イライザと美しい微笑
許さない。
決して許してはならないと、過去が怨嗟の声を上げる。
……さあ、心のままに。
脳裏にケイトさんの言葉が蘇る。
ぐらぐらと煮え滾った怒りを吐き出すため口を開こうとした、そのとき。
怒りに支配された私の背を誰かの手が触れる。
ハッとして、寄り添うように触れた手の先を見上げると心配そうにこちらを見つめる彼と視線が合った。
「……クラウスさん。」
「大丈夫?」
労るような手つきと、ほのかに伝わる温もり。
じわりと、胸の奥からほろ苦く甘い感情があふれ出る。
こういうところは前世の彼らと同じ。
そう思うと、懐かしさと同時に胸が震える。
「……すみません、取り乱しました」
「この状況じゃ仕方ないよ、よく我慢したね」
怒りは急速に冷めて、彼らの私を罵倒する心の声がぷつりと切れた。
クラウスさんは、彼女の取り巻きを一瞥する。
その冷え切った視線が想像していたものと違ったからだろうか、とまどうような空気が周囲に流れた。
クラウスさんは彼女に向き直ると淡々とした口調で話しかける。
「それで? 目配せされても私には君の言いたいことがわからないのだけど、何が言いたいの?」
突き放すような言い方をするから、ちょっと驚いてしまった。
彼女も同様だったようで、あまりの冷たい口調に顔色を悪くしてうつむく。
すると取り巻きの一人が怒りの表情を浮かべてクラウスさんを怒鳴りつけた。
「おまえ、婚約者だろう! どうしてそんな冷たい言い方するんだよ!」
あの男性は……と記憶をたどる。
彼はクラウスさんとは同期であり、私にとっては先輩にあたる。
彼女とは度々仕事をする機会があって装飾品部門で最も親しくしていると聞いていた。
クラウスさん曰く、昔は彼と仲が良かったのだけれど、彼女のことがあって今はギクシャクしているのだとか。
おそらく彼は本気で彼女のことが好きなのだろう。
……誰かのものになってしまえば、いやでも諦めがつくというのに!
もれ聞こえた彼の心の悲痛な叫びが、痛いほど理解できる。
だからいつまでたっても彼女と結ばれないクラウスさんが腹立たしいのだ。
どうして、こんなにすれ違うのだろう。
自分を好きになってくれる人を好きになれたらいいのに。
先輩と向かい合うクラウスさんにも怒鳴る声は聞こえているだろう、それでも彼は彼女から視線を外さなかった。
「君とは婚約してないと、いつもそう言っているよね?」
彼女が、か細く悲鳴を上げる。
先輩がクラウスさんの胸元を掴んだ。
「おまえっ、どうしてそこまで彼女の心を踏み躙ることを言うんだよ!」
「本当に婚約していないからだよ。君に聞かれたときもそう答えたじゃないか、彼女も同席していた場でね」
「あれは……なんだよ、今までさんざん婚約者面しておいてそんな言い訳信じられるか! 浮気者の、クズが!」
今のままでは本当に殴り合いの喧嘩になりそうだ。
彼女が涙を浮かべて懇願する。
「もうやめて! 私のために争わないで!」
……え、今の本気で言いました?
悲劇のヒロインでも気取っているのか、あまりにも馬鹿馬鹿しくて吐き気すらした。
目の前で繰り広げられる昼ドラも真っ青な愛憎劇(笑)に周囲の反応は様々だ。
クラウスさんを悪し様にいう人、彼女に懐疑的な視線を向ける人、そしてただ興味本位で様子を伺う人。
隣に立つマリッサ先輩は他の男性と一緒に、クラウスさんに掴みかかる先輩を止めている。
そして支店長は……必死に冷静さを取り繕うような表情を浮かべている。
そのわりに瞳の温度は冷ややかなままだ。
評判どおりの人ではなさそうだし、先ほど彼女を煽ったのも意図的にだったような気がする。
だとすれば私達に何をさせたいのだろう?
もしかして、集中すればどうにか心が読めるかな。
彼に対する怒りはないが心の声が聞きたいと、そう意識して支店長を見つめる。
だけど当然のように心の声は何も聞こえない。
ダメか……諦めたところで視線を感じた支店長と目が合った。
彼は首を傾げて、にっこりと微笑む。
見間違いなどではない、あれは見極めようとする人間の目だ。
どうしよう、あの表情は絶対何かに気がついている。
実は魔女の存在を知っている人で、魔女かと疑われたら、どうしよう……?
血の気が引いて、でも恐怖から視線を外せない。
すると彼はうっすらと笑って、声を出さないよう口の形だけを動かした。
……やれば?
