第9話 新たな始まりと、ラグロ補給廠
ラグロ領主の屋敷。その一階中央西奥。
翔馬がレオナに独白し、こっ酷い八つ当たりを受けた翌朝の広間では、どこか奇妙な空気が流れていた。
「エスティ、そちらの塩漬けを取ってもらえますか?」
「あ、はい。どうぞ、レオナ様……。じゃなくて……レオナ」
スープを口に運ぼうとしていたリーデルの手が、ピタリと止まった。
爽やかな短髪のプラチナブロンドから覗く淡く青い瞳が、妹と、緑のチュニックに身を包んだ少年を交互に往復する。
昨日まで頑なに〝勇者様〟あるいは〝エスティ様〟と呼び、異世界の少年へ祈るように縋っていた妹が、事もあろうに様付けすら外し、その名を気安く呼んでいる。
しかも、異世界の少年も、やや酷く照れくさそうに視線を泳がせながら、彼女のその呼びかけを受け入れている。
(……一体、何があったんだ?)
リーデルは喉まで出かかった言葉を、かろうじて腹の底へと押しとどめた。
まぁ、二人とも年頃の男女だ。そこへ無粋に首を突っ込むほど、自分は野暮ではないつもりだが、いかんせん二人の関係の変わりようは劇的すぎた。
リーデルは小さく首を振り、息を吐くと、考えることをやめてスープ皿へと視線を戻した。そして、気を取り直すように、レオナへと告げる。
「レオナ。今日からエスティには、我が領の運営を少しずつ手伝ってもらうことになった。まずはギルバートと共に、補給廠へ向かわせる」
レオナの呼び方につられたか、自身もエスティと呼び捨てしたことに気づき、小さく苦笑する。
呼ばれた翔馬も『え?』という顔をしていたように見えるが、リーデルはあえて見て見ぬふりをし、深掘りを避けた。
「まあ」
レオナは紫がかった瑠璃色の瞳を輝かせ、それから、深く、真摯な眼差しを翔馬へと向けた。そこには昨日まで確かにあった、おとぎ話の英雄を仰ぎ見るような、盲目的な熱は感じられない。
自分と同じように悩み、恐怖し、それでも必死に立とうとしている等身大の人間に対する、心からの敬意だけがある。
「分かりました。エスティ、勇者としてではなく、あなたという一人の人間として……どうか無理はなさらないでください。でも、あなたができると信じたことを、精一杯やってきてくださいね。心から応援しています」
「……ありがとう、レオナ」
翔馬は、今度は逃げることなく、彼女の言葉を真っ直ぐに受け止めて頷いた。
その様子を横目で見ながら、リーデルは再び『やはり、何かあったんだろうな……』と一人思案した。
だが、妹の瞳から痛々しいほどの依存と呪縛が消え、代わりに凛とした能動的な光が宿っているのを見て、兄としての安堵が勝った。
やはり、突っ込むのは野暮だ。なるようにしかならないこともある、と自分に言い聞かせ、再度苦笑した。
朝食を終え、翔馬が一度身支度のために自室へと戻った頃。
屋敷の正面玄関には、すでに黒塗りの二頭曳き馬車が横づけされ、そこにリーデルとギルバートの二人が並んで翔馬を待っていた。
主を待たせるなど言語道断、などということもない。
何せ彼はラグロ領の〝食客〟であり〝水鏡の勇者〟だ。
初秋の朝の清々しい、突き抜けるような青空。そこに一筋筆で描かれたかのような美しい曲線を描く雲を見上げながら、ギルバートはふと、主の横顔に視線を向けた。
白髪を端正に整えた老執事の口元に、微かな、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「……リーデル様」
「何だい、ギルバート」
リーデルは、隣の老臣の声色に顔を向けずに答え、同時に嫌な予感を覚える。
こういうとき、必ず自分にとって面白くない発言をする。
経験がそう告げている。
「何やらこのラグロ領にも、冬を溶かす春の兆しが訪れたかのようですな」
リーデルは一瞬だけ目を丸め、それからすぐに顔を顰めて老執事を睨みつけた。
