イライザと一粒の涙、どこか懐かしい名前
シュトラウスさんと部下の男性は顔を青褪めさせた。
取り繕う余裕もなく、先輩はクラウスさんに捲し立てる。
「どういうこと?彼女の今までの失敗は誰かのものを擦り付けられたって言いたいの?それはさすがに言い過ぎじゃないですか?!根拠もなく、一方的にイライザさんを庇って、皆の仕事に対する姿勢を軽んじていると取られても仕方のない台詞ですよ?それをわかって言ってるんですか?!」
「君がやっていないのは知ってるし、全員がやったとも言わない。だけど状況的にイライザでは難しい失敗も彼女のせいと処理されているのは君も気付いているだろう?気付いていて、見ないふりをしている。もし気付けないのなら…それは管理者として不適格である証だ。」
心当たりがあるのか、言葉に詰まった先輩は顔色を悪くして黙り込む。
皆、一緒に仕事をしてきた仲だ。
彼らを疑いたくない気持ちはわかる。
でも彼女は忘れていた。
目の前に私がいる事を。
「先輩、私は”やっていない”とずっと訴えています。それでも私を疑う根拠は何ですか?」
「っ、それは…。」
「つまり根拠はなくとも他の人は信じられる。けれど、根拠がなければ私は信じないという事ですよね。」
先輩は、気まずそうな表情を浮かべて視線を逸らす。
この人は私と他の従業員を天秤にかけて、彼らの方を信用した。
目の前にいる取引先の従業員が嘘をついていたと聞かされても、まだ私が信じられない。
…私の何がダメだったのかしら。
小さく痛んだ胸を、そっと押さえた。
気遣う視線を私に向けたシュトラウスさんが心を決めたように口を開く。
「実はもう一つ、お詫びがあるのです。」
彼はちらりと部下の男性に視線を向ける。
男性は完全に下を向いていた。
シュトラウスさんは鞄の中から一枚の注文書を取り出す。
見慣れた様式はサジタリウス商会の注文書だった。
注文書には装飾品部門の担当者名と、注文したと思われる商品がずらりと並ぶ。
先輩の名前や、先輩以外の担当者の名前もあった。
日付けは先々週のもので、まとめ買いされたお客様専用の注文書のようだ。
「私は初めて見る注文書です。」
間髪入れずに、見た事がないと否定する。
当然だ。
何度も言うように装飾品部門は担当外なのだから。
それに倉庫の整理にかかりきりで、注文内容を知る機会がない。
今までの確執から先輩方自ら教えてくれるなんてことも絶対にあり得ないことだった。
「まさか…これも?!」
注文主の名前を見て先輩は悲鳴を上げた。
そして指先で一つずつ商品の発注状況を確認する。
その指先が、下の方でピタリと止まった。
「まさか…発注漏れ?え、取消…イライザの名前で?日付けは、先週末…嘘でしょう?!」
赤い字で“取消”の文字が書かれて、イライザの名と日付が並ぶ。
先輩は私の方を勢いよく振り向いた。
「貴女、どうやって…。」
「何もしていませんよ、先輩。何度も言うように、私は、やっていないのです。」
噛んで含めるように、まるで聞き分けがない幼児に教え諭すように、私は言葉を紡ぐ。
シュトラウスさんは沈痛な面持ちで口を開いた。
「注文書には一部品薄の商品が含まれていました。品薄状態が解消されてから発注しようと思っていたのを失念していたそうです。それに気がついて…彼はイライザさんの名を使い、取消処理をしました。」
「…その時、行為を後押しするような第三者からの電話はありましたか?」
「いえ、なかったそうです。つまりこれは彼個人の判断によるものです。」
私の問いに、間髪入れずにシュトラウスさんは答える。
『どうしてこんな理由が何度も通用すると思ったのか。』
彼の台詞はここに繋がっていたのね。
視線の先には、今やもう顔色が青を通り越して真っ白になってしまった男性が小さくなって座っていた。
故意があってのことで、悪質。
クラウスさんは、先輩と向かい合う。
