第6話 温故知新、その意味するところ(後編)
ある日の午後。
いつものように書庫から疲労困憊で戻った翔馬が、休憩とばかりに自室の椅子に座っていると、神殿での日課を終えたレオナが、温かい茶を運んできた。
彼女は、翔馬が書庫から拝借してきた机上の書物に目を落とし、ぽつりと言う。
「エスティ様は、本当にあのおとぎ話の通りのお方なのですね」
「おとぎ話……ですか?」
「ええ。……亡き母から、よく聞かされました。このハルトに伝わる、水鏡の勇者様の伝説を」
曰く、世界が魔の闇に覆われ、人々が希望を失ったとき、水鏡は異界から、すべての理不尽を叩き伏せる最強の剣を呼び寄せる。その勇者は、どんな傷を負っても決して諦めずに立ち上がり、最後には世界を救いたもう――。
レオナは、翔馬の手首を見つめた。
相変わらず、苦労の見られない綺麗な手。それでも、頭痛に顔を顰め、熱を出し、ボロボロになりながらも必死に文字を貪る翔馬の姿を、彼女は〝どんな傷を負っても決して諦めない勇者〟として重ね合わせた。
そして、その瞳に痛々しいほどの畏敬を募らせていく。
「それが、この国に伝わるおとぎ話……というか、伝承なのですか?」
オラニム帝国時代の年代記にも、古の勇者の記述が会ったことを思い出す。
ただ、オラニム帝国の時代は、少なくとも今から千年は昔のこと。
その時点で既に伝承なのであれば、水鏡の勇者が子供向けのおとぎ話となっていてもおかしくはない。
「ええ。勇者は最後まで諦めずに邁進し、世界を救ってくださった。エスティ様は、私だけなく、屋敷中の者があれだけお休みいただくようお願いしているのに、まったく書庫から出てこようとしてくださらない。とんだ本の虫の勇者です」
少しだけ不満を含む言葉。
打ち解けてきたが故の皮肉混じりの心配なのだろう。
翔馬は『アハハ……』と、乾いた笑いを返すのが精いっぱいだった。
「……ですが、この世界は現に魔の闇に覆われつつあり、世界中で戦いが起きています。兄様も、その戦いに関わる一人です。ですから、私は信じております。エスティ様が、この闇を払い、兄様を救ってくださるお方であることを」
『ですが、絶対に、ぜーったいに! 無理はなさらないようにお願いしますね!』と強い口調で締め、祈るような微笑みを残し、彼女は去っていった。
翔馬は所在なさげに『はい、すみません』と答えることしかできなかった。
書物に埋もれたあの一件以後、期待だろうと、心配だろうと、主導権を彼女に握られたかのように思っていたからだ。
部屋に一人残された翔馬は、胃がねじ切れるような圧迫感に襲われる。
彼女の抱える、勇者への〝妄信的な畏敬〟の正体は一体なんなのかが、少しだけ分かったからだ。
あまりにも切実な、絶望からの逃避。
翔馬が書物から読み解けたのは、この世界の危うさだ。
彼女は、この世界の危機感を現実に見据え、身をもって受け止めてきた。
そして亡き母から、国に伝わる伝説から、強大な力で魔を叩き、悪夢を斬り伏せ、先へと突き進む英雄譚の勇者と〝エスティ〟を重ね、それに希望を抱かざるを得ない、ということを。
それに対し自分はどうか。
レオナの期待に応えられるほどの知識も、技術も、経験も持ち合わせていない。
書庫に足を向け、必死に文字を追う自分自身に客観的な戸惑いを覚えながら、一方で、能動的に得られる知識に満足もしていた。
しかし、その実、リーデルやレオナのためではない。
自らが、この乱世で生き延びるための処世術として、〝何もせず流れに任せる〟から〝何かする〟に変わっただけ。要は、自分のため。
それすら自分の中では驚くような変化だが、それ故にレオナの切実さに、誠実に返せる言葉が見つからない。
と、あの日聞いた言葉が脳内で不意にリフレインする。
「あぁ……そうか。『リーデル様もレオナ様も、背負うものが大きすぎるお方です』ってそういう――」
その言葉と、自分の立場の答え合わせが必要ではないか。
翔馬は、居ても立ってもいられなくなる。痛む頭と、全身を苛む倦怠感に包まれる身体に顔を顰めつつ部屋を出た。
◇
書庫は、珍しく入り口の扉が開け放しにされていた。虫干しか、あるいは換気のためか。廊下までそのインクと古い紙の匂いが漂ってきている。
