イライザと鍵の行方、魔性の女
そして次の日から発注と伝票整理の仕事に戻った。
昨日までは伝票のある部屋は出入り禁止となっていたけれど、今回の件は皆の思い込みによる勘違いだということで決着したのだ、文句があるなら聞こうじゃないか。
口にはしないけれど堂々と申し出れば、何も言わずに美術品部門の先輩のうち何人かが交代で付き添ってくれた。
その先輩達は、どちらかというと彼女とは距離を置いていた人達だ。
表立って庇うこともなかったけれど、嫌がらせを受けたことはない。
ぽつぽつと会話を交わしながら、とりあえず彼女達とならなんとかやっていけそうだと思った。
そして、そこからさらに数日後。
美術品部門の先輩に声を掛け、発注伝票のある部屋へと向かった。
いつもなら倉庫で整理をしているはずの時間帯だから驚かれたけれど、鍵がないことを理由に誤魔化す。
私の一件があってから伝票のある部屋には鍵をかけることになり、貸出簿に記名し部門責任者の許可を得て入室するというルールになったはず。
ところが誰の記名もないのに、いつもの場所には鍵がなかった。
「よく気がついたわね」
「いえ、なんとなく胸騒ぎがして……」
「え、胸騒ぎって?」
「こういう忙しいときに限って伝票の紛失や漏れが発生しがちですよね」
紛失という言葉を聞いた先輩が顔色を悪くする。
私は、にっこりと微笑んだ。
別にこの先輩が悪さをしたわけではないけれど、私のときは見て見ぬふりをした。
我ながら性格の悪い台詞だとは思うけれど、これから起きることの前振りでもあるから仕方がない。
それに巻き込まれるのも私に捕まったのが運の尽きだと諦めてもらおう。
鍵が開いていることはわかっているので、ためらうことなく伝票のある部屋の扉を開いた。
「……!」
「やはり先客がいらしたようですね」
視線の先には伝票を握りしめた彼女の姿があった。
「ここは美術品部門の伝票がある部屋です。装飾品部門の先輩が何をされているのですか?」
彼女は落ち着かない様子で左右に視線を彷徨わせる。
伝票の内容を探ったような跡があって、盛大に床へとぶち撒けられていた。
ああ、ようやく仕分けが終わったところだったのに。
派手に荒らされた伝票の束を見て、私は深々とため息をついた。
彼女はビクッと肩を震わせ、瞳を潤ませる。
この絵面だけ見ると、たしかに私がいじめているみたいだ。
「ごめんなさい! うっかりぶつかって伝票を入れた箱を床に落としてしまったの」
まあ人間だもの、うっかりとかそういう失敗はあるよね。
でもその嘘を信じさせるには場所が悪かった。
「ここは美術品部門の伝票だけが置いてある部屋です。装飾品部門の先輩が何かお探し物でしょうか? よろしければお手伝いいたしましょう」
手伝いを申し出ただけなのに、彼女はとうとう大粒の涙をこぼした。
そういう姿は儚く可憐で庇護欲をそそる。
……可愛らしい女性だからこそ許される特権ね。
どこかのんびりとした気持ちで彼女の演技を眺めていると扉が開いて数人の男性が部屋に飛び込んできた。
そのうち一人は、クラウスさんの同期だというあの人。
その彼が、いきなり私の胸ぐらを掴んだ。
今にも殴り掛かりそうな勢いに怯えた女性の先輩が悲鳴をあげた。
「またおまえか! どうして彼女を虐めるんだ!」
「……いいえ? ここで何をしているのかお伺いしただけですが」
嫌なほうに慣れてしまったらしい。
アルスさんの気迫とかサムさんの殺意に比べれば、そよ風のようなものだった。
掴まれた手は怖いけれど、クラウスさんからは繊細で気の小さい人なのだと聞いているし、何かに取り憑かれているようにも思えるのは気のせいではないだろう。
現状への焦りか、それとも過ぎた親愛の情がそうさせるのか。
私は胸元を掴んだ彼の手をそっと外し、視線を合わせた。
「先輩こそ、大丈夫ですか?」
落ち着かせるように、ゆっくりとした口調で声を掛けた。
私の反応が想定外だったのか、逆に怯えた様子で彼は手を引いた。
別に責めているわけではない、むしろ同情していた。
どれだけ尽くしても、彼女はクラウスさんしか選ばない。
傲慢だといわれようとも報われない思いを大事そうに抱く姿が、かつての愚かな自分を彷彿とさせて心底憐れに思えた。
「お、おまえは何を……」
言葉の続きを促すように、無言で小さく首を傾げる。
すると彼の背後から不機嫌そうな声が響いた。
「君こそ何やっているの? 説明も聞かずに歳若い女の子を怒鳴りつけるなんて、同僚である以前に人として相応しい態度だとでも思っているわけ?」
騒ぎを聞きつけた誰かがクラウスさんを呼びに行ってくれたらしい。
不機嫌そうな顔のクラウスさんは、彼女と彼女を取り巻く男性達を冷ややかな目で見つめる。
第三者には一人の女性を多数の男性が囲んでいじめているようにしか見えないものね。
さあ言い訳を聞きましょうか?
