第8話 君に知ってほしい、ホントのこと
陽がやや傾き始めたころ。
神殿での日課を終え、屋敷に戻ったレオナは、書庫にいるであろう翔馬が、再び書物の山に埋もれていやしないか確認を済ませた。
そして、今、レオナは館の庭園の東屋で、その彼と向き合っていた。
何のことはない。エスティから『たまには庭園でお茶でもどうですか?』と誘われたのだ。
夕餉まで時間の余裕もある。ちょうど、自分もエスティに聞いてみたいことがあったため、誘いを受けることにしたのだが、いざ席に着くと彼からは何も言おうとはしない。
何か話したいのだろうが、言いあぐねている、というような雰囲気を感じ取っていた。
屋敷のメイドから差し出された温かい茶を持つ彼の手は、すでにこの地の人間と同じ緑のチュニックの袖に覆われている。先日までの、異世界の衣服ではなかった。
「エスティ様」
レオナが美しい紫紺の瞳を向け、静かに、しかしどこか寂しげに問いかけた。言ってこないのであれば、自分から踏み出すまで。
「なぜ、そこまでされるのですか? お身体を壊してまで、なぜそこまでして〝知識〟を手に入れようとされるのですか? あなたは水鏡の勇者様。そんなに焦らずともよいのではないですか……?」
例の〝事件〟以降、彼は確かに自重しているようには見えた。ただし、ひたむきに書物に向かう姿は毎日。大きく体調を崩すことはないものの、いつまた倒れるか気が気ではなかった。
そのレオナの心配を知ってか知らずか、翔馬は苦笑を浮かべながら紅茶を一口。
そして口を開いた。
「……なんというか。これという明確な理由はないのですが、それでも〝今ここで知っておかないと、あとで後悔する〟と……そういう危機感からです」
翔馬は茶杯を置き、彼女に曖昧な、それでも真っすぐに言葉を返した。
「危機感……?」
「はい」
その表情には、自嘲の色が濃く浮かんでいた。そして翔馬は意を決して続ける。
「……実は、僕は、伝説にあるような〝勇者〟じゃないんです」
「…………え?」
突然の告白にレオナが目を見開く。
知への探求心に関する話題かと考えていた彼女は、まったく想像だにしない話を振られ、呆気にとられた。
翔馬は、自分の傷のない綺麗な手のひらを見つめ、包み隠さず、自らを卑下するように切々と語り始める。
「僕がいた元の世界の……というか、国の話です。その国……僕の周りには、この世界のような戦いも、飢えも、差し迫った脅威もありませんでした。誰もが秩序に守られている、豊かなところです。そこでの僕は……守られていることに甘えて、何一つ自分で決められない、流されるだけでした。子供のままなんです」
翔馬の言葉は、言語学者のような豊かな語彙ではなかった。ただの十八歳の、少年から青年に差し掛かった人間としての、等身大の言葉だった。
「周りに言われるままに勉強して……そうですね、それなりに成績はよかったです。でもそれは、人とかかわる時間を減らす格好の理由だった。そして、得意なことは、周囲の空気を読んで、波風を立てないように生きること。でも、それは『失敗して誰かの期待を裏切るのが怖い』から、何もしなかっただけなんです。主体性も積極性もないことを『要領のいい生き方』だと勘違いして、ずっと生きてきました」
あふれ出るように紡がれる翔馬の言葉に、レオナは息を呑む。
この人はいったい何を言っているのだろう、水鏡から現れた勇者の言葉とは到底思えない――その感情が、言葉の意味を理解しようとする理性を押さえつけ、拒否しそうになる。それを何とかねじ伏せ、翔馬の言葉を逃すまいと聞き入る。
「でも、この世界は違います。剣や魔法や、魔族なんていう恐ろしい存在が、当たり前にいて、明日をも知れない日々を、誰もが必死に生きています。ここで今までみたいに『何もしないで流される』ままでいたら、僕は確実に周囲の思惑や、世界の理不尽に潰されるでしょう。……書庫に籠り、知識を漁っていたのは、誰かの期待に応えたいっていう格好いいものじゃない。ただ、自分が生き残りたいっていう情けない考えなんです」
翔馬は真っ直ぐにレオナを見つめる。彼女の瞳には、明らかな動揺の色が浮かび、揺れ、やがて翔馬を直視できずに背けられた。
