イライザと万華鏡、世界の残骸
赤らんだ頬は資料の内側に隠して、没頭しているふりをする。
仕事は途切れることなく、次から次へと舞い込んだ。
そんな慌ただしい最中にカヴァレから電話があった。
相手はダリルさんだった。
『おつかれさまです、今、大丈夫ですか?』
「はい、おつかれさまです。もしかして提携の件ですか?」
不安に思っていたので、最初に口から出たのはそのことだった。
自主回収によって影響が出るだろうと思っていたからだ。
でもダリルさん曰く、今や巷で評価の高い美術品部門との提携であればという条件付きで話し合いは継続されることになったという。
『商会にはイライザさんという優秀な買い手がいることも後押ししたようです』
「それは光栄なことですが、高すぎる評価に会って失望されないか心配になります」
『大丈夫ですよ! シュトラウスさんもあなたのことは推していますから、自信を持ってください』
電話越しにダリルさんの声を聞くのははじめてだった。
……ダレルのように落ち着いた話し方をする人なのね。
思い出の端っこに引っかかるものがあって、思わず笑みが浮かぶ。
どういうわけか、この話し方を聞いていると、なんとかなりそうな気がしてきて不思議だ。
『こうして電話越しに話すと、あのときの電話の声とは全然違うとわかりますね。私の不始末のために関係のないイライザさんに迷惑をかけて申し訳ありませんでした』
「いいえ。正直言って困惑しましたけれど、もう終わったことです。カヴァレとの提携がどうなるか気にしていたので、こうしてわざわざご連絡をいただいて助かります」
『それはよかったです。……あの、イライザさん』
「はい? どうされましたか?」
身構えたような話し方にとまどって、電話越しに首を傾げる。
『私がこんなことを言うのはおかしいかもしれませんが……もし辛いことがあれば、話を聞きますよ?』
「ふふ、戦友ですからね」
『そうですね。でもそれ以上に、あなたのことが心配なのです』
ダリルさんの声音に心からの優しさを感じて、うれしくなった。
こんなに優しい人でも、あのときのように魔がさすこともあるのね。
「ありがとうございます、そう言ってもらえてなんだか元気が出てきました」
『それはいいことをしましたね。それなら、もし予定が合えば今度一緒に食事でも行きませんか?』
「今だと愚痴しか言えないかもしれませんよ?」
『愚痴でもいいからイライザさんの声を直接聞きたいです。もちろん都合が合えば、今すぐでもあなたに会いたい』
真っ直ぐ捧げられた言葉には友情以上の情熱が込められているような気がして言葉に詰まる。
控えめで、一歩引いたような態度のダレル。
奴隷という立場から、いついかなるときも己が言葉を飲み込んで胸に秘めていた。
……やっぱり、ダレルとは違う。受け止めた熱を吐き出すよう、慎重に言葉を選んだ。
「今の私は、ダリルさんとは戦友としてしかお会いできません」
私のダレルではないのなら、答えはこれしかなかった。
電話口の先で言葉を失ったようなダリルさんが、ふと笑いをこぼした。
『……まだ時期ではないということかな』
「すみません、何のことでしょう? あ、そういえば食事をするとしてもダリルさんは取引先の方なので、費用は割り勘になるのですが、いいですか? 一応、社内の規定ではそう決まっていて……」
社用なのに向こうに払わせるというのは後々問題になるから、今のうちにちゃんと言っておかないと。
バレなけれいいという先輩もいるが、将来性のあるダリルさんに迷惑かけては申し訳ない。
一瞬、電話口で無言になったダリルさんだったけれど最後は吹き出すように笑い声を上げた。
「すみません、もしかしてお電話でするような話ではなかったでしょうか?」
『いいえ、真面目だなって思いましてね。自分がまだまだだと反省したところですよ。そうですね、今は戦友としてでもいいから、イライザさんの愚痴を聞いてみたいです』
「それでしたら是非、よろしくお願いします」
『ええ、楽しみにしていますね』
また連絡しますと、そう言ってダリルさんの電話は切れた。
受話器を置いて、くすりと笑う。
他人の愚痴まで聞いてくれるなんて、ダリルさんも十分に真面目な人だと思うわよ?