「く、クラウス! だってこの女が彼女を泣かせたから!」
「……イライザ?」
「この部屋にいる理由を尋ねたら彼女が泣き出したのです。泣かせたも何も、理由を聞いただけで泣き出されては会話にもなりません」
「ふん、どうせおまえの言い方が悪かったからだろう!」
「あら、言い方が悪いと言えるということは私達の会話を聞いていたということですね? それなら、泣き出される前に私を止めればよかったのでは?」
「そ、それは直接聞いてはいないが……」
「証拠はないけれど私が悪い。こうなるとむしろ私のほうが被害者でしょうね」
思い込みだけで胸ぐらを掴まれたわけだ。
皺の寄った胸元を指さすと、私の隣に立つ女性の先輩が青い顔で何度も頷く。
相当、怖かったのだろうな。
胸元を掴まれたと知ったクラウスさんの機嫌が急降下した。
「立派な暴力行為だね。言い訳があるなら聞くけれど?」
「だから彼女が泣いていたから……」
「当然、なんで泣いているのか聞いたよね? 理由はなに?」
「それは……」
「まさか本気で何も聞かず決めつけたなんて言わないよね? そうでないと言うのなら誰かその時の状況を説明してくれないかな」
だけど真っ先に反応しそうな彼女は口を閉じたままだ。
取り巻きの男性達も理由を知らないから役には立たない。
一斉に困惑した表情を浮かべた彼らを一瞥し、仕方なく私が口を開いた。
かいつまんで話した内容はこうだ。
鍵がなくなっていたので、施錠を確認しようとしたこと。
そのついでに伝票の整理しようと女性の先輩を誘ってこの部屋来たら、彼女がいたこと。
床に伝票がばら撒かれていたため、彼女に聞いたら箱ごと落としたのだと言ったこと。
そこでお手伝いを申し出たところ、急に彼女が泣き出したこと。
説明が終わって隣に立つ先輩に視線を向ければ、間違いないと短く答えた。
ここまでの説明でどこに泣く要素があるのか、正直なところ私が一番知りたい。
「この場合は無視して扉を閉め警備に通報する、が正解だったのでしょうか?」
「普通はそっちの態度のほうが冷たいって泣かれそうだよね?」
クラウスさんと二人、首を傾げる。
先ほどまでの勢いはどこへやら。
取り巻きの男性達は皆、無言のままで視線を下げる。
それをまずいと感じたのか、彼女は慌てた様子で声を上げた。
「だってこの子が怖かったのよ! また虐められたらって思って……!」
「ほら彼女がこう言っているじゃないか!」
その言葉に、再び勢いを取り戻す取り巻きの男性達。
元気一杯の彼らに睨まれる。
私は深々とため息をついた。
「そこまで言うのなら私があなたに何をしたのか教えてください 。」
「おまえっ、自分が酷いことをしたくせにそれを話せって言うのか? 人でなしが!」
「人でなしはどちらですか? 片方の言い訳だけ聞いて罵倒することが人道的だとでも?」
「なっ、新入りがっ! さっきから口答えばかりして生意気だぞ!」
小学生の喧嘩みたい。
だんだんレベルが下がっていく応酬に呆れて思わず天を仰いだ。
頭に血が上った人達に、今何を言っても無駄なのだろう。
言葉を失った私の様子に何を勘違いしたのか、彼女は潤んだ瞳で取り巻きの男性達を煽った。
「ありがとう、皆が守ってくれるから心強いわ。たぶんイライザさんだってわかっているのよ、いじめは悪いことだって。だから私に辛く当たるの。可哀想だから彼女の言葉を悪く思わないでいてあげて?」
「君は美しいだけでなく、なんて優しい人だ!この女とは大違いだな」
はっきり言うと、ドン引きだ。
男性達のうっとりとした視線と、度を越したような賞賛。
競うように愛を囁く男性達と、私をダシにしてさらに煽る彼女。
男性達はクラウスさんという最大のライバルがいなくなって幸いと口説き落とそうとしているのかもしれない。
笑えない喜劇を前に、隣に立つ女性の先輩が不愉快そうな表情を浮かべ眉を顰めた。
「さっきからイライザさんばかり悪者にして、嫌な感じね」