目線を外されたことに、翔馬は少したじろいだが、ここで引いては意味がないと勇気を振り絞り、さらに言葉を紡ぐ。
「レオナ様。僕は伝説に謳われるような、勇敢で、みんなを引っ張れるような、そんな立派な人間ではありません。僕は、エスティという仮面を被っているだけの、臆病な『高城翔馬』という一人の子供です。だから、レオナ様の期待に応える約束は……たぶんできません」
喉がカラカラに乾く。精いっぱいの独白は、彼女の期待を木っ端みじんに破壊するもの。
眼前のレオナにも聞こえているのではないかと心配になるほど、心臓がばくばくと鼓動しているのを感じつつ、翔馬は続ける。
「……それでも、この世界や、あなたたちの絶望を知ってしまった以上、その思いにただ乗りするような情けない人にはなりたくない。だから、僕は僕にできることを、できる範囲でやりたい。そう思っています」
翔馬は今この場で、彼女にだけは、等身大の自分を知っておいてもらいたいと考えた。そうしなければ、この世界で傷つきながら、精いっぱいに生きる姿に向き合う資格などないと思ったから。
嫌われたとしても、失望されたとしてもいい。それでも、レオナを、リーデルを支えたいと思うこの本心を知っておいてもらいたかった。
できると期待をさせて、何もできないとなるより、何倍もましだ。
一月前の自分では到底考えられない行動だった。
「……エスティ……」
目の前の少女は、動揺しつつもエスティの言葉を聴いて、目の前の少年の言葉を反芻していた。やがて、静寂が庭園を包み込む。
目の前にいる少年は、水鏡から現れた〝まぎれもない勇者〟だ。
世界が、自らが、喉から手が出るほどに欲した、世界を救う究極の一手たる神の剣。その勇者であるはずの、目の前にいる少年が、自らを勇者ではないと否定する。
彼の言う通りであれば、伝説の勇者とは何なのか?
そして、伝説の勇者ではない存在に、自分は何を求めていたのか?
〝水鏡の勇者〟という伝説に語られる虚像を、目の前の彼に押し付け、彼自身の苦しみや意思を無視し、ただ兄と自分をこの救いようのない世界から救ってくれる、そんな都合のいい神性を望む、独りよがりの願いだったのではないか。
自分と同じかそれ以上に脆い、ただの一人の人間。
そんな彼が、恐怖に震えながらも、自分たちの悲劇を知った上で、命を削って言葉を学び、世界の理を知りたいと願い、必死に自分の足で立ち上がろうとした。
それでも、私の期待を壊さないようにと考えぬいた末の独白。
レオナは、胸の奥で長年凍りついていた、勇者への期待と言う名の〝妄信〟に気づいた。そして、それに亀裂が入っていくのも感じていた。
畏敬の念が完全に消え去ったわけではない。
しかし、自らの〝勇者〟に対する誤解があったのではないかと、そこに激しい申し訳なさと、それを遥かに上回る一人の人間に対する強烈な信頼が芽生え始めていた。
「……申し訳ありませんでした、エスティ様……。いえ、ショウマ様」
レオナは、動揺しながらも、真っすぐに翔馬を見つめる。
そして、初めて彼の〝本当の名前〟を呼んだ。
やがて、その瞳からとめどなく涙が溢れる。
止めようにも止まらない。涙の理由もはっきりとしない。
勇者と信じた者が、勇者ではなかったと裏切られたことのショックなのか。
いや、これは違う。
「私は、あなたに勇者の呪縛を押し付けてしまっていたのですね……」
そう、勝手に自分の期待を押し付け、重荷を背負わせ、苦しませたことへの申し訳なさと、後悔の念だ。
「レオナ様には何の責任もありません。でも、自分の本当の姿を知っておいてもらいたかったんです。いつか言わなければならないと思っていて、でも言うのが怖くて……」
レオナの中では、翔馬の言葉が繰り返し、繰り返し響いていた。
超常の存在としてこの世界に現れた勇者エスティと、一介の泥臭く弱々しい人間として立ち上がるショウマ。それが一人の人間に重なるイメージが結びつかないし、まったく整理もできていない。
「……私は、あなたを水鏡の勇者エスティと信じたい……。でも、そうではない、人として必死に立とうとしてくださるショウマ様という方を……エスティという一人の人間も、信じたいとも……」
