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めくるめく世界の果て  作者: ゆうひかんな


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寂しい距離と、イライザに迫る危機


クラウスさんに過去のことを話そう。

そう覚悟を決めたのに、そういった話ができる状況にはならなかった。

……微妙に距離を置かれているような気がする。

かつての自分なら安堵していただろうに、今はむしろ寂しい。


「本人には誤解だと説明しておいたから、あとは君たちの気持ち次第だ。まあこれでダメだったとすれば縁がなかったということだよね」


余計なお世話だし、そこまで言わなくてもいいんじゃないかしら?

アレックスさんからは親切なのか冷たいのか、よくわからない激励を受けた。

悪い人ではないと思うのだけど……まるで誰かさんみたいに人心に疎いところがある。

今思えばアレクシス様も私なら最後は許してくれると甘えているような一面があった。

夢見がち、とでもいうのだろうか?

夢から覚めた現実はもっと残酷なのに。

アレックスさんも、あれだけのことを彼女にされても縋りつくというのは現実逃避としか思えない。

名前だけでなく、二人はそういうところも似ているよねと、ぼんやり考えていた私の肩を誰かが叩く。

振り向くと、同じ部署の先輩から私あてに問い合わせの電話がかかっていると教えてもらった。

お礼を言い、慌てて近くの電話を取る。

クラウスさんとの話し合いの時間が取れないのは互いの仕事がさらに忙しくなったからという理由もあった。


商品提案会の結果が決まるまで、あと二ヶ月と少し。

準備期間が短いほど売れる確率も上がるから、一日でも早く世に出したいと焦るのは当然。

それでもようやく発売日の目処がついたところだ。

ちなみに彼女のほうは商品提案会より以前に準備を終えていたらしく、一週間後には商品を発売していた。

人事部長自ら声をかけ各部署の精鋭を集めていたそうで、広告も話題になり、販売実績も好調だそうだ。

勝ちを確信した彼女からは何度か電話があって、負けを認めて謝罪すれば今からでもクビを撤回してやってもいいと言われたが、謝罪する理由がないので丁重にお断りしたところ、バカな女と言い捨てて電話は切れた。

この調子なら売り上げが勝ったとしても難癖をつけられて約束なんてなかったことにされそうだ。

どちらにしても残るのが難しいというのなら、せめて悔いのないように精一杯できることをしよう。

視線を上げた私の目の前をマリッサ先輩とジェシカさんが早足で横切っていく。

……あちらも忙しそうだな。

提案したカヴァレとの提携について、副商会長から連絡があり正式に許可が下りた。

カヴァレの上層部に話を通してくれたようで担当者と商品展開や価格交渉をしてよいとお許しが出たのだ。

それだけでなく、ゆくゆくは商品を共同開発したいというところまで、話が進んだらしい。

指示書が渡され、今は美術品部門と装飾品部門の担当者が指名されて直接交渉に当たっている。

その指名された二人というのがマリッサ先輩とジェシカさんというわけだ。

本来なら美術品部門のエースであるクラウスさんが担当すべきなのだろうけど、彼は私のほうに掛かりきりだから無理ということで、ジェシカさんに決まったのだ。

せっかくのチャンスだし申し訳ないからと、クラウスさんに受けるよう言ったのだが、私のほうを優先したいと粘られて、結局ご厚意に甘えることになった。

実際、手伝ってもらえるなら彼ほど心強い相談相手はいない。

ちなみに指示書のところには提案者として私の名が記されており、商品部と事業部からも同じような内容の指示書が届いている。

人事部によって最底辺の評価を受けている私の功績を、少しでも上げておきたいということだろうか?