「面倒ごとに巻き込んでしまって、すみません」
「いいのよ、あなたは悪くないわ。ただ、一旦こうなってしまうと彼らは人の話を聞かないのよ。はっきりさせたいのに困ったわね」
同意するように頷いて、私はため息をついた。
新入りが話すと生意気っていうし、黙っていれば好き放題こちらを貶めることしか言わない。
それと同じ口で彼女を美しく優しいと賞賛する。
美醜や性格の良し悪しは個人の主観だけだ。
どうしてこれほど歪な方向へ偏ってしまったのか。
心底嫌そうな顔をしたクラウスさんが無理矢理話を戻す。
「それでは話を戻すけれど、君はどうしてこの部屋にいるの?」
「クラウス、その言い方はないだろう! 彼女は商会の人間だ、どの部屋にだって出入りができる」
「普通ならそうだろうね。でもイライザの一件があってから他部門の伝票がある部屋には事前の許可なくして出入りが禁じられただろう? 装飾品部門も、もちろん例外ではない」
「それがどうした?」
「この部屋は美術品部門の発注伝票がある部屋だよ? そこにどうして装飾品部門の彼女がいる?」」
「……」
「鍵はどうしたの? 貸出簿に記名した後、確認してもらうことになっているよね? 私は確認していないけれど君は誰に確認してもらったの?」
「……」
しんと沈黙が落ちる。
そうです。
私が泣かせたという前に、まずここがどこか確認すべきでしたね。
土足で踏み躙られ、折れ曲がった足元の伝票を無言で拾っていく。
追随するように、女性の先輩やクラウスさんが伝票を拾ってくれた。
取り巻きの男性達は手伝うこともせず立ち尽くす。
周囲からの無言の圧力に耐えかねたのか彼女は涙目で口を開いた。
「その、床に伝票が落ちていたから拾ってあげようと思って…」
「わざわざ鍵の掛かった部屋を開けてまで、中の様子を確認してくれたということかな?」
彼女はぐっと言葉につまる。
クラウスさんに彼女は嘘をつけない。
それを知った彼が利用しないわけがないのに。
黒い何かの滲む微笑みを浮かべたクラウスさんが彼女の顔を覗き込んだ。
「それで、扉を開けてまで何をしようとしたの?」
彼女は、か細い悲鳴を上げる。
迫るクラウスさんの肩を取り巻きの男性達が掴んだ。
「お前に冷たくされても尽くしていた健気な彼女を疑うのか!」
「彼女の気持ちを踏み躙っておきながら、調子に乗りやがって!」
冷たくされても彼女は尽くしたとか、クラウスさんが気持ちを踏み躙ったとか……。
ずいぶんと自分達にとって都合のいい世界で生きているものだ。
呆れて言葉を失った私の肩を、誰かの手が軽く叩く。
部屋の外には騒動を聞きつけたらしいマリッサ先輩や他の部門に勤める先輩方の姿があった。
「また絡まれてるの、大丈夫?」
彼女達の呆れたような視線の先には彼女と取り巻きの男性達がいた。
ざっと状況を説明すれば彼女達は絶対零度の嘲笑を浮かべている。
ここまでくればさすがに演技だと気がつきますよね。
「何度も同じ手が通用するのは頭の沸いた男性くらいよ」
そのとおりです、カッコいいです……でも怖いです。
美女達の蔑むような視線は集団になるとさらに威圧感が増した。
慄く私に、扉の近くに散らばった残りの伝票を拾って渡してくれる。
お礼を言って受け取とった。
うん、これで証拠は揃ったわね。
「何をしようとしたのか、説明できるかもしれませんよ?」
混沌とした場に、一石を投じた。
聞き苦しい怒号の止んだ屋内に私の淡々とした声だけが響く。
「部屋に入ってきた時、床には発注伝票が散らばっていました。日付けがバラバラになっているので一見するとわかりにくいですが、裏を見てください」
「……右下に、小さく番号が書かれているね」
分母に全体の枚数を書き、斜線を挟んで分子に何枚目の伝票になるかを記してあった。
クラウスさんは、にこりと微笑む。
相談した時点で何のためのものか知っているのに、今更気がついたふりをしてくれる。
意外と腹黒い……っと、お茶目なところがありますね。
