第5話 温故知新、その意味するところ(前編)
地平に沈みゆく太陽が、秋の高く澄んだ空を鮮やかな黄金色へ塗り替える頃。
低い空を覆う重たげな雲の縁は、まるで炎をまとったかのように燃え上がり、その上には、筆を滑らせたかのような繊細な雲が風に千切れる。
陽光が書庫の窓から低く差し込み、革装丁の古書たちを赤銅色に染め上げていた。
「――エスティ様。夕食の支度が整いました」
重厚な木の扉を開けて入ってきた若いメイドの声に、翔馬は深く沈めていた意識をようやく浮上させた。机上には、ギルバートに勧められたハルト王国の年代記が開かれたままだ。
その傍らにも、ハルト王国の歴史書が数冊積みあがっており、時間を忘れて読んでいたことが窺える。
「あ……はい。ありがとうございます。今、行きます」
それ以上、彼女を待たせるのもどうかと思い、翔馬は開いていた年代記をそっと閉じ、横の歴史書へと積み上げる。
そして、椅子から立ち上がろうとしたその刹那――激しい眩暈が翔馬の視界を襲った。
世界が不意に回転を始め、視界がぐにゃりと歪む。
こめかみの奥を重い金槌で叩かれたような鈍痛が走り、足元がひどくおぼつかない。崩れ落ちそうになる身体。あ、これはまずい、と思った瞬間。
「エスティ様! いかがなされました!?」
悲鳴に近い声を上げてメイドが慌てて駆け寄り、翔馬の身体を横から支えた。
その華奢な肩にかかる負担を申し訳なく感じながら、翔馬は浮き出る冷や汗を拭った。
(なんだ、これ……? 眩暈……?)
自分の額に手を当てるが、熱があるのかはよく分からない。だが、額のじっとりとした感触から、冷たい汗が流れていることだけは分かった。
慣れない異世界の文字を必死に凝視し続けたせいだろうと自分に言い聞かせ、翔馬は深く息を吐きながら、どうにか足元を確かめる。
「ありがとうございます……大丈夫です。少し、本を読みすぎて、疲れてしまったようです」
「……リーデル様より、決して無理はさせぬようにと厳命されております。どうかご自愛くださいませ」
真剣な顔でメイドに窘められつつ、翔馬はその案内に従って、まだ歩度の定まらない足取りで、食堂へと歩き出した。
夕陽で橙に染まる長い廊下を進む中、正面から歩いてくる二人の影があった。神殿から戻ったばかりの、リーデルとレオナだ。
その少し後ろには、影のようにギルバートが静かに控えている。
「おや、エスティ殿」
リーデルが足を止め、爽やかな短髪から覗く淡い青い瞳を翔馬に向けた。その瞬間、リーデルの端正な眉が微かに動く。
最前線のある隣国ヴァルメイに最も近い土地を預かる辺境伯としての直感が、翔馬の小さな〝変化”を察知した。
昨日、執務室で怯える小動物のように肩を丸め、他人のシナリオに流されることに安堵していた少年の姿と、目の前の少年の佇まいが、どうにも重ならない。
体調が悪そうに顔色を悪くし、足元をふらつかせている。
しかし、その瞳の奥には、何かを睨み見据え、自らの足で立とうとする本能のような……そんな奇妙な胆力が宿っているように見える。わずか一日で、ここまでの変化を見せるものなのかと、リーデルの中で疑問が芽生えた。
(慣れ? 一過性の怯えが抜けただけ? それとも……)
リーデルが胸中で猜疑の火を静かに灯す中、レオナが心配そうに翔馬へと駆け寄った。瑠璃色の瞳が、いたわるように揺れている。
「エスティ様、お顔の色が優れないようです。ギルバートから書庫に籠っておられると聞きましたが……まだこちらの世界に来られて一日です。どうか、ご無理はなさらないでください」
「すみません、大丈夫です。ただ、少し本に熱中してしまって……疲れてしまったみたいで」
翔馬はすぐさま〝勇者エスティ”の仮面を被り、努めて平静を装って、微妙な笑みを返した。体調がすぐれないのであれば、夕食は部屋へ運ばせようかと気遣うリーデルに対し、翔馬は『せっかくなのでご一緒に』と伝える。
そして、レオナに半分身体を支えられるように、静まり返った広間へと向かった。
三人での夕食は、食器の触れ合う音だけが響く静けさの中で、しかし明確な緊張感を含んで進んだ。
