とまどいと、消せない記憶
「ずいぶんとひどい顔してるわよ、大丈夫? なにかあったの?」
「いえ、いろいろ思い出すものがあったというか……」
アレックスさんと別れたあと、赤く腫れた目元を化粧品で整えてから戻った。
だが早々にマリッサ先輩に見つかってしまう。
先輩は一旦手元の資料に視線を落とすと、顔を上げる。
「いいわ、支店長にも言っておくから今日はもう帰りなさいな」
「えっ、でも仕事が!」
「あなた、なんでも一人前にこなすからつい忘れてしまうけれど、まだ入社して半年も経っていないのよね……人一倍気も使うでしょうし、不安だって桁違いだっていうのに、それを微塵も感じさせることなく働いて。それはそれで素晴らしい資質なのでしょうけれど、見ているほうは不安になるのよ」
「不安ですか?」
「あなたに必要とされていないのではないかって」
ハッとして、視線を下げる。
もしかしてクラウスさんもそう思っていたのではないだろうか?
私はまだ新人で頼りないからこそ、人一倍頑張らなくてはならないと思っていた。
人に頼ってばかりいては、自分が成長できないからと……。
でもその態度が、ときには人を不安にさせることがあったのかもしれない。
「たまには甘えてもいいのよ、……ねえ、ジェシカだってそう思うでしょう?」
「……知らなかったわ、うちの新人は甘え下手だったのね。ごめんなさい、気がついてあげられなくて。ああもう、こんなに瞼を腫らして……」
添えられたジェシカさんの手の、ひんやりとした感触が心地よい。
熱を出した幼い日の母の手の感触を思い出して、拭う間もなく涙がこぼれた。
ふふっと小さな笑い声が聞こえる。
「いっぱい、いっぱいっていう感じね。できるところは進めておくから帰っていいわよ」
「……っすみません、こんな忙しいときに」
「クラウスが珍しく落ち込んでいたわ。たぶん、それに関係あることでしょう?」
「クラウスさんは大丈夫そうでしたか?」
「まあ歳上で経験値もあるしね、自力で持ち直すでしょうよ」
思いの外、二人がクラウスさんに冷たい。
あのヘタレめ、手を出したうえに女の子を泣かすなんて許すまじという声が聞こえたがたぶん幻聴だろう。
こんなにも素敵なお姉様たちが毒を吐くとは思えない。
お姉様たちは運悪く?通りかかった店長を速やかに捕獲し、あれよという間に半日の休暇をもぎ取ってきてくれた。
マリッサ先輩が耳元で一言囁くと、支店長がカクカク頷くだけ人形になったのには驚いた。
二号店で一番権力を握っているのは、実のところマリッサ先輩なのではないだろうか。
笑顔の二人に送り出されて、帰路につく。
真っ直ぐ家に帰るべきなのだろうけれど、悩んでいるうちに気がつけばカテリアの六つの月の前にいた。
一瞬迷って、それでも店の扉を押す。
「いらっしゃいま……あら、この間の店長のお客さん?」
「はい、イライザといいます」
「私はマルテよ、はじめまして!」
マルテさんはハキハキ話して、いかにもしっかり者という雰囲気の女性だ。
猫みたいなちょっとだけ釣り上がった目元が特徴的で、しかもかわいらしい。
「店長は外出中なのよ、ここでコーヒーでも飲んで待ってる?」
「いえ、約束があるわけではないので帰りま……」
「あれ、イライザ?」
被せるようなセリフに振り返ると、扉を開けて入ってきたのはレイさんだった。
うわ、相変わらずかっこいい。
今日はラフないつもの格好とは違って、黒のスーツを身につけている。
それがまた精悍な雰囲気によく似合っていて、普段、見慣れているはずのマルテさんが顔を赤らめていた。
「あれ、今日は面会日だったか?」
「いえ、ちょっと時間があったので寄っただけです」
「そうか、エレナもケイトも今は外出中だったな」
レイさんは、じっと私の顔を顔を見る。
やがて何かに気づいたようで、私の背中に軽く手を添えた。
「話くらいなら私でも聞けるから、おいで」
それから従業員専用の扉を開けて、部屋の奥へと導く。
扉が閉まる前にマルテさんが取り急ぎ用意してくれたコーヒーを差し入れてくれた。
入れ立てのコーヒーの芳しい香りに、思わずホッと息を吐く。
「マルテの入れたコーヒーは美味しいんだよ、早速いただこう」
レイさんはほんの少しだけカップを持ち上げると、器用に中の液体だけをくるりと回す。
伯爵令嬢時代に父がよくしていた仕草を思い出して、思わず微笑んだ。
「同じです」
