第7話 〝衣〟を替える覚悟、老執事の我儘
その日の朝、翔馬は自室の鏡の前に立っていた。
それまで、木型から剥ぎ取るようにして纏っていた紺色のブレザーと、制服のズボン。それが今は、ベッドの上で丁寧に畳まれている。
代わりに肌を包んでいるのは、ギルバートが用意してくれた、この世界の仕立てによる深い緑のチュニックと、上質な革の細ズボン、長旅にも耐えうるような頑丈なブーツだった。
それらに身を通した瞬間、元の世界の衣服よりもわずかに重く、それでいて動きやすい明確な質感が身体に伝わってくる。
まるで、この世界の過酷な現実そのものを身に纏うような感覚だった。
翔馬はベッドの上のブレザーを見つめる。
これをクローゼットの奥へと仕舞い込むこと。それは、平穏な社会という安全網の中、流されて生きていた〝高城翔馬〟を封じ、未練を断ち切ることを意味しているように感じられた。
代わりに、傷だらけの兄妹を支えるエスティという存在を、自らの明確な意志で引き受けるという覚悟の証明でもある。
「……よし!」
小さく声を出し、両の手で顔をぺしっと叩く。
張り付いた冷たくも熱を帯びた肌から、少しだけ緊張が引いたように感じる。
翔馬はブレザーを衣類棚の最奥へと収め、重い木扉を閉める。
かちゃんと閉まる音が、彼の胸の奥で、退路を断つ音のように響いた。
◇
「……で? 剣も、魔法も使えない君が、何をするというのだい?」
リーデルの執務室。大仰なアポイントを取り付けたわけではなかった。
昨夕の食事の席、翔馬はリーデルに『ちょっとお話をしたい』と申し出たところ、『それじゃあ翌朝にでも』と応じられて訪ねた。
衣服を改めた翔馬からの申し出を聞いたリーデルは、爽やかなプラチナブロンドの前髪から覗く淡く青い瞳へ、領主としての冷徹な光を宿して問いかけた。
(……何かが変わった。雰囲気? いや、纏っている空気か……?)
この十数日あまり、エスティの佇まいは確かに変わっていた。
どういう意図か、この地の服装に身を包んだ少年の瞳には、かつてのような怯えはない。一方で、熱血漢のように『力になりたい』などと、現実的ではない感情で叫んでいるわけでもない。
その目は、どこか現実を見据えているようにすら見える。
「ハルト王国の年代記と、この領の直近の記録はほとんど頭に入れました」
翔馬は淀みなく、強い言葉で返した。
「リーデル様。あなたは隣国ヴァルメイへの物資支援の調整と、魔族の動向分析、さらには本国中央への政治的配慮まで、そのほぼ全てを一人で行われています。それは、リーデル様がとりわけ優秀なのもありますが、この地に致命的に人手が――特に書類を精査する目が足りていないからではないですか?」
リーデルの眉がピクリと跳ねる。どこでどのような情報を仕入れたのか。
おおよその見当はつくが、それはひとまず腹の底に押しとどめることとした。
「……それで?」
「僕は戦う力がありません。でも、あなたが過労で倒れる恐れや、手配の不備から遠方の戦況が瓦解する最悪の結末を回避するための〝雑用〟ならできます。僕をここにただの置物として閉じ込めるより、その方がよほど生存確率を上げられるし――」
翔馬は自虐的に、『何より、無駄飯を食らわせ続けるよりも、よほど生産性があってよいのでは?』と言葉をつづけた。
徹底して現実的な物言いに努めるエスティを見据え、リーデルは思う。
あの日、目の前で怯えるような目をしていた少年は、一体どこに行ったというのか不思議で仕方なかった。
もしリーデルが、翔馬の世界の格言を知っていたならば、『これが〝男子、三日会わざれば刮目して見よ〟ということか?』とごちたことだろう。
ふう、と息を吐きながら椅子の背もたれに身体を預け、リーデルは目の前の少年を凝視した。
ただの無能ではない。むしろ、この短期間にこれだけの状況をまとめ、よく自分の前に出てくる気になったものだと感嘆すらする。
あれだけ書庫に入り浸り、古書物を読み漁る集中力もさることながら、極めて異質な〝観察眼〟を持っていると直感した。
「……そうかい。そこまで言われてしまうと、君をこのまま引き下がらせるわけにはいかないね」
リーデルは、まっすぐに翔馬を見据える。
その目は、〝何もできない勇者〟を庇護するものではなかった。
そして、翔馬もまた、初日のリーデルと異なる雰囲気に背筋をぞくりとさせる。
見下した相手に対する態度ではない。
目の前の男は『概ね君の言ったことは事実だよ』と静かに語り始めた。