リーデルは、神殿で神官長ラウレンスと交わした取り決めを、レオナに余計な心配をかけないよう、巧みに〝意訳”して翔馬に伝えた。
「神殿側と話がついた。君の身体がこちらの世界に適応するまで、この館で静養し、歴史や言葉を学ぶこと。それが我が領の正式な方針だよ。市中では〝勇者顕現”の噂が流れているようだけども、私と神殿が責任を持って対応する。だから、君は何も憂うことなく、この館で過ごすといい」
「……ありがとうございます、リーデル様」
これも事前に説明を受けた〝優しい嘘”と受け取り、翔馬は素直に答える。
「エスティ様、私にできることがあれば、何でもお申し付けくださいね。言葉の読み書きもお教えできますので」
健気に申し出るレオナにも、翔馬は素直な感謝を述べた。
そんな二人を見やりながら、リーデルはスープ皿から顔を上げた。
「レオナ、お前の気持ちは分かるが、神殿の務めもあるだろう? 何より、未来の〝器”に関わるのだからね。くれぐれもエスティ殿にご負担をかけないよう、自重するのだよ」
「はい、兄様。分かっています」
リーデルのトーンは釘を差すようなものであったが、そこには妹を慮る確かな慈愛が含まれていた。レオナはそれを受け止め、視線を翔馬へと向けて優しくほほ笑む。
情けなくも、翔馬にはその美麗な少女のほほ笑みに対する言葉も、表情も、一切の持ち合わせがない。ただ視線を泳がせることしかできなかった。
この兄妹の言葉は、未来の勇者を気遣う温かい会話。しかし、その根底にあるのは、翔馬を〝安全な置物”として隔離したいリーデルの合理性と、エスティを〝兄を救う絶対の希望”と信じて疑わないレオナの祈りだった。
◇
それから十数日の時が、流れるように過ぎていった。
翔馬は、来る日も来る日も書庫に籠り、分厚い年代記や歴史書と格闘し続ける。
あの日に起きた奇妙な現象――文字が淡く光る現象は、その後も続いていた。
何のことはない。『知りたい』『学びたい』と翔馬が強く意識し、紙面に指を重ねると、まるで表面に落ちたインクが脳に直接語りかけてくるように、その意味の断片が滑り込んでくる。
そのうちにコツをつかんだのか、文字を指でなぞるだけで、その文字の意味をつかめるようになった。カタコトではあるが意図は何となしに分かるという状態だが、今の翔馬には十分だった。
それはこの世界における魔法の根源――意思の行使そのものだった。
この世界に転移する際の衝撃により、翔馬の魂には、魔法の源泉たるマナの器が確かに形成されている。しかし、それは固く閉ざされていた。
奇しくも、リーデルの〝世界への適応が追いついていない”という嘘は、事実だったということになる。
その固い扉をこじ開けたのは、この世界の現実への恐怖。
そして、心が腐っていくのは嫌だという〝能動的な意思”の力。彼が使っているのは、高度な〝解析”の魔法の片鱗だったが、そんなこと、翔馬はおろか、誰一人として知るわけがなかった。
読めると俄然楽しくなってくる。まったく知らない世界の、まったく知らない見識を得ることは、翔馬にとってたまらない快感となっていった。
しかし、生きる世界の違う身体。からっぽの器でそんな真似をすれば、代償は肉体と精神に返ってくる。
毎日、読書を終えるたびに激しい頭痛と眩暈、そして知恵熱のような倦怠感に襲われ、そのたびに翔馬は泥のように眠った。
それでも、翔馬は狂ったように本をめくり続ける。
読める、知れる、それが自分を救うものになる。
流されて死ぬくらいなら、頭痛のほうがマシだと自分に言い聞かせて。
全身を苛む苦しみから回復しては書庫に入り、疲労困憊で出てきては、また休みを繰り返す。
リーデルからの厳命は、勇者エスティの力が定着するまでの静養。しかし、当の本人は静養などどこ吹く風で、自らを追い込むかのように書庫へ向かう。
さすがに身を削りではないかと感じたギルバートから、休憩を取るように促されるようになったが、一向にペースを緩めない翔馬。