正直今更という気持ちが強いけれど、ちょっとは惜しんでくれているのかなと思うと悪い気はしなかった。


さて今日も打ち合わせだと気合を入れたところで、視界の端にクラウスさんの背中が映る。

話し合う機会は失われても彼は的確に私の仕事をサポートしてくれた。

だけどかつては誰よりも近くにいて、辛い日こそ寄り添ってくれていた背中が一番遠くにある。

……だめだ、集中しないと。

深く息を吐き、挫けそうになる心を奮い立たせた。

彼のためにではなく、まずは自分のために努力しよう。

たとえクラウスさんの隣に立つことを諦めることになったとしても、後悔をしないように。


そして期限まで残り二ヶ月を迎えた本日。

ついにリシャールの作品が発表された。

蒐集家の間で存在が囁かれていたという幻の作品がついに発見されたということで、専門誌にも取り上げられて大評判になった。

全ては順調で問い合わせも殺到し、いくつかの商談がまとまった、そんな最中のことだった。


「……どうしてこんなところにいるのかしら?」


事の始まりは、支店長から呼ばれたことだった。

血相を変えた彼に拐かされるようにして連れてこられたのは広大な敷地に立つ、典雅な洋館。

敷地を専用車で移動するということから、どのくらい広いか推察できるだろう。

隅々まで手入れの行き届いた庭園に、正面玄関の前には巨大な噴水まで整備されている。

そして洋館の玄関を潜れば格式の高い邸内の造りと、美しい調度品に目を奪われた。


ここは美術館なの?

素晴らしい芸術品の数々に魅入られて、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなる。

数多のパーティー客を受け入れてきたと時代を感じさせる荘厳な雰囲気のエントランスホール。

長く優美な曲線を描く階段から、初老の男性が降りてくる。

穏やかな微笑みを浮かべているが彼の身に纏う威厳と品格が桁違いだ。

間違いなく、どこかの国の王族の血を引いているのだろう。

伯爵令嬢時代の勘が礼を尽くせと告げるに従い、さっとワンピースの端を掴み膝を折った。


「……さすがサジタリウス商会。このように若い従業員にまで礼儀が行き届いているようだ」


コツリ。

視線の先に磨かれた靴の先が見える。


「フランツ=()()()=ブライトンだ」


カテリアにおいて、レクスは王位継承権を持つ者だけが名乗ることを許される。

年齢や容姿の特徴から推察して現王の王弟殿下だろう。

兄の即位によって公爵位を賜り臣下となった、正真正銘王の血筋を引く人物だ。

カテリアの王政は歴史があるからと形ばかりでも学んでおいてよかったと心底思った。

ちなみに支店長からは事前の予備知識など与えられてない。

行き先も結局は教えてはもらえなかったし、移動中も小心者という皮を被り続け、小声で『どうしよう』とつぶやくばかりだった。

この小芝居にクラウスさんやマリッサ先輩方どれだけ苦労しているのか、今ならわかる気がする。

その忌々しい支店長が声を震わせながら名乗ったので、私も続く。


「イライザと申します。お会いできて光栄です」

「うむ、顔を上げてかまわない」


芯がブレないように気をつけながらゆっくりと顔を上げる。

微笑みは常に絶やさないように。彼らの観察するような視線も慣れたものだ。

ゆっくりと、かの方の唇の端にも笑みが浮かぶ。

どうやら初見は無事に合格できたらしい。


「急な呼び出しにも応じてもらい、感謝する。詳しい話は庭でしよう」


エスコートされ、誘われた先には、それはもう見事な大輪の花咲く庭があった。

主体は薔薇、オールドローズのような花弁の多い優美で柔らかい色合いの花が咲き乱れる。

芳香と想像を超えた美しさに思わずため息をついた。


「美しいだろう? 私の自慢の薔薇園だ」

「はい」


ふと気がついて背後をそっと伺うと、ギクシャクとした動きをした支店長がついてくる。

こういうとき、本来は上司が先頭に立つものではないのかしら?

……たとえば、クラウスさんなら先に立って守ってくれるのに。

そんなふうに無意識で比べていたことに気がついて、人知れず顔を赤らめた。


「君はなぜこの場に呼ばれたのか、わかるかい? ああ、公式の場ではないから直に答えてかまわない」

「おそらくですが、薔薇のためでしょう」


多種多様な薔薇であふれたこの庭には、なぜか一重咲きの薔薇がなかった。

そして私の扱う薔薇といえば一つしかない。

リシャールの一重咲きの薔薇だけだ。


「これだけの素晴らしい薔薇園を持ちながら、なおリシャールの一重咲きの薔薇をご所望ということでしょうか?」


…… 本物は上手く育てられないから、代わりに薔薇を描くんだ。


リシャールの声が脳裏に蘇る。

華麗で色鮮やかな薔薇が自慢だというのに、質素で慎ましいリシャールの薔薇まで求めるのはなぜだろう? 