支店長の唇の動きからそう読めたけれど、何をやればいいかわからない。
固まってしまった私の目の前では淡々と受け流すクラウスさんと、責める先輩の攻防は続いている。
そして止めるよう懇願する彼女の口元が、ほんのわずか愉悦に歪むのを見た。
思わずムッとする。
あえて愛憎劇に首を突っ込む趣味はない。
脳裏に一瞬だけ家族の顔が浮かんだけれど、心の中で謝罪する。
……ごめんね、あれだけ見栄を切って国を出たけれど出戻るかも。
炎上している修羅場に、あえて燃料を投下するのだ。
それだけの覚悟がなければ踏み込めないほど場は荒れていた。
私は息を吸い込んで、タイミングを計る。
「信じますよ」
たった、一言。
呼吸を合わせて、怒鳴り合う声の隙間に差し込んだ。
これ王女時代によくやったのよね。
熱くなりやすい性格が揃っていたせいか、紛糾する家族会議の場で物申すに役立った。
横槍が想定外だったのか、場がしんと静まり返る。
その機会を逃さず、手短に繰り返す。
「私は、クラウスさんを信じます」
彼女の顔が不愉快なものを聞いたとでもいうように歪む。
彼女は、この場において女王だ。
絶対的な権力者である女王への反逆。
じわりと言葉の意味が浸透して、皆の表情が呆然としたものに変わる。
クラウスさんも、マリッサ先輩もだ。
そんなに意外かな?
首を傾げると、彼女の取り巻きの一人が吐き捨てるように言った。
「頭の悪い女だな、空気読めよ!」
「なんで私に優しくもない空気に従わねばならないのです? 今回の件、私は終始やっていないと主張していました。ですがクラウスさん以外は誰も私を庇ってはくださいませんでしたよね? そして支店長の仰るとおりであれば、結果として私の失敗とされたものは皆さんの思い込みと勘違いということになります。想像できませんか? 他人の思い込みと勘違いで罪をなすりつけられた人間がどれほど惨めな気持ちになるか。皆さんが自身の思い込みや勘違いの果てに口を聞いてさえくれない中、それでも最後まで信じきってくれたのはクラウスさんです。そんな彼の言い分を、私が信用すると言って何がおかしいのでしょう? 商いは信頼できる方と取引をするものです。信じる相手の意見を正しいと判断することが間違っているというのなら、どこが間違っているのか教えていただけませんか?」
一気に畳みかけると相手はぐっと言葉に詰まる。
体を張って私をかばってくれたクラウスさんと、私を疑うだけで聞く耳を持たない彼女と取り巻き。
どちらを支持するかなんて、決まりきっているからだ。
「……本当、愛嬌も可愛げもない最低の女だな」
「この状況ではむしろ褒め言葉ですね、光栄なことです」
聞かれたら何度でも答えるが、私は平和主義だ。
売られた喧嘩しか買わない。
私は、あえて一歩前に踏み出した。
そしてクラウスさんをかばうように立ち塞がる。
「私は、私を最後まで信じてくれたクラウスさんの言葉を信じます」
「イライザ、君は……」
安堵したクラウスさんの声は語尾がかすれて、甘やかに響く。
彼女が険しい表情で私を睨んだ。
そしてクラウスさんに掴みかかった先輩が私を睨みつける。
「新人で何も知らないくせに生意気な! 部外者が口を出すな!」
「皆さんはそんな新人に責任を負わせたのです。責任を追求する相手を部外者とは呼べませんよ?」
視線を合わせたまま、さらりと皮肉る。
先輩はぐっと言葉に詰まった。
それでも彼は見下すような表情で笑って、口元を歪める。
「ならば教えてやるよ、彼女とクラウスは何年も前から婚約しているんだ! 若さだけが取り柄の田舎娘ごときが、割って入れるほど安い関係じゃないんだよ!」
「だから彼女とは婚約してないって、いつも言ってるだろう!」
相手の言葉を遮るようにクラウスさんが強い口調でそう答えた。
声を荒げることのない人なのに珍しいことがあるものだ。
「私……俺は皆のまえで、彼女とは婚約していないと何度も何度も言っていただろう⁉︎ どうして君達は彼女の言葉しか信じないんだ? どうして俺の言葉を信じてくれない?」
悲痛な、苦悶に満ちた表情。
穏やかな態度のクラウスさんしか知らない人々は仰天する。
クラウスさんの胸元を掴んでいた先輩もその一人だった。
「クラウス……」
「なんと答えれば君は……君達は皆、俺の言葉を信用してくれるんだ⁉︎」
心に突き刺さるような、悲痛な叫びだった。
胸元を掴んでいた先輩の手が、力を失い垂れ下がる。
私は口を開いた。
「皆さんがクラウスさんの言葉を付き合っていることを誤魔化すためだと、歪めて解釈するようになったのはなぜですか?」
「……それは」
「事実かどうかは関係なく、ただ自分にとって都合のいいほうの言い分を鵜呑みにしたからですよね?」
取り巻きにとって彼女の言葉は正しくなければならなかった。
彼女の言葉を疑うことは、彼女の予告した未来を疑うことにもつながる。
そのとき、うつむいていた彼女が顔を跳ね上げた。
重く暗く、やり場のない不満が渦巻く空間を彼女の叫び声が切り裂く。
「どうしてっ、どうして今更そんなこというのよ!」
その台詞に聞き覚えがあって、思わずため息をついた。
私と彼女では、取り巻く状況も心境は大違いだ。
彼女は、まるで縋りつくかのようにクラウスさんへと手を伸ばした。
その仕草によって、かつては婚約しようと約束したのに彼が裏切ったとでも周囲に思わせたいのだろうか。
そして私が二人の愛を引き裂いた悪役だとでも?