また、当初は『とにかく勉強熱心な若者だ』と、翔馬に尊敬の眼差しを向けていた屋敷の人間も、何かに取り憑かれたかのように鬼気迫る様子を見て、徐々に心配が勝るようになる。やがて、屋敷のメイドや警護の騎士までも、翔馬が書庫で倒れていやしないかと様子を見に来る始末だった。
書庫へ通い詰めているのは確かだが、自分で自分を追い込んでいるつもりはない。
なぜか、今ここで知っておかないとならないという、ある種の強迫観念のような焦燥感が心を包んでいた。自分ではない何者かに、そうしなければならないと支配されているような感覚。
「今は、この書庫の書物を読むのがすごく楽しくて。大丈夫です。無理していませんから」
などと、周囲の心配をよそに言ってのける。
だが、ある日、とうとう事件が起きた。
昼食を抜いて書物を読み進めたところ、頭痛と全身の倦怠感が止まなくなった。
あ、これはまずいと休憩を取るために立ち上がったはいいが、ふら付いた弾みで積み上げた書物を崩し、それらに埋もれることがあった。
階上から響く鈍音に驚いた騎士が、即座に書庫へ駆け付けて事なきを得たが、そのまま医務室へ搬送される。
驚いたリーデルとレオナの双方からこっ酷く叱られ、ギルバートからも、『片付けが大変だった』と愚痴を言われてしまった。
翔馬はその時のことを思い返す。
「あのね、エスティ殿。君は加減という言葉を知らないのかい? もしかして、イノシシか何かなのかい?」
「エスティ様……何度も……。何度もお願いしていたではありませんか! 無理をなさらないでくださいと!」
「……エスティ殿、あの書庫の惨状を元に戻すのは、この老体には大変……大変厳しゅうございました……」
食客が騒動を起こすなど、傍目に見れば迷惑この上ない。
事件前にも、リーデルの執務室から「兄様もエスティ様をお止めください!」というレオナの切実な声が漏れ聞こえてきたと、件のメイドを通じて聞き知っていたため、余計に申し訳なく感じていた。
やがて、レオナは、翔馬に対し、一日の読書時間を制限し、あるいは強制的に休息日を設けるよう願った。
目を離したら、いなくなってしまうような儚さすら感じ、神殿での日課をこなす傍ら、彼を献身的に支え続ける。
レオナは更に考える。兄と自分の願いを受け、勇者エスティは、書庫に籠る時間を〝少し”減らしはした。でも、止めてはくれない。知への飽くなき探求といえば聞こえはいいが、執着ともいえる行為にも見える。そこまでして得たいものとは何か?
だが、答えは出ない。
結果『それも勇者エスティの意思なのだろう』と根負けし、レオナは、書庫で疲労困憊になる彼を支えては部屋に連れ戻り、高熱を出して寝込むエスティの額の手拭いを取り替え、冷たい果実の水を枕元に置くといった〝看病”を続けていた。
ラグロニーネは、この二週間ほどで季節が夏の終わりから秋へと向かっていた。
身体を冷やしては風邪を引きかねない。
そう考えたレオナは、幾枚かの毛布を用意し、書庫で居眠りをするエスティの身体が冷えないように重ねた。
また、リーデルは、エスティの頑なさに頭を抱えながら、食事の席で事あるごとに『頼むから無理はしないでくれ。主にレオナと、私の平穏のために』と翔馬に伝える日々を過ごす。
同時に、あの日、自らの目の前で怯えていた少年とは裏腹の――何かに取り憑かれたかのような行動に戸惑いを覚えつつ、ギルバートに彼の監視を徹底させることとした。いったい、この数日での急激な変化は何があったのか、と。
そんな二人の思いなど知らず、身体と精神を削り、周囲に心配をさせ続けた結果、翔馬は、このハルト王国の歴史を紐解いていくことになる。
このハルト王国が、オラニム帝国と呼ばれていた時代、古代の戦乱。
神と魔の果てしない争い。
その盤面上で理不尽に蹂躙されながらも、必死に泥をすすり、武器を手に取り、生き抜いてきた人間の生々しい血の歴史。
知れば知るほど、少しずつではあるが、この世界でリーデルとレオナの抱える切実さが、ゆっくりと輪郭を帯びていくようにすら感じていた。
そして、自分が勇者として名乗りを上げることの意味。
それがどれほど浅はかであるかも含めて。