ギルバートは、翔馬がいつでも〝荒らせる〟ようにか、丁寧かつ手際よく、書棚を片づけていた。その背中と、いつもの匂いに安心感を覚えながら、翔馬は声をかけた。
「ギルバートさん。……教えてほしいことがあります」
ギルバートは驚いた顔で振り返った。
昼食前に、再び体調を崩しながら書庫を出た彼が、またここに来たこと――だけではなかった。
リーデルからの命もあり、この数日間の翔馬の様子をつぶさに観察していた老執事は、目の前の少年の真剣な眼差しに息を呑んだ。
初日、屋敷の廊下ですれ違い、一礼をする使用人に背を丸め、不安そうにしていた姿はそこにはない。明確な意思がその瞳に宿っていた。
「……いかがなさいましたかな? 私でお答えできることであればよいのですが」
「……リーデル様とレオナ様に、何があったのかを。彼女が、あそこまで〝水鏡の勇者〟に縋る理由を……知っていたら教えてもらえないですか?」
翔馬の、逃げ隠れしない真っ直ぐな視線と言葉を受け、ギルバートは静かに息を吐いた。そして、これは生半成な気持ちではいなせないと感じ、この少年には、ある程度の事実を伝えねばならないのだろうと覚悟を決める。
長い沈黙ののち、ゆっくりと口を開く。
「……承知しました。リーデル様が許される範囲で、お話しいたしましょう。……ですが、ここではなんです。私の部屋でお茶でも飲みながら、いかがですかな?」
翔馬はその申し出に頷いた。
二人は、何も話すことなく廊下を歩む。
辿り着いたのは、屋敷西翼一階に所在するギルバートの私室だった。
中に通されると、翔馬に宛がわれた部屋よりも広い室内であり、リーデルにとってギルバートが重用されている人物であると分かる。
質素ではあるが、趣味のよい調度品に彩られ、さらに部屋の壁には美しい絵画が所狭しとかけられている。
どこの景色かは想像もできないが、ギルバートは美術をも嗜むのだろうか、などとと呑気な疑問が脳裏を巡った。
翔馬を室内に促すと、ギルバートは木扉を閉め、内側から鍵をかけた。
がちゃり、という重苦しい金属音が静かな部屋に響く。
密室に閉じ込められたという事実と、老練の執事の背中から漂う尋常ならざる気配に、翔馬の生存本能が一瞬だけ『地雷を踏んでしまったのではないか』と戦慄した。
しかし、振り返った先のギルバートの表情は、敵意ではなく、重大な事実を明かそうとする男の覚悟だった。
「念のためです。お許しください。この部屋は、リーデル様が応接に使用されることもありましてな。錠前をかけると同時に、声が外に漏れ出なくなる魔法が発動いたします。……今、お茶を淹れましょう。どうぞおかけください」
翔馬は、ホッとすると同時に、現代でいう防音室のようなもので、魔法とはとにかく便利なものなのだなと勝手に納得した。
部屋の中央、肘掛けに丁寧な細工の施された濃紺のソファーを示され、翔馬はそこへと深く腰掛ける。
翔馬に茶を勧めつつ、『さて、どこからお話しするとよいでしょうか』と、ゆっくり話を始めたギルバートの語る過去は、とかく血の匂いがした。
リーデルとレオナは、このハルト王国の正統なる王子と王女であること。
彼らの両親である先代王と王妃は、数年前、外遊先で魔族の襲撃を受け、護衛に就いていた近衛騎士や、外遊先の守護騎士もろとも凄惨な最期を迎えたこと。
同行していたリーデルは、馬車の荷室に匿われて生還したこと。
以来、リーデルは両親の仇である魔族へ、周囲が恐怖するほど狂気的な復讐心に身を焼き尽くすようになったこと。
レオナは、両親を失った悲しみに暮れる間もなく、優しかった兄の変貌ぶりに心を痛め、祈りの日々を送るようになったこと――。
翔馬は、ギルバートの語る兄妹の過去に触れるに従い、心に居心地の悪い重さを感じていた。
「レオナ様は、あまりの衝撃に、しばらく現実を受け入れられませんでした。しかし、あのお優しいリーデル様が、復讐の鬼へと変貌していく姿を見て……すべてを理解されたのです。そして、大切な兄を失いたくない。その一心で、辺境伯に叙されたリーデル様と共にこの地に来られました。神殿に入り、奇跡の顕現――すなわち兄を救う〝勇者〟の到来を、狂おしいほどに祈り続けてこられたのは、そういう理由からなのです」
ギルバートは、深く、悲痛な溜息をついた。
それゆえに向けられる、勇者エスティへの畏敬。