「……ん、なんのことだい?」
「伯爵令嬢時代の父がよく同じ仕草をしていました」
「そう? かつての父上は、ずいぶんと古い作法をご存知のようだ」
「作法?」
「ああ、これは精霊に感謝を捧げる仕草なんだよ」
「精霊に感謝を捧げる……」
「目には見えないから信じられないかもしれないけれどね。でも魔女と精霊は関わりが深いんだ」
「そうなのですか?」
「そう。古き血と魂を引き継ぐ者として互いを尊重し、支え合う。過度に干渉をすることもなく、見捨てることもしない。困ったことがあれば手助けするし、力が必要なときはあちらが助けてくれる。良き隣人とでも呼べる大切な存在だ」
互いを尊重し、支え合う。そうありたいと願うのに、現実はとても難しい。
コーヒーカップを握りしめて深く息を吐いた。
迷いがあるせいか、居心地の悪い沈黙が落ちる。
レイさんはじっと私の顔を見て、吐き出すように口を開いた。
「君は自分の過去を話したい、でも話すのが怖い……悩むのはそこかな?」
「どうして、それを」
ハッとして顔を上げると、大地のような色の瞳と視線が合った。
包み込むように穏やかで、どこまでも優しい色だ。
「昔、一度だけ過去の記憶を持つという人物と会ったことがあるんだ。彼が悩むのも、そこだったからね」
「えっ!」
「彼とは同じ部隊の仲間として出会ったのだが、勇敢なだけでなく智略にも優れていたのだよ。一兵卒なのにあまりにも素晴らしい作戦を思いつくものだから、何度もしつこく尋ねたんだ。『その知識はどこで学んだものなのか』ってね。そうしたらある日、酒を飲みながらだけど、とうとう彼が教えてくれたんだよ。『前世の記憶だ』って」
「……信じたのですか?」
「もちろんだ。当時はとっくに失われているような知識だからね、むしろ彼の膨大な知識の出どころが判明してホッとしたくらいだ」
「レイさんが信じたと知って彼はなんと言っていたのですか?」
「もし私が信じなかったら、酒のせいにして冗談だと逃げるつもりだったらしい。あっさりと信じたから拍子抜けしたらしくてね、あの間抜け面は今思い出しても笑える」
くくっと笑いを堪えたレイさんの顔は、本当に楽しそうだった。
それからの彼はレイさんにだけ、こっそり前世の記憶を話すようになったのだという。
「彼も本当は誰かに話したかったのだろうね」
レイさんが笑うと精悍さと野性味が薄れて、穏やかな親しみやすい表情に変わる。
気がつけば私も少しだけ微笑みを浮かべていた。
「それからいくつもの戦場を共にした。頭はいいくせに、どこか抜けたところがある奴でね。放っておけなかったんだ。まあ、そんな時間も……彼が死ぬまでのことだったけれど」
そう言ってレイさんは視線を下げた。
……彼が死ぬまでのことだった、か。
彼女達の誰もが詳しくは語らないけれど、おそらくレイさんたち……満月の女王の血を濃く継ぐ娘は不老不死だ。
エレナさんと再会したとき違和感を覚えたように、昔と同じ容姿である理由は全く歳を取らないから。
そしてあれだけの血を流しながらエレナさんが生きのびていたのは事故や怪我程度では死なないから、だろう。
自分だけが歳をとることなく、親しい人間が老いて死んでいくのを見送る。
相手が大切な人であるほど、死に対する想像を絶するような恐怖と、長い時間の孤独に苛まれるだろう。
だけどレイさんが彼の死で直面した痛みは、そのどれとも違っていた。
「そいつはね、死ぬことはない私を銃弾から守って死んだんだ」
私は息を飲んだ。
レイさんの瞳は湖面のように揺れるコーヒーを眺めている。
そしてもう一度、たしかめるように繰り返した。
「死ぬことはない私をかばって、あいつは命を落としたのだよ」
たった一発。
即死ではなかったけれど当たりどころが悪かった。
意識を保てたのは、ほんの少しの時間だけ。
彼はレイさんの腕の中で静かに息を引き取った。
「息を引き取る間際にね、あいつはこう言ったんだ。『おまえだけは守りたかった』と」
私は言葉を失った。
きっと思い出すのも辛いはずだ。
それを無理に思い出させた引き金は、私自身。
「すみません、私のせいで……」
「いや、いい。私自身が話したかっただけだから」
もう何世紀も前のことなのだという。
それでも記憶は鮮明で、忘れられない。
生きている限り、抱え続けなくてはならない喪失感。
私を失ったあと、彼らも同じように苦しんだだろうか?