冗談じゃない。
そこまでして、彼を縛りつけたいの?
脳裏には、愉悦に満ちた表情を浮かべる妹と第二王子のにやけたような顔が浮かぶ。
ダレルも、アレクシス様も。
どうか自由に生きてほしいと、そう願って彼らの手を離した。
命を落とす羽目になってしまったけれど、その選択だけは今でも間違っていないと思っている。
だからこそ、彼女の自分の欲望にだけ忠実な態度が余計に許せなかった。
クラウスさんに伸ばされた彼女の手を遮るように立ち塞がる。
その仕草が気に入らなかったようで、カッとなった彼女は手を振り上げた。
「どこまで邪魔する気なのよ!」
振り下ろそうとした手は誰かに阻まれたけれど、私は目を瞑ることも逃げることもしなかった。
ただ真っ直ぐに彼女の目を見返す。
「一つ、確認させていただきたいのです」
そして振り上げた彼女の手と反対側の手の指先を指し示す。
「私はあなたから直接、クラウスさんとお付き合いをしていると聞いています。同時にクラウスさんが二人の将来を考えていて、その左手の薬指にはめている指輪をくれたと聞きました。いつ、どのような状況でそれをもらったのですか?」
皆の視線が指輪に集中する。
私以外にも広めていたようで、ほとんどの商会員がうなずいた。
ところが彼女は真っ赤になって振り上げた手を引っ込めると、慌てたように指輪を隠す。
クラウスさんは驚いて目を見開き、深々とため息をついた。
「俺があげたものではないよ。付き合ってもいない相手に指輪を贈るわけがない。それに皆もわかると思うけれど、そういう現代的なデザインは俺の好みではない。俺は自分の趣味に合わないものを大切な人には贈らない主義なんだ」
全員の驚いたような視線が彼女に突き刺さる。
私は正直なところ、クラウスさんの話を聞いた時からそうだろうなとは思っていた。
どれだけ強請られたって自称婚約者に指輪なんていう一番誤解されやすい物を贈るとは思えないもの。
……それにだ。
第二ギルデ港からの帰り道、車内での会話を思い浮かべる。
クラウスさんは、愛する人を自分の選んだ物で飾りたいと思うタイプ。
相手の好みを邪魔することはないけれど、馴染ませるように自分の愛する物を添えたいと願う人だ。
そしてさりげなくそれができる、抜群のセンスを持ち合わせた人だということもわかっていた。
悔しいけれど彼のセンスがいいことは認める。
『今は無理でも、いつか俺を好きになってくれたら嬉しい』
彼女の指輪が彼の贈った物ではないと予想がつくくらいには、彼の興味を持っていたということか。
嫌だな、ほんとチョロ過ぎるよ私。
視線を戻せば、彼女はうつむいたまま無言を貫いていた。
表情は見えないけれど彼女の偽りの愛に終止符を打とうとする私を心底恨んでいるに違いない。
「私に指輪を見せながら、あなたは言いました。クラウスさんは優しくて面倒見がいいから誤解させていたなら申し訳ないって。ですから誤解を解くためにもお互いの認識を確認されてみてはいかがでしょう?」
「彼は私のものよ!」
追い詰められても決して彼女は引かない。
本当に、好きなのだろう。
愛と呼ぶには歪でも、彼女にとってはかけがえのないものだった。
「では、愛に満ちた言葉をクラウスさんに言ってください。婚約者であれば容易いことです」
「……」
でもその愛が、彼女を追い詰める。
彼女は唇を震わせるだけで決定的な言葉を紡ぐことはできなかった。
遠巻きにしている人だけでなく、取り巻きの人達にも動揺が広がっていく。
これだけ独占欲が強いのに、彼女がクラウスさんに直接愛を囁いている姿を見たことがなかった。
見せつけるような思わせぶりな態度だけに留めていて、それを周囲はクラウスさんに配慮して健気に慎ましく振る舞っているのだと解釈していたようだが、たぶん真実は異なる。
彼女の心の声が明瞭に、そして途切れることなく私の心へと流れ込んできた。
たとえこの世界で二人きりでも『愛してる』なんて言えないわ。
彼という存在は欲しくても、愛しているとは言えない。
愛していると言えない理由は、ひとつ。
「あなたはクラウスさんに別の誰かを重ねているのですね」
「ち、違うわ! どうしてそんなひどいことを!」
彼に執着するのは、愛とは別の理由があるから。
否定すればするほど、肯定しているように聞こえるから不思議だ。
取り巻きも、その他の商会員も顔色は真っ青だ。
「あなたはクラウスさんを愛していないのですね」
愛しているとはいえない。
だから彼女はクラウスさん以外への嘘と思わせぶりな言動で外堀を埋めていくことしかできなかった。
知られたくなかったとばかりに彼女の目が見開かれ、次々と涙がこぼれる。
もしかするとクラウスさんにだけ嘘をつけないのかな?