途端に、ブライトン公が視線を鋭くする。

王族独特の覇気のようなものを感じ、そばに侍る護衛官が驚いたように目を見張る。


「何か問題があると?」

「いいえ、ただ何かご事情がおありなのではないかと推察したまでですわ」

「……も、申し訳ございません! 新人ゆえに分を弁えておらず……、イ、イライザさん、君も謝罪を!」


真っ青な顔の支店長が背後で謝罪を促した。

支店長は気分よく買い取ってもらい、今後の取引に繋げたいという意向なのだろう。

身分もあり、莫大な財も持つ上客がリシャールの薔薇を求めているのだ。

品物を売るだけに価値を置く商人ならば事情は聞かないのが常識なのだろう。

ただブライトン公が薔薇を求めるのは欲しいからという理由だけではないように見受けられたのだ。

素晴らしい作品ではあるけれど、リシャール=ボネの知名度はさほど高くはない。

公爵家で使われるような一級品で、愛する薔薇柄のティーカップはいくらでもあるはず。

担当者を招いてまで、絶対に欲しいという商品ではないはずだ。

それでもあなたがリシャールの薔薇を欲しがるのは、なぜ?

臆せず視線を受け止めると、彼は一瞬目を見張って……口元を綻ばせた。


「なるほど、ずいぶんと度胸のある新人だ。気に入った」

「生意気な態度をとりましたことを謝罪いたします」

「おそらく君にはあの作品を守りたいという気概があるのだね」

「それは……そうなのかもしれません」


一度は死して心ならずも手放したけれど、再び手元に戻ってきてくれたリシャールの薔薇。

今度こそ、きちんと薔薇の行く先を見守りたい。

それを気概と呼ぶのなら、間違いなくそうなのだろう。

ブライトン公は振り向いて、支店長へと声を掛けた。


「すまないが、彼女とだけ話をしたい。しばらく一人で庭を堪能していてくれ」

「は……? はい、はい!」


支店長は、ほんの少し仮面が外れかけた……けれど慌てて被り直す。

そして危なっかしい足取りで庭の奥へと分け入っていったが、つまずいたような小さな悲鳴が上がる。

護衛官のうち一人が、ちょっと嫌そうな顔でそのあとを追った。


「なかなか個性的な人物だね」

「申し訳ありません、どうやら運動神経に難のある方のようで……」


あの理解不能なポンコツぶりは、たぶんそういうことなんだろう。

苦笑いを浮かべたブライトン公は、眩しそうに目を細めて薔薇園の先にある館へと視線を向ける。


「君のことは、妻も気に入ってくれるだろうね」

「それは光栄ですわ」

「君の疑問に答えよう。その妻のために薔薇が欲しい」

「まあ、贈り物だったのですね! それは奥様も喜ばれるでしょう」


自他共に認める愛妻家という情報を思い出した。

奥様は大輪のバラのように気品ある美しさが評判であったと聞く。

知識も豊富な方のようで、思いがけず和やかに会話が弾んだ。

ブライトン公の足並みに合わせて、薔薇園の奥へ奥へと進んでいく。 

ついに薔薇の途切れた開けた場所についたところで、ブライトン公はぽつりとつぶやいた。


「ひさしぶりにここまで歩いた、最近は部屋に籠ることのほうが多かったからね」

「まあ、そうなのですか?」

「私の妻は身体が強くないんだ」

「……! 閣下、それ以上は」

「いいんだ、彼女なら大丈夫だよ」


護衛官が止めるのを、ブライトン公は退けた。

それを私に対する信頼の証と、受け止めさせてもらおう。


「新人ではありますが守秘義務は存じております。対価をいただく以上、当然のことですわ」


私は安心してもらえるようにと、護衛官の男性へと微笑みかける。

彼は一瞬惚けたあと、視線を逸らした。


「ははっ、珍しいね。あとで連絡先でも教えてもらったらどうだい?」

「お戯れを」


楽しそうに笑ってブライトン公は再び薔薇の間を抜けるように歩いていく。

園庭は迷路みたいに入り組んで鼻腔が薔薇の香りで満たされると、異界を彷徨っているかのような心持ちだ。

ふと、不安が過ぎる。


……こんな素晴らしい場所にいるのに、どうして逃げたいと思うのだろう? 