「あ、イライザさん。ちょっといいかな?」
「アレックスさん? どうしました?」
「聞きたいことがあって、その……」
「じゃあマリッサ先輩に頼まれている装飾品部門の伝票整理をしながらお話を伺ってもいいですか?」
アレックスさんの口ぶりから、聞きたいことは彼女のことだろうとピンときた。
とはいえ、彼女の後始末で殺気立つこの部屋で彼女の名を口にするのは得策ではない。
でもクラウスさんとのことがあるから二人で倉庫には行きたくないし、伝票部屋には防犯カメラも設置されているしね……まあカメラに映らないという一画にだけは気をつけようかな、うん。
例のノートと装飾品部門の伝票の束を抱えて、伝票部屋へと移動する。
一応クラウスさんにはアレックスさんと伝票部屋に行くことは伝えた。
最初は渋い顔をされたけれど、私の口ぶりから彼女絡みと察したらしい。
何かされたら大声を出すようにと言われて、送り出された。
念のためと、扉を豪快に開け放ってから伝票の整理を始める。
「ずいぶんと用心深いんだね」
「ええ。ついこの間、私の不注意のせいでクラウスさんに誤解されたので次は気をつけようと思いまして。何か問題がありますか?」
「いや、ないよ? ただ気の強いお姫様だなって思っただけで」
アレックスさんは何が面白いのか、クスクスと笑っている。
横目で軽く睨むと、笑いを堪えていた。
そして話し出すきっかけを探していたのか、目に留まった伝票の商品の解説をしてくれたのだ。
それが思っていたよりも面白い内容で、それについては有意義な時間になった。
「それで、聞きたいことは彼女のことですか?」
お礼にというわけではないけれど、こちらから話を振ってみる。
アレックスさんは深く息を吐いた。
「ああ。彼女の行方について、何か知っていることはないかなと思ってね」
「聞いてどうするのですか?」
「そうだな、元気か知りたいのと……そのあとはどうしたらいいんだろうね」
この期に及んで、全てをなかったことにはできない。
戻ってきたとしてもゾーイが歩く道は茨の道だろう。
それがわかっているからこそ、諦めるための決定的な何かを探している。
……面倒なことに巻き込まれそう。
私は嫌な予感がして、アレックスさんは伝票を手繰る手を止めた。
「本当は気がついていたんだ、彼女がクラウスと付き合っていないことを。あとで思い返せば矛盾点はいくらでもあったからね。でも、いつしか彼女がそれを望むならそれを叶えることが正義なんだと思い始めた。おかしいよね? クラウスにだって心はあるのに、いつも澄ました顔で、どんな困難でも乗り越えてしまうあいつには弱点なんてないと思った。強いあいつには、弱い俺の助けなんていらないのだろうと思っていたからこそ彼女のことで困っているあいつを俺が助けてやろうと思った。最初はそのために彼女に近づいたんだ」
「それが、気がつけばミイラ取りがミイラに」
「結果的には、そのとおりだね。裏切られても彼女を忘れられない愚かな男の出来上がりだ」
彼がクラウスさんに抱いたのは誰しもが持つ感情だ。
不用意に彼女に近付いたことで拗らせてしまったけれど、そのことだけで彼を責められない。
今問題にしたいのは、もっと別のことだ。
アレックスさんは私の頬に手を伸ばした。
「一途にクラウスを想う、君みたいな人を好きになればよかった」
「……」
「このまま君を好きになってもいいかな?」
柔らかい口調に大人の色気が漂う。
装飾品を扱うときのような、繊細で優しい手つき。
顔は違っても、余裕のある大人な雰囲気がアレクシス様にそっくりだ。
「……よ」
「ん、何か言った?」
「人を馬鹿にするのもいい加減にしろって言ったんですよ!」
ガン!
