イライザ、人事部長と彼女
結局、ティーカップとソーサーは事業部長と財務部長も買い上げてくださることになった。
美術品部門の売り上げに幹部自ら貢献いただき、ありがとうございます!
そして商品の提案自体は、満足のいくものができた。
あとは今後どうなるか、だけだ。
「そういえば人事部長は先ほどから黙ったままだね? なにも言いたいことはないのかい?」
人事部長といえば面接でもにこにこと笑って、いかにもいい人という感じだった。
どちらかというとおおらかで、あまりでしゃばるような雰囲気ではなかったように思う。
個性の強い上層部の間を取り持つ調整役を担っていると聞いている。
そんな彼が、ゆっくりと顔をあげた。
「それでは事前の話し合いで決まったとおりに、イライザさんには辞めていただくということで手続きを進めてまいります」
重い沈黙が落ちた……。
この結果でも、方針は変えないということか?
そっと彼のティーカップの中身を確認する。
紅茶は満たされたままだった。
ポーションは状態が酷い人物ほど欲しがるように調合してあるという。
一口も飲んだ形跡がないということは、全く彼女の影響を受けていないということだ。
つまり彼が口にする言葉は、全て彼の意思によるもの。
私を排除することによる人事部長の利益はなんだろうかと考える。
心当たりがないことから、これは彼の意思とは関係なく彼女の意向を尊重したものと理解した。
そう、目的のために彼女と共闘しているわけね。
多くの場合、他人同士が共闘する理由とは利害関係の一致。
では、どんな利害が二人の間を取り持つのだろう?
上層部に顔を向ければ、残りの四人は始まりのときとは違い難しい顔をしている。
それほど事前に聞かされていた私の評価と大きな隔たりがあったということだろう。
商会長は人事部長へと厳しい視線を向けた。
「人事はたしかに君の領分ではある。だから今まで特に口出しはしなかったが、イライザさんについては、あまりにも君から聞かされた評価と現実の差がありすぎる。それについては再考の余地があると思うのだが?」
「ですが役員全員による総意です。商会の功労者である彼女の嘆願を反故にしてもいいということでしょうか?」
「う、それは……」
彼女は瞳を潤ませる。
先ほどまでの傲慢な態度と差がありすぎて違和感しかないのだが、紳士は女性の涙に弱いらしい。
四人は困惑した表情を浮かべて視線を逸らした。
私は気合を入れて口角を上げる。
事前に決まっていたとか問い詰めたいことはあるけれど、そんな些細なことは後回しでいい。
「先ほど商会長は私が残るための条件を示されましたね?」
「うむ、そうだな。それは彼女がそれくらいできるなら許してやってもいいというから……」
許してやる、ね。
ベキ……。
バキ……。
背後でトレーを握る二人のほうから聞こえてはならない音がする。
そのトレー、薄いけど鉄製……ああああマリッサ先輩、ジェシカさん、どうか落ち着いてください!
恐怖が勝って集中できません!
湧き上がる恐怖心を無理矢理押さえ込んで私は微笑んだ。
「その条件で問題ありません。謹んでお受けいたします」
「……えっ!」
「その代わりに売り上げが勝ったら今までの評価を相殺してください」
少なくともマイナス評価はなくなる。
クラウスさんを除く全員が私の顔を凝視した。
さすがにこの人数から直視されると照れるのだけど……。
「イライザ、集中して?」
すかさずクラウスさんが耳元で囁く。
耳に触れた吐息に一瞬硬直するも表情だけは訓練の成果により崩れていない……と思う。
クラウスさんを軽く睨んでから、視線を前に向けて首を傾げた。
商会長をはじめとした五人は皆、困惑したような表情を浮かべている。
「それは……売り上げが負けた場合に辞めるということだぞ?」
「私の認識でもそうなります。皆様の望みどおりの展開になりますが、問題はありますか?」
「いや今更だが望みどおりというわけでは……辞めたとして、そのあとはどうするのかね?」
「故国へ戻るかもしれませんが、それ以上は特に決めていません」
決めつけるのは時期尚早と、クラウスさんが忠告したはずなのに。
ハートか、スペードか、ダイヤかクラブか……どの手札がお気に召したのかはわからないが、人事部長を除く全員の視線に惜しむような色を見つけて内心でほくそ笑む。
まあ本心ではない可能性もあるけれど、追い込まれた状況では今更だ。
それに……。
「そもそも負けると決まったわけではありませんから」
途端に、なんとも言えない空気が室内を充満する。
勝ち誇ったような彼女と人事部長の表情と対照的に、残る四人は至極残念そうな表情を浮かべた。
単なる強がりと思われたらしい。
それほどに彼女の予想が外れたことはないのだろう。
「未来は決まっていないという戯言に縋るしかないなんて、凡人は本当にお可哀想」
背後で鉄製のトレーが強くしなる音がする、……いやもう本当に怖いから落ち着いて。
彼女は蔑むような色を隠すことなく、ぐっと口角を上げる。
自信があるのはよいことだ。
でも、過信していないかしら?