「過ぎたこととはいえ、口にするのも苦しいはずです。それなのに、どうして私に?」
「深い意味はないよ。ただ、今でも思うときがあるんだ。彼に私が死なない体質だということを話しておくべきだったのかなって。そうすれば、わたしのためと無駄に命を散らすこともなかった」
私は目を見開いて、強く首を振る。
だって……それは!
「魔女だっていうことを、暴露するようなものではないですか?」
「そうだよ、だから私は言わなかった。これから生まれてくるだろう、満月の女王の血を受け継ぐ者を守るために」
「……」
「でも正しい選択のはずなのにね、どれだけ月日が過ぎようとも彼のことを忘れられないんだ」
血を濃く受け継ぐ者としての使命と、己が心の狭間で揺れ動く。
どうすることが正解だったのか、今もわからない。
「彼が息絶えようとしたとき、迷って何も言えなかったんだ。ありがとうも、ごめんなさいという言葉すらもね」
こんな結末を望んだわけじゃない。
彼が自分の命を賭けてまで私を守ろうとするなんて、思いもよらなかった。
だからそこまで大切に思われていたことを、うれしいと思う気持ちすら伝える間もなかったのだという。
人の命とは、なんと儚いことか。
レイさんは温もりが失われていく体を抱いて、天に還っていく彼の魂を呆然と見送ることしかできなかった。
「魔女だからって、なんでもできるわけじゃない。人を生き返らせることはできないからね」
自分は無力だ。
彼女の揺れる瞳の先には、私の知らない戦場の景色が浮かんでいるのだろう。
その景色とは、一つの弾丸が人の命を刈り取った瞬間か、それとも普段の会話に添えられた何気ない笑顔か。
彼を失ってしまったからこそ思い出は上書きされることもなく、生きている限り全ての記憶は消せない。
「魂を引き裂かれるような思いをした君にとっては不愉快かも知れないけれど、私は君がうらやましい」
「レイさん……」
「彼を失ってから途方もなく長い年月が過ぎたけれど、いまだに魂を引き継ぐ者と出会うことができないでいる」
彼女は子供みたいに頬杖をつきながら微笑んだ。
悲しみにほんの少しだけ、思慕の色が混じる。
その瞬間、なんとなく気がついた。
レイさんは、もしかして彼のことを……。
「輪廻を繰り返す世界では、誰にでも前世というものが等しくある。彼のように記憶が残る人間がいたとしても不思議ではないと思うよ? ほんのわずかな誤差の範疇、ではないのかな」
彼女は空になったカップをソーサーに戻した。
「私がもし彼に再び出会えたら、もう勝手に死ぬんじゃないと言ってやりたいよ。さて、君ならどうしたい?」
「私は……」
「我々は君の選択を最大限に尊重する。魔女に関わる内容さえ伝えなければ、多少の軌道修正くらいはこちらでやろう。うっかり口を滑らせても雑音にしか聞こえない魔道具や、記憶を消す魔法薬もあるからそれを使えばいいかな」
「どうしてそこまでしてくださるのですか?」
「君には後悔してほしくない、それだけだよ」
後悔……脳裏にアレクシス様の背中がよみがえる。
思い返してみれば、話しておけばよかったと思うのはこれが初めてではなかったはずだ。
私は飲み終わったコーヒーのカップをソーサーに戻す。
「ありがとうございました、整理がついたと思います」
「少しはお役に立てたみたいでよかった。何か困ったことがあったら連絡を入れて?」
「はい!」
ーーーーー
イライザは来たときとは別人のような、しっかりとした足取りで部屋を出て行った。
レイは笑みを浮かべ、コーヒーカップを片付けようと立ち上がる。
するとタイミングよく扉が開いた。
視線をドアに向けると、ドアストッパーの代わりにケイトが扉へ寄りかかっている。
「おかえり、ケイト」
「レイ姉ってば、大盤振る舞いだね。あんまり深く関与するのもよろしくはないんじゃなかったっけ?」