はしたないと思いつつも拳を机に叩きつける。
アレクシス様と同じだからこそ……腹が立って仕方がなかった。
「あなた達、彼女の取り巻きが真実の愛と称した思いはその程度のものなんですか⁉︎ そんな程度の思いに、私は散々嫌な思いをさせられたわけですよね? それが私を好きになればよかっただと? 頭沸いてるんじゃないですか⁉︎」
「あ、いや、その……」
「わかってますか? 今のあなたは彼女を愛した自分を否定していることに」
「……!」
「たしかに彼女とあなたの関係はまやかしのようなものだったと思いますけれど、それとあなたが彼女に向けた思いは別のはずです」
「それは……」
「好きだったんでしょう? それなのにあなたは周囲に流されて、周りの人間と同じように彼女を責める。裏切られた? 自分から利用するつもりで近づいておきながら裏切られたって、何寝ぼけたことを言っているんですか? あなた達を利用した彼女もたいがいですけれど、あなたもどこまで自分勝手なのです⁉︎」
「自分勝手?」
「ええ、そうです。だって裏切られたと思うのは彼女があなた達の望む姿でなくなったから、でしょう? 彼女の本当の姿を知ろうともしなかったあなた達に彼女の変化を責める権利があるとでも思っているんですか?」
「なら、どうすればよかった⁉︎」
余裕を失ったアレックスさんは固く手を握る。
人が聞けば、恋を失った男の悲痛な叫びに聞こえるだろう。
だけど私は騙されないわ。
一人だけ綺麗なまま逃げ切ろうなんて、そんな勝手は許さない。
「このままずっと好きでいればいいじゃないですか」
「は?」
「真実の愛なんでしょう? なら、二度と手に入らなくても彼女にずっと焦がれていればいい」
「……」
「同情するとでも思いました? 彼女に痛めつけられた者同士、仲良くしようとでもいわせるつもり? 冗談じゃないわ、それなら本心のままに憎しみをぶつけてきた彼女のほうがまだマシよ。少なくとも、本気だということがわかるもの」
私は伝票の最後の一枚の発注をノートに写しとった。
言葉を失い、顔色を悪くしたアレックスさんを残して立ち上がる。
「昨日までの分を整理しました。発注先ごとに分けてありますので、取引先に連絡するのはそちらの仕事です。きちんと指示を出して、漏れのないようにしてくださいね? ああ、誤魔化そうとしても無駄ですよ? 控えはこのノートに記載していますから嘘は通用しません」
「……彼女とは違う、そんなことはしないよ」
アレックスさんは傷ついたような顔で力なく呟いた。
……愛しているというのなら、なぜ最後まで彼女を信じてあげないの?
せめて嘘でも信じていると言ってくれたら、彼女だって救われただろうに。
私は怒りを抑えて、冷たく言い放つ。
「裏切られたと思う前に、彼女にどうしてこんなことをしたのか理由を尋ねましたか? かつて愛を囁いたその口が固く閉じられたわけを彼女に尋ねたのですよね? それよりも、そもそも彼女が本当に裏切ったのか疑わなかったのはなぜですか?」
「だが、彼女は我々の目の前で君を陥れようと……」
「だからなんです?」
「え?」
「私と彼女が対立しようが、あなた達が寄せる好意には関係ないじゃないですか」
傷つけられ裏切られたとしても、好きでいて欲しかった。
それを真実の愛と呼ぶのではないのか?
私の言葉に背を向けたアレクシス様の背中を思い出す。
……自分の心変わりを潔く認めてくれたら諦めがついたのに。
愛のために私を傷つけたのなら、最後まで彼女への愛に殉じて欲しかった。
「それを都合が悪くなると相手のせいにして逃げるなんて最低です」
アレクシス様は自分の心変わりを私のせいにして醜聞から逃げたのだ。
そして保身のために私の悪い噂を放置した。
城での噂を知らなかったなんて言わせないわ。
吐き気がするくらい、今の彼はアレクシス様に似ている。
アレクシス様もアレックスさんも、一番愛しているのは自分自身。
それを知る私は唇を歪めた。
「一つお聞きしたいのですが、当然愛する彼女の名前くらいご存知ですよね?」
「彼女の名前?」
「ええ。真実の愛のお相手なら彼女の名前を呼んで愛を囁いたわけですよね?」
「彼女の名前? そんなもの知っていて当然だ、だって私達は愛し合って……」
「では、彼女のお名前は?」
記憶を探った彼が、やがて呆然とした表情を浮かべて目を見開く。
「………………っ、そんな馬鹿な」
「名前すら教えてもらっていないとすれば、よほど信用されてなかったのでしょうね」
愛し愛される様子をあからさまに見せつけていたのに、なんて欺瞞に満ちた真実の愛だ。
「あなた達の真実の愛ごっこに私を巻き込まないでください、迷惑です」
言葉を失ったままのアレックスさんを残して立ち上がると、振り向くことなく部屋を出る。
そして角を曲がったところで立ち止まると、廊下の暗がりに声をかけた。
「……盗み聞きは行儀が悪いですよ、支店長」
「おや、気がついていましたか」
支店長は軽やかな足取りで暗がりから顔を出した。
猫なしか、珍しい。