私には同じような力を持つ二人を比べることができる。
すると明らかにレジーさんのほうが格上なのよね。
途中、彼女は何度も狼狽えた。
自分の知る内容とは違う展開になりそうだったから、だろう。もしかすると彼女が見える未来の期間は限られていて、直近の情報から自分にとって都合のよさそうなものを選んでいるだけなのではないか?
たとえば売れずに残された大量の余剰在庫がその証だ。
対照的にレジーさんの教えてくれた展開は、ここまで全く同じ。
つまり彼女は数多の可能性の中から、一本道を示すことができる。
期間がどのくらい見えるかというのはわからないけれど、少なくとも数ヶ月先まではわかるようだ。
恐ろしい力だと痛感する……見た目も中身も、あんなにかわいらしいのにね。
慌ただしくも楽しかった日々を思い出して、ほんの少しだけ頬が緩む。
エレナさんの発案で行われた女子会では、必ずレジーさんと一緒に寝た。
ちゃんと意味のあることだったけれど、それを知らずに最初は緊張してしまったのよね。
そんな私に、申し訳ないような顔で彼女は眉を下げた。
『もし事前の説明がなかったのなら、ごめんなさいね? ほら、人は夢を見るでしょう? 私の場合は意図せずとも意味のある夢を見ることができる。ただ、より精度を上げるためには直前まで一緒にいるといいみたいなの。エレナ姉さんはそれを知っているから女子会を企画したの。ただ忘れっぽい人だからやっぱり説明していないみたいね……』
『ああ、そういうことなのですね、全然嫌じゃないですよ! 女子会って憧れていたし、おしゃべりしながら眠りにつくなんて最高に贅沢だと思います! レジーさんこそ隣に赤の他人である私が寝てて気が休まらないでしょう? 私のことは枕だと思って、気にせずゆっくり休んでくださいね!』
『枕って……私のこと気持ち悪いって思わない?』
『全然! むしろ心配してくれてありがとう』
『……あのね、レジーでいいよ』
『え、呼び捨てでいいの?』
『うん。敬語もいらないよ。その代わり、またお泊まり会しようね』
あのときのレジーさんは……ううん、レジーは本当にかわいかったな。
虹色の瞳を輝かせ微笑んだ姿は本物の天使かと思った。
扉から様子を伺っていたレイさんも急に真面目な顔つきになる。
『レジーは天使じゃないかと思うんだよ』
『天使でいいと思います! 満場一致で可決です、異議は受け付けません』
『だよな!』
思いがけずレイさんと意気投合した。
正直なところ、レイさんが溺愛するのもわかる。
その天使が太鼓判を押してくれたのだ、信じなくては恐ろしい罰がくだされるだろう。
私は真正面から彼女を見つめた。
「では規定どおりに、発売日から三ヶ月間の売り上げで勝敗を決めるということでよろしいですね?」
「ええ、もちろんかまいませんわ。私の見た未来に間違いはありませんもの」
強がりと完全に決めつけたようで、余裕の笑みを浮かべて彼女は即答した。
私は彼女の隣に立つ人事部長へと視線を向ける。
「異論はございませんか?」
「君には期待していたのに期待外れも甚だしい。不始末を起こすような人間を採用した自分が恥ずかしいよ」
「不始末を起こした覚えはありませんが、ご期待には添えなかったようで残念です」
「彼女に嫌がらせをしておきながら覚えがないとは、人間として欠陥品だな」
人事部長は人のよさそうな仮面の下に冷淡な別の顔を覗かせていた。
面接のときには気がつかなかったけれど毒舌だし表裏の差が激しい人、らしい。
それに彼女に対しても同じように思ったけれど、衆目の前で貶す行為は人として許されることなのかしら?