溢れ続ける涙をぬぐい、何とか押しとどめようと顔を両の手で覆う。
庭園の東屋には、レオナの咽び泣く声だけが聞こえていた。
しばしの無言の後。少しだけ落ち着いた彼女は凛とした、しかし今までで最も柔らかい微笑みを翔馬に向けて言った。
「……分かりました……私の中ではまだ整理がつきませんが……。ショウマ様……いえ、エスティ。私は、勇者ではない、一人の等身大の人間としてのあなたの言葉を信じます……」
翔馬はその笑顔に見とれつつ、照れくさそうに髪を掻いた。
今後、二人を支えようとして失敗したときの言い訳が半分、しかし、レオナには真摯に向き合うべきとさらけ出した本音が半分。
失望され、罵倒され、見捨てられても仕方ないと覚悟していたが、このような信頼が返ってくるとはほとんど思わなかった。
そんなレオナに、心の底からの感謝があふれてきた。
「……ありがとうございます、レオナ様」
翔馬も笑顔を返す。
なんだ、自然にできるじゃないかと、安堵からか冷静に自分を見る。
眼前のレオナの瞳は、涙による赤みと、夕陽を受けた美しい紫色に輝いていた。
しかし、なぜかその表情に不満の色が浮かんでいることに気づく。
「……こんな大事なお話をして、本心を教えていただいたのに……。まだ〝様付け〟なんて、他人行儀ではないですか……?」
不意の一言。思わず『えぇ?』という情けない声が喉から漏れる。
「私は、あなたの勇者たる資質を諦めたわけではありません。ですが、今後は、あなたのことを勇者ではなく、一人の等身大の人間として信じます。だから、エスティと呼ばせてください。それが、今決めた私の覚悟です」
背筋が伸びるような、凛とした言葉。
そして続ける。『ですから、あなたもどうか、レオナと』と。
彼女の中では〝水鏡の勇者としてのエスティ〟と〝タカギショウマとしてのエスティ〟がいまだに混在している。その中で、今できる精いっぱいの納得が『目の前にいる少年の、等身大の言葉を信じる』であり、心の距離が縮まったが故のこの願い。
……のはずなのだが、翔馬の回答は大きく的を外れることとなる。
「……それって、不敬にあたるのではないですか?」
リーデルとレオナは前国王の子息子女。王族の血筋だ。
この辺境を預かる領主の妹君であり、水神の神殿の巫女でもある。一介の庶民が気安く声をかけてよい存在ではないだろうことは、翔馬にも分かる。
その理解が優先してしまう。
だが、この場面でのその言葉は、まったくと言っていいほど不釣り合いだった。
レオナの表情に、不満の色がみるみる濃くなっていく。
それに気づいたときには、もう遅かった。
「……あんなことを言っておいて、私をここまで泣かせておいて。今更だと思わないのですか? それとも、私の覚悟を袖にして、まだ他人行儀な呼び方がよいと? 先ほどのお話からすると、エスティは、とても真摯に人へ向き合う方だと思ったのですけれど? 私の勘違いですか?」
滾々と言葉を放つレオナ。八つ当たりにも似た、なんともな責め方。
あぁ、これはきっと、元の世界で、このようなシリアスな場面を避けてきたことや、重要な選択を他人に委ねたが故の〝ミス〟なのだろう。そう感じた翔馬は、慌てて白旗を上げた。
「……え! いや! ……いやいや! ええと! そう言われてしまうと! はい……分かりました! では、次から――」
「では、呼んでください。さあ、どうぞ?」
白旗を上げた相手に追撃を緩めないレオナは、翔馬の言葉を止め、退路を塞いだ。
翔馬は、『あぁ、機嫌を損ねてしまったのだろう。こんな独白などするべきでなかったんだ』と後悔する。
しかし、行動をせずに後悔を続けてきた少年の、行動をした末の後悔。
不思議と悪い気持ちにはならなかった。
「えー……。……れ……レオナ……。……これでいいですか?」
「……むー。……まあ、今日のところはいいでしょう。……ふふふ、これからもよろしくお願いしますね、〝エスティ〟!」
彼の手首はもう微かにも震えていなかった。
高城翔馬としての過去を仕舞い込み、エスティとしての名を双肩に宿した少年の前で、歯車はようやく、彼自身の意思を噛み合わせて回り始めたのだった。