「何を言っているんだい、ギルバート。ラグロの季節は秋に向かっているんだよ」
「ですから、たとえ話にございます」
単なる嫌味だろうに、と言いたくなったが、リーデルはそれを飲み込んだ。
悪い予感は的中するものだと内心ごちる。
「……私は何も聞いていないし、気にもしていない。ただ、あの子が背負い続けてきた〝祈り〟という名の呪縛が、あの少年によって少しでも和らぐのだとしたら――兄として、それ以上の贅沢はないと思っているだけだよ」
「……ふむ。一瞬スープを飲むのをお止めになったのは、お気分が優れなかったのですかな?」
目ざとい男だ。あの一瞬すら見逃していなかったというのか。
もっとも、そうでもなければ、長年王の右腕として、腐りきった中央貴族連中と渡り合えてこなかったのだろう。
さすがは〝ハルトの魔王〟か。ギルバートをそう評価しつつ、自分へ向けられるその言葉に、今度こそ苦虫をつぶしたような顔を向ける。
「……ギルバート、三度目はないからね? 次の一言によっては、今月の給金を半分にすることも考えないではないよ」
「……これはこれは。大変失礼いたしました」
大仰かつ慇懃に頭を下げる老執事の肩が、微かに揺れていた。
リーデルはやれやれと頭を振りながらも、その視線の先、階段を降りてこちらへと走ってくる緑のチュニック姿の少年の姿を見つめ、どこか穏やかな眼差しを向けるのだった。
◇
三人が、レオナや屋敷の使用人たちに見送られながら馬車へと乗り込むと、車輪は静かに動き出し、城郭都市ラグロニーネの南西へと向かった。
館の広大な庭園を抜けると、車窓には、翔馬がこの世界に来て初めて目にする、街の〝日常〟が広がっていた。
石畳の街道を行き交う無数の人々。
色鮮やかな布を羽織った異国の商人。
威勢のいい声を張り上げる露店の店主。
そして、どこか殺伐とした空気を纏って街を練り歩く、武装した騎士たち。
立ち昇るパンの香ばしい匂いと、馬の糞尿や汗の匂いが混ざり合う泥臭い活気。
絵空事の歴史書ではなく、生きている人間の生々しい生活がそこにはあった。
(この人たちも……リーデル様やギルバートさんが、必死で守ろうとしている〝現実〟なんだな……)
翔馬は初めて見るその光景を凝視しながら、自室でクローゼットに押し込んだブレザーの感触を思い出していた。
ただ流されて逃げ込むのではなく、この泥臭い現実のどこかに、自分の居場所と役割を見出さなければならないのだと、あらためて胸に刻む。
ややしばらくして馬車が辿り着いたのは、石造り三階建ての堅牢な建物だった。
窓には小さく鉄格子が嵌められ、住宅というよりは強固な倉庫、あるいは砦のような、無骨な佇まいをしている。
「ここはハルトからの支援物資を一時的に集積し、ヴァルメイへ送り出すための、ラグロニーネの前線基地さ」
馬車を降りたリーデルが先頭に立って中へ入ると、吹き抜けの広い空間には、羊毛、乾燥肉、鉱石、矢の束といった軍需物資がうず高く積み上げられていた。
多くの役人や荷役が、慌ただしく書類を片手に怒号を飛ばし合っている。その視界にリーデルをとらえると、皆一様にリーデルへ会釈した。
やがて、リーデルの臨席のもと、詰め所の責任者たちが集められた。彼は、翔馬の肩を叩くと、あらかじめ馬車の中で決めておいた、偽りの素性を周囲に告げた。
「皆、聞いてくれ。新しくこちらの仕事を手伝ってもらうことになった、エスティだ。私の父の古い知人の子でね。商家に生まれた次男坊だが、将来的に独立を考えているそうだ。領地運営の実務を通じ、様々なことを学ばせたいと思い、私がここで預かることにした」
黒髪黒目の珍しい翔馬の容姿も、『本国中央の人間だ』と言われれば、現場の人間も納得せざるを得ない。