途端に私の隣に立つクラウスさんから、そこはかとなく冷気が漂ってくる。
人事部長はクラウスさんにも視線を向けた。
「もちろんイライザ嬢が辞めるときには君にも辞めてもらうよ? 理由は監督する人間として不適格だからだ」
「承知しました」
「営業本部の人間にかわいがられて調子に乗っているから、こうなったのでしょうな! なんとも嘆かわしい!」
表情を消したクラウスさんに対し、人事部長は蔑むような苦笑いを浮かべる。
……そうか、営業本部との関係ね。
なんとなくクラウスさんと人事部長を取り巻く裏の事情とやらが読めてしまった。
噂では堅実な人事部と花形である営業本部は仲が悪いらしい。
そういえばと見回せば、この場に営業本部長は呼ばれていなかった。
いわゆる権力闘争の影響みたいなものかな?
営業面でもクラウスさんは目立っていたし、目障りだと思われていたのだろう。
商会長から引導を渡されれば、いくら強気な営業本部長でも人事を覆せない。
これがもし人事部長の狙いであるなら……たしかに彼女と利害が一致する。
それで共闘することを選んだわけか。
人事部長は私たちの前まで歩いてくると私達にだけ聞こえるよう囁いた。
「せいぜい残りの三ヶ月を楽しむことだな……もちろん、針のむしろに座るのが嫌なら今すぐに退職届を書いてもらってもかまわない。最速で処理すれば明日には退職できる」
悪意のなさそうな顔で、悪意を囁くなんて器用なものだわ。
この自信はどこからくるものなのかしらね。
反論すべきかと思ったがクラウスさんの表情を伺って、ここは引くべきと判断する。
「意向は承りました」
「ああ、念のため言っておくが店舗に帰ってから一つでもミスがあれば三ヶ月待たずともその場で即刻クビだ。理由など、あとからどうにでも作れるから心配いらないよ? 人事に関する権利は全て私にあるのだからね」
「ご忠告ありがとうございます」
余裕の表情でクラウスさんの肩を軽く叩くと、人事部長が自分の席へと戻る。
そしてティーカップとソーサーに視線を向けると、不愉快そうに机の端へと押しやった。
結局、最後まで目の前にある飲み物は手つかずのまま残されている。
商会長は軽くため息をつくと、口を開いた。
「それでは結果の判定は三ヶ月後に、……縁があればまた会おう」
まるで縁がなくなると言わんばかりの口調に気がつかないふりをして私とクラウスさんは深々と頭を下げた。
人事部長を除く四人は気まずそうな顔で私とクラウスさんを労ってから部屋を出て行く。
最後に部屋を出た人事部長が彼女をエスコートする姿を見せつけながら意気揚々と退出する。
彼女は鷹揚に頷き、クラウスさんを一瞥してから出て行った。
『逃がさないわ』
去り際に彼女の口が小さく動くのが見えた。
クラウスさんに彼女がどうしてここまで執着するのか?
