』
両親もエリオットも格下の伯爵家だからと見くびり過ぎだ。
モリンズ商会は国外のほうが評価が高い。
現当主は商いの神様のように崇められているし、後継者のクロードだって切れ者と有名だ。
そのモリンズ商会が見限ったというだけで先見の明がある商会は火の粉が及ぶのを恐れて取引きを断るだろう。
それほどに信頼のあついモリンズ商会が旨みの少ないシューゲルンに残っていたのは全てオフィーリアのため。
アレクシスとの婚約があったからだというのに……。
彼らに見限られたあとに寄ってくるのは、遺骸をあさるハイエナのような取引先だけだ。
『ねえ、やはりマーティン卿からご紹介いただいたフォアメルンの商会と取引きいたしましょう? 領地で採れる宝石を高値で仕入れてくださるというし……』
『それはダメだ!』
荒げた声で否定するのを両親も姉も驚いた顔で見つめている。
アレクシスの脳裏には、かつてのオフィーリアの言葉がよぎっていた。
『フォアメルン国にはお気をつけください。かの国は、他国の困窮した貴族に自国の商会を差し向けて条件のいい取引きを持ちかけて取り込みます。そして国内にある他の商会と完全に手を切らせ、関係が深まったところで取引きを止めると脅すのです。他に選択肢のない貴族は取引きの継続を望むでしょう? そこで自国の貴族の娘や自分の息がかかった貴族の子息令嬢との婚姻を強要します。そうして家に入り込んで、融資と取引き停止の飴と鞭を使い分けて……』
最終的に、家を支配するのです。
フォアメルン国はこの手段で他国の貴族を傀儡とし、自国にとって有利に動くよう働きかけるのだ。
アレクシスの話を聞いて両親や姉の顔が真っ青になった。
心の中では彼の言葉を否定したくとも、条件のいい取引きとゾーイとの婚約までの流れが一致している。
そして国内の商会から軒並み取引を断られる状況にあって、フォアメルンの商会に取引先が限定されるのは必然。
つまり現状、グラナード家は泥沼に片足を突っ込んでいる状態にあった。
アレクシスは再び上着をはおる。
『もしマーティン卿の使者が到着しても契約は結ばないでください。期限を切ると脅されても絶対に契約はしないように。それが彼らの常套手段だと聞いていますから』
全ての絵が見えても、やらねばならぬことは減らない。
ここから先は時間との勝負だ。
『アレクシスは、どこへ行くつもりなのか?』
『心当たりのある商会に声を掛けてきます』
『まあ、侯爵家のあなたが直接行くことはないでしょう?』
『礼儀を欠いているのはこちら側なのですよ? なりふりにかまっていられる段階はとうに過ぎているのです』
呼びつけるなど言語道断。
これから訪ねようとしている商会だって、罵倒される覚悟で向かわねばならないというのに。
なぜなら、相手はオフィーリアが繋いでくれた商会だから。
こうなることを予見していたわけではないと思う。
ただアレクシスの身に不測の事態が起こっても大丈夫なようにとオフィーリアが手を回してくれていたのだ。
頼れる先がそこしかないというのも不甲斐ない。
結局のところ、アレクシスが困ったときに思い浮かぶのはいつもオフィーリアだ。
まるで女神のようだと評判になった美しいゾーイ。
だがアレクシスにとっての女神は、オフィーリアだった。
失ってからそれに気がついても、もう遅い。
ようやくたどり着いた先の商会で手酷くこき下ろされながらも、なんとか契約を交わした。
そして契約後に教えてもらったのだ。
モリンズ商会の後継者であるクロードが、全ての手続きを終えて今日の船便で旅立つことを。