「今回の件が発生した時、『甘やかすから、彼女が成長しない』と君は言ったね。中傷を受け、自力では解決困難な状況に置かれている彼女を放置しておくことが指導と呼べるのかな?それに私は言ったよね、『もし違ったら、君達は彼女に謂われのない罪を負わせることになるけれど、その覚悟は当然できているということだよね』、と。さて彼女が冤罪だということが確定した今、君の覚悟とやらを聞かせて欲しい。」
クラウスさん、相当怒っているらしい。
口調は丁寧だけど台詞には嫌味が溢れている。
先輩は言葉を探すように、何度も口を開いては飲み込む。
何も言えないだろうな…何を言っても免責にはならないもの。
私の名前が免罪符として使われていたなんて、真っ直ぐな性格の彼女は欠片も想像もしていなかったのだろう。
だから何の抵抗もなく彼女の言葉を信じた。
『イライザさんがやったから、間違っていても仕方がない』。
やがてそれが、『間違ってもイライザさんのせいにすればいい』に変わるまで、たいした時間も根回しもいらないということだ。
結局、言葉は見つからなかったようで、先輩は無言のままに視線を逸らした。
私は苦笑いを浮かべる。
私は今、どんな表情をしているのだろう。
さぞかし酷い顔をしているに違いない。
信じてもらうことが難しいなんて、嫌になるくらい知っているのに。
そして信じてもらえないことなんて今更のようなもので、痛みなど知り尽くしたはずなのに。
それでもまだ、心は傷つくのか。
力任せに握った手のひらには血が滲んでいた。
手のひらと同じくらい心が痛い。
心もまた、同じように血を流しているのだろうか。
ただ悲しくて、全ての努力が虚しく思える。
悲しみに押し潰されそうだった。
そんな血の滲む手に、誰かの大きな手が重なる。
「大丈夫だよ、私は君を信じる。」
クラウスさんの手だ。
慈しむような視線と共に、悲しみを解きほぐすかのように柔らかく添えられた手の温もり。
この人は、いつも温かい。
一粒、涙が溢れた。
すると場の空気が一変する。
呪いが解かれた日のように、柔らかな空気が辺りを包んだ。
もういいのだと、誰もが許された時のようなような安堵の表情を浮かべている。
「…ごめんなさい。」
弾かれたように隣を見れば、ぽろぽろと涙を流す先輩の姿があった。
本人も混乱しているようで、彼女の目から止めどなく涙が溢れる。
「ちゃんと謝ろうと思ったのに、どうしたのかしら?涙が止まらないの。」
「あれ、本当ですね…私もです。」
「いい歳をした大人がみっともないわ。」
「それなら私も皆さんの前で泣いちゃいましたから、お揃いですよ。」
先輩と顔を見合わせて、恥ずかしそうに微笑む。
ちょっと前まで、先輩とはこんな気安い雰囲気だったよね。
もう遠い昔のことと諦めていたけれど、どこか懐かしくて、嬉しくて。
止まったはずの涙が、また滲んだ。
「っおお、おいっ君、大丈夫か?!」
狼狽えたようなシュトラウスさんの声に視線を向ければ、部下の男性も同じように涙を流していた。
ただ静かに、彼の頬を涙が伝う。
「俺は、どうしてこんなことを…。」
…男の人も泣くのね。
こんな当たり前の事が気になる時点で現実逃避だ。
クラウスさんが苦笑いを浮かべながらハンカチを差し出すと、彼は丁寧にお礼を言って受け取る。
彼も根は素直な人みたい。
なんだか微笑ましくて小さく笑いを溢すと、クラウスさんと視線が交わる。
よかったね。
無言のまま、彼の視線だけがそう語る。
私は笑みを浮かべ、ほんの少しだけ頷いた。
応接室に入ってここまで、およそ一時間くらい。
なんだかものすごく濃い時間だったように思う。
最後は大人三人が涙を流すという混沌とした状況になったけれど、室内の空気は先程までとは違い、どこか和やかな雰囲気に変わっていた。
クラウスさんとシュトラウスさんは満足そうな、それでいて疲れ切ったような笑みを浮かべる。
シュトラウスさんがしみじみとした表情で口を開いた。