そういえば厳しい制約を課すことで効力を増すという記述が賢者の残した書物に記されていたか。
残されていた王女時代の記憶が……人ならざる者の力に関する知識が脳裏に蘇る。
なぜこんなややこしい制約を自分に課したのか。
愛しているという言葉はなくても相手から愛されるという過信があったからか。
いずれにせよ、この状況では悪手でしかない。
残酷だと気づきながらも、私は決定的な言葉を紡ぐ。
「ここにも、思い込みと勘違いがあったようですね」
彼女にとっては唯一無二の愛。
それを私は思い込みや勘違いだと断じた。
クラウスさんという光を失った彼女の瞳に、憎しみという炎が宿る。
完全に逆恨みだけど、言っても聞き分けはしないだろう。
それなら恨んで、心の底から憎んで……クラウスさんを忘れてしまうくらい私を憎むといい。
彼の欠片すら、あなたの心に残すものか。
彼女が口を閉じたことで、場に沈黙が落ちる。
支店長は憐れむような顔で口を開いた。
「……そうだね、勘違いならば仕方ない」
誰からも反論する声は上がらなかった。
支店長は彼女の背に手を添える。
「クラウス君も交えて、応接室で状況を整理しようか」
「私も付き添います」
「俺も行かせてください」
マリッサ先輩と、クラウスさんと同期の先輩が付き添うことになった。
応接室の扉が閉まる前、心配そうに見つめる私にクラウスさんは少しだけ微笑んだ。
ありがとうと、そんな言葉が聞こえてきそうな美しい微笑みだった。
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「そう、そんなことがあったのね。それにしてもイライザったら、がんばったじゃないの!」
「うん。でもしばらくは私への風当たりは強いままだと思うのよ。だからレジーさんの懸念するような無茶振りはないと思う。ああ、でもレジーさんの言葉を疑っているわけではなく、今はそんな雰囲気ではないというだけで……」
「ふふ、大丈夫よ。気にしていないわ、私もレジーもね」
何杯目か忘れてしまったけれど、エレナさんがコーヒーのおかわりを頼む。
注がれるコーヒーの香りが労るように二人を包む。
私は色々な感情を吐き出すように、深く息を吐いた。
「でもまだ気持ちのほうがついていかないというか、なんだかもやもやしていて」
正直なところ彼女だけでなく、他の商会員とも何事もなかったかのように付き合うのは難しい。
向こうも気まずいらしく、話しかけると答えてくれるようになったが目を合わせてはくれない。
「感情はそう簡単には割り切れないものだからね。他人に向ける憎しみや愛は常に一定ではなくて、割合が多いほうに傾くもの。守られたり大切にされれば深い愛を感じるだろうし、裏切られたり傷つけられたら強く憎むようになる。血の繋がりがなくとも隣人愛というものもあるそうだから、愛も憎しみも全く感じないのは見ず知らずの他人くらいだよ。心配しなくても大丈夫。完全に同じではないけれど縁さえ繋がっていれば取り戻せる関係もあるし、新たに繋がる縁もある」
「そうか、新たにつながる縁ね……」
「ん、他に何かあった?」
「あ、ううん。ちょっと色々整理のつかないことがあるだけで……。」
話そうかどうしようか迷ったけれど、なんとなく言葉にできなくて黙り込む。
エレナさんは首を傾げたけれど、それ以上は特に追求されることもなかった。
さて彼の目的は、何なのだろうか?
お楽しみいただけるとうれしいです。
更新間隔が開きます。