気づかれたというのに、彼は口元を綻ばせる。
促されて打ち合わせテーブルへ向かい合わせに座れば、思いのほか、端正な顔立ちをしていた。
なるほど、見た目や印象も役に合わせて作り込んでいたということか。
「ずいぶんと盛大にやりこめてたね」
「何か問題はありますか?」
「いいや? いい大人が愛だの恋だの醜態を晒していたわりに、見限るのも早かったから私もその程度かと思っていたからね」
彼は私のほうへ身を乗り出すと、目線を合わせる。
それから瞳の奥を覗き込んで嬉しそうに唇を綻ばせた。
「うん、思っていたよりも傷ついていないね。精神が鍛えられている証だ」
「さんざん利用しておいて、今更褒めても無駄ですよ? 罠だと知りながら、わざとブライトン公の邸宅へ連れて行ったでしょう? どこまでがシナリオか知りませんが、もう少しで死ぬところでしたよ」
「あれ、気がついたんだ? どうしてわかったの?」
「王直轄の捜査機関に連れて行かれたわりには早いお帰りです。あなたがいることは事前に承知していたと考えるほうが妥当でしょう」
「他の商会員は、私がいない間の仕事の進捗か商会や自分の未来に関する文句しか言わないのにね」
「あんな奇怪で物騒な場所に連れて行かれた私が普通の言葉しか言わないわけないでしょう? あなたが誰か当てて見せましょうか? あなたはおそらく、国王直下の……」
「それ以上は君でもダメだよ、逃してあげられなくなる」
耳元で囁いて、彼の人差し指が私の唇を軽く押さえる。
触れた指先が冷え切っていて背筋が凍りついた。
「……っ」
「私はそれでもかまわないけれどね? むしろ望むところだよ」
言うな、という合図か。
指先の冷たさとは裏腹に彼の瞳は仄暗い熱を帯びている。
あまりにも深くて、覗き込んでいたら吸い込まれてしまいそうだ。
「このまま私と一緒に来るかい?」
触れた指先ごと手のひらを翻して、彼は誘うように差し伸べた。
眼鏡越しに、にっこりと微笑む。
なんて人だろう、危うさしか感じない。
とっさに言葉が出なくて、私は激しく首を振った。
「その勘の良さはいいね。どう、やっぱり私のものにならない? 裏でも表でも自由に世界を見せてあげるよ?」
「危険度も高く、誰よりも拘束されそうな環境にいるくせに、自由なんてご冗談を」
「うーん、仕事の内容は選ばせてあげるからさ」
全く、間接的にどういう立場にいるか暴露しているようなものじゃないの。
とにかく、これ以上は関わり合いにならないほうがいい。
「今回の件に関して、私に対する事情聴取はありますか?」
「いいや、予定はないよ。画像は残っているし、君はあくまでも被害者だから」
「では失礼します」
もう用はない。
席を立った私の手を、突然、支店長が掴んだ。
綿密に計画をたてて絡めとろうとするような彼の衝動的にも思える行動が意外で目を丸くする。
「まだ、何か?」
「……いや、今後自分がどうなるのかとか、聞かないのかなって思ってさ?」
なんだろう、今の間は?
彼も自分の行動に驚いた様子で、一瞬視線を泳がせて言葉を探す。
挙げ句、どうでもいいことを聞いてきた。
今後といったって彼女を失った商会に私を辞めさせる理由はなく、王家だって魔女の血を繋ぐ者に手出しはしまい。
ことと場合によっては彼も知る大物が顔を出すのだから。
だから、しばらく波風は立たないはず。
私は余裕がある振りを装って、ゆったりと微笑んだ。
「今後のことはなるようになるかと。では、ごきげんよう」
二度と会わないか……もしくは別の場所で違う形で出会うかもしれない。
嫌な予感を抱きつつ、打ち合わせテーブルを後にした。
ーーーーーー
「いいな、やっぱり欲しい」
ごきげんよう、か。
使いどころによっては『さようなら』とも受け取れる。
あの回避能力は本当に素晴らしい。
彼はだらしなく椅子の背もたれに寄りかかりながら、口元を綻ばせる。
思わぬ収穫があったと、内心でほくそ笑んだ。
彼がサジタリウス商会に潜入したきっかけは、彼女の予想したとおり王命だった。
王弟であるブライトン公の動きがおかしいと秘密裏に調査した結果、商会との関連が疑われたためだ。
偽造した身分と履歴でうまく潜り込み、問題の彼女とは早々に接触できた。
けれど、そこから先が一筋縄ではいかない。
彼女と関係を深めるほどに自分がコントロールできなくなる。
耐性をつけるため人体や精神に危険とされる毒物を使用されたときの感覚と似ていて、彼女の懐に深く取り入る計画は早々に諦めた。
やがて懸念が当たり、まるで体に毒が回るように、彼女へと傾倒していく商会員が増えていく。
調子に乗って未来が見えるなどと荒唐無稽なことまで言い出し、とうとう先読みの魔女と呼ばれるようになった。
やっぱりアレは普通じゃない。
商会長をはじめとした上層部にまで影響が及び、手が出せない状況になる前に報告と指示を仰いだ。
『……こうなれば、満月の女王の娘達に頼るしかないか』
思わずといった口調でこぼれた王の言葉を己の耳が拾う。
満月の女王の娘とは、一体誰だ?