「悩めるクライアントにアドバイスをするのは珍しいことではないだろう?」
「魔道具や魔法薬は魔女の秘匿技術。力の弱い娘さんたちが安易に使うものじゃない」
「意趣返しとして魔道具を貸し出したり、魔法薬を紅茶に仕込んで飲ませたりしたのは誰だい?」
「……それは必要なことだったから」
「責めているわけじゃない。ケイトの言うとおり、必要ならば仕方のないことだ」
「それにしてもイライザちゃんには甘いよね、姉さんは。本当に使いたいって言われたらどうするつもりなの?」
ケイトは深く息を吐いて、レイから使用済みのカップを受け取った。
水魔法による消毒と洗浄、風による乾燥、転移術式による収納。
瞬く間に、彼女の手から使用済みのカップが消える。
レイは呼吸をするように高度な魔法を使いこなしたケイトの頭を撫でた。
「妹たちが優秀でつい甘えてしまう。ごめんな?」
「もう、しょうがないなー。許してあげるから今度パフェ食べに連れて行って」
「ああ約束しよう」
もう一度軽く頭を撫でて、レイは着替えるために部屋を出て行った。
撫でられた頭に軽く手を添えて、ケイトは扉の先をじっと見つめる。
「……例の男の記憶はまだ消えてないんだね」
気配を読むことに長けた姉のことだから、ケイトが立ち聞きしていたことには気がついていただろう。
だから、ごめんねということかな?
そもそも記憶を消すための魔法薬はレイのためにとケイトが開発したものだ。
記憶の一部ではなく、特定の誰かを完全に記憶から消し去るという強力なもの。
過去に囚われ続ける姉を救いたい一心で、ケイトが一から調合したこの世に二つとない限定品だ。
レイに飲むよう渡してから、ずいぶんと時は過ぎている。
それなのに……記憶は今でもしっかりと残っていた。
「記憶は性格を形作るもの。記憶を消すという行為が人格形成に少なくない影響を及ぼすという副作用はたしかにある。ただレイ姉の場合は人よりも長く生きているから失われる記憶は全体のほんの一部分で歪みは些細なものだと教えたのだけどな? なんで飲まないんだろう?」
人の感情が理解できないわけではない。
ケイトは自分が血も涙もない冷酷な人間ではないと知っている。
ただ整合の魔女である彼女にとって、不確定要素が多く、揺れやすい人の感情は邪魔なのだ。
整合するにはそういった余計なものを事前に排除しておいたほうがやりやすい。
とはいえ、レイを騙すように魔法薬を飲ませるのも気が引ける。
……本人が消極的であっても摂取してくれるのが一番楽なんだけどね。
一度失われてしまえば記憶の残さすら残らないのだ、何を忘れてしまったかも思い出せないだろう。
ケイトは口をへの字に曲げて思案する。
それでも、レイが飲まないという選択をする理由は何か?
この問題は術式にも数字にも反映されないから、根本から原因自体を排除しない限り解決しない類のものだ。
誤差であっても予測できる範囲に収まっているうちは、まあいいのだけどね。
予測不能な行動を伴うのが情というものの厄介なところだ。
そしてレイは、この情というものが姉妹で一番濃い。
だからこそ、個性的でまとまりのない満月の娘達がレイには嬉々として従うのだ。
自分が六つの月の要であるという認識はあるはずなのにね。
長い時間をかけてケイトが整合してきた世界においてレイが失われればいくつかの計画が破綻する。
「アリアに相談してみよう」
あの男の記憶がレイの不確定要素。
満月の女王の力は彼女の死によって分たれ、六人の姫に受け継がれた。
つまりどれか一つでも欠ければ世界から女王の偉大な力が失われる。
状況は変わったのだ、魔女が失った人間に囚われ続けるなどあってはならない。
愛のために命を失うなど、あってはならないのだ。