これもまた謎のままだ。
「ちょっと、あれだけ大口叩いて大丈夫なの?」
「あんな横暴……許せないわ!」
部屋が無人となり、足音が遠くなった瞬間にマリッサ先輩とジェシカさんが駆け寄ってくる。
気が抜けた私は膝から崩れ落ちた。
「っと、大丈夫?」
「緊張が切れたみたいです。ちょっとだけ休ませてください」
難なく抱き止めてくれたクラウスさんに、肩をすくめて、おどけたような口調で答える。
椅子を持ってきてくれたマリッサ先輩にお礼を言って座る。
そして心配そうな表情を浮かべる彼らに微笑んだ。
「まあ、なるようにしかなりませんから。発売日までに準備をして、広告を打って売り込みに行って……あとは上手くいくように満月に祈って成就するのを待ちます」
「それって最後は完全に神頼みじゃないの? 不安しかないわ!」
ははっと笑い飛ばした私に、マリッサ先輩は頭を抱える。
「慎重に行動できる子と思っていたのに喧嘩を売った挙句、祈るしかないなんて計画性も何もないじゃないの!」
「でもけっこう効くんですよ、このおまじない」
なにせ魔女の恩恵と天使の御加護だ。
あとは心残りがないようやれることをやるしかない。
文句を言いながら、マリッサ先輩とジェシカさんが慎重な手つきで茶器を片付けている。
久方ぶりに人の手に触れて、一重咲きの薔薇が嬉しそうに揺れたような気がした。
……リシャール、ようやく私も自分の時間を取り戻せたの。
がんばるから、見守っていてね。
二人が退出したあと、どこか元気のないクラウスさんと二人きりになる。
ちゃんと言わなければならないと口を開いた。
「巻き込んでしまって、すみませんでした」
こんなもの、自己満足に過ぎない。
他人の人生を台無しにしておいて、この程度の謝罪で許されるとは思えなかった。
でも私には助けてあげられる権力もなく、なかったことにする権力もない。
今なら人が権力に固執していく理由がわかった気がする。
下を向いた私の頭をクラウスさんがなでた。
「聡い君なら、さっきの人事部長が言った台詞でなんとなく背景を理解しているだろう? むしろ権力争いの一端に巻き込んだ責任は俺にある。汚泥から君一人守れない、自分の力不足を恥じているところだ。俺のほうこそ、申し訳ない」
「クラウスさん……」
「でもまだ負けが決まったわけじゃないんだ」
表情は優れなくてもクラウスさんの瞳から光は失われていなかった。
安堵する私の手を、彼は強く握る。
いつも私を支えて導いてくれた手……この手を失ってなるものか。
「帰ろう。やるべきことは山ほどある」
「はい!」
手を繋いだまま扉を開けると目の前にはマリッサ先輩とジェシカさんがいた。
ニヤニヤと、それはもう輪をかけてニヤニヤと笑っている。
「あらあら、話は聞いてたけど……そういうことなのね」
「胸焼けで体調が悪くなりそうよ」
私とクラウスさんは、気まずくなって手を離す。
そして、ニヤけた笑みを浮かべるマリッサ先輩とジェシカさんと共に二号店へと戻った。
そこからしばらくは怒涛の準備期間、緻密で膨大な作業が待っている。
刻一刻と貴重な時間が過ぎていく。
与えられた期間は三ヶ月。
発売までの準備期間が長引くほど、こちらが不利になる。
時折、彼女や人事部長からの横槍が入って研修だの出張だのでクラウスさんが不在になった。
そこを狙ったように彼女の元取り巻きから嫌がらせをされたけれど、その都度、支店長やマリッサ先輩を証人に証拠を突きつけて撃退した。
コソコソと証拠なんて集めて陰険だと言われたので、確たる証拠もなく思い込みで断罪されるよりマシですよねと言ったら黙った。
自分がされたら嫌なことをしたという認識くらいは彼らにもあるらしい。
ただ意外だったのは、クラウスさんの同期の先輩は手を出してこなかったことだ。
倉庫に荷物を取りにきた私が彼と鉢合わせしたときは、在庫に何かされたかと焦った。
けれど、彼は潔く謝罪して、もう何もしないと約束してくれたのだ。
それからはクラウスさんが不在の間、さりげなく手伝ってくれる。
ただ、何か裏がありそうで全面的には信用できないけれど……。
だから思い切って聞いてみた。
「それで、どういう風の吹き回しですか?」
「あのときは君がいなくなることで全てが上手くいくと思っていた。邪魔者もいなくなって彼女も好きな人と結ばれることができるし、いいことずくめだと思い込んでいたんだよ」
全てが上手くいく、か。
ダリルさんの時も思ったけれど彼女は周囲にそう思わせるのが得意らしい。
前向きに生きるための原動力となるべき言葉が、他者を排除するために使われる。
言霊の魔女であるエレナさんがこれを聞いたら怒り狂いそうだ。
「……呆れられてしまわれそうだけどね、性懲りもなく彼女が好きなんだ」
ぽつりとこぼれ落ちた彼の言葉が胸に響く……ああ、まるで昔の私みたいだ。
視線がはるか彼方にある景色を眺めるように虚空をさまよう。
思わず、口から言葉がこぼれ落ちた。
「上手くいかなものですよね。自分を好きになってくれる人を、好きになれたらいいのに」
ガタン!