「はい、こうして通し番号を振っているのです」
「何のために?」
「これでどの伝票が紛失したかがわかりますから」
誰かの、息を飲む音がした。
繁忙期ほど枚数が多くはなかったので、どの番号がなくなっているのかすぐにわかる。
「この束は昨日のもの、集計した時点では三十六枚の伝票があります。手元に戻ってきた伝票は三十五枚。そして裏面の通し番号をみれば二十八番の後に、三十番が続いていますね。つまり今、この束には二十九番の伝票が欠落しているのです」
私は彼女の右手に固く握り込まれている伝票を指した。
人々の視線が彼女のほうへと集中する。
「あなたの手に握られているもの、それ伝票ではないですか?」
その瞬間、彼女の口元に仄暗い笑みが浮かんだ。
悪意に満ちた表情に確信する。
やはりレジーさんの言ったとおりだったらしい。
彼女は一瞬浮かんだ黒い笑みを隠し、困惑した表情で手を開いた。
「いいえ、これは……。」
「……と、見せかけておいて本当は左のポケットから頭を覗かせているそちらの伝票が本命ですね」
彼女の口が、あんぐりと開いた。
顔色は青を通り越して、血の気の失せた白になる。
「その手に握るのは、私の勘違いと思わせるための模造品です」
そう被せるように答えると彼女の手のひらから虚しく白紙の伝票が滑り落ちた。
クラウスさんが彼女のポケットに手を伸ばし、そっと伝票を抜き去る。
ひっくり返した伝票の裏面には、私の筆跡で二十九という番号が記されていた。
マリッサ先輩が驚いた表情を浮かべた。
「よくわかったわね!」
「……ここだけの話、ほとんど当てずっぽうです。これ内緒ですよ?」
小さい声で囁くように答えると、マリッサ先輩は満面に笑みを浮かべて頷く。
そして今の会話が聞こえていたのだろう、背後に仁王立ちするお姉様達の圧力がすごい。
叩き潰せ?
今こそ首取ってこい?
幻聴かと思いきや、どうやら背後に立つお姉様達の心の声らしい。
……こ、これは期待されているということでいいのかな?
「クラウスさん、今あのノート持っています?」
「もちろん持っているよ、大切なものだからね」
クラウスさんに預けたノートを受け取る。
そして該当のページを開いた。
「二十九番の伝票は大口の発注ですね。展示会で使われると聞いていますので一品一品の個数は多くありませんが、その代わり品数は桁違いです」
「まさか、それって……」
「美術品部門の先輩方が一丸となって獲得してきた、あの受注ですよ」
彼女の顔から表情が抜け落ちた。
発注者である美術品部門の先輩方が呆然と彼女を見つめている。
私の手元のノートには発注内容や相手先の会社名などが記されていた。
契約の際、発注伝票の控えのほうを注文先へと渡し、原本は商会が保管する。
このノートは伝票の内容を写した控えのようなものだ。
「この受注が失敗したら、サジタリウス商会は大打撃を受けるでしょうね」
カヴァレの件など霞んでしまうほどの失態だ。
売り上げという面でももちろんだが、信用という財産がガタ落ちとなる。
「当然、責任を取らされる人間が出るでしょう」
痛いほどの沈黙が落ちる。
発注前に受注伝票を紛失したということになれば、私ももちろん辞めさせられるかもしれない。
でも実質的に責任を取らされる立場になるのは別の人間だ。
外部との折衝を任され、他の従業員からも信頼が厚く、ある程度他社にも顔の知られた人物。
責任を負うことで、得意先に謝罪の気持ちが通じるようなそんな人物でないといけない。
それを私のような新人に求めるのは荷が重い。
つまり、狙いは別の人間のクビだ。
この場合は二号店を任されている支店長、もしくは。
「教えてください。ここまでするほどクラウスさんへ執着する理由は何です?」
その瞬間、無言を貫いていた彼女の頬に朱がはしる。
忌々しそうに唇を噛んで、私の顔を睨みつけた。
脳裏に、クラウスさんの台詞が蘇る。
……仕事を辞めたって彼女がついてこないという保証はないだろう?