「戦う力はないが、文字の読み書きと算術の才、そして状況を客観的に捉える目がある。存分に扱き使ってやってくれ。……ではギルバート、当面の間の指導を頼む」
「畏まりました」
責任者たちを下がらせた後、リーデルはうず高く積み上げられた物資を見上げて、翔馬に向かって言った。
「ここに並ぶ全てが、遠くフラウレイルで血を流して戦うヴァルメイの兵たちの命を繋ぐ。直接剣を振るうことだけが戦いではないよ。現場には、数字で測れない命の懸かり方がある。この地の確実な支援が、前戦を支えているんだ」
翔馬は、その言葉に小さく胸を打たれた。
普段の皮肉屋な姿とは違う、貴族であり領主としてのリーデルの冷静な、しかし確固たる責任感を目の当たりにしたからだ。
「……それでは始めましょうか、エスティ様」
ギルバートに促され、翔馬は詰め所の二階にある、書類で埋め尽くされた事務机へと向かった。
ハルト王国の文字は、あの解析のおかげで、カタコトながらも意味が頭に滑り込んでくる。さらに、翔馬は書庫に籠る間、レオナやギルバートから、この国の文字や数字の書き方を教わっていた。
数字が扱えるようになればこちらのもの。
元の世界で学んだ数学の知識を活用できると考えた翔馬は、ギルバートから、この領地における物流の基本を教わりながら、うず高く積まれた、過去数年分の輸出運行記録の精査に取り掛かった。
しかし、現実はそう甘くなかった。
翔馬が羊皮紙の羅列を睨み据え、『知りたい、この書類に隠された課題を見抜かなければ』と強く意識したその瞬間、こめかみの奥をキリキリと突き刺すような激しい頭痛が襲ってきた。
数字の持つ膨大な情報量に対し、魂の受け皿が彼の脳と精神を強烈に苛んでいく。
冷や汗が背中を濡らし、視界がかすむのを、翔馬は奥歯を噛み締めて堪えた。
この程度の熱や痛みに流されてなるものか、と。
痛みに耐えながら書類をめくるうち、翔馬は現実のグロテスクさを肌で知ることになる。
ハルト王国がこれほど膨大な物資を、このラグロ領を経由して絶え間なく排出し続けているというのに、前線からの返信報告書には常に『資材不足』や『矢弾の枯渇』、さらには『兵の飢餓』という悲惨な単語が並んでいた。
支援欲しさに、大仰に表現したものがあるとしても、戦場という巨大な化け物はそれを一瞬で食い尽くし、飢え続けている可能性がある。
平和な現代社会では想像もつかない、底の抜けた泥沼のような戦乱の現実。
その圧倒的な事実の重みに、翔馬は胃がねじ切れるような圧迫感を覚えた。
いささか集中が過ぎたか。
書類に追われ、空腹に気づいたのは、この世界の太陽が天頂する刻だった。
ギルバートから差し入れられたサンドイッチ――のような、やや黒みがかったパンに、肉が挟まれた食べ物――に感謝しつつ、口に運んでは記録を読んでいた。
その中で、ひとつ分かったことがある。
ラグロニーネには、ヴァルメイ支援のための輸送隊が全十六ある。
ひとつの隊は十名程度で、うち半分は、護衛の騎士あるいは他国の義勇兵・傭兵、残る半分が荷物輸送のための荷役や御者で構成されている。
隊長は騎士が務め、輸送する物資は、ヴァルメイの前線か、周辺都市もしくは砦などの拠点へと運ばれていた。
運行記録をひとつひとつ確認すると、大半の隊は、魔物の襲撃や天候不順、ルートの選定ミスなどによって、年に数回程度、物資の毀損や運行遅延を起こしていた。
隊の報告書には『〇〇の街道外れにて魔族の斥候と遭遇。物資の三分の一を毀損、負傷者数名を出すも、護衛の騎士団は命懸けでこれを撃退。華々しき勝利を収める』など、武勇伝かのような華々しさで記述されている。
しかし、それは裏を返せば、ルート選定に瑕疵があった可能性があり、避けられたはず損害を出している、ともいえた。
その中で、翔馬の目がひとつの記録に釘付けとなる。
「第四輸送隊……? これって……?」