背後で急に物音がしたことに驚いて振り向く。
「イライザ、君は……」
顔色を悪くしたクラウスさんと視線が合った。
ハッとして口元を手で抑える。
今の台詞は、まるでクラウスさんを好きではないと言ったみたいだ。
誤解している、そのことはすぐ気がついた。
でもそれを否定する言葉が、上手く出てこない。
……生まれ変わったとしてもクラウス様はクラウスさんなのよ?
……いいえ、クラウス様と魂は同じでもクラウスさんは別の人なの。
相反する気持ちが拮抗する。
クラウスさんが表情を歪め、背を向けると足早に立ち去った。
「待ってください、クラウスさん!」
追おうとする私の腕を、誰かが掴んだ。
邪魔な手を振りほどくため私は腕に力を込めた。
「どうして邪魔するのですか!」
「……クラウスの傷ついたような顔、はじめて見た」
「まさか! わざと私にクラウスさんがいることを教えなかったなんて言いませんよね?」
「完璧なあいつでも傷つくことなんてあるんだな」
「当たり前でしょう、クラウスさんだって人間なんです! 人は誰でも傷つけば血を流す。体だけじゃない、見えない心だって傷つけばきっと血が流れるのです! ああもう、離して!」
乱暴に手を振り払い、駆け出そうとする私の手を再び彼が掴んだ。
振り向けば先輩は自分がなんで私の腕を掴んだのかわからないといった表情で目を見開いている。
「すまない、思わず……!」
どうして、どうして!
いままで堪えていたものが、急にあふれ出した。
見えない痛みと苦しみを吐き出すように涙がこぼれ落ちる。
「どうして誰も彼もが私の邪魔をするのよ!」
「な、なにを言っているんだ?」
なだめようとしたのか、先輩の手が私に触れようとする。
その手を勢いよく跳ね除けた。
「触らないで、クラウスさん以外の人に触られたくないの!」
「君は……そうか、二人はそういうことなんだな」
なんとも言えない複雑な表情を浮かべる先輩を睨みつける。
「この期に及んで、クラウスさんの浮気だなんて言いふらすなら許しませんよ!」
「……クラウスのお姫様は、見た目と違ってずいぶんと気が強いみたいだね」
お姫様だなんて、調子のいいことを言っても誤魔化されないわ。
黙り込んだ私の目の前に、突然、ハンカチが差し出された。
思いもよらない労わりに満ちた行動。
それを受け取ると、何事もなかったかのように先輩は私の隣を通り過ぎる。
「触れてはいけないらしいから、その代わりだよ」
「あっ、先輩なのに失礼を……」
「いいよ。今まで散々嫌味を言ってきた俺が先輩面するほうがおかしいんだ」
苦笑いを浮かべて、彼は横を通り過ぎる。
すれ違いざまに、どこか懐かしい香りがした。
インクと羊皮紙と、少しだけお日様の匂い。
「お詫びに、クラウスには俺から話しておくよ。そのあとで、ちゃんと自分から説明すればいい」
「わかってくれるでしょうか?」
「俺が嫉妬するくらいに、いい奴だから大丈夫だ」
年長者の余裕というものだろうか。
取り乱して、それが最善か判断できない状態の私は彼の提案にうなずいた。
うしろを振り向いた彼の広い背中に視線が釘付けとなる。
ひたすら背中を追いかけて、でも追いつけなくて……。
最後は追いかけることすら諦めた背中によく似ていた。
「そういえば、先輩の名前を聞いてもいいですか?」
「ああそうか、部署も違うし自己紹介がまだだったよね。色々噂になって君は名前を皆に知られているのに、実は自己紹介すらまだだったなんて、よく考えるとおかしな話だ」
彼女によって悪い意味で有名人にされた私は、相手が私のことを知っているくせに私が相手の名前すら知らないという、なんとも不可解な現象に悩まされていた。
ほとんどの商会員が私のことをよく知っていて、当然のように私も相手をよく知るものだと思い込んで振る舞うから初対面ですとも言い出しにくい。
言い出しにくいが、仕事にも影響するから仕方がない。
先輩は優雅に腰を折った。
装飾品部門の顧客には遡れば先祖が貴族という方もいることから、儀礼の習得は必須なのだと聞く。
知性と繊細さを感じさせる彼の容姿に、その仕草はとてもよく似合っていると思った。
「アレックスだ。これからもよろしく、お姫様」
誰の名前に似ているかなんて不毛なことは、もう考えないことにした。