……商会の上層部と繋がりが強いし、再就職を邪魔されたらそちらの方が面倒なことになりそうじゃないか。
危うく彼の懸念が的中するところだったわけだ。
「そんな……君が、どうしてそんなことを?」
取り巻きの男性達が信じられないものを見る目で彼女を見つめた。
何をしようとしたのか、状況は明白。
ここまでくれば、さすがに頭の沸いた男性達でも理解できたらしい。
視線を逸らしたまま、彼女はただ唇を噛む。
黙り込んだ彼女にクラウスさんが容赦なく追い討ちをかけた。
「これでもまだやっていないというのなら、そう主張すればいい。実際に冤罪だったイライザは、ずっと無罪を主張し続けていたじゃないか。それと同じように俺の前でも遠慮せず無罪を訴えればいい。そうすれば人望ある君のことを皆が助けてくれるだろう。さあやっていないのなら、やっていないとそう言ってごらん?」
「私は……」
彼女が言葉にできたのは、それだけだった。
残念なことに、クラウスさんの前では無言が肯定になる。
居心地の悪い沈黙が周囲に満ちた。
もう頃合いだろうか。
私は、歩み寄って彼女の手を握った。
純粋に心配しているふうを装って、彼女の耳元で囁く。
「『ほんの出来心で悪気はなかった』、そう答えるつもりなのでしょう?」
弾かれたように顔を上げた彼女の表情が、たちまちのうちに憎しみに彩られ歪んだ。
この台詞もレジーさんが教えてくれたとおりなのね。
彼女から託されたメモ書きには、伝票が抜き取られる日付と時間が記されていた。
相手がどんな台詞を言うかや、手に握り込んだ伝票は白紙で本物はポケットに忍ばされているということも。
そしてメモにはそれだけでなく別の日付や時間も書かれていたのだ。
他にも同じことをやる可能性がある、ということなのだろう。
だから私は今日という日に絞って仕掛けたのだ。
理由は彼女の未来を知っていると思わせるため、そして同じ手は通用しないという牽制でもあった。
それに今日阻止したことで、この後起きるはずだった未来も変わってくるはず。
……これが最後の機会なら、少しでも多く最大限の効果を得なくては。
だから私は危険を冒して彼女に触れた。
途端に、流れ込んでくる心の声。
やっぱり、近くにいるほど声がはっきりと聞こえるのね。
そして発動する鍵となるのは、怒り。
自分だけでなく相手の心が怒りに支配されたときも、心の声は聞こえてくるものらしい。
『この女、やっぱり六つの月と関係がある……一人始末したはずなのに、未来視が残っているとは厄介なこと。全員を始末するように、彼らへ伝えなければ……の末裔へ』
六つの月、それから何かの末裔。
一人始末したというのは、エレナさんのことだろうか?
そこでふつりと言葉が切れた。
心を閉ざした彼女は両手で勢いよく私を突き飛ばす。
突然のことに誰も反応できない中、クラウスさんだけが私の体を難なく受け止めてくれる。
表情を失った彼女は、無言のまま部屋を出て行く。
部屋には、呆然とした表情の男性達と呆れた表情を浮かべる人達が残された。
「これだけの騒ぎを起こしておきながら謝罪もないなんて、後始末する身にもなって欲しいわ」
マリッサ先輩が頭を抱え、ぼやく。
同感です。
それから一週間ほど経ったところで、クラウスさんから彼女が本部へ異動となったことを聞いた。
「先日の件で居心地が悪くなったから出て行ったのだろうね。相談も引き継ぎもなく突然だったから、マリッサが無責任だって怒り狂ってたよ」
女王の凋落。
今までが高く持ち上げられていたために堕ちると落差も激しい。
信頼の失墜した今は、腫れ物に触るようで誰も彼女のことを口にしなくなった。
そして取り巻きの人達は彼女のためという理由でやりたい放題だったらしく肩身の狭い思いをしている。
彼女もあそこまで煽って執着させるなら一緒に連れて行ってあげればいいのに、ずいぶんと冷たいものだ。
一番彼女と仲の良かったとされるクラウスさんと同期の先輩は、あれから体調を崩したそうで仕事を休んでいた。
自業自得な面もあるけれど、報われないものね。
昔、どこかで聞いた当て馬という言葉が脳裏をよぎる。
それにしても彼女の突発的な行動は表向き衝動にかられたように思えて、どこか計画的だ。
突然の人事異動、その異動先が上層部のいる本部。
なんでだろうか、嫌な予感がする。
まるで嵐の前の静けさのような……。
最後に見かけた日、心を閉ざそうとも彼女の体から滲み出る憎悪は強く感じていた。
私には彼女がこの程度でクラウスさんを諦めるとは到底思えなかった。