一人きりなのがダメなのだろうか? 

しっかりしなければと気持ちを奮い立たせる。


「妻は幼馴染みで、愛らしく優しい女性でね。若い頃から病気がちではあったけれど、身分もちょうど良かったし迷わず婚約したんだ。結婚してから程なくして妊娠し、無事に後継となる男児を産んだ。けれど産後の経過が思わしくなくてね。それ以降は、寝たり起きたりの繰り返しだ。滅多に外出もできず、遠出もできない。そんな彼女が唯一楽しみにしているのが、この薔薇園なのだよ」


まさに色彩の海、色とりどりの薔薇が織りなす絨毯が眼下に広がる。

館の上層階から眺めれば、さぞかし美しい光景なのだろう。


「そんな彼女が最も愛しているのは一重咲きの薔薇だ。だが、この庭に一重咲きの薔薇は咲かない」


この庭に唯一咲いていない薔薇。

これだけの薔薇を咲かせる土壌がありながら、なぜ一重咲きの薔薇だけが咲かないのだろう? 

するとブライトン公は……皮肉げに唇を歪めた。


「一重咲きの薔薇など地味で貧相なだけだ。薔薇とは我が妻のように豪奢で美しく、大輪でなくてはならない……そうは思わないか?」


ブライトン公の台詞にようやく違和感を感じる。

何かがおかしい。

私を呼んだのは、リシャールの薔薇が目的じゃないのか?


「一重咲きの薔薇を……リシャールの薔薇をお求めではないのですか?」


なぜかふらつく足元。

濃厚な薔薇の香りが脳内を支配して、満足に息もできない。

喘ぐようにして浅い呼吸を繰り返し、とうとう膝をついた。


「……ようやく薬が効いたか。これだけ頑強なら儀式も大丈夫だろう。例の部屋へ運んでおけ」

「閣下、本当にこの女性を……」

「ああ、()()がこの女性の血と身体こそ、我が妻の器とするのに最適だというからな」


()()ですって⁉︎

視界一杯に、あの女の歪んだ笑顔が浮かぶ。


「ようやく妻が元気な体を手に入れるのだ、今日はお祝いだな!」

「もう一人の男性はどうしましょう?」

「役に立たなそうな男だし、適当な頃合いをはかって始末しろ。そうだな、この女性と不倫の末に駆け落ちでもしたと思わせればいい。そうすれば誰も探そうとはしないだろう」

「承知しました」


狙いはリシャールの薔薇ではなく、私。

冗談じゃない、不倫なんてしたと思われたら家族に顔向けもできないわ!

逃げたいと思ったあのとき、本気で逃げておけばよかった。

もがこうとするも、どういうわけか指先ひとつ動かせない。


「全く抵抗しませんね」

「それはそうだろう、賢者の製法で作った特製の麻痺薬だからな。意識は保ったまま肉体には一切の障害を残さない。見よう見まねでも、これが作れるのは彼女が天才だからだ」


賢者の、……賢者の末裔! 

まさか彼女の言葉は、ここに繋がっていたのか。

では賢者の末裔とは一体誰のこと?

脳裏にアルスさんの顔が浮かぶ。

そんなことはない、アルスさんはエレナさんの大切な人だ。

ぼんやりとした意識のなかで必死に考える。

この未来は、レジーの見た道すじには見えていなかったのか? 

それとも……意図的に見逃された? 