そんなとき、二号店の開店と同時にタイミングよくやってきたのがイライザだった。
まさか彼女が満月の女王の娘か?
支店長という立場で、じっくりと観察するも異質と呼ぶほどに特出した能力はなかった。
派手さはないものの、清廉で気品を感じさせる容姿に好感は持てる。
ただ大人しく内向的な面は販売員としてはマイナスだ。
嫌がらせなどなくても、そのうちついていけなくて辞めてしまうだろう。
立場を使ってまでかばうことなく放置していたのはそのためだ。
それが……追い詰められ、覚悟を決めた途端一気に花ひらいた。
新人とは思えない本物を見極める眼と知識、伝票の整理や発注は基礎を教えるどころか実地で即戦力。
それに接客が苦手というよりは在庫管理や伝票整理のほうが好きというだけのことらしく、事前の打ち合わせでは求められれば的確に答えるし、顧客への商品の提案だって問題なくこなす。
「新人のくせに、生意気にも実力を隠してるなんて思わなかったんだよな。あー、失敗した」
新人は大抵の場合、自分をよく見せようと実力を出し切るのが当たり前だ。
それを出し惜しみしながら、仕事の精度と正確性が並み以上とは。
もしかして、この子の能力に死角はないのではないだろうか?
慌てて取り込もうと判断した時にはすでに遅く、クラウスに先を越された。
『イライザにまで手を出したら容赦しませんよ』
痛い女に嵌められ、必死にかわすしかできなかったヘタレが、生意気にも牽制してきた。
面白くなりそうな予感にアレックスをけしかけて仲違いさせようとしたのだが、その策が彼女の逆鱗に触れてしまったらしい。
イライザの一途なところは若さゆえの潔癖かと思っていたが、存外闇が深い。
望まずとも美醜の深淵を垣間見た彼女の感性では万華鏡に封じられている色鮮やかな世界が一番美しく見えるようだ。
だからそれを知るクラウスはあの子を真綿に包むように溺愛する。
自分への愛に殉じようとする女性の無垢な微笑みを守るために。
「いっそあのとき翼を奪ってしまえばよかった」
自分から飛び立てないよう閉じ込めて、ただ美しいものだけを見せて。
クラウスから一瞬離れた隙に、ドロドロに甘やかして依存させてしまえばよかった。
そうすればあの金糸雀は、いつまでもこの腕の中で美しい鳴き声を聴かせてくれていたに違いない。
別れ際、とっさに出てしまった手のひらを見つめる。
……なぜ手が出たかは、考えないでおこう。
触れた唇は燃え盛る炎のように熱く熟れていた。
あの熱が、欲しい。
凪いだ海のような淑女の仮面の下に、隠している激情が何かを知りたかった。
まあいい、次の機会を待とう。
満月の女王の娘達と繋がりがあるのであれば、遠くない未来にまた会える。
自主回収に伴う責任は反対を押し切ってまで彼女の商品を推した人事部長がとらされ、商会長をはじめとした上層部もそれなりに責任は負うけれど、それ以外の責任ある立場の人間も無傷とはいかない。
気の弱い男が舞台を降りるには、このほうが自然だからね。
何食わぬ顔で商会から出て行った一人の男が雑踏に吸い込まれる。
それから数日後、サジタリウス商会から各社へ正式に連絡があった。
今回の自主回収による影響を受けて人事を刷新するという内容のものだった。自主回収となった商品を推し、独断で特別チームまで組んだ人事部長が引責辞任。商会長をはじめとした上層部も責任をがあるとして役員報酬の返上と給与の一部を減額。
そして現場責任者でもある二号店店長が退職したという内容だった。