彼女の透明感ある瑠璃色の美しい瞳が、高城翔馬という一人の人間ではなく、勇者エスティという偶像を映していた理由が、はっきりとした輪郭を持って脳裏に立ち現れた。
「だから……勇者を……」
翔馬は、ギルバートから視線を外し、独り言のようにつぶやいた。と同時に、答え合わせができたと考える。
(勇者エスティへの異様な期待……)
何やら思案する少年の姿を正面に見やり、ギルバートは話してもよい境界線を慎重に選びつつ、言葉を重ねる。
「私は、先代王の重臣としてお仕えしながら、そのお命を守れなかった無能な老骨。リーデル様やレオナ様から、決してお赦しをいただけぬ者であり、本来であれば、処刑されてもやむを得ない存在なのです。しかし、寸でのところでリーデル様に救われ、その御身をお守りすべく、この辺境へと共に参りました」
ギルバートは、前ハルト王国前王の懐刀として、本国中央でその辣腕を振るった。その栄華を誇りながら、ある日突如として主君を失い、その後の陰謀によって立場も失い、死の淵からリーデルたちに救い出されてこの辺境へ行き着いた。
彼は、リーデルの復讐という狂気も、レオナの勇者への痛々しい依存もすべて知っている。知った上で、この異世界から来た少年に、若き主たちを救ってほしいと、すがるような淡い期待を寄せてしまったのだ。
「……エスティ殿。私は、あの若き主たちの傷を、呪いを、知っております。知っているからこそ……」
ギルバートの目が、翔馬を見つめる。
そこには、リーデルの言いつけを破ってでも、この異界の少年に真実を告げずにはいられない、痛切かつ淡い期待が滲んでいた。
翔馬には返す言葉がなかった。おそらく、リーデルの許しがなければ話せない内容も含まれていたのだろう。
そんな覚悟を持って対峙するギルバートの目を見つめ返すことすらできないまま、胸を突く沈黙に耐えるしかなかった。
「……」
「いささかお話し過ぎましたな。……エスティ殿もお疲れでしょう。ここのところ天気もよいので、庭を散歩されてはいかがかと?」
あまりに悲痛な表情が出ていたのか、ギルバートが翔馬にそれとなく逃げ道を作った。再び、がちゃりという金属音を立てて開け放たれた扉をくぐったのち、翔馬はひとこと『ありがとうございます』と一礼して、静かに部屋を後にした。
◇
外の空気は澄んでいた。
庭師の仕事がよいのだろう。今日も、屋敷の庭は色鮮やかな花々に彩られ、そのはるか上空では、すこーんと抜けたような青色が広がっている。
庭師の『やぁ、エスティ様。お散歩ですかい』との声かけに軽く挨拶を返しながら、眩しい秋の陽光のなか、ギルバートの言葉を反芻する。
リーデル、レオナ、そしてギルバートの三者三様の悩み、苦しみがあることを知った。そして、誰も自分を見ていないことの理由は明白だった。
彼らが縋り、あるいは隔離しようとしている〝勇者エスティ〟という虚像の裏には、想像することすら憚られる苛烈な出来事と、生々しく壮絶な人間の情念と悲劇があったのだ。
(あぁ……知ってしまった……。知ってしまったんだ……)
読み耽った年代記は、そこに確かに存在した人たちの記録である。
しかし、個人の思いが、記憶が、傷が、呪いが、事細かに描き出されているわけではない。だからこそ、自分はそこに書かれていない現実を知りたいと思った。
そして、この兄妹の、そして老執事の絶望を知ってしまった。望んで得られた答えがどのような重さであっても、知った以上は責任が付きまとう。
これまで通りの、主体性も積極性もない中で、誰かが敷いたレールの上を無賃乗車し続けることは、何もしないことの恐怖以上に、わずかながらに残る翔馬のプライドが許さなかった。
答え合わせはできた。
あとは、自分の中でどうするかを選択しなければならない。
歩みは自然と庭から屋敷の中へ。
気づけば足は再び、あの薄暗い書庫へと向かっていた。扉を開けば、変わらないインクと古い紙の匂いが彼を迎える。
ふと気づく、微かに震える細い手首。剣のタコもない綺麗な手のひら。
乱世を生き延びるため。そして、この傷だらけの兄妹の、あまりにも重すぎる絶望の世界で調整役になれるのであればと、翔馬は再び書棚の本へと指を伸ばした。
ちり、と走る熱い痛みを、今度は逃げることなく、その身で受け入れながら。