「私も職歴だけは長いですが、こんな奇妙な出来事は初めてですよ。」
「はは、それは私もです。」
「ですが散々振り回されたはずなのに…なぜか今は、とても幸せな気持ちだ。」
「同感です。」
「まるで神様が、気まぐれに特別な恩恵を与えてくださったみたいですね。」
…鋭いな、シュトラウスさん。
気まぐれには違いないけど、神様ではなく魔女のだけどね。
「それで、今後についてなのですが…。」
「シュトラウスさん、今回の件が終わったら仕事を辞めようと思います。」
表情を改めたシュトラウスさんが言いかけたところで、部下の男性が被せるように言った。
どこか吹っ切れたような表情をした彼は淡々と言葉を紡ぐ。
「私は従業員である以前に、人としてやってはならないことをしました。こうして明るみにでなければ、もっと罪を重ねていたかも知れません。私はカヴァレの社員であるということに驕っていたのでしょう。だから発注漏れという初歩的な失敗を犯した自分が認められなくて、誰かのせいにして責任を逃れようとしました。人間として未熟な私にはカヴァレの社員と名乗る資格はありません。」
和やかな空気は呆気なく霧散して、シュトラウスさんは言葉を失った。
クラウスさんは口出ししない方がいいと判断したのか黙っているし、先輩は自分の身に置き換えたのか顔色を悪くする。
仕方ないので、私が口を開いた。
「どこまでも自分勝手な方ですね。」
わずかだが怒りを抑えた声音に、クラウスさんを除く全員が驚いた表情で私を見ている。
私の見た目が、大人しく従順そうに見えていたからだろうか。
けれど、今は自分のイメージに拘っている場合じゃない。
正しく怒っているのだから、私は。
ここで怒りを吐き出さねば、過去の私達が報われない。
「名誉が回復したとしても、受けた傷は一生ついて回るのです。それなのに貴方は『新人のくせに他社の社員を辞めさせた』という新たな汚点まで私に背負わせる気ですか?」
「ですがそれは、今回の件には私に全面的な非があると認めれば済むことでしょう?」
「人間は見たいものしか見ない生き物です。貴方が罪を認め、自分を恥じて辞めたとしても、私に関わったから辞めたという事実は変わらない。今回の件で学びがあったというのなら、どうして『あの人が辞めたのはイライザのせいだ』と一部だけを切り取っただけの噂が面白おかしく伝わる未来が想像できないのです?」
「…ですが。」
「貴方が辞めたいと仰るのは、これから自分の置かれる立場の厳しさに恐れ慄いているからでしょう?ならば今の貴方には想像つきませんか?この三日間に私の置かれた立場がどれほど過酷で厳しいものであったか。そしてこれからも誰かが失敗をする度に関与していないか疑われる未来を、想像してみて下さい。」
噂だと侮るなかれ。
ダレルを奪った妹は、自分のわがままを正当化するため『私が奴隷を大切にしないから王に奪われた』とか『性格は傲慢で他者を慈しむ心がないから皆に嫌われている』という悪評を意図的に城内へと広めた。
こういう狡猾なところは、本当によく頭が働くのだ。
王家は否定したけれど、普段家族からの私への態度が冷淡だったために噂は益々広まった。
そして悪い噂ほど、より誇張されて語られるものだ。
おかげで私は稀代の悪女のように語られ悪しき王家の象徴として標的となり殺される。
そして死んだ後も不名誉な噂は語り継がれ、歴史書や歴史家によって脚色され他国にまで広まった。
今や国を跨いだ大悪女だ。
反対に、あれだけ散々私から大切なものを奪ってきた妹が妖精姫と讃えられている。
そしてアレクシス様との一件だってそう。
彼との婚約を円満に解消したとしても私には悪役令嬢であった頃の不名誉が残る。
『美しくも有能でもないのにプライドだけが高く意地が悪い』という悪意に満ちた噂がついて回るのだ。
あの後生き残っていたとしても、自国では、まともな嫁ぎ先なんてなかっただろう。
噂には実態が現実とかけ離れていたとしても正しいと思わせてしまう力がある。