「……このラグロ領は、現在の最前線であるヴァルメイのフラウレイル平原から最も近い。だが、直接の戦闘支援をせず、物的支援を主としている。ハルト本国だけでなく、ヴァルメイからもそれを望まれているのもあるが、兵を送り込むには少々距離がありすぎてね」
ハルト本国中央の王都ハルトイニアは、ラグロ領の北東。馬車を飛ばしてひと月程度の距離に位置している。また、ヴァルメイの最前線は、その反対。ラグロ領の西側に位置している。距離はハルトイニアへのそれよりも遠い。
そのため、隣国に最前線があるといっても、ハルトは平和そのもの。ラグロ領に戦火が拡大していないことは、翔馬自身、その身を以て理解している。
「この地にも、相応規模の守護騎士が駐屯しているから、将来の戦線拡大を見据えたものではないかと勘違いされるのだけども、それは、このラグロ領が〝一応は〟国境地域であることと、稀に出現する魔物に備えるため。……あと、こう見えても私は貴族なのでね。その警護が必要であるとの、本国の意向でしかないんだよ」
ラグロニーネがこれほどの発展を成しえているのは、有史以来、人・物・金の要衝として幾度となく歴史に登場し、その存在を確立していったことにある。
現在も隣国であるヴァルメイ王国との国境に所在し、街道が通じていることから、物流の要でもある。そして、ハルトから直接ヴァルメイを支援するのであれば、どうしてもラグロ領を経由せざるを得ない。
「……正直に言おう。ヴァルメイのみで戦線を維持することは、〝現状は〟可能だろう。ただし、それは魔族勢力が増強されないことが前提だ。また、ラグロ領……つまりハルトの支援は、ヴァルメイに限らず、周辺国家にも〝相応の言葉〟として伝わる。そして、その前哨基地たるラグロニーネの役割が果たす意味も、歴史を学んだ君なら理解できるだろう」
ヴァルメイとハルトは、古くから同盟関係にあることは、書物から得た知識で理解している。歴史的に見れば、両国はオラニム帝国の崩壊によって生まれた兄弟国家。
まして、ハルト王国はオラニム帝国直系の後継国家であり、成立間もないヴァルメイの後ろ盾としての役割もあった。
両国の王族も親戚関係にあり、この数百年来、強固な同盟関係を維持してきた……というのは、ギルバートからの入れ知恵である。
「現在の最前線であるヴァルメイを、ハルトが支援する……いや、〝支援しなければならない〟理由はそこだ。故に、こちらからの支援は途切れさせられないし、失敗もできない。ギルバートを含む臣下が優秀だから何とかなっているが、私にはそのすべての責がある。……こんなところかな。どうだい? 君の考えのとおりかな?」
リーデルは答え合わせをするかのように、滾々《こんこん》と翔馬へ説明を重ねた。
毅然と立ち向かう〝弟〟を守る、〝兄〟の立場の表示。
ハルトとしては、兄弟国家をしっかり支援していますよ、しかも最前線であるラグロ領は、前国王の息子が治めてますよという政治的アピールなのだ。
もっとも、ハルト本国の思惑として、兄弟筋といってもヴァルメイ王国は今や別の国となって久しい。つまり『お隣で敵勢を押しとどめていられるのであれば、ハルトに影響せず平和を保てて御の字』という、冷徹な政治的判断もあるのだが。
大人のビターな世界を十分に知らない翔馬には、なんとなくしか伝わっていなかったが、それでも分かっていることはある。
「なんとなく、ここでリーデル様に何かあると、いろいろとマズそうということは分かりました。なので、僕を〝雑用〟としてもらった方がよさそうな気がします」
そう言ってのける少年に、リーデルはやれやれといった表情を浮かべ、静かに目を閉じ、やがて深い溜息を吐いた。
(まったく、臆病な少年を少し脅して、静かにさせておくつもりだったのに。これではすべて台無しじゃないか……)
リーデルはしばしの思案ののち、口を開いた。
「……はぁ。分かったよ。ギルバート、明日からで構わない。エスティ殿を例の場所へ案内してくれるかい?」
「御意に」
「……君には、ラグロニーネの〝前線基地〟を手伝ってもらうことにするよ。ただし、忘れてくれるな? 君は内部的には〝世界への定着待ちの存在〟だということを。無茶をするようなら、即座に屋敷へ戻し、部屋で無理矢理でも〝静養〟させる準備があることもね」
先般、書物に埋もれて医務室に搬送され、こっ酷く叱られた手前、翔馬としてはリーデルの言葉に応じるほかない。
とにかく『善処します』とだけ答えると、苦笑が返ってくる。