誰の、何を信じればいいのだろう。

護衛官に抱き上げられたまま、ゆらゆらと地下へと運ばれる。

地下道の真っ暗な壁の両脇にところどころで灯された蝋燭が揺れていた。

壁の模様が髑髏のように見えて不気味だ。

恐怖で泣き叫びたいのに、呼吸すら危うい今の状態では身動き一つできない。

つと、頬を涙が伝う。

天寿を全うできないどころか、こんなふうに命を奪われるなんて最悪だわ……。


「遅かったわね」


頭上から女性の声が降ってきた。

地下で反響しているせいか彼女の声のようにも聞こえるし、誰か別人のもののようにも聞こえる。

その姿を直視するのが怖くて、固く目をつむった。


「うふふふ、ようやく彼が私のものになる。うらやましいでしょう? クラウスが、私のものになるの」


やはり彼女だった。

どうして私ばかりがこんな最悪の結末を迎えなければならないの?


「間違いなく成功するのだろうな?」

「ええ。こうして魔術の対価に相応しい血と肉体が手に入りましたから、ほとんど成功したようなものです」

「我々が賢者の末裔として引き継いできた知識に、魔女の技能を融合させる。先読みの魔女と呼ばれるほど強い力を持つ君にしかできないことだ」

「恐れ入ります。これだけ尽力したのですから約束は必ず……」

「わかっている。商会にいるクラウスという名の男を我々が雇い、君に対価として与えればいいのだろう? 賢者の知識を持つ我々ならば、永続的に人を言いなりにする薬を作るのは容易だ。それを君に授けよう」

「それで十分ですわ、ありがとうございます」


彼女は嫣然と微笑む。

あまりにも自分勝手で醜悪な会話に耳を塞ぎたくとも体の自由が効かない。

嫌でも情報は耳に入るし、頭上で会話は進んでいく。


「第二ギルテ港の拠点にあった成果物さえ手元にあれば、もっと速やかに作業が進んだものを……あの忌々しい混じりもの共が邪魔をしおって。正しくあれと神から光の力を分け与えられたという賢者のように、神から闇の力を与えられたなどと嘘偽りを語り継ぐなど言語道断。必ずや我々、賢者の血を受け継ぐ者が正体を暴いて滅ぼしてくれる」


ブライトン公が賢者の末裔? 

ただその瞳の色は……ごくありふれた焦茶色。

私の知る王の色ではなかった。

衣擦れの音がして、誰かが脇を横切っていく気配がした。


「ああ、愛おしいジョゼフィーヌ。君が私の元に還ってくる、この瞬間を待ち焦がれていたよ」


ブライトン公の禍々しい台詞が艶を帯びる。

この瞬間を待ちわびていた、そのことは声だけで理解ができた。

そして私の動かない体とは反対に、覚醒している意識だけは忙しなく状況を把握していく。

そしてようやく瞼が持ち上がるようになって視界がほんの少しだけ鮮明になる。


視線の先では、鎖に繋がれた黒い肉体を持つおぞましい生物が咆哮を上げていた。


視界に映る、人ではない何か。

それを愛おしそうに妻と呼ぶブライトン公は、すでに正気を失っているのだろう。

そして淡々と機材を設置していく白衣の男性達と、武器を手に取り囲むように場を守る護衛官。

狂気に取り憑かれたかのような彼らの表情は、私を追い詰めたサムさんと似通っている。

そこまで確認するのが限界だった。

ただ涙だけが頬を伝う。

これから何が行われるのか、容易に察することができてしまった。

ようやく死の連鎖から逃れたはずなのに。

でも今の状況であれば死を選ぶほうが幸せかもしれないと諦めかけた、そのとき。


……イライザ!


脳裏に響くのは、この場にいないはずのクラウスさんの声。

すると動かないはずの指先が動いて、ほんの少しだけ手が持ち上がる。

震える指先が、空を虚しく掻いた。

こんなことになるのなら、ちゃんと自分の気持ちを伝えたかったな。

いついかなるときであっても、結局最後はあなたのことばかり考えていたのだと。

死にゆく私にはあなたが……あなただけが救いの光だったのだ、と。

そう思ったときだった。


……ガッシャーーーーーーン!


力なく横たわる私から離れた場所で、軋む金属が跳ね飛ばされるような激しい音がした。


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