エレナさんが言葉を人にとって最強の武器だと言っていたけど、正しくそのとおりだ。
「もし本当に悪いと思っているのなら、余計に逃げることは許せません。」
私は顔を上げ、背筋を伸ばす。
瞳を逸らさず、真っ直ぐに彼の目を見つめ返した。
視線を落とした彼は、呟く。
「でも…一人で耐え切れるか…。」
「一人じゃありませんよ?」
「…えっ?」
「私がいるじゃないですか。」
呆然とした表情を浮かべる彼に微笑む。
「仕事で失った信頼は仕事で取り戻すしかない。私の尊敬する人達が、そう教えてくれました。」
主に父達が、だ。
商売に厳しい彼らは、自分自身に対してもとても厳しかった。
「正直なところ貴方も私も、誰かの悪意に巻き込まれたのだと思います。自分の意思とは関係なく、進むべき道を歪められてしまった部分が、少なからずあるとは思うのです。」
出世ひとつにしても瑕疵がある方とない方では、当然、ない方が選ばれる。
私も彼も将来の選択肢が、ぐっと狭まってしまった。
「それでも間違いなく、自分にも甘い部分があったのです。」
全てが他人のせいだけではない。
自分にも、悪意を呼び寄せてしまうような隙があったのだ。
彼の表情が一変する。
そうだろう、今の彼のように誰かのせいにして逃げる方が容易い。
そして自分の非を認めることの方が比べものにならないほど苦しいのだ。
ただ私は自分の弱さから逃げ続けることの辛さも知っているからこそ、もう逃げたくなかった。
「私達は自分の甘い部分を反省して、信頼を取り戻さねばならないのです。その点において、私と貴方は同志です。職場は違いますが、一緒に戦ってはいただけませんか?」
彼の逃げ道を塞ごうとする私は、妹の言うように他者を慈しむ心がないのかも知れない。
ただ険しくとも進むべき別の道があることを知っていて欲しかった。
それでも辞めるというのなら、そこから先は個人の自由だ。
私は、戦う。
「貴女って…。」
先輩の顔がクシャリと歪む。
そしてもう一度、小さな声で『ごめんなさい』と呟いた。
「…イライザさんは新入社員のはずですよね?ずいぶんとしっかりなさっている。」
「だから申し上げたでしょう?彼女は即戦力だと。それに人柄も素晴らしい。」
感心したようなシュトラウスさんの言葉に、クラウスさんが得意げに胸を張る。
それに人柄も素晴らしい、なんて…。
恥ずかしい…こういう状況には、あまり耐性がないのよ。
赤くなった頬を隠すように視線を逸らすと、部下の男性と目が合った。
彼は私を見据えて、姿勢を正した。
そして綺麗な仕草で腰を折る。
「このたびは誠に申し訳ございません。」
「何についての謝罪ですの?」
「申し遅れました。私の名はダリル= ハストンと申します。先ほどまでは卑怯にも、このまま名乗らずに済ませたいと思っておりました。貴女を噂だけで判断して侮っていた、そのことも含めての謝罪です。」
愚直で、真摯な言葉。
そして懐かしさを感じさせる名前の響きに、一瞬、胸が震える。
平常心よ、平常心。
私は内心で狼狽える自分を叱責しながら取り繕うように微笑む。
「そういえば私もきちんと名乗らずにおりましたわね。すでにご承知と思いますが、イライザと申します。それで今この場で名乗ろうと思われましたのは、どのような心境の変化でしょうか?」
「それは…共に戦う同志であれば、互いの名を知らないというのでは格好がつかないでしょう?」
「まあ!!それでは…。」
彼は胸に軽く手を当てて、わずかに腰を折る。
女性を敬う、紳士の礼。
彼はそれがとても似合う人だった。
「イライザさん、厚かましいとは思いますが、私と共に戦ってはいただけませんか?」
決然とした表情は、まるで騎士のようだと思った。
前回の残りです。好みの分かれる展開となりましたが、そこまで激しくざまあするのも可哀想かなという思いもありまして、矛先が鈍りました。しばらく更新間隔が空きます。