「話はこれで十分かな?」
念のためと一言添えて翔馬に問う。
決して話を切り上げたいと思ったのではなく、どことなく目の前の少年に、まだ言い淀んだ雰囲気を感じ取ったからなのだが。
「……いえ、大丈夫です」
実のところ、翔馬はリーデルに問いかけたいことがほかにもあった。
しかし、今はその時期ではないと考え、この場を切り上げることとし、一礼の後退室する。同時に、控えていたギルバートも深く一礼。
リーデルは、去り行く老執事の背中を睨み据えながら、ふと胸中に浮かんだ猜疑を口にせずにはいられなかった。
そう、あの少年がこれほどの短期間で変わるはずがない、誰かが後ろから糸を引いていると。
「ギルバート……お前が何かを吹き込んだのだろうな」
聞こえるはずもないその言葉。
主の冷ややかな視線を背中に受けながらも、老臣の足取りはどこか確かだった。
◇
その日の午後。
リーデルは、翔馬が日課の書庫籠りを始め、レオナが神殿の務めのために屋敷を後にした隙を狙い、館の裏手にある倉庫でギルバートを呼び止めた。
「……ギルバート。あの少年に余計な話をしたね?」
低く、怒気を含んだリーデルの声が、静まり返った薄暗い倉庫に響く。
ギルバートは両手に抱えた荷物を棚に収めると、ゆっくりと振り返り、静かに頭を垂れた。
「お怒りはごもっともにございます、リーデル様。私のしたことは、辺境伯の命に背く行為であり、明確な不敬であり、越権行為でございます。いかなる処分も甘んじて受ける覚悟です」
威圧したつもりが、軽くいなされた。
狡さで彼を超えることは難しいと、リーデルは苦笑を浮かべた。
「……ふん、よく言う。なぜ話したんだい? あの少年は戦えない、ただのからっぽの子供だ。嘘の檻の中で眠らせておくのが、互いのためだと言ったはずだよ?」
リーデルの射貫くような視線に対し、ギルバートは顔を上げ、その老練な瞳に淡い、しかし揺るぎない光を宿して主を見据えた。
「あのお方は、ご自身の明確な意思で〝知りたい〟と願われました。誰の命令でもなく、この世に蠢く闇を見据え、ご自分の足で血に塗れた大地を踏み締め、お二人の支えになろうとされている」
ギルバートの声が、微かに震える。
「……リーデル様、あなたは復讐の炎で自らを焼き尽くそうとされている。レオナ様は、そのあなたを失わぬよう、神話の奇跡にすがり、心を凍らせて祈っておられる」
「……」
亡き父王を支え、王家のためならば手段を択ばない辣腕ぶりに、〝ハルトの悪魔〟と呼ばれ、恐れられたこの老臣。
今は自分に付き従ってくれている彼が、ここまで言葉を述べることなどない。
そんな驚きもあり、リーデルは何も答えなかった。
「狂気と祈りで凍りついたこのラグロ領を、ハルトを……あの少年が持つ意思の力が、少しずつでも溶かしていくのではないか。私は、年甲斐もなく賭けてみたくなったのです。先代様をお守りできなかった無能な老骨の、これが最後の我儘にございます」
先代王である父と、その妃である母が無残にも魔物によって害され、その責任を無理矢理に問われて処刑寸前だったこの老臣。
父王の懐刀として恐れられながら、幼少の頃から、自分とレオナをまるで実の子供のように可愛がってくれた一面も知っている。
そんな男の最期が、そんな惨めなものであっていいわけがない。
だからこそ、ありとあらゆる手を使い、何とかこの地へと連れてきた。
そのギルバートが、閉塞した復讐の行き止まりから救ってくれる何かを、あの場違いな少年に見出している。
ハルトきっての知識人であり、現実主義であるはずの彼が、だ。
「ギルバート……お前……」
あの少年の何が、この男をそこまで駆り立てるのだろうかと、リーデルは不思議で仕方なかった。
自身の心に誓った復讐心と、領地を預かる者としての冷徹な自覚。その強固な心の隙間にギルバートの言葉と、あの日恐怖に震えていた少年の、命を削るかのように死に物狂いで文字を追う姿が、するりと静かに滑り込んでくる。
奇妙な淡い期待が、己の心をわずかに揺るがしている。
やがて、リーデルはフッと息を吐き、老臣に背を向ける。
「……分かった。勝手にしろ。だが、あの子の心を折るような真似だけはしてくれるなよ。もちろん、あの少年が無茶をしないことも含めて、ね」
「仰せのままに。主の寛大なご処置に感謝いたします」
「……ったく、よく言うよ。本当に」
それが、〝何もできない勇者〟を預かる辺境伯としての、彼なりの不器用な情愛が混ざった精いっぱいの妥協だった。